映画と雨の六月
砂噛の直属の上司は穂村である。そのため、彼の仕事の目標管理も進捗の確認も、彼女が行っている。
COSMOSの中でも調査員の仕事は、イレギュラーに対する対応が必要な場面が多く、定量的な目標というものを設定しにくい。ざっくりといえば「上手いことやる」に集約される内容を懇切丁寧な言葉で目標に落とし込み、後は適当に数字を並べておく。
「毎度思うんですが、この目標管理必要ですか?いつも目標と関係ないところで評価されてますが」
「一応、会社という組織だからな」
穂村も砂噛も、組織に属する以上評価をされる身だ。建て付けだけでも管理された目標は必要だと理解しているし、意味あんのか?と思いつつも毎年真面目に提出している。なので砂噛の発言は、軽口みたいなもので、穂村もそれを分かっていて一蹴する。
月に一回の進捗管理の打ち合わせは、会議室で行っているが雑談ベースだ。真面目に目標を確認して話すと言うよりも、直近の仕事や今後の予定の話を、筋もなくつらつらと話していく。
「再来週の一週間出張だが、問題ないか?」
「はい、土曜日も出ることになるので、どこかで代休取らせて下さい」
「あと、少し先になるが、またSTARSとの合同捜査に参加してもらうかもしれない。毎度頼んで申し訳ないが」
「いいスよ。今の課のメンバーなら、オレになりますよね」
お互いに、相手の耳に入れておきたいこと、を並べていって、話題がなくなれば打ち合わせは終わりとなる。穂村が頷いた後、しばらく沈黙が流れたので、今日はこれで終わりかな、と砂噛は肩の力を抜いた。
「ああ、そういえば。最後に一つだけ」
「え、なんでしょう?」
予想外に話を続けられたので、姿勢を正す。穂村は気にした様子もなく、淡々と話を進めた。
「水森の試験勉強、進んでいるのか?」
会社で言われた言葉を当の本人に、そっくりそのまま伝えてやると、渋い顔をされた。
「……なんで先輩に聞くんですかね?」
「お前に聞いても『大丈夫っス』しか言わないって言ってた」
課長を困らせんな、と言うと、恋人は拗ねたように口を尖らせる。
「本当に、大丈夫なんスけど……予定通り進んでるし」
確かに、水森はきちんと勉強をしていた。今日も砂噛の部屋に来て試験の参考書を開いている。先月は仕事が忙しくて進まない、と言っていたが、遅れを取り戻しているようだ。
「オレの目標管理項目に試験合格も入ってるんで、ちゃんとやりますよ」
砂噛は頷いた。資格取得は目標として設定しやすい。今回の資格は、FPに比べれば合格率も低いので目標としては妥当だろう。
「あと……合格しないと、その……」
ちら、とこちらを伺うような視線に、砂噛は後輩が言いたいことを理解した。合格しないと手を出さない、という約束のことだろう。
もともと、手を繋ぐより進んだことはしない、というような話だったが、その後ずるずると境界が曖昧になっている。先月、恋人の首元を噛んだのは記憶に新しい。
それでも、決定的なことはしていないつもりだ。それこそ、泣きそうな顔で見つめられても、キスはしなかった。
「そうだな、がんばれ」
お互い、その先に何を期待しているは、明言しない。意識すると、我慢できなくなりそうだ。そもそも、毎週末恋人を自宅に連れ込んで、何もせずに帰しているのすら、割と忍耐が試されている。
コーヒーを渡した時の笑顔とか、分からないところを質問してくる時の真剣な眼差しとか、純粋に愛おしいと思う瞬間はまだいい。ちょっとだけ休憩します、と言って隣に座ってもたれかかって来たり、ふいにこちらの手を取って、じっと意味ありげに見つめて来たりされた時が地獄だった。
なんだこいつ、オレの理性試してんのか?と砂噛は怒りそうになったが、向こうにその気がなさそうだ。「そっちから言い出した約束なんだから、当然破ることはない」という信頼を感じる。
おそらく水森は自分だけ我慢していていると考えている。そんなわけあるか。
水森はしばらく真面目に勉強しているようだった。真剣な顔で何か考え込んでいる。分からないところがあれば教えてやるつもりだったが、こちらの目線に気づいた後輩は全く別の話を始める。
「砂噛先輩、今度テストしてくれません?」
その言葉と共に、参考書の巻末の模擬試験のページを見せられた。
「これ、先輩に採点してもらって、合格ラインまでいってたら課長に報告して下さいよ」
「いや、自分で言えよ」
「先輩の口からの方が説得力あるでしょ」
どうやらまだ拗ねているらしい。別に穂村も水森のことを疑っているわけではない。純粋に心配し、様子を聞いて来たのだろう。だが、それを目の前の後輩に伝えたところで、納得しそうになかった。
「分かったよ、伝える」
「お願いします。あと……」
水森の目は少し迷うように揺れている。口を開いては閉じて躊躇う様に焦れて、砂噛は「何?」と続きを促した。
「その……いい点とったら、ごほうび欲しいです」
「ごほうび」
砂噛が繰り返したそれは、一般的な単語である。それこそ、テストで良い点とった子供にお小遣いをあげる時にも使われる。だが、二人は恋人同士である。加えて、色々と制限をしている関係で言われた言葉に、何かそう言うことを望まれているのでは、想像してしまう。
「な、何したいんだよ」
絞り出した砂噛の声は上擦っていた。期待と自制で自分の心が揺れているのを感じる。数ヶ月前の約束を守らなくてはと思う反面、向こうの言うごほうびにかこつけて、何かしたいという気持ちが強い。キスして欲しい、とか言われたらたぶんOKしてしまう。
そんな砂噛の葛藤など知らず、水森はもじもじと照れた様子で答えた。
「その、デートしたいっス。映画行くとか」
告げられた言葉に、砂噛は肩透かしをくらった。デートなんて、ごほうびになるのだろうか。それこそ食事くらいは今までも普通に行っていたし、先月も水森の強い希望でパフェを食べに行った。あれもデートだろう。
砂噛がいまいち飲み込めないでいると、後輩は言葉を重ねてくる。
「ちゃ、ちゃんとその後勉強もしますから……」
どうやら、試験勉強の合間に遊ぶことを『ごほうび』にしたいらしい。受験生の時もそうだったが、意外にも水森は真面目にコツコツ勉強するタイプだ。今回の資格試験が二ヶ月後に控えている状況で、心情的には切羽詰まっているのかもしれない。それでも、デートしたいといういじらしいお願いだ。
