ただひたすらに甘い
三月に入ったものの、まだまだ寒く水森はコートの襟を合わせた。日が登るのは早くなった気がするが、春はまだ遠い。
高校は自由登校になって久しく、今日もクラスは閑散としていた。
数日ぶりに会った友人たちとの会話は、数週間後に迫った新しい道への話題で持ちきりだった。水森自身も、大学への期待や不安、と言ったものがあり同調しながら会話を楽しんでいた。だが、心のどこかで、もっと目の前の、数日後に迫ったイベントのことが気になっていた。
友人たちと話していれば気がまぎれるかと思ったが、ふとした拍子に三月十四日という日付が頭にちらついてしまう。諦めて帰路に着いたが、街中にも青を基調にしたホワイトデーフェアの広告が溢れており、げんなりしてしまった。
気分は乗らないものの、水森はフェアの文字が並ぶ店の一軒に入った。そこで、買い物をする必要があったからだ。
「はい、ちょっと早いけどホワイトデー」
「わ、いいとこのやつじゃん。ありがと、お兄」
水森は帰りに購入したハンドクリームを妹に渡した。有名な店らしく、さくらは紙袋を見ただけで満面の笑みを浮かべている。学校でもらったチョコにはホワイトデーのお返しをしないために、当日にこちらもチョコを渡すという対応をしていたが、さすがに妹にはそれはできない。さくらが水森に渡したのは、手作りであり、友チョコの余りという割と雑な扱いだった。それでも渡してくれたのは嬉しかったので、三倍返し以上にはなるが、お返しを見繕った。
「玄田といい、律儀にお返しくれるねー」
「待て、お前、玄田君にもあげたの?」
「え、うん。部活のよしみで」
さくらの態度はあっけからんとしている。これは、本当にお互いそういう感情がないのか。それともさくらが鈍いだけで、玄田は好意を抱いているのか。水森は訝しんだ。
「ちなみに、何もらったの?」
「えー?マカロンだよ。なんか、バイト先の近くのおいしい店のやつって言ってた」
マカロンは、ホワイトデーに返す場合好意を示すはずのものだ。玄田がそれを知っているのか、それとも何も考えずに選んだのか。水森は頭を悩ました。
妹の交際に逐一口を出すつもりはないが、単純に気になる。水森とて、玄田のことはいい奴だとは思っているが、それとこれとは別である。とにかく、交際が始まったら見守りたいので報告をしてもらいたい。そんなやや過保護な思考回路で、水森はさくらにお願いをした。
「……付き合うことになったら、教えて」
「何言ってんの?」
さくらは呆れたように笑った。
「だって、チョコあげたんだろ」
「だから、部活でお世話になってるからだって。今どき、チョコにそんな意味込める子いないよ。バレンタインに告白してる子なんて周りにいなかったし」
いる、いるんだよ。水森は言ってやりたかった。少なくとも自分が貰ったチョコのうち数個は本命だった。義理のふりをして渡されたものもあるが、水森には嘘が分かる。
それに、他ならぬ自分もバレンタインに思いを込めた。お世話になっている先輩を困らせるような、そんな本命チョコを渡したのだ。
◇◇◇
水森が自身の恋心を自覚したのは、宙を舞っている最中だった。
返済を滞らせた外星人を追いかけている最中に、高層マンションから突き落とされたのだ。ここでオレを殺すと、あんた、余計に立場悪くなるんだけどな、なんて変に冷静なことを考えながら、自由落下に身を任せた。
別に、水森は死ぬ気はなかった。突き落とされる直前に、目の端に砂噛の姿を捉えており、あ、これなら自分は助かるな、と確信してしまった。
「お前、もう少し焦るとかしろよ」
水森が思った通り、自分を追いかけるように落ちてきた砂噛があっさりと腰を掴む。そのまま、マンションのベランダにぶら下がる形で落下を止めた。
呆れたような声音に、水森は困ったように笑った。
「だって、先輩が見えたから、助かるなって」
「すごい信頼だな」
砂噛に言われるまでもなく、水森は自分が想像以上に砂噛を信頼しきっていることに驚いていた。
砂噛の実力は知っているし、今まで何度も助けられているという経験則からの考えでもあった。だが、砂噛は絶対に自分を守ってくれる、という確信がどこからくるのかわからなかった。
