Tuesday
「人に仕事しろってうるさかったのに、まだ終わってないのか」
呆れたようなセリフの中に、柔らかさを感じて、やっぱり普段の先輩じゃないんだ、と痛感する。いつもなら、罵倒とともに蔑みの目線を送られているところだ。
先輩はオレの隣に座って何をするでもなく、こちらの手元を見ている。自分の仕事はとっくに終わっている。
そう、この人、なんだかんだ優秀なんだよな。戦闘もこなすのに、デスクワークも早い。前にそんなこと言ったら「こんなもん慣れだ」とつまらなそうに言われた。褒めたつもりだったのに。
オレはというと、先輩の騒動もあってなかなか集中できず、見事に残業になった。そもそもデスクワークは早い方じゃない。普段から仕事が終わらなくて、先輩にぼやかれている。
いつもの先輩もぼやきながらもオレが終わるのを待ってくれた。チェックが必要だから、と言うのもあるが、ちょこちょこアドバイスもくれたし、面倒見がいいんだと思う。
「先輩、今日倒れた訳ですし、先帰っていいっスよ」
「いや、帰んねーよ。食事行くって言ったろ」
ちょっと拗ねたように言われて苦笑する。
鉄先輩も課長も、すでに仕事を終えて退勤しているので、今この部屋には二人しかいない。穴が開くほどこちらを見てくる先輩の視線がうるさくて、むずがゆい。
「先輩、今日薬かけられたこと覚えてます?」
「ああ、ピンクのやつな」
そこの記憶はあるのか。ならば話は早い、とオレは先輩に向き直った。
「あの、ごめんなさい。オレを庇ったせいで変なもの被る羽目になって」
「別に、お前の落ち度はないだろ。ちゃんとMESで認識阻害していたし。たまたま薬が飛んで行っただけだ」
「でも」
不意に大きな手がこちらに伸びてくる。そうして、ぐしゃぐしゃと乱暴に頭を撫でられた。かき混ぜられた、と言う方が表現として正しいかもしれない。
「検査してもらったけど、別に命に関わるようなものじゃないから」
気にするなよ、と先輩は少しぶっきらぼうに呟いた。今の言い方は、いつもの先輩っぽいな、と感じる。さんざん嫌味を言った後、最後につっけんどんにフォローしてくれる。そんな先輩が好きだった。
今の先輩は、正気じゃない。そんな相手に謝って許してもらうのは、何かずるいような気もする。
先輩が元に戻ったら、改めて謝ろう。そう決めて、オレは仕事に戻った。
ようやく仕事を終えて、外に出た時には、もうあたりは真っ暗だった。何食べたい?と先輩に聞かれて、オレは安いことで有名なファミレスの名前を挙げた。
「……人が口説きたいって言ってんのに、こんな雰囲気ないところ選びやがって」
「いいじゃないっスか。安くてうまい、いい店でしょ」
先輩の文句はもっともだ。この店は、何度か使ったことがあるが、いつも賑やかだ。バイト帰りの学生、ちょっとした寄り道をするサラリーマン、そんな人たちでごった返している。とてもじゃないが、人をゆっくり口説き落とせる雰囲気ではない。
まぁ、それを狙ってわざと選んだのだけど。
やたら雰囲気の良い店で、本気で先輩に口説かれたら、うっかり付き合ってしまいかねない。この先輩がいつもの先輩と違うと言うのは良くわかるのだが、それでも、ふとした瞬間に見せる表情や態度が、先輩は先輩だ、とオレに訴えかけてくる。
注文した料理が届くまでの間、沈黙が落ちる。がやがやとうるさい店内だが、オレたちのテーブルだけ、何か緊張感のようなものがあった。
テーブルを挟んだ先輩は、柔らかく目を細めてこちらを見ている。それが妙に甘く感じられて、オレは目を逸らした。
「先輩、薬かけられたこと、覚えてるんスよね」
オレの問いかけに先輩は首肯する。
「そこから、オレにだけ態度が違うじゃないっスか。なんか変だと思わないんスか?」
課長にも、局長にも、普段通りの態度で先輩は接していた。仕事も問題なくこなしている。記憶は途切れておらず、オレへの態度だけ劇的に変化してしまった。そのことに、本人は違和感を覚えないのだろうか。
先輩は、心底不思議そうな顔でこちらを見ている。
「そんなに違うか?」
「めちゃくちゃ違います」
からりと、目の前のコップの中で氷が音を立てた。暖房が効いた店内で、溶けてバランスを崩したのだろう。
「先輩、オレのこと好きなんて、薬のせいで思い込まされてるんスよ」
薬の効果は短くても三日は持続する。そう聞かされていたが、きちんと説明すれば、先輩もわかってくれるのではないか。そんな期待をこめて言い募る。
「効果が切れた時に、後悔するのは、先輩っス。だから、オレのことは今までみたいに後輩として扱ってください」
