今日までノーカン!
「先輩、次はどこ行くんスか?」
「……お前の行きたいとこでいい」
「えー?エスコートしてください。デートなんスから」
水森はニコニコと口角を上げているが、その目は笑っていない。
砂噛が頭を抱えながら、うんうん唸っているのを見て、ちょっと意地悪しすぎたかな、とも思うが自分がされてきたことに比べればかわいいわがままだろうと思い直した。
『先輩が、夜道で後輩にキスだけ繰り返して興奮する特殊性癖野郎じゃないなら、ちゃんと告ってください』
これが、水森が先日、砂噛に送ったメールである。普段割と絵文字を使うタイプの彼が、珍しく文字だけで連絡してきた時点で、なかなかに怒りが伝わってくる内容だった。その後、相次いで送ったURLは、『告白するなら、ここ!デートスポット五選』『初めてキスする時のエチケット』というネットの記事だ。圧がすごい。
要は、きちんと段階踏んでこい、と水森は言いたかった。なぁなぁで繰り返されたキスは、水森の心を乱したし、思いの重さみたいなものが感じられなかった。今までの恋人はどうだったか知らないけど、オレは「向こうから勝手に来る」なんてことはしないので、真正面からぶつかってきてください。そんな気持ちをこめた。
はたして、砂噛は水森の要望に応えた。謝罪も兼ねて全部奢るから、という文言と共に週末のデートにお誘いされて、今に至る。
砂噛がこちらに気を使っている、とは水森も感じている。たぶん、酔ったふりをしていた、という罪悪感がそうさせているのだろう。
ただ、待ち合わせ場所で合流して早々、「高校生が何をして遊ぶのか分からん」と宣言されたのには閉口した。彼なりに、こちらを優先する姿勢を見せてくれたのだと思うが、選択肢もなく丸投げされてもな、という気分だ。
だから、水森はいわゆるめんどくさい彼女のような発言を繰り返した。
「先輩の行きたいとこ、連れてって」
「先輩の好きなもの、一緒に食べたい」
「先輩が決めて」
その度に、砂噛が頭を抱え、こちらの反応を見ながら提案をしてくるのを楽しく眺めていた。普段、余裕のある大人がこちらの言動で振り回されるのは小気味いい。
それでも、あんまりにも行き先の引き出しが少ないので、からかうように水森は言った。
「先輩、今まで、彼女が行きたいとこに、ついて行くだけ、みたいなデートしてたんじゃないスか」
「そんなことは……」
目を逸らした砂噛に、水森はちょっと機嫌を悪くした。自分で話を振ったくせに、他の人間のことに相手の気がそれたのが嫌だった。
「嘘つき」
膨れ面で言い放つと、砂噛は慌てて機嫌を取ろうとしてくる。その様子にちょっとだけ溜飲を下げて、水森はちょっと笑った。
「じゃ、次はどこ行きます?」
◇◇◇
砂噛の搾り出した行き先は、どれもこれも静かな場所だった。
最初に連れて行かれたのは美術館。現代アート展と銘打った展示は水森には、よくわからなかった。こういうの好きなんですか?と聞くと、たまに外星人の作品が混ざってて面白い、と返された。あまり会話をする雰囲気でもなかったので、小声で二、三言葉を交わす以外、会話がなかった。
昼食は落ち着いた雰囲気のカフェだった。ゆっくりとした音楽が流れていて、かちゃかちゃと食器の音が響くような静かさだ。一人で来ている客が多く、話が盛り上がる雰囲気でもない。お前が送ってきたURLにあったからここにした、と言われてしまえば文句は言えないが、ほぼ無言でした食事の味は、よく分からなかった。
その後は、本屋に連れて行かれた。お前、漫画好きだろ、と言われて、こちらを気遣っての選択にテンションが上がったものの、ここも静かだ。複雑な気持ちを抱えつつ、買えてなかった漫画の新刊を買って店を出た。
どこもかしこも、告白には向かない場所だった。
行けてもあと一箇所くらいかな、と水森は時計を見た。そろそろ、告白して欲しい。今か今かと待ち構えているのに、砂噛はちっとも決定的なことを言ってくれない。
もしかして、今日の自分の態度が嫌だったのだろうか。幻滅して、なかったことにしようとしているのだろうか。それとも、まさか本当にキスだけしたい特殊性癖なのだろうか。
疑問が湧いては消えて行く。水森は悶々と考えながら、先を歩く砂噛についていった。そういえば、どこへ向かっているのだろう。
水森が疑問を口にする前に、砂噛が足を止めた。
「ここでいいか?」
指差す先にあったのは、公園だ。原っぱと、多少の遊具があり、子供たちがちらほらと遊んでいるのが見える。
何がいいと聞かれているのか分からなかったが、水森はとりあえず頷いた。先輩に任せますと言った手前、断るという選択肢はないのだから。
◇◇◇
自販機でコーヒーを買って、公園のベンチに座る。寒いこの時期には缶コーヒーはカイロ代わりだ。水森はしばらく手の中で転がして暖をとった後、プルタブを開けて飲み始めた。
一方の砂噛は、難しい顔をしたまま缶コーヒーを両手で握りしめている。どうしたのかな、と見ていると大きくため息をついて話し始めた。
「オレだって、一応雰囲気とか考えた」
水森は砂噛が何を言っているか分からなかった。首を傾げていると、絞り出すように話しを続ける。
「けど、美術館もカフェも静かすぎるし、本屋は人が多すぎる。もう、ここしか思いつかない」
あれ、もしかして、告白の場所が公園になる言い訳聞かされてる?