ダメですか?と首を傾げてくる恋人に、否とは言えない。砂噛が「いい点とったらな」と頷くと、水森はあどけなく笑った。
夕方になると水森は、「来週楽しみにしてます!」と帰って行った。一応テストの体を取っているが、自信があるらしい。それを見送って、砂噛はため息をついた。
砂噛は自身の浅ましさに辟易した。こちらから言い出した約束をどうにか破りたいと考えていたのは、自分だけのようだ。子供だと思っていた恋人は、約束を守り切る覚悟を決めて、邁進している。
付き合い始めた時にした約束は、完全に勢いだった。あの時は、自分の方が大人だし、こちらが浮かれるわけにもいかない、という思いが働いていた。たかだか半年ほど、余裕だとも考えていた。
今となっては後悔している。先月の一件で砂噛は自分で思っていた以上に嫉妬して深いということを自覚することになったし、それ以降約束で縛られているのがもどかしくて仕方なかった。
穂村からの問いかけは、そんな砂噛の心情を見越してのものだったのかもしれない。水森は、信用されていない、と嘆いていたが、どちらかと言えば砂噛に対する忠告だったのかも、と思い直す。仕事に支障を出さないようにと、恋人に言い聞かせてきたが、自分のほうが問題を起こしそうだ。
とりあえず、あと二ヶ月。邪なことは考えずに穏やかに過ごそう。砂噛は強く自戒した。
◇◇◇
次の週の土曜日、不安と期待がないまぜになった視線を感じつつ、砂噛は赤ペンを走らせていく。丸の数を数えていき、点数を算出すると、合格ラインをわずかに上回っていた。
「……合格だな、一応」
「やった!」
水森は、安堵からくるため息をついている。良かったな、と言ってやりたいが、まずは仕事の先輩として苦言を呈した。
「いや、ぎりぎりだからな。本番の試験までにもう少し余裕もたせろ」
「分かってますよ、残りの時間で底上げしますって」
水森の中ではきちんと計画ができているらしい。本当に、見た目によらず真面目な奴である。
「とにかく、これで映画見に行けますよね」
水森はうきうきとスマホを取り出している。映画館の情報を調べているようだった。自分とのデートを素直に喜ぶ姿は、ただ純粋にかわいいと感じた。
「何か観たいのあるのか?」
隣からスマホを覗き込むように話しかけると、満面の笑みで返された。最寄りの映画館で今上映中の映画の一覧を見せられる。
「今面白いって話題なのはこのアニメですけど、こっちのアクションも面白そうっスよ。あとは、上映時間合うか分かりませんが、このホラーもロングヒットで」
つらつらとオススメが出てくる。砂噛としては、相手が観たいものに合わせるつもりだったので、ここまで考えてくれていたのかと感心した。
「二人で観たいの決めてから、行きましょうね」
こちらを見る水森の表情が、あまりにも幸せそうで、砂噛も知らず知らずのうちに表情を緩めていた。
何を観ようか、と二人で話していると、急に窓の外が光った。数秒後、轟音が鳴り響き、二人は顔を見合わせた。どちらからともなく窓辺に寄ると、空は黒い雲で覆われて、ところどころ雷の白い筋が見える。ポツポツと降り始めた雨が窓を濡らし始め、やがて勢いが強くなっていった。
どこからどうみても豪雨である。
アプリで天気予報を確認すると、あと数時間は降り続くとなっている。外の様子を再び伺い、砂噛は今日は無理だと判断した。
「……諦めるか」
「えー……」
先ほどまでのきらきらとした表情が、みるみるうちに曇って行く。それを残念に感じてなんとかできないかと考える。
「明日じゃだめか?」
「すみません、家族と用があって……」
申し訳なさそうに断りながら、水森は目を伏せた。今のでますます落ち込ませた気がする。
「来週は?」
「来週、先輩土曜日も出張じゃないっスか」
「……じゃあ再来週」
「七月になったら、大学の試験試験もあるので、あんまり余裕ないです」
代案を伝えて行くがどれも却下されてしまう。恋人はますます落ち込んでいく一方だ。だが、この雨風では映画館に着くまでにそれなりに濡れるだろう。そうなると、映画に集中できないし、それではごほうびにならない。
「……忙しくなる前に、遊びたかっただけなんスけどね」
運ないスね、と諦めたように笑う顔が、気に入らない。なんとかその顔を再び笑顔にしたくて、砂噛は他の案を考えた。水森は、特別観たい映画はなかった。ただ二人で楽しめれば良いと言っていたのだ。それを、家で実現してやればいい。
「……オレの家で映画観るか。サブスクで何かしら観れるはずだが」
映画館の迫力には劣るし、特別感もない。だが、落ち込んだままの後輩の気が少しでも晴れれば良いと思った。
水森は驚いたように目をぱちくり、とさせた後、
「え、観たいです!」
と元気よく返事をし、にっこり笑った。
「ありがとうございます!先輩、大好きっス」
「……現金なやつ」
とにかく、機嫌が直ったようで、砂噛は安心した。軽口ではあるが大好きと言われれば、悪い気はしなかった。
ポップコーンもコーラも、砂噛の家にはない。それらの雰囲気づくりは諦めて、コーヒーで妥協した。
二人分のコーヒーを持ってソファに移動すると、水森がサブスクのホーム画面と睨めっこしていた。映画選んどけ、と言ったはずだが、何も進んでいない。
「何も観たいのないのか?」
「選択肢多いと、逆に何選んでいいか分からなくならないっスか?」
適当に目についたの観ればいいだろ、と思ったが砂噛は口にはしなかった。この時間を楽しみたい、と真剣な恋人はかわいかった。
「先輩、普段どんなの観てるんですか?」
カーソルを動かしながら、水森は質問してくる。参考になりそうな答えはないので、申し訳なくなりつつ、砂噛は素直に答えた。
「ニュースだけだ。外星人用のチャンネルがあって、そこで情報が入ってくる」
「……へぇ、そうなんですね」
特段、変なことを言ったつもりはないが、水森のトーンが少し落ちる。たまに、この後輩はこういった表情を見せる。砂噛が外星人だと意識するようなときに、そういう顔をする、ような気がする。
何かを気にしているのだとは思う。将来のこととか、寿命差のこととか、そんな未来のことだろうか。いずれ、向き合わなくてはならないと思っているが、今ではない。今日は水森にとってはごほうびで、楽しい気分で終わらせてやりたい、砂噛はそう思った。