「……お前のことは」
先輩はゆっくりと、言い聞かせるように話し始めた。その態度が、いつも、オレに仕事を指導する時に似ていて、聞き入ってしまう。
「前々から、甘やかし気味だった。あの薬を被ってから、特に抑えが効かないから、たしかに態度は変わったかもしれない」
いや、前は特に甘さなんてなかった。何か、認識が歪んでいるのではないか。しかし、そんな反論をできる雰囲気ではない。先輩は今、オレを説き伏せにかかっている。
「けどお前のことは、前から好きだった。薬で作られたものなんかじゃない」
甘さが消え、真剣な眼光がいつもの先輩を思わせる。言葉には何の嘘もない。
ジョークグッズ、と馬喰さんは言っていた。だが、この効果を見ていると、ひどく精巧な薬のように思える。本人の記憶に矛盾のないように、好意を植え付けて感情を暴走させる。MESを悪用したかのような働きだ。
「そう、なんスね」
今の先輩にオレの言葉は届かない。先輩の目を覚まさせるのは、不可能なようだ。
諦めの色の濃いオレの返事に、先輩は不快そうに眉を顰める。自分の言葉を信じていないことが、伝わったのだろう。
いくら嘘がなくても、先輩が元からオレを好きなんて、全く思えなかった。
オレのほうは本当に前から先輩のことが好きだった。自覚した時はそれなりに悩んだし、今も先輩のちょっとした態度に一喜一憂するくらいには感情を揺さぶられている。
それでも、今まで食欲をなくしたことはなかった。恋煩いで、何も喉を通らない、なんてオレには無縁の話で、毎日三食きっちり食べていた。それは、先輩が目の前にいても、同じはずだった。
しかしどうしたことだろう。今は全く食欲がない。オレの目の前には、ピザやらパスタやらチキンソテーやら、とにかく、好物が並んでいるのに。
口説くような雰囲気でないところ。そんな基準で選んだ店だが、別にまずいって訳じゃない。むしろ、この値段でこの味が食べられるならお得だな、と思っているし、普通に好きだ。
「食わねぇの?」
先輩は軽い調子でそう言った。うっすらと笑みを浮かべていて、よっぽど機嫌が良さそうだ。
「……そんなに見られていると、食べにくいっス」
見張られている、とはまた違う。先ほどから視線を感じて落ち着かない。何か大切なものでも見るように、柔らかい目で、先輩はオレを見ている。それが気になって、食事どころじゃなかった。
オレを促すくせに、先輩も食事に手をつけない。にやりと、意地の悪い笑みを浮かべると、頬杖をついた。
「なんだよ、前から食事くらい行ってただろ。少しは意識してくれてんの?」
「前はそんな風に見てこなかったじゃないっスか」
オレの言葉に、先輩はますます笑みを深くする。
「見てたよ」
「え?」
「前から見ていた。お前に気が付かれないように」
嘘つけ、と思うも、臭いがないので何も言えない。
「お前は基本、好きなものから食べていく。甘いものが好きだけど、奢られるような場面では遠慮して頼まない。あと、わりかし量を食べるよな」
証拠、とばかりに先輩はつらつらと今までの様子を並べてくる。しかも、全部合っている。
「……後輩の食事風景観察して楽しいっスか?」
「楽しいし、かわいいと思ってる」
苦し紛れに言った嫌味は、真っ向から打ち返されてしまう。ああ、もう。こんなことされたら、勘違いしてしまうじゃないか。
「……オレのこと好きなんスね」
思わずこぼれ出た言葉に、先輩は首肯した。
「ああ、好きだ。さっきからずっと言ってるだろ?」
嘘のない言葉を、噛み締めてしまう。今の状態では砂噛先輩にとって、この言葉は本心になる。たとえ、その感情が薬で作られたものであっても。
なんて残酷な薬なんだろう。人が、押さえ込もうとしていた気持ちを暴いて変な期待さえさせてしまう。
「……どこが?」
「は?」
「オレのどこが好きなんスか?」
詳細を聞いて、先輩の言葉に変なところを見つけたかった。薬がどこまで設定を作り込むのか、という興味もあったが、頓珍漢なことを言わせて、現実を受け止めたい、という気持ちもあった。
先輩は、ちょっと考え込むようにしていた。すらすらと出てこないところを見ると、これが薬で作られた感情の限界なのかもしれない。少し残念に思う気持ちを押し込めながら、オレは苦笑した。
「変なこと聞いちゃいましたね」
そう言って、先ほどの言葉を撤回したつもりだった。けれど、先輩は静かに口を開くと、こちらをまっすぐに見て話し始めた。
「ほっとけないところ」
「え?」
「他人のために熱くなって、無茶して。甘い考えをいつまで経っても捨てないところ」
悪口言われている?