水森はようやく合点がいった。それからにやけそうになる頬を必死に抑えた。水森は、告白は雰囲気がいいところがいいとは思っている。けれど、それを察して必死になっていたんだ、と思うと、なんだかどうでも良くなってしまった。
「分かってると思うけど、好きだ。付き合ってください」
愛の告白のはずなのに、砂噛は懺悔でもするように項垂れていた。水森は内心喜びでいっぱいだったが、それを押し殺してわざとそっけない態度をとる。
「うーん、どうしよっかな」
「……お前な」
地を這うような声で責められる。ほとんど気持ちを伝えあったような状態にも関わらず、ちゃんと告白しろ、と発破をかけたのは水森だ。ここで断ったら人でなしと言われても文句は言えない。ただ、彼にもはっきりさせたいことがあった。
「先輩、なんで酔ったふりしてたんスか?」
「最初に、お前が勘違いしたんだろ」
別に、ふりなんてしてない。そう言われれば、たしかにそうだ。酔っている、と明言されたことはない。だが。
「オレが勘違いしてるって、気が付いてましたよね?」
「……」
沈黙は肯定だ。水森に嘘は通じない。
砂噛は勘違いに便乗して、キスを繰り返していたことになる。それはもう、酔ったふりみたいなものだ。
言い逃れできないと悟ったのか、砂噛はぼそぼそと話し始めた。
「最初のは、まぁ、魔がさしたんだよ」
「魔?」
「キスできるチャンスだと思った」
帰ってから後悔したという。明らかに変な行動だったし、次からどう接しよう、と思い悩んでいたらしい。その割に、次の日会った時は普段通りの態度だったが。
「そうしたらお前が、オレのこと鉄みたいなもんだとか言い始めるし」
そう解釈してくれるなら、それで良しとした。変にこじれて避けられたくなかったと言う。それに、これを利用すれば、これからもキスできるんじゃないか。
「そう思った」
「夜道でキスだけ繰り返す特殊性癖野郎のできあがりじゃないっスか」
「……つーか、お前もなんで受け入れたんだよ!」
八つ当たりのように言い返されると、水森も言葉に詰まってしまう。フォローのつもりだったなんて、今となっては通じない言い訳だ。
「途中から、明らかに飲み会の頻度増やしたよな?」
「うっ……」
「する時も抵抗しない」
「ううっ……」
「嫌じゃなかった、って思っていいんだよな?」
いつの間にか会話の主導権を握られている。こちらは何も言い返せずにあたふたしているのに対して、向こうは余裕を取り戻しつつある。悔しい、今日は一日自分が優位だったのに。
まぁ、でもいいか、と水森は思い直した。最初から、告白への返答は決まっている。気になっていたことも確認できたし、ここ数ヶ月悩まされたことへの仕返しも今日のデートを奢ってもらったことでチャラだ。
「そうっスよ」
水森は真っ直ぐに砂噛のことを見つめ返した。
「嫌じゃなかったっス。先輩のことが好きだから」
できれば、ちゃんと付き合ってからしたかったけど。そうちくりと釘をさしてから、水森は微笑んだ。
「付き合いたいです、オレも」
向かい合う相手も微笑んだのを見て、水森は満足した。
◇◇◇
ようやく、きちんとした関係になれて、水森は肩の力が抜けるのを感じた。この数ヶ月、気持ちが落ち着くことはなかった。
冷めてしまった缶コーヒーを口に運ぶ。なんだか先ほどよりも甘く感じた。浮かれてんな、と自分でも思うが、幸せなんだから仕方ないだろ、とも思う。
そういえば、とふわふわした頭で思いついたことを口にする。
「先輩、オレ、キスしたことないんスよ」
「は?結構したよな?」
アバウトな返答に、水森はキッと先ほどできたばかりの恋人を睨みつけた。
「飲み会の後のアレのことなら九回っスけど、付き合う前だからカウントしません」
犬に噛まれたことにしてます、と言うと、砂噛は「犬って……」と複雑そうな表情で呟いた。
そんな相手を無視して、水森は話を進めた。
「今日までのは、全部ノーカンっス。次がオレのファーストキスです」
だから、次はムード作って、できれば噴水広場的ないい感じの場所でしたい。そう、伝えるつもりだった。