「その、ホラーのやつ観たことないな」
目についた映画のタイトルを指差す。早く話題を変えたかい一心だった。水森も頷き「オレも観たことないっスね」と言っている。
「これでいいか?」
砂噛の問いに後輩は頷くと、再生ボタンを押した。
映画の作りはまずまずだった。大音響と画面の迫力でこちらを驚かすタイプのホラーだったので、恐怖というよりも驚きが強い。
砂噛と水森はソファに並んで座っているので、相手の反応がいちいち伝わってくる。急な大きな音に砂噛が肩を揺らすと、「あ、今怖がった?」と恋人が楽しげな目線を送ってくる。逆に、怪物が画面一杯に大写しになった時には、水森が「うわっ」と小声で驚きを示す。
お互いの反応を楽しみつつ、映画は進んでいく。水森は驚きこそすれ、ホラーを怖がるタイプではないので、怖がって抱きついてくる、なんてことは起こらず、ある種平穏な気持ちで映画を楽しんでいられた。
問題が起こったのは、映画の中盤だった。怪物の次の餌食になるであろう男女が、別荘でいちゃいちゃと夕飯を作っている。男が女の腰に手を回し、それに笑いかけながら、女が包丁を動かしている。ところどころに入る別荘に向かう怪物のカットがミスマッチだ。
これはコイツら死ぬんだろうな、と砂噛は冷めた目で画面を観ていた。ホラー映画でいちゃついた奴は、だいたい死ぬ。
お約束の展開のための短いシーンかと思いきや、ベッドに移動して、キスを繰り返す男女が大写しになっている。流石に本番に突入したら暗転するだろうが、ラブシーン長いな、と砂噛は閉口した。
ふと、隣の恋人が嫌に静かなのが気になった。先ほどまで怪物が人間を蹂躙する様を見て、体を動かしたり、小さく声をあげたりして反応していた。一方カップルが出始めてから、全くと言っていいほど動きがない。
砂噛はちらっと目だけ動かして隣を見た。恋人は画面を見ながら息を殺していた。耳まで真っ赤な様子は初心と言ってよく、体を硬くして微動だにしない。あまりにもかわいらしい反応に目を離せないでいると、視線を感じたのか水森がこちらを見た。
目が合ってしまった。
◇◇◇
さっさと目を逸らせば良かったが、水森が「あ……」と小さく呟いたのでそれもできなくなった。恋人は耳まで赤くして、こちらを見ている。その瞳が何か期待するように潤んでいるのを見て、砂噛は舌打ちをしたくなった。今その態度はまずい、と流石に我慢したが。
「お前さぁ……」
呆れたような声を、なんとか出す。こちらまで赤面したら負けだ。先週せっかく自戒したばかりなのに、こんなところで揺るがせないで欲しい。
「ご、ごめんなさい」
そう呟くものの、水森も目を逸らさない。テレビの方からは控えめな喘ぎ声と衣擦れの音がする。視界に入る画面は暗転している。
ごくりと、喉が鳴ったのを砂噛は感じた。なんで、我慢しなくてはいけないんだっけ、そんな思いが胸の中をぐるぐると渦巻いている。こんな、お膳立てされたようないい雰囲気を無視しなくてはいけない理由はなんだったか。
事の発端は条例だった。だが水森が大学生になった事でそれはクリアしている。あとは、仕事に支障をきたさないため、浮かれすぎないため、そんな理由だ。
もう、いいか。砂噛はそう思った。仕事はきちんと回っているし、二人の関係は課内で筒抜けである。変に制限している効果はないように感じた。さきほどの模擬テストも合格ラインを超えていたし、この分なら資格試験も問題ないだろう。
自分に言い訳をしながら、砂噛は恋人へと手を伸ばした。いろいろ考えをこねくり回したが、早い話限界だった。こんな潤んだ目で見られて、こんな期待するような目線を向けられて、我慢しろという方が酷だ。
「……いいよな?」
水森の頬を撫でながら、問いかける。何が、とは聞かなくても分かるだろう。目を閉じながら、返事を待たずに顔を寄せた。
「だ、ダメです」
予想よりも硬い感触が、唇に当たった。
「は?」
砂噛は目を開け、水森の手のひらが自分の口に当てられていることに気がついた。肯定しか想定しないで聞いた問いは、否定で返されてしまった。
「何で?」
「いや、そもそも先輩が決めたルールっスよね?」
何しれっと破ろうとしてるんスか、と責めるように言われる。そこを突かれると痛い。だが、砂噛にも言い分はあった。
「お前が、物欲しそうな目をしてたから」
「そっそんな目して……たかもしれないですけど」
ごにょごにょと語気を弱める水森に、あと少し押したらいけるかな、という邪な考えが浮かぶ。拒否されたことで意地になっている部分もあるが、とにかくキスしたくて堪らなかった。
「なぁ、逆に何で拒否した?あんなにしたがってたのに」
先月のことを引き合いに出すと、水森は気まずそうに目を逸らした。言い返せない恋人の様子に気をよくして、頬から耳へと手をスライドさせる。ふにふにと耳の感触を確かめるように摘むと、水森のMESが揺れた。
「さっきのテストも問題なかったし、もういいだろ?」
「それは……」
水森は明らかに迷っている。目は泳いでいるし、顔は紅潮したままだ。もうひと押し、と砂噛はぐっと顔を寄せて、耳元に囁いた。
「なぁ、いいよな?」
びくりと震える肩すら愛おしい。そのまま、返事を待っていると「先輩」と呼ばれる。顔を上げ、再び目線を合わせると、泣きそうな目が見えた。
「やっぱり、ダメです」
先ほどと同じ潤んだ目だが、さすがに分かる。これは本気で泣きかけている。少し鼻もすすっているし、今にも涙がこぼれそうだ。砂噛は慌てて距離をとって手を離した。
「悪かった」
両手を軽く上げて、無理強いする意志がないことを示すが、恋人はますます眉根を寄せる。どうしろっていうんだ、と八つ当たりのような感情を抱きながら、砂噛は再度謝罪を口にした。
「すまん、そこまで嫌だとは思わなかった」
口にしながら、自分でも少し、いやかなり傷ついてしまう。そんなに嫌なのか、と。先ほどまで向こうも求めていると感じていたのは砂噛の勘違いということになる。
ショックと羞恥でこちらが泣きたくなってきたが、さすがに涙は出てこない。落ち込んでいるのが顔に出たのか、水森が慌てたように言葉を紡ぐ。
「ちが……嫌じゃないっス!」
オレだってしたいです、と必死に告げられる。砂噛は水森と違って嘘が分からない。だから、この言葉が本心か気遣いからでた嘘なのかは見分けられない。だからというわけではないが、問い詰めるような口調になってしまった。