そうして、自分の感情を理解できないまま、今度は心臓が高鳴り始めた。ばくばくと常ならぬ拍を刻む心臓に、今になって恐怖が襲ってきたのかと思ったが、それは違う。だって全く怖くない。
「どうした?」
黙ってしまった水森に、砂噛が問いかけてくる。その声を聞いて、水森は自分の胸がより一層うるさくなるのを感じた。
おそるおそる、砂噛を見上げる。吊り橋効果だと言われればそれまでだが、自分を支える男性がひどく輝いて見えて、水森は、だからかと納得した。
なんのことはない。いつの間にか好きになってしまっていたのだ。好きになって、盲目的に砂噛のことを信じて、勝手な安心感を抱いていた。
きらきらと輝いて見える想い人を見ながら、困ったな、と水森は思った。全く勝ち筋が見えなかった。
◇◇◇
叶わない恋を抱え続けるのことにも、ある種の美しさがある、と水森も理解している。主に漫画から身につけた価値観だが。
だが、それは当事者になったら適用できない価値観だった。叶わない恋は苦しいし、成就しない恋はある種の負けだと感じられた。
そうして水森は、自覚して早々、この恋を手放すことを考え始めた。どうせ成就しないのだ、傷は浅い方がいい。
最初は、簡単に諦められると思っていた。この恋にはデメリットのほうが多い。性別も、出身地も、立場も、全てが逆風だ。会社からもいい顔はされないだろう。そうやって頭では分かっているのに、水森の胸は砂噛を見るたびに高なってしまう。
環境のせいではなくて、相手の嫌なところを見つけよう、とも思った。嫌味なことばかり言ってくるし、いっつも眉を顰めている。穂村に対する態度が他と違いすぎる。挙げようと思えば他にもある。そう考えるのに、水森は頭の中で、言い訳をしてしまう。でもなんだかんだ守ってくれる。たまに抜けた表情をするところがかわいい。そんな風に誰に聞かれた訳でもないのに、砂噛を庇ってしまう。これでは意味がない。
細心の注意を払って、今まで通りを心がけたので、砂噛には自分の気持ちはばれていないようだった。ぶっきらぼうで、皮肉屋のくせに、砂噛の距離感は近かった。仕事で遅くなると、ついでだと言って送ってくれることもあったし、夕飯を奢ってもらったりもした。そのたびに、自分の立ち位置が、かわいがってる後輩止まりだと実感し、喜びと悲しさでぐちゃぐちゃになりそうだった。
この関係性を崩したくないと思う一方で、早く解放されたいという気持ちは、水森の中で膨らんでいった。なんとか砂噛に気づかれずに、気持ちを捨てたい。そう思っても、なかなかうまくいかなかった。
◇◇◇
バレンタインの話題が出た時、水森がまずはじめに思ったのは、砂噛にもいつかは恋人ができるのだ、ということだった。
本人は嫌そうだったが、本命のチョコを何個か貰うようだし、普段からモテている。今は恋人がいないようだが、そのうち、もしかしたら次のバレンタインにでも、誰かと付き合うことになってもおかしくはない。
そんな資格はないと思いつつ、水森は嫌だ、と叫びたかった。恋心を消せないまま、そんなことになったら、耐えられない、そう思った。それを諦めるきっかけにしたら、とも考えたが、とてもじゃないが正気を保てそうになかった。
中途半端に今の関係性に縋るのをやめよう。水森はようやく心を決めた。告白して、きっぱりと諦める。それしかないように思えた。膨れ上がった恋心を抱え続けるのは、もう辛くて仕方なかった。
ただ、どうしても最後まで、今までの関係からの恩恵を享受したかった。だから、わざわざ手作りのブラウニーを作った。よく知らない奴のは食べたくない、と言っていたが、砂噛は自分の作った物なら食べる、そう思えた。
甘すぎるのは好きじゃない、と言っていた。ビターチョコをベースに作ったブラウニーは、味見をしたら自分には苦すぎた。
これを渡したら、砂噛はきっと今までのような距離感では居てくれなくなる。ふとした瞬間に見せる柔らかい目線も、皮肉に混じった気遣う言葉も、全部失われる。