「そんなところが、苛立たしくて、でも目が離せなくて。そこが好きだ」
なんスか、それ。矛盾してますよ。なんて、笑い飛ばせれば良かった。けど、やっぱり先輩の言葉に嘘の臭いがなくて、その目があまりにも真っ直ぐで。
これが、本当の気持ちだったら良かったのに。そう思ってしまった。
「……おい、口説いてるつもりなんだが。なんだよその顔」
「え?」
「泣きそうな顔してる」
先輩は、片眉をあげて心配そうにこちらを見ている。
オレは誤魔化すように無理やり笑顔を作ると、先輩に取り皿を渡した。
「気のせいっスよ。それより、食べましょ。冷めてきてる」
そう言って、ピザを一切れ手に取った。
先輩は、何か言いだけだっだが、結局何も言わなかった。そのまま、無言での食事が始まる。
冷め始めたピザの固くなったチーズの食感が、辛い気持ちに拍車をかけた。
その後もあまり盛り上がらないまま、食事は終了した。
送ると言って聞かないので、先輩と家まで歩くことになった。
「オレ、女子じゃないんスよ?平気なのに」
「心配、というより、もうちょっと一緒にいたいんだよ」
そんなことを恥ずかしげもなく言われてしまう。もしかして、好意を持った相手には、これが先輩の普通なのだろうか。
「先輩、モテるでしょ」
「なんだよ、それ」
苦笑するものの、先輩は否定しない。
冬の夜は寒く、吐く息も白い。それでも、先ほどの食事に比べたら、いつものように話せていて、それが心地良かった。場所を変えたからか、それとも夜の闇の中では、隣を歩く先輩の目なんて見えないからか。
「かっこいいし、そつがないっつーか。女ウケ良さそう」
「お前以外にウケてもな」
「オレに対しては、変っスよ。会社で抱きつきませんよ、普通」
「課長にもやめろって言われたな」
今もあの、砂糖を煮詰めたような目でオレを見ているのだろうか。この暗さでは確認できないが、それで良かった。
「先輩」
「ん?」
声音だけ聞いていると、本当に今までと変わりないのに。
「オレ、今までの先輩のこと、尊敬してたんで、なるべくそっちに寄せてください」
鉄先輩のアドバイスに従って、濁した表現でお願いをする。好き、という言葉は尊敬に置き換えた。
「寄せる、ね……まぁいい。お前がそっちがいいなら、明日からはそうする」
「ありがとうございます」
先輩は少し不満げだが、了承してくれた。それに満足して、オレは頷いた。
「先輩、オレの家、あそこっス」
向こうが強引に着いてきた形だが、送ってくれたのは事実なので、家に上がってもらってもらって何かもてなした方がいいのかもしれない。けれど、この時間だと、母親も妹も家にいるはずだ。よく知らない成人男性が上がり込んだら、二人は警戒してしまうだろう。
「すみません、家には上げられないんですが」
「いや、別にそんなことは期待してない。気にすんな」
そういうと、同じ速度で歩いていた脚は止められた。ここでお別れだ。
「おやすみ」
「おやすみなさい」
先輩に背を向けてマンションへと入っていく。入り口のところで、少しだけ振り返ると、先輩はまだこちらを見ていた。
軽く手を振ると、向こうも手を上げて返してくれる。たったそれだけのことなのに、本当に愛されているように錯覚してしまい、オレはまた泣きたくなった。