「じゃあ、なんでダメなんだよ」
「それは……」
つい、食い下がってしまったのは、先ほどのショックを引きずっているからだ。水森は、気まずそうに目を伏せ、やがてぽつりと呟いた。
「全部抜けそうだから」
「はぁ?」
「だから、今まで勉強したこと全部忘れちゃいそうで、だからしたくないっス!」
意味がわからなかった。
水森のたどたどしい説明を質問を交えながら理解しようと努力した。泣きそうだった恋人の目は、説明を続けるうちにいつの間にか乾いていた。
一通りの説明を聞いて、砂噛は自身の理解が合っているか、確認した。
「つまり、お前は試験に受かるまでキス以上のことをしないことを願掛けにしていたと」
「そうっス」
願掛け。何かを達成するまで髪を切らない、好物を断つ、神社に通い詰める。一見何の因果関係も見出せない事柄同士を繋ぎ、ある種自己暗示をすることで精神安定を得る、というものだ。砂噛の故郷の星にも似たような考え方があった。傭兵は案外信心深く、運や気といったものに気を使う。
砂噛はため息をついた。意味は分かったが、何だそれ、という感じだ。もともとは自分が一方的に言い出したルールだが、相手側もそれを利用した制限をかけてくるとは思っても見なかった。
「どうせできないなら、ちょうどいいかなって」
水森はちょっとだけ笑みを浮かべている。この微妙な空気感を笑い話に方向転換したい、という思いが透けてみえたが、乗ってやる気にはならなかった。
「変な決めごと作るなよ」
「先輩に言われたくないっス」
拗ねたように返してくる後輩に、言葉に詰まる。確かに、最初に始めたのは自分だ。あの時は、まさかこんな、自分の方が我慢できなくなるなんて考えてもみなかった。完全に立場が逆転した状態に、砂噛は目を伏せた。
「分かったよ、お前がそう決めているならしないから、安心しろ」
嘘ではないと分かる分、水森は聞き分けがいい。安心したように肩の力を抜いている。そう、嘘ではない。試験に合格するまで、望み通りキスするつもりはない。口には、と但し書きがつくけど。
もともと水森と砂噛では運動能力が異なる。油断した後輩の隙を付くなんて、砂噛にとって造作もなかった。先ほどのように手のひらで拒否するような間を与えず、柔らかそうな頬に口付けた。
「なっ……何するんスか!」
一瞬呆けたような顔をした後、水森が怒りだす。受け流すように飄々と砂噛は答えた。
「まぁ、ここなら挨拶みたいなもんだし」
「あんた先月、オレがしたら意味合いが変わるとか言いましたよね!?」
ぎゃいぎゃいと言い募る水森に、砂噛は苛立ちを隠さずに叫んだ。
「うるせーな!そこで我慢してんだから、いいだろ!」
普段大人として余裕を見せるようにしているが、さすがに限界だった。先ほどまでのやり取りで都合二回は拒絶されているし、なんだかんだで口へのキスはお預けになった。簡単に言えば、砂噛はちょっと拗ねていた。
「だ、ダブスタが過ぎる……」
恨みがましい表情をしているものの、耳は真っ赤だし口元はちょっと緩んでいる。喜びを隠しきれていない恋人の表情に、砂噛は少しだけ溜飲が下がった。
ふとテレビを見ると、映画は大分進んで、怪物が先ほどのカップルを食い殺していた。やっぱりな、と砂噛は思った。
◇◇◇
週明けの月曜日は快晴だった。あの豪雨が嘘のようだ。
昼休憩後、砂噛は穂村と会議室で向き合っていた。予定にはなかった呼び出しに、砂噛は少し緊張していた。何か緊急の案件でもできたのか。色々な可能性を考えつつ、身を固くして向かいに座る穂村の言葉を待った。
穂村は常と変わらず無表情のまま、静かに口を開いた。
「水森の試験勉強、捗っているか?」
予想とは全く異なる言葉に、肩透かしを感じつつ砂噛は答えた。
「この前、模擬テストしましたが、合格ラインには達してましたよ」
世間話から、本題に入るのだろうか。いや、普段の穂村はそんなまだるっこしいことをしない。目の前の上司の考えが読めず、砂噛は戸惑いを覚えた。
「そうらしいな」
らしい、という言葉に違和感を感じた。まるで、答えを知っていたかのようだ。
「さっき、1on1で水森とも話した」
「あ、そうなんですね」
なら、なぜ自分に聞いた?顔に出ていたのか、穂村はようやく本題に入った。
「手を出して、勉強の邪魔したそうだな」
セクハラ案件か?と聞かれて砂噛は頭を抱えた。
穂村の話によると、最初は真面目に目標の確認をしていたという。水森の場合は目標に直結するので、勉強の進捗を聞いたところ、ひとしきり土曜日の愚痴を言われた、というのがことの背景のようだ。
水森からすれば、鉄に愚痴るのと同じノリのつもりのようだが、穂村は元同級生である前に上司である。愚痴を愚痴として流すには、気にかけなければならないことが多すぎる。
セクハラ扱いされるのは受け入れられなかったので、砂噛は慌てて反論した。
「以前報告した通り、オレたち、きちんと交際している訳ですが」
「同意のない行為は恋人同士でも問題になる。場合によっては懲戒対象になるからな」
行為って。砂噛がしたのはいわゆる『ほっぺにチュー』である。ませた小学生でも行うことだ。それを理由に懲戒なんて受けたら、とんだ笑い者だ。
「水森は、こうも言っていた。『あの人といると勉強したことが抜けていく』と」
「……そんな感じのこと言ってましたね」
さて、どうすればいい。水森の軽い愚痴でまさか本当に懲戒を食らうはめになるのだろうか。砂噛が冷や汗をかいていると、穂村が少し声のトーンを柔らかくした。
「まぁ上司としては、そんなこと聞いたら、対応する必要があるわけだ」
「はぁ」
「だから、お前の今年度目標に、水森の試験合格も入れておいた」
「はぁ!?」
思いがけない着地をされて、砂噛は思わず敬語がとれた。穂村は気に留めた様子もなく淡々と続ける。
「連帯責任にした方が、お前も邪魔しないだろ?」
「邪魔って……オレ一応あいつの勉強みてたんですが」
「安心しろ、別に水森が落ちても、別れろとは言わない。評価は下がるが」
砂噛の言葉は無視されて、事務的に連絡事項を伝えられる。上司としての対応だ。怒ったり、呆れたり、と言った様子は見られず、穂村はただ単に職務を全うしている。だが、と砂噛は違和感を覚えた。さすがに水森に対して、肩入れした対応すぎないか?
