八月は急ブレーキ



「マジでペンギン、見分けつかない……」
「魚もっスよ。動き回るからどれ確認したかわかんなくなる」
 ぐったりとした様子の後輩二人に、砂噛は「お疲れ」と声をかけた。彼自身は現段階で出来ることはないので、今は労うことしかできない。
「今日は直帰でいいから、お前らの家まで送ってやるよ」
 社用車での送迎は褒められた行為ではない。会社の資産であるし、事故になった時の保険の考え方が難しくなるからだ。けれど、大っぴらでなければやっている者が多いのも事実だ。部署にもよるが、この会社は出先で解散の仕事が多い。
「サンキュー、夕飯の材料買いたいからスーパーで下ろして」
「あ、オレもスーパー行きたい」
「おい、タクシーじゃねーんだ。家で我慢しろ」
 軽口を流しながら、砂噛は少し安堵していた。鉄を通して会話をしていると、水森との気まずさは軽減されている気がする。
 そんな風に表面上は和やかな雰囲気で、砂噛は順調に運転をしていた。だから、鉄に声をかけらた時も平時と同様のテンションで答えた。
「あのさ」
「なんだよ」
「お前らセックスした?」
 砂噛は思わずアクセルを踏み込んだ。急加速した車は、黄色信号の交差点を突っ切っていく。停まろうと思っていたのに。慌てて減速し、路肩に停めると、鉄が文句をつけてくる。
「あっぶねーな。安全運転してよ」
「お前が!変なこと聞くからだろうが!」
 かわいそうに、助手席の水森は青くなったり、赤くなったりと忙しい。鉄はこちらの怒鳴り声など意に介さず、今度は水森に絡んでいる。
「水森、運転荒いやつって、セックス雑ってほんと?」
「し、してないから、わかんないです……」
 鉄の問いかけに、水森は声を震わせている。羞恥からか半分泣きそうだ。
「あれ、してないの?」
「なんでそんな話になったんだよ……」
 砂噛は頭を抱えた。正直、今触れて欲しくない話題だ。というか、いつでも触れてほしくない。
「いや、だってさ。今日、ずーっとお前らの心音やばいから」
 やっとできて、照れてんのかなって。そう言われて、砂噛は閉口した。気にするな、と言ったにも関わらず、自分もしっかり意識していたことがバレてしまった。水森も同様の気まずさを感じているのか、言葉を発しない。
 沈黙してしまった二人に対して、鉄がため息をつく。そうして自分の荷物をまとめると、車のドアを開けた。
「つーか、ウチここで降りるわ」
「え?」
「家近いし。今日の仕事これで終わりっしょ?おつかれー」
 そう言うと鉄は宣言通り車から降りてしまう。
「マジでうるさいから、明日までに落ち着いてね。明日も三人で仕事なんだから」
 最後にそう言い残して、鉄は車のドアを閉めた。
 残されたのは、青ざめた後輩と自分だけ。砂噛はどっと疲れを感じた。嵐に巻き込まれた気分だ。言うだけ言って出て行ったが、この雰囲気をどうしてくれる。
 しかし、鉄の言うことももっともではある。謝罪はしたものの、まだぎくしゃくとしたところがあり、仕事に支障が出るのは時間の問題に思えた。
「なぁ、話したいことあるから、今日家に寄ってくれ」
「……はい」
 水森の返事は抑揚がなく、普段よりも数トーン暗いものに感じられた。そのことが、余計に砂噛の気持ちを重くしていった。


 数日前に恋人を押し倒したソファ。そこに座らせるのはどうかとも思ったが、残念ながらこの家にはそこか寝室しか座る場所がない。このタイミングで寝室に連れ込んだら、あらぬ想像をされそうだ、と砂噛は水森にソファを勧めた。
 緊張した様子で恋人は腰掛けている。この家を訪ねてくるのも、ソファに座るのも、もう何度も行ってきたことだ。それでも緊張しているのは、これからの展開を考えてか、先日のことを思い出してか。
 答えの出ない問いに頭を悩ませるのが嫌になって、砂噛は帰路で考えてきた提案を早々に行った。
「しばらく、距離を置くか」
「え?」
 試験に受かったことでようやく全てが解禁された。それにお互い浮かれすぎていた気がする。何にもしない、という期間を伸ばせば、水森の恐怖も徐々に和らぐのではないか。そう思っての提案だった。
 正直、一度できると思った後で制限をかけるのはきつい。けれど、この気まずさを引きずり続けるよりはマシだ。
 向こうも居心地の悪さを感じていたようだし、同意するだろう。そう思っていたのだが、隣に座る水森が青ざめていく。
「やだ……」
「は?」
「嫌です、絶対別れませんから!」
 何を勘違いしたのか、水森は砂噛に振られると思い込んでいる。眉を吊り上げて怒りを露わにし、真っ向からこちらを睨み返してくる。
「やっぱり、できなかったのが悪いんスよね?」
 だったら、というと水森の腕が砂噛の首にまわった。存外に強い力に引き寄せられて、恋人の唇が顔に当たる。
 押し付けるだけの、下手くそなキスが繰り返されて、砂噛は動揺した。先日の怖がっていた様子からは想像もつかない積極性だし、そもそも何に怒っているのかがわからない。別れる?なんでそうなった。
「この前の続き、しますから」
 水森はそういうと、Tシャツに手をかけた。脱ごうとしてもたつく手に苛立った様子で、なんとか上裸になると、あっけにとられている砂噛にすがりついてくる。あまりの勢いに、砂噛は押し倒される形でソファに倒れ込んだ。
 自分の上にまたがって、水森はこちらのことを見下ろしてくる。積極的な行動とは裏腹に、その目には涙が滲んでいる。
「何してもいいから、捨てないでください……」
 涙目で見つめられて、反応できなくなってしまう。捨てるだの別れるだの、勝手に何を言っているんだ、と思いつつ、煽情的な言葉に少し理性がぐらついた。
 それでも、砂噛は水森のことを押し返した。
「待て、オレの話を聞けって」
「いやだ!」
 水森は、強く叫ぶと抵抗するように砂噛の手を振り払う。なりふり構わず暴れる様は、駄々をこねる子供のようだった。
「別れ話じゃねぇ!」
 その言葉に、水森はようやく抵抗をやめた。
「……一回上からどいて、話を聞いてくれ」
 頼むから、と砂噛は疲れたように呟いた。


