八月は急ブレーキ


「よし、じゃあさっき決めた新しいルールの確認な」
「はい!」
 数十分前のしんみりした空気からうって変わって、隣に座る後輩は元気良く返事をしている。気まずさが微塵もない上、色気もない雰囲気に、砂噛は満足した。
「まず、オレはお前が大丈夫と判断したことしかしない」
「はい、今はキスまでオッケーっス!」
 ぐっとサムズアップしてくる後輩に頷くと、砂噛は続けた。
「次に、『大丈夫』の判断は双方の合意でなされる」
「オレのこともっと信用して欲しいんスけど……」
「お前、さっき嘘ついたばっかりだろうが」
 軽く小突くと、水森ははーい、と間延びした返事を返してきた。一応納得しているようだが、油断するとまた自己犠牲に走るんじゃないかと砂噛は警戒している。だからこそ、最後の条件は強めに設定した。
「最後に、次無理矢理押し倒したら、オレは責任とって自害する。以上だ」
 この言葉には水森は頷かなかった。それどころか、不満を漏らしてくる。
「いや、さっきも言いましたけど、最後のルールは無くしません?先輩のもの蹴り上げてでも、ちゃんと抵抗しますよ」
「お前の蹴りじゃ、多分オレ止まらないけど」
「マジっスか……」
 恋人は不満そうだ。自害という言葉に嘘はないのは伝わっているだろう。自己犠牲が強い人間を相手にするのであれば、相手よりもこちらの不利益をちらつかせた方が効果的だ。
「オレを死なせたくなければ、あんまり誘惑してくれるなよ」
「誘惑って……したことないっスよ」
 冗談だと思ったのか、恋人は苦笑しているが、砂噛は真剣だった。
 
 
 明日も仕事があるので、夕食前に水森を帰らせることにした。
 来た時と違い、恋人が晴れやかな表情をしているので、結果的には話して良かったな、と砂噛は少しだけ鉄に感謝した。
「明日も目を使うんだから、今日は早めに寝ろよ」
「はーい」
 一人暮らしの狭い玄関に、間延びした水森の声が響く。靴を履きながら、恋人は思い出したかのように呟いた。
「せっかくがんばって受かったけど、オレたちまた足踏みしてますね」
 こちらに背を向けて靴を履いているので、砂噛からはその表情は見えない。だが、口ぶりからして少し拗ねているな、と感じた。
 足踏み、と言われて砂噛はすぐには肯定したくなかった。だが、確かに状況だけ見ると、新たに縛りを設けてしまっている。
 付き合い始めてそろそろ半年が経つ。その間に、ルールを作ったり、抜け道を探したりと、つどつど攻防を繰り返してきた。これが、最後のルールになればいいとは思うが、きっとこれからも何かにつけてこういうことはある気がした。
 ただ、そのルールが二人の距離感を調整するためには、必要なことなのだと思う。ただでさえ水森はこちらの隠しておきたい本心も看破してくる能力を持っている。そうしてそれを曲解し、自分だけが我慢するような方向に突き進むのだ。
 縛りを作ることで、これは大丈夫か、とお互いに確認しあうくらいが、きっとちょうどいい。そう思っているので、なんと言って宥めたものかと考えていると、水森の方が先に口を開いた。
「でも、今までと違って……」
 そう言って、くるりと振り向いた恋人の満面の笑みに、束の間砂噛は見惚れていた。そうしてそれが隙となり、水森の行動を止めることができなかった。
 気がついた時には、年下の恋人に唇を奪われていた。
「おやすみのチューはできますね」
 そんな風にあどけなく笑う顔を見て、砂噛は後悔した。
 早々に自害することになりそうだった。今すぐにでも引き戻して、ベッドに縫い付けてやりたい気分だ。水森に対する牽制で作ったルールのはずなのに、自分が引っかかってどうする、となんとか自制した。
 前言撤回なんて今更できない。機嫌よく手を振って去っていく水森に、手をあげて応えるのが精一杯だった。

 
「イルカショー観れるなんて、役得っスね」
「おい、仕事だろ」
 三人は、昨日と同じく水族館に訪れていた。
 野外ステージには八月の日差しが降り注いでおり、寝不足の砂噛にはキツい環境だ。
 嗜める言葉を口にしつつも、砂噛は笑顔を浮かべる後輩の顔を眩しそうに眺めた。昨日までの気まずさはなく、ただただかわいいと思える。
「ドラ男、うるせぇ。心臓止めて?」
「無茶言うなよ」
 鉄には迷惑をかけるがこればかりは仕方ない。昨日までの嫌な緊張感が消えて、久しぶりに普通に話せるのだから。
「しっかし、見つからないっスね」
「片っ端から魚捕まえて、変なやついないか確認したほうが良くない?」
「そんなことして関係ない魚傷つけでもしたら、賠償もんだからな」
 諦めムードの二人を宥めるように、砂噛は冷たい飲み物を渡した。二人が外星人を見つけるまでは、それをサポートするのが彼の仕事だが、サポートというよりもご機嫌とりに近いが。
「擬態して水族館なんて、頭いいよねー。ほぼヒモじゃん」
「ヒモって……その代わりいろいろ失ってません?尊厳とか」
 休憩に入ったらしく、二人とも好き勝手に話している。イルカショーを観る間くらい、別にいいかとそこは黙認した。
「あ、始まる」
 鉄が弾んだ声で前方のステージを指差している。つられてそちらを見ると、水面にイルカの影が複数確認できた。
 職員が一体ずつ、イルカの名前を紹介していく。その声に合わせて、それぞれ思い思いに芸を披露する。その中でも一際大きなイルカが、この水族館のトップスターだと言ってアナウンスされた。
 イルカは一旦深く潜ると、水柱を上げて大きく跳ね上がった。
「上手いもんだな」
 ここまで調教するのもすごいが、何よりイルカ自体の跳躍力が素晴らしい。他の個体の追随を許さない高さに、観客からは割れんばかりの拍手が送られる。思わず砂噛も見入ってしまった。
 ふと、隣の後輩二人が拍手をしていないことに気がついた。あんなにはしゃいでいたのにどうした、と目をやると、二人揃って口を開けて驚いている。
「せ、先輩、あいつだけ体温やたら高いっス」
「鳴き声も不自然。周りと波長があってない」
「え、じゃあ……」
 砂噛の呟きに、二人は無言で頷いた。
 灯台下暗し、相手は隠れる気なんてないようだ。悠々とプールの中を泳ぎ回ると、観客に向かって腹を見せるといるサービスをしている。
「ヒモどころか、稼ぎ頭じゃねーか」
 何とか搾り出した言葉は、再び上がった歓声にかき消された。どうやら、またあのイルカが跳んだようだ。

 砂噛が夜の水族館に侵入し、イルカと大乱闘の末に外星人を捉えるのは、また別の話。
 
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