「課長、水森のこと甘やかしてません?」
「……評価については、平等にするつもりだが」
ただ、と穂村は続けた。
「恋愛の愚痴なんて聞くの初めてで、ちょっと新鮮だったな。文句をいいつつ、幸せそうな顔をしていた」
表情にはでないが、楽しかったのだろう。普通の学生のように、同世代からの恋人への惚気ともつかない不満を聞かされるのは。それが部下同士の恋愛の話だったので、対応がややこしくなっているが。
砂噛はため息をついた。この年下の上司が、楽しんでいるなら、仕方ない。もとより自分に非がある、というのも確かだ。甘んじて連帯責任とやらを受け入れることにした。
それはそれとして、水森にはあとで文句を言おうと心に決めた。
COSMOSの中でも調査員の仕事は、イレギュラーに対する対応が必要な場面が多く、定量的な目標というものを設定しにくい。ざっくりといえば「上手いことやる」に集約される内容を懇切丁寧な言葉で目標に落とし込み、後は適当に数字を並べておく。
「毎度思うんですが、この目標管理必要ですか?いつも目標と関係ないところで評価されてますが」
「一応、会社という組織だからな」
穂村も砂噛も、組織に属する以上評価をされる身だ。建て付けだけでも管理された目標は必要だと理解しているし、意味あんのか?と思いつつも毎年真面目に提出している。なので砂噛の発言は、軽口みたいなもので、穂村もそれを分かっていて一蹴する。
月に一回の進捗管理の打ち合わせは、会議室で行っているが雑談ベースだ。真面目に目標を確認して話すと言うよりも、直近の仕事や今後の予定の話を、筋もなくつらつらと話していく。
「再来週の一週間出張だが、問題ないか?」
「はい、土曜日も出ることになるので、どこかで代休取らせて下さい」
「あと、少し先になるが、またSTARSとの合同捜査に参加してもらうかもしれない。毎度頼んで申し訳ないが」
「いいスよ。今の課のメンバーなら、オレになりますよね」
お互いに、相手の耳に入れておきたいこと、を並べていって、話題がなくなれば打ち合わせは終わりとなる。穂村が頷いた後、しばらく沈黙が流れたので、今日はこれで終わりかな、と砂噛は肩の力を抜いた。
「ああ、そういえば。最後に一つだけ」
「え、なんでしょう?」
予想外に話を続けられたので、姿勢を正す。穂村は気にした様子もなく、淡々と話を進めた。
「水森の試験勉強、進んでいるのか?」
会社で言われた言葉を当の本人に、そっくりそのまま伝えてやると、渋い顔をされた。
「……なんで先輩に聞くんですかね?」
「お前に聞いても『大丈夫っス』しか言わないって言ってた」
課長を困らせんな、と言うと、恋人は拗ねたように口を尖らせる。
「本当に、大丈夫なんスけど……予定通り進んでるし」
確かに、水森はきちんと勉強をしていた。今日も砂噛の部屋に来て試験の参考書を開いている。先月は仕事が忙しくて進まない、と言っていたが、遅れを取り戻しているようだ。
「オレの目標管理項目に試験合格も入ってるんで、ちゃんとやりますよ」
砂噛は頷いた。資格取得は目標として設定しやすい。今回の資格は、FPに比べれば合格率も低いので目標としては妥当だろう。
「あと……合格しないと、その……」
ちら、とこちらを伺うような視線に、砂噛は後輩が言いたいことを理解した。合格しないと手を出さない、という約束のことだろう。
もともと、手を繋ぐより進んだことはしない、というような話だったが、その後ずるずると境界が曖昧になっている。先月、恋人の首元を噛んだのは記憶に新しい。
それでも、決定的なことはしていないつもりだ。それこそ、泣きそうな顔で見つめられても、キスはしなかった。
「そうだな、がんばれ」
お互い、その先に何を期待しているは、明言しない。意識すると、我慢できなくなりそうだ。そもそも、毎週末恋人を自宅に連れ込んで、何もせずに帰しているのすら、割と忍耐が試されている。
コーヒーを渡した時の笑顔とか、分からないところを質問してくる時の真剣な眼差しとか、純粋に愛おしいと思う瞬間はまだいい。ちょっとだけ休憩します、と言って隣に座ってもたれかかって来たり、ふいにこちらの手を取って、じっと意味ありげに見つめて来たりされた時が地獄だった。
なんだこいつ、オレの理性試してんのか?と砂噛は怒りそうになったが、向こうにその気がなさそうだ。「そっちから言い出した約束なんだから、当然破ることはない」という信頼を感じる。
おそらく水森は自分だけ我慢していていると考えている。そんなわけあるか。
水森はしばらく真面目に勉強しているようだった。真剣な顔で何か考え込んでいる。分からないところがあれば教えてやるつもりだったが、こちらの目線に気づいた後輩は全く別の話を始める。
「砂噛先輩、今度テストしてくれません?」
その言葉と共に、参考書の巻末の模擬試験のページを見せられた。
「これ、先輩に採点してもらって、合格ラインまでいってたら課長に報告して下さいよ」
「いや、自分で言えよ」
「先輩の口からの方が説得力あるでしょ」
どうやらまだ拗ねているらしい。別に穂村も水森のことを疑っているわけではない。純粋に心配し、様子を聞いて来たのだろう。だが、それを目の前の後輩に伝えたところで、納得しそうになかった。
「分かったよ、伝える」
「お願いします。あと……」
水森の目は少し迷うように揺れている。口を開いては閉じて躊躇う様に焦れて、砂噛は「何?」と続きを促した。
「その……いい点とったら、ごほうび欲しいです」
「ごほうび」
砂噛が繰り返したそれは、一般的な単語である。それこそ、テストで良い点とった子供にお小遣いをあげる時にも使われる。だが、二人は恋人同士である。加えて、色々と制限をしている関係で言われた言葉に、何かそう言うことを望まれているのでは、想像してしまう。
「な、何したいんだよ」
絞り出した砂噛の声は上擦っていた。期待と自制で自分の心が揺れているのを感じる。数ヶ月前の約束を守らなくてはと思う反面、向こうの言うごほうびにかこつけて、何かしたいという気持ちが強い。キスして欲しい、とか言われたらたぶんOKしてしまう。
そんな砂噛の葛藤など知らず、水森はもじもじと照れた様子で答えた。
「その、デートしたいっス。映画行くとか」
告げられた言葉に、砂噛は肩透かしをくらった。デートなんて、ごほうびになるのだろうか。それこそ食事くらいは今までも普通に行っていたし、先月も水森の強い希望でパフェを食べに行った。あれもデートだろう。
砂噛がいまいち飲み込めないでいると、後輩は言葉を重ねてくる。
「ちゃ、ちゃんとその後勉強もしますから……」