「ファーストキス、か」
独り言のように、砂噛は呟いてこちらをじっと見てくる。水森は叫び出したくなった。
今まで、夜道で何回も見てきた目だ。優しくて柔らかいような形をして、その癖奥底に獰猛な何かを感じさせる、そんな。昼の光の元で見ると、破壊力がすごい。
またこんな、適当な場所で。ほら、さっきからませた小学生がこっち見てるじゃないか。もっと、ムードある場所選んでくれよ。
色々言いたいことはあった。けれど、それを口にすることはできない。
そんな目で見られたら、水森にできるのは、目を瞑ることだけなのだから。
「……お前の行きたいとこでいい」
「えー?エスコートしてください。デートなんスから」
水森はニコニコと口角を上げているが、その目は笑っていない。
砂噛が頭を抱えながら、うんうん唸っているのを見て、ちょっと意地悪しすぎたかな、とも思うが自分がされてきたことに比べればかわいいわがままだろうと思い直した。
『先輩が、夜道で後輩にキスだけ繰り返して興奮する特殊性癖野郎じゃないなら、ちゃんと告ってください』
これが、水森が先日、砂噛に送ったメールである。普段割と絵文字を使うタイプの彼が、珍しく文字だけで連絡してきた時点で、なかなかに怒りが伝わってくる内容だった。その後、相次いで送ったURLは、『告白するなら、ここ!デートスポット五選』『初めてキスする時のエチケット』というネットの記事だ。圧がすごい。
要は、きちんと段階踏んでこい、と水森は言いたかった。なぁなぁで繰り返されたキスは、水森の心を乱したし、思いの重さみたいなものが感じられなかった。今までの恋人はどうだったか知らないけど、オレは「向こうから勝手に来る」なんてことはしないので、真正面からぶつかってきてください。そんな気持ちをこめた。
はたして、砂噛は水森の要望に応えた。謝罪も兼ねて全部奢るから、という文言と共に週末のデートにお誘いされて、今に至る。
砂噛がこちらに気を使っている、とは水森も感じている。たぶん、酔ったふりをしていた、という罪悪感がそうさせているのだろう。
ただ、待ち合わせ場所で合流して早々、「高校生が何をして遊ぶのか分からん」と宣言されたのには閉口した。彼なりに、こちらを優先する姿勢を見せてくれたのだと思うが、選択肢もなく丸投げされてもな、という気分だ。
だから、水森はいわゆるめんどくさい彼女のような発言を繰り返した。
「先輩の行きたいとこ、連れてって」
「先輩の好きなもの、一緒に食べたい」
「先輩が決めて」
その度に、砂噛が頭を抱え、こちらの反応を見ながら提案をしてくるのを楽しく眺めていた。普段、余裕のある大人がこちらの言動で振り回されるのは小気味いい。
それでも、あんまりにも行き先の引き出しが少ないので、からかうように水森は言った。
「先輩、今まで、彼女が行きたいとこに、ついて行くだけ、みたいなデートしてたんじゃないスか」
「そんなことは……」
目を逸らした砂噛に、水森はちょっと機嫌を悪くした。自分で話を振ったくせに、他の人間のことに相手の気がそれたのが嫌だった。
「嘘つき」
膨れ面で言い放つと、砂噛は慌てて機嫌を取ろうとしてくる。その様子にちょっとだけ溜飲を下げて、水森はちょっと笑った。
「じゃ、次はどこ行きます?」
◇◇◇
砂噛の搾り出した行き先は、どれもこれも静かな場所だった。
最初に連れて行かれたのは美術館。現代アート展と銘打った展示は水森には、よくわからなかった。こういうの好きなんですか?と聞くと、たまに外星人の作品が混ざってて面白い、と返された。あまり会話をする雰囲気でもなかったので、小声で二、三言葉を交わす以外、会話がなかった。
昼食は落ち着いた雰囲気のカフェだった。ゆっくりとした音楽が流れていて、かちゃかちゃと食器の音が響くような静かさだ。一人で来ている客が多く、話が盛り上がる雰囲気でもない。お前が送ってきたURLにあったからここにした、と言われてしまえば文句は言えないが、ほぼ無言でした食事の味は、よく分からなかった。