想像しただけで、胸が痛んだが涙は流れなかった。自分で決めたことだろ、と自身を叱咤して、水森はラッピングを進めた。
高校は自由登校になって久しく、今日もクラスは閑散としていた。
数日ぶりに会った友人たちとの会話は、数週間後に迫った新しい道への話題で持ちきりだった。水森自身も、大学への期待や不安、と言ったものがあり同調しながら会話を楽しんでいた。だが、心のどこかで、もっと目の前の、数日後に迫ったイベントのことが気になっていた。
友人たちと話していれば気がまぎれるかと思ったが、ふとした拍子に三月十四日という日付が頭にちらついてしまう。諦めて帰路に着いたが、街中にも青を基調にしたホワイトデーフェアの広告が溢れており、げんなりしてしまった。
気分は乗らないものの、水森はフェアの文字が並ぶ店の一軒に入った。そこで、買い物をする必要があったからだ。
「はい、ちょっと早いけどホワイトデー」
「わ、いいとこのやつじゃん。ありがと、お兄」
水森は帰りに購入したハンドクリームを妹に渡した。有名な店らしく、さくらは紙袋を見ただけで満面の笑みを浮かべている。学校でもらったチョコにはホワイトデーのお返しをしないために、当日にこちらもチョコを渡すという対応をしていたが、さすがに妹にはそれはできない。さくらが水森に渡したのは、手作りであり、友チョコの余りという割と雑な扱いだった。それでも渡してくれたのは嬉しかったので、三倍返し以上にはなるが、お返しを見繕った。
「玄田といい、律儀にお返しくれるねー」
「待て、お前、玄田君にもあげたの?」
「え、うん。部活のよしみで」
さくらの態度はあっけからんとしている。これは、本当にお互いそういう感情がないのか。それともさくらが鈍いだけで、玄田は好意を抱いているのか。水森は訝しんだ。
「ちなみに、何もらったの?」
「えー?マカロンだよ。なんか、バイト先の近くのおいしい店のやつって言ってた」
マカロンは、ホワイトデーに返す場合好意を示すはずのものだ。玄田がそれを知っているのか、それとも何も考えずに選んだのか。水森は頭を悩ました。
妹の交際に逐一口を出すつもりはないが、単純に気になる。水森とて、玄田のことはいい奴だとは思っているが、それとこれとは別である。とにかく、交際が始まったら見守りたいので報告をしてもらいたい。そんなやや過保護な思考回路で、水森はさくらにお願いをした。
「……付き合うことになったら、教えて」
「何言ってんの?」
さくらは呆れたように笑った。
「だって、チョコあげたんだろ」
「だから、部活でお世話になってるからだって。今どき、チョコにそんな意味込める子いないよ。バレンタインに告白してる子なんて周りにいなかったし」
いる、いるんだよ。水森は言ってやりたかった。少なくとも自分が貰ったチョコのうち数個は本命だった。義理のふりをして渡されたものもあるが、水森には嘘が分かる。
それに、他ならぬ自分もバレンタインに思いを込めた。お世話になっている先輩を困らせるような、そんな本命チョコを渡したのだ。
◇◇◇
水森が自身の恋心を自覚したのは、宙を舞っている最中だった。
返済を滞らせた外星人を追いかけている最中に、高層マンションから突き落とされたのだ。ここでオレを殺すと、あんた、余計に立場悪くなるんだけどな、なんて変に冷静なことを考えながら、自由落下に身を任せた。
別に、水森は死ぬ気はなかった。突き落とされる直前に、目の端に砂噛の姿を捉えており、あ、これなら自分は助かるな、と確信してしまった。
「お前、もう少し焦るとかしろよ」
水森が思った通り、自分を追いかけるように落ちてきた砂噛があっさりと腰を掴む。そのまま、マンションのベランダにぶら下がる形で落下を止めた。
呆れたような声音に、水森は困ったように笑った。
「だって、先輩が見えたから、助かるなって」
「すごい信頼だな」
砂噛に言われるまでもなく、水森は自分が想像以上に砂噛を信頼しきっていることに驚いていた。
砂噛の実力は知っているし、今まで何度も助けられているという経験則からの考えでもあった。だが、砂噛は絶対に自分を守ってくれる、という確信がどこからくるのかわからなかった。