どうやら、試験勉強の合間に遊ぶことを『ごほうび』にしたいらしい。受験生の時もそうだったが、意外にも水森は真面目にコツコツ勉強するタイプだ。今回の資格試験が二ヶ月後に控えている状況で、心情的には切羽詰まっているのかもしれない。それでも、デートしたいといういじらしいお願いだ。
ダメですか?と首を傾げてくる恋人に、否とは言えない。砂噛が「いい点とったらな」と頷くと、水森はあどけなく笑った。
夕方になると水森は、「来週楽しみにしてます!」と帰って行った。一応テストの体を取っているが、自信があるらしい。それを見送って、砂噛はため息をついた。
砂噛は自身の浅ましさに辟易した。こちらから言い出した約束をどうにか破りたいと考えていたのは、自分だけのようだ。子供だと思っていた恋人は、約束を守り切る覚悟を決めて、邁進している。
付き合い始めた時にした約束は、完全に勢いだった。あの時は、自分の方が大人だし、こちらが浮かれるわけにもいかない、という思いが働いていた。たかだか半年ほど、余裕だとも考えていた。
今となっては後悔している。先月の一件で砂噛は自分で思っていた以上に嫉妬して深いということを自覚することになったし、それ以降約束で縛られているのがもどかしくて仕方なかった。
穂村からの問いかけは、そんな砂噛の心情を見越してのものだったのかもしれない。水森は、信用されていない、と嘆いていたが、どちらかと言えば砂噛に対する忠告だったのかも、と思い直す。仕事に支障を出さないようにと、恋人に言い聞かせてきたが、自分のほうが問題を起こしそうだ。
とりあえず、あと二ヶ月。邪なことは考えずに穏やかに過ごそう。砂噛は強く自戒した。
◇◇◇
次の週の土曜日、不安と期待がないまぜになった視線を感じつつ、砂噛は赤ペンを走らせていく。丸の数を数えていき、点数を算出すると、合格ラインをわずかに上回っていた。
「……合格だな、一応」
「やった!」
水森は、安堵からくるため息をついている。良かったな、と言ってやりたいが、まずは仕事の先輩として苦言を呈した。
「いや、ぎりぎりだからな。本番の試験までにもう少し余裕もたせろ」
「分かってますよ、残りの時間で底上げしますって」
水森の中ではきちんと計画ができているらしい。本当に、見た目によらず真面目な奴である。
「とにかく、これで映画見に行けますよね」
水森はうきうきとスマホを取り出している。映画館の情報を調べているようだった。自分とのデートを素直に喜ぶ姿は、ただ純粋にかわいいと感じた。
「何か観たいのあるのか?」
隣からスマホを覗き込むように話しかけると、満面の笑みで返された。最寄りの映画館で今上映中の映画の一覧を見せられる。
「今面白いって話題なのはこのアニメですけど、こっちのアクションも面白そうっスよ。あとは、上映時間合うか分かりませんが、このホラーもロングヒットで」
つらつらとオススメが出てくる。砂噛としては、相手が観たいものに合わせるつもりだったので、ここまで考えてくれていたのかと感心した。
「二人で観たいの決めてから、行きましょうね」
こちらを見る水森の表情が、あまりにも幸せそうで、砂噛も知らず知らずのうちに表情を緩めていた。
何を観ようか、と二人で話していると、急に窓の外が光った。数秒後、轟音が鳴り響き、二人は顔を見合わせた。どちらからともなく窓辺に寄ると、空は黒い雲で覆われて、ところどころ雷の白い筋が見える。ポツポツと降り始めた雨が窓を濡らし始め、やがて勢いが強くなっていった。
どこからどうみても豪雨である。
アプリで天気予報を確認すると、あと数時間は降り続くとなっている。外の様子を再び伺い、砂噛は今日は無理だと判断した。
「……諦めるか」
「えー……」
先ほどまでのきらきらとした表情が、みるみるうちに曇って行く。それを残念に感じてなんとかできないかと考える。
「明日じゃだめか?」
「すみません、家族と用があって……」
申し訳なさそうに断りながら、水森は目を伏せた。今のでますます落ち込ませた気がする。
「来週は?」
「来週、先輩土曜日も出張じゃないっスか」
「……じゃあ再来週」
「七月になったら、大学の試験試験もあるので、あんまり余裕ないです」
代案を伝えて行くがどれも却下されてしまう。恋人はますます落ち込んでいく一方だ。だが、この雨風では映画館に着くまでにそれなりに濡れるだろう。そうなると、映画に集中できないし、それではごほうびにならない。
「……忙しくなる前に、遊びたかっただけなんスけどね」
運ないスね、と諦めたように笑う顔が、気に入らない。なんとかその顔を再び笑顔にしたくて、砂噛は他の案を考えた。水森は、特別観たい映画はなかった。ただ二人で楽しめれば良いと言っていたのだ。それを、家で実現してやればいい。
「……オレの家で映画観るか。サブスクで何かしら観れるはずだが」
映画館の迫力には劣るし、特別感もない。だが、落ち込んだままの後輩の気が少しでも晴れれば良いと思った。
水森は驚いたように目をぱちくり、とさせた後、
「え、観たいです!」
と元気よく返事をし、にっこり笑った。
「ありがとうございます!先輩、大好きっス」
「……現金なやつ」
とにかく、機嫌が直ったようで、砂噛は安心した。軽口ではあるが大好きと言われれば、悪い気はしなかった。
ポップコーンもコーラも、砂噛の家にはない。それらの雰囲気づくりは諦めて、コーヒーで妥協した。
二人分のコーヒーを持ってソファに移動すると、水森がサブスクのホーム画面と睨めっこしていた。映画選んどけ、と言ったはずだが、何も進んでいない。
「何も観たいのないのか?」
「選択肢多いと、逆に何選んでいいか分からなくならないっスか?」
適当に目についたの観ればいいだろ、と思ったが砂噛は口にはしなかった。この時間を楽しみたい、と真剣な恋人はかわいかった。
「先輩、普段どんなの観てるんですか?」
カーソルを動かしながら、水森は質問してくる。参考になりそうな答えはないので、申し訳なくなりつつ、砂噛は素直に答えた。
「ニュースだけだ。外星人用のチャンネルがあって、そこで情報が入ってくる」
「……へぇ、そうなんですね」
特段、変なことを言ったつもりはないが、水森のトーンが少し落ちる。たまに、この後輩はこういった表情を見せる。砂噛が外星人だと意識するようなときに、そういう顔をする、ような気がする。
何かを気にしているのだとは思う。将来のこととか、寿命差のこととか、そんな未来のことだろうか。いずれ、向き合わなくてはならないと思っているが、今ではない。今日は水森にとってはごほうびで、楽しい気分で終わらせてやりたい、砂噛はそう思った。
「その、ホラーのやつ観たことないな」
目についた映画のタイトルを指差す。早く話題を変えたかい一心だった。水森も頷き「オレも観たことないっスね」と言っている。