その後は、本屋に連れて行かれた。お前、漫画好きだろ、と言われて、こちらを気遣っての選択にテンションが上がったものの、ここも静かだ。複雑な気持ちを抱えつつ、買えてなかった漫画の新刊を買って店を出た。
どこもかしこも、告白には向かない場所だった。
行けてもあと一箇所くらいかな、と水森は時計を見た。そろそろ、告白して欲しい。今か今かと待ち構えているのに、砂噛はちっとも決定的なことを言ってくれない。
もしかして、今日の自分の態度が嫌だったのだろうか。幻滅して、なかったことにしようとしているのだろうか。それとも、まさか本当にキスだけしたい特殊性癖なのだろうか。
疑問が湧いては消えて行く。水森は悶々と考えながら、先を歩く砂噛についていった。そういえば、どこへ向かっているのだろう。
水森が疑問を口にする前に、砂噛が足を止めた。
「ここでいいか?」
指差す先にあったのは、公園だ。原っぱと、多少の遊具があり、子供たちがちらほらと遊んでいるのが見える。
何がいいと聞かれているのか分からなかったが、水森はとりあえず頷いた。先輩に任せますと言った手前、断るという選択肢はないのだから。
◇◇◇
自販機でコーヒーを買って、公園のベンチに座る。寒いこの時期には缶コーヒーはカイロ代わりだ。水森はしばらく手の中で転がして暖をとった後、プルタブを開けて飲み始めた。
一方の砂噛は、難しい顔をしたまま缶コーヒーを両手で握りしめている。どうしたのかな、と見ていると大きくため息をついて話し始めた。
「オレだって、一応雰囲気とか考えた」
水森は砂噛が何を言っているか分からなかった。首を傾げていると、絞り出すように話しを続ける。
「けど、美術館もカフェも静かすぎるし、本屋は人が多すぎる。もう、ここしか思いつかない」
あれ、もしかして、告白の場所が公園になる言い訳聞かされてる?
水森はようやく合点がいった。それからにやけそうになる頬を必死に抑えた。水森は、告白は雰囲気がいいところがいいとは思っている。けれど、それを察して必死になっていたんだ、と思うと、なんだかどうでも良くなってしまった。
「分かってると思うけど、好きだ。付き合ってください」
愛の告白のはずなのに、砂噛は懺悔でもするように項垂れていた。水森は内心喜びでいっぱいだったが、それを押し殺してわざとそっけない態度をとる。
「うーん、どうしよっかな」
「……お前な」
地を這うような声で責められる。ほとんど気持ちを伝えあったような状態にも関わらず、ちゃんと告白しろ、と発破をかけたのは水森だ。ここで断ったら人でなしと言われても文句は言えない。ただ、彼にもはっきりさせたいことがあった。
「先輩、なんで酔ったふりしてたんスか?」
「最初に、お前が勘違いしたんだろ」
別に、ふりなんてしてない。そう言われれば、たしかにそうだ。酔っている、と明言されたことはない。だが。
「オレが勘違いしてるって、気が付いてましたよね?」
「……」
沈黙は肯定だ。水森に嘘は通じない。
砂噛は勘違いに便乗して、キスを繰り返していたことになる。それはもう、酔ったふりみたいなものだ。
言い逃れできないと悟ったのか、砂噛はぼそぼそと話し始めた。
「最初のは、まぁ、魔がさしたんだよ」
「魔?」
「キスできるチャンスだと思った」
帰ってから後悔したという。明らかに変な行動だったし、次からどう接しよう、と思い悩んでいたらしい。その割に、次の日会った時は普段通りの態度だったが。
「そうしたらお前が、オレのこと鉄みたいなもんだとか言い始めるし」
そう解釈してくれるなら、それで良しとした。変にこじれて避けられたくなかったと言う。それに、これを利用すれば、これからもキスできるんじゃないか。
「そう思った」
「夜道でキスだけ繰り返す特殊性癖野郎のできあがりじゃないっスか」
「……つーか、お前もなんで受け入れたんだよ!」
八つ当たりのように言い返されると、水森も言葉に詰まってしまう。フォローのつもりだったなんて、今となっては通じない言い訳だ。
「途中から、明らかに飲み会の頻度増やしたよな?」
「うっ……」
「する時も抵抗しない」
「ううっ……