「まず、なんで別れると思ったんだよ」
「……だって」
 水森にはソファに並んで座って、ついでに服を着てもらった。冷静に話し合いを、と思ったが相手があまりに不安げなので、砂噛は軽く肩を抱き寄せた。
「だって先輩が距離置くとか言うから……」
「いや、あれは言葉のあやというか……キスする前の距離感を続けようという意味で」
「ひどい、捨てられるかと思ったっス」
「紛らわしい言い方して悪かった」
 拗ねた様子の恋人の頭を撫でると、緩やかにもたれかかってくる。かわいらしい仕草だが、その顔はまだ仏頂面だ。
「……キスも、その先も、できなくなるの嫌っス」
「でも、怖かったんだろ」
「次は大丈夫っス」
 砂噛には嘘がわからない。水森の言葉が虚勢か本心かは見分けがつかない。けれど、おそらく前者だろうと推測していた。
「……じゃあ、確認させてくれよ」
「え、何を?」
 少しだけ腕に力を入れて、恋人を引き寄せる。軽く、合わせるだけのキスをすると大袈裟なくらいに肩が跳ねた。
「ほら、怖いだろ?」
 手を離して、ゆっくりと距離を取る。けれど、当の相手が抱きついてきて離れない。
「……おい」
「お、驚いただけで怖くないっス!」
 そう言うと、恋人は目を閉じてこちらに顔を向けてきた。キスをせがまれているのだ、と一目でわかる。少し迷ったが、砂噛はその頬に手を当てると、再びその唇に触れた。
 柔らかい弾力を感じる。二度三度と、短く自分のものを押し付けると、徐々に恋人の体から力が抜けていく。怖くないというのはどうやら本当のようだ。キスに関しては。
「……ほら、本当でしょ?」
 勝ち誇ったように笑われて、砂噛も笑みを浮かべた。何を言っている、こんなもので済むと思うなよ?そんな思いを込めながら。
「!」
 するり、と耳殻を撫でる。先日の無遠慮な行為を思い起こさせるように、ゆっくりと。みるみるうちに赤くなる恋人の顔を見ながら、砂噛は反対の耳に口を寄せた。
「舌入れていい?」
 抱き寄せている体に再び力が入るのを感じる。顔を離して恋人の目を覗き込むと、微かに揺れているように感じる。やはり、ここから先にはまだ抵抗感を感じているのだろう。
「い、いいっスよ」
 水森が口にしたのは、肯定の言葉だった。
 砂噛は少しだけ悲しい気持ちになった。ここまで、彼を焦らせているのは、自分への気遣いか。やはり、あの日、理性を無くしたことが尾を引いている気がしてならない。
 しかし、それならば、と彼も覚悟を決めた。
「じゃ、目を瞑って」
 砂噛の言葉にしたがって、水森は目を閉じた。先ほどとは異なり、強く力を入れて閉じられている瞼に、軽く口付ける。そうして、頬を優しく撫でてから、渾身のデコピンをお見舞いした。
「いった!!」
「この嘘つき、やっぱり怖がってんじゃねーか!」
 隠微な雰囲気をかき消すようにわざと声を張り上げてから、砂噛は水森を引き寄せた。腕の中に閉じ込めた体は、また緊張している気がする。それをきつく抱きしめながら、言い含めるように丁寧に話始めた。
「前に、ゆっくりでいいって言ったのは、本心だ」
 いつのことを言っているのかはきっと伝わっているのだろう。水森は黙って砂噛の言葉の続きを待っている。
「嘘じゃない、わかるな?」
 この体勢では砂噛からは水森の表情が見えない。しかし、微かに肩に感じる振動が肯定の頷きであることはわかった。
「……じゃあ、この前は?」
 恋人の疑問に、砂噛はゆっくりと息を吸った。慎重に言い方を考えなくてはならない。
「あれも、本心だ」
 ゆっくり、優しく、大切にしたいという気持ちがある。その一方で、無理矢理にでも暴いてしまいたい、そんな気持ちも確かにあった。理性と本能のせめぎ合いの中で、どちらも嘘のない気持ちだ。
「抑えられなくて、悪かった」
「いえ、そんな……オレが覚悟できればいいだけなんで」
 砂噛は、恋人を抱きしめる腕に力を込めた。そんな無理をさせたいわけではない。
「お前が、オレのことを思ってくれるように、オレもお前のことを大切にしたい」
 片方の自己犠牲で成り立つ関係なんて嫌だ。完全に対等という関係なんてないことはわかっている。それでも、お互いに納得しあって歩んでいきたかった。
「自分でも大切にしてくれ、頼むから」
 懇願に近い砂噛の言葉に、水森は何も言わなかった。代わりに、背中に腕が回されて力が込められる。縋るように、応えるように。
 それだけで十分だった。 

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