「これでいいか?」
砂噛の問いに後輩は頷くと、再生ボタンを押した。
映画の作りはまずまずだった。大音響と画面の迫力でこちらを驚かすタイプのホラーだったので、恐怖というよりも驚きが強い。
砂噛と水森はソファに並んで座っているので、相手の反応がいちいち伝わってくる。急な大きな音に砂噛が肩を揺らすと、「あ、今怖がった?」と恋人が楽しげな目線を送ってくる。逆に、怪物が画面一杯に大写しになった時には、水森が「うわっ」と小声で驚きを示す。
お互いの反応を楽しみつつ、映画は進んでいく。水森は驚きこそすれ、ホラーを怖がるタイプではないので、怖がって抱きついてくる、なんてことは起こらず、ある種平穏な気持ちで映画を楽しんでいられた。
問題が起こったのは、映画の中盤だった。怪物の次の餌食になるであろう男女が、別荘でいちゃいちゃと夕飯を作っている。男が女の腰に手を回し、それに笑いかけながら、女が包丁を動かしている。ところどころに入る別荘に向かう怪物のカットがミスマッチだ。
これはコイツら死ぬんだろうな、と砂噛は冷めた目で画面を観ていた。ホラー映画でいちゃついた奴は、だいたい死ぬ。
お約束の展開のための短いシーンかと思いきや、ベッドに移動して、キスを繰り返す男女が大写しになっている。流石に本番に突入したら暗転するだろうが、ラブシーン長いな、と砂噛は閉口した。
ふと、隣の恋人が嫌に静かなのが気になった。先ほどまで怪物が人間を蹂躙する様を見て、体を動かしたり、小さく声をあげたりして反応していた。一方カップルが出始めてから、全くと言っていいほど動きがない。
砂噛はちらっと目だけ動かして隣を見た。恋人は画面を見ながら息を殺していた。耳まで真っ赤な様子は初心と言ってよく、体を硬くして微動だにしない。あまりにもかわいらしい反応に目を離せないでいると、視線を感じたのか水森がこちらを見た。
目が合ってしまった。
◇◇◇
さっさと目を逸らせば良かったが、水森が「あ……」と小さく呟いたのでそれもできなくなった。恋人は耳まで赤くして、こちらを見ている。その瞳が何か期待するように潤んでいるのを見て、砂噛は舌打ちをしたくなった。今その態度はまずい、と流石に我慢したが。
「お前さぁ……」
呆れたような声を、なんとか出す。こちらまで赤面したら負けだ。先週せっかく自戒したばかりなのに、こんなところで揺るがせないで欲しい。
「ご、ごめんなさい」
そう呟くものの、水森も目を逸らさない。テレビの方からは控えめな喘ぎ声と衣擦れの音がする。視界に入る画面は暗転している。
ごくりと、喉が鳴ったのを砂噛は感じた。なんで、我慢しなくてはいけないんだっけ、そんな思いが胸の中をぐるぐると渦巻いている。こんな、お膳立てされたようないい雰囲気を無視しなくてはいけない理由はなんだったか。
事の発端は条例だった。だが水森が大学生になった事でそれはクリアしている。あとは、仕事に支障をきたさないため、浮かれすぎないため、そんな理由だ。
もう、いいか。砂噛はそう思った。仕事はきちんと回っているし、二人の関係は課内で筒抜けである。変に制限している効果はないように感じた。さきほどの模擬テストも合格ラインを超えていたし、この分なら資格試験も問題ないだろう。
自分に言い訳をしながら、砂噛は恋人へと手を伸ばした。いろいろ考えをこねくり回したが、早い話限界だった。こんな潤んだ目で見られて、こんな期待するような目線を向けられて、我慢しろという方が酷だ。
「……いいよな?」
水森の頬を撫でながら、問いかける。何が、とは聞かなくても分かるだろう。目を閉じながら、返事を待たずに顔を寄せた。
「だ、ダメです」
予想よりも硬い感触が、唇に当たった。
「は?」
砂噛は目を開け、水森の手のひらが自分の口に当てられていることに気がついた。肯定しか想定しないで聞いた問いは、否定で返されてしまった。
「何で?」
「いや、そもそも先輩が決めたルールっスよね?」
何しれっと破ろうとしてるんスか、と責めるように言われる。そこを突かれると痛い。だが、砂噛にも言い分はあった。
「お前が、物欲しそうな目をしてたから」
「そっそんな目して……たかもしれないですけど」
ごにょごにょと語気を弱める水森に、あと少し押したらいけるかな、という邪な考えが浮かぶ。拒否されたことで意地になっている部分もあるが、とにかくキスしたくて堪らなかった。
「なぁ、逆に何で拒否した?あんなにしたがってたのに」
先月のことを引き合いに出すと、水森は気まずそうに目を逸らした。言い返せない恋人の様子に気をよくして、頬から耳へと手をスライドさせる。ふにふにと耳の感触を確かめるように摘むと、水森のMESが揺れた。
「さっきのテストも問題なかったし、もういいだろ?」
「それは……」
水森は明らかに迷っている。目は泳いでいるし、顔は紅潮したままだ。もうひと押し、と砂噛はぐっと顔を寄せて、耳元に囁いた。
「なぁ、いいよな?」
びくりと震える肩すら愛おしい。そのまま、返事を待っていると「先輩」と呼ばれる。顔を上げ、再び目線を合わせると、泣きそうな目が見えた。
「やっぱり、ダメです」
先ほどと同じ潤んだ目だが、さすがに分かる。これは本気で泣きかけている。少し鼻もすすっているし、今にも涙がこぼれそうだ。砂噛は慌てて距離をとって手を離した。
「悪かった」
両手を軽く上げて、無理強いする意志がないことを示すが、恋人はますます眉根を寄せる。どうしろっていうんだ、と八つ当たりのような感情を抱きながら、砂噛は再度謝罪を口にした。
「すまん、そこまで嫌だとは思わなかった」
口にしながら、自分でも少し、いやかなり傷ついてしまう。そんなに嫌なのか、と。先ほどまで向こうも求めていると感じていたのは砂噛の勘違いということになる。
ショックと羞恥でこちらが泣きたくなってきたが、さすがに涙は出てこない。落ち込んでいるのが顔に出たのか、水森が慌てたように言葉を紡ぐ。
「ちが……嫌じゃないっス!」
オレだってしたいです、と必死に告げられる。砂噛は水森と違って嘘が分からない。だから、この言葉が本心か気遣いからでた嘘なのかは見分けられない。だからというわけではないが、問い詰めるような口調になってしまった。
「じゃあ、なんでダメなんだよ」
「それは……」
つい、食い下がってしまったのは、先ほどのショックを引きずっているからだ。水森は、気まずそうに目を伏せ、やがてぽつりと呟いた。
「全部抜けそうだから」
「はぁ?」
「だから、今まで勉強したこと全部忘れちゃいそうで、だからしたくないっス!」
意味がわからなかった。