そうして、自分の感情を理解できないまま、今度は心臓が高鳴り始めた。ばくばくと常ならぬ拍を刻む心臓に、今になって恐怖が襲ってきたのかと思ったが、それは違う。だって全く怖くない。
「どうした?」
黙ってしまった水森に、砂噛が問いかけてくる。その声を聞いて、水森は自分の胸がより一層うるさくなるのを感じた。
おそるおそる、砂噛を見上げる。吊り橋効果だと言われればそれまでだが、自分を支える男性がひどく輝いて見えて、水森は、だからかと納得した。
なんのことはない。いつの間にか好きになってしまっていたのだ。好きになって、盲目的に砂噛のことを信じて、勝手な安心感を抱いていた。
きらきらと輝いて見える想い人を見ながら、困ったな、と水森は思った。全く勝ち筋が見えなかった。
◇◇◇
叶わない恋を抱え続けるのことにも、ある種の美しさがある、と水森も理解している。主に漫画から身につけた価値観だが。
だが、それは当事者になったら適用できない価値観だった。叶わない恋は苦しいし、成就しない恋はある種の負けだと感じられた。
そうして水森は、自覚して早々、この恋を手放すことを考え始めた。どうせ成就しないのだ、傷は浅い方がいい。
最初は、簡単に諦められると思っていた。この恋にはデメリットのほうが多い。性別も、出身地も、立場も、全てが逆風だ。会社からもいい顔はされないだろう。そうやって頭では分かっているのに、水森の胸は砂噛を見るたびに高なってしまう。
環境のせいではなくて、相手の嫌なところを見つけよう、とも思った。嫌味なことばかり言ってくるし、いっつも眉を顰めている。穂村に対する態度が他と違いすぎる。挙げようと思えば他にもある。そう考えるのに、水森は頭の中で、言い訳をしてしまう。でもなんだかんだ守ってくれる。たまに抜けた表情をするところがかわいい。そんな風に誰に聞かれた訳でもないのに、砂噛を庇ってしまう。これでは意味がない。
細心の注意を払って、今まで通りを心がけたので、砂噛には自分の気持ちはばれていないようだった。ぶっきらぼうで、皮肉屋のくせに、砂噛の距離感は近かった。仕事で遅くなると、ついでだと言って送ってくれることもあったし、夕飯を奢ってもらったりもした。そのたびに、自分の立ち位置が、かわいがってる後輩止まりだと実感し、喜びと悲しさでぐちゃぐちゃになりそうだった。
この関係性を崩したくないと思う一方で、早く解放されたいという気持ちは、水森の中で膨らんでいった。なんとか砂噛に気づかれずに、気持ちを捨てたい。そう思っても、なかなかうまくいかなかった。
◇◇◇
バレンタインの話題が出た時、水森がまずはじめに思ったのは、砂噛にもいつかは恋人ができるのだ、ということだった。
本人は嫌そうだったが、本命のチョコを何個か貰うようだし、普段からモテている。今は恋人がいないようだが、そのうち、もしかしたら次のバレンタインにでも、誰かと付き合うことになってもおかしくはない。
そんな資格はないと思いつつ、水森は嫌だ、と叫びたかった。恋心を消せないまま、そんなことになったら、耐えられない、そう思った。それを諦めるきっかけにしたら、とも考えたが、とてもじゃないが正気を保てそうになかった。
中途半端に今の関係性に縋るのをやめよう。水森はようやく心を決めた。告白して、きっぱりと諦める。それしかないように思えた。膨れ上がった恋心を抱え続けるのは、もう辛くて仕方なかった。
ただ、どうしても最後まで、今までの関係からの恩恵を享受したかった。だから、わざわざ手作りのブラウニーを作った。よく知らない奴のは食べたくない、と言っていたが、砂噛は自分の作った物なら食べる、そう思えた。
甘すぎるのは好きじゃない、と言っていた。ビターチョコをベースに作ったブラウニーは、味見をしたら自分には苦すぎた。
これを渡したら、砂噛はきっと今までのような距離感では居てくれなくなる。ふとした瞬間に見せる柔らかい目線も、皮肉に混じった気遣う言葉も、全部失われる。
想像しただけで、胸が痛んだが涙は流れなかった。自分で決めたことだろ、と自身を叱咤して、水森はラッピングを進めた。