水森のたどたどしい説明を質問を交えながら理解しようと努力した。泣きそうだった恋人の目は、説明を続けるうちにいつの間にか乾いていた。
一通りの説明を聞いて、砂噛は自身の理解が合っているか、確認した。
「つまり、お前は試験に受かるまでキス以上のことをしないことを願掛けにしていたと」
「そうっス」
願掛け。何かを達成するまで髪を切らない、好物を断つ、神社に通い詰める。一見何の因果関係も見出せない事柄同士を繋ぎ、ある種自己暗示をすることで精神安定を得る、というものだ。砂噛の故郷の星にも似たような考え方があった。傭兵は案外信心深く、運や気といったものに気を使う。
砂噛はため息をついた。意味は分かったが、何だそれ、という感じだ。もともとは自分が一方的に言い出したルールだが、相手側もそれを利用した制限をかけてくるとは思っても見なかった。
「どうせできないなら、ちょうどいいかなって」
水森はちょっとだけ笑みを浮かべている。この微妙な空気感を笑い話に方向転換したい、という思いが透けてみえたが、乗ってやる気にはならなかった。
「変な決めごと作るなよ」
「先輩に言われたくないっス」
拗ねたように返してくる後輩に、言葉に詰まる。確かに、最初に始めたのは自分だ。あの時は、まさかこんな、自分の方が我慢できなくなるなんて考えてもみなかった。完全に立場が逆転した状態に、砂噛は目を伏せた。
「分かったよ、お前がそう決めているならしないから、安心しろ」
嘘ではないと分かる分、水森は聞き分けがいい。安心したように肩の力を抜いている。そう、嘘ではない。試験に合格するまで、望み通りキスするつもりはない。口には、と但し書きがつくけど。
もともと水森と砂噛では運動能力が異なる。油断した後輩の隙を付くなんて、砂噛にとって造作もなかった。先ほどのように手のひらで拒否するような間を与えず、柔らかそうな頬に口付けた。
「なっ……何するんスか!」
一瞬呆けたような顔をした後、水森が怒りだす。受け流すように飄々と砂噛は答えた。
「まぁ、ここなら挨拶みたいなもんだし」
「あんた先月、オレがしたら意味合いが変わるとか言いましたよね!?」
ぎゃいぎゃいと言い募る水森に、砂噛は苛立ちを隠さずに叫んだ。
「うるせーな!そこで我慢してんだから、いいだろ!」
普段大人として余裕を見せるようにしているが、さすがに限界だった。先ほどまでのやり取りで都合二回は拒絶されているし、なんだかんだで口へのキスはお預けになった。簡単に言えば、砂噛はちょっと拗ねていた。
「だ、ダブスタが過ぎる……」
恨みがましい表情をしているものの、耳は真っ赤だし口元はちょっと緩んでいる。喜びを隠しきれていない恋人の表情に、砂噛は少しだけ溜飲が下がった。
ふとテレビを見ると、映画は大分進んで、怪物が先ほどのカップルを食い殺していた。やっぱりな、と砂噛は思った。
◇◇◇
週明けの月曜日は快晴だった。あの豪雨が嘘のようだ。
昼休憩後、砂噛は穂村と会議室で向き合っていた。予定にはなかった呼び出しに、砂噛は少し緊張していた。何か緊急の案件でもできたのか。色々な可能性を考えつつ、身を固くして向かいに座る穂村の言葉を待った。
穂村は常と変わらず無表情のまま、静かに口を開いた。
「水森の試験勉強、捗っているか?」
予想とは全く異なる言葉に、肩透かしを感じつつ砂噛は答えた。
「この前、模擬テストしましたが、合格ラインには達してましたよ」
世間話から、本題に入るのだろうか。いや、普段の穂村はそんなまだるっこしいことをしない。目の前の上司の考えが読めず、砂噛は戸惑いを覚えた。
「そうらしいな」
らしい、という言葉に違和感を感じた。まるで、答えを知っていたかのようだ。
「さっき、1on1で水森とも話した」
「あ、そうなんですね」
なら、なぜ自分に聞いた?顔に出ていたのか、穂村はようやく本題に入った。
「手を出して、勉強の邪魔したそうだな」
セクハラ案件か?と聞かれて砂噛は頭を抱えた。
穂村の話によると、最初は真面目に目標の確認をしていたという。水森の場合は目標に直結するので、勉強の進捗を聞いたところ、ひとしきり土曜日の愚痴を言われた、というのがことの背景のようだ。
水森からすれば、鉄に愚痴るのと同じノリのつもりのようだが、穂村は元同級生である前に上司である。愚痴を愚痴として流すには、気にかけなければならないことが多すぎる。
セクハラ扱いされるのは受け入れられなかったので、砂噛は慌てて反論した。
「以前報告した通り、オレたち、きちんと交際している訳ですが」
「同意のない行為は恋人同士でも問題になる。場合によっては懲戒対象になるからな」
行為って。砂噛がしたのはいわゆる『ほっぺにチュー』である。ませた小学生でも行うことだ。それを理由に懲戒なんて受けたら、とんだ笑い者だ。
「水森は、こうも言っていた。『あの人といると勉強したことが抜けていく』と」
「……そんな感じのこと言ってましたね」
さて、どうすればいい。水森の軽い愚痴でまさか本当に懲戒を食らうはめになるのだろうか。砂噛が冷や汗をかいていると、穂村が少し声のトーンを柔らかくした。
「まぁ上司としては、そんなこと聞いたら、対応する必要があるわけだ」
「はぁ」
「だから、お前の今年度目標に、水森の試験合格も入れておいた」
「はぁ!?」
思いがけない着地をされて、砂噛は思わず敬語がとれた。穂村は気に留めた様子もなく淡々と続ける。
「連帯責任にした方が、お前も邪魔しないだろ?」
「邪魔って……オレ一応あいつの勉強みてたんですが」
「安心しろ、別に水森が落ちても、別れろとは言わない。評価は下がるが」
砂噛の言葉は無視されて、事務的に連絡事項を伝えられる。上司としての対応だ。怒ったり、呆れたり、と言った様子は見られず、穂村はただ単に職務を全うしている。だが、と砂噛は違和感を覚えた。さすがに水森に対して、肩入れした対応すぎないか?
「課長、水森のこと甘やかしてません?」
「……評価については、平等にするつもりだが」
ただ、と穂村は続けた。
「恋愛の愚痴なんて聞くの初めてで、ちょっと新鮮だったな。文句をいいつつ、幸せそうな顔をしていた」
表情にはでないが、楽しかったのだろう。普通の学生のように、同世代からの恋人への惚気ともつかない不満を聞かされるのは。それが部下同士の恋愛の話だったので、対応がややこしくなっているが。
砂噛はため息をついた。この年下の上司が、楽しんでいるなら、仕方ない。もとより自分に非がある、というのも確かだ。甘んじて連帯責任とやらを受け入れることにした。
それはそれとして、水森にはあとで文句を言おうと心に決めた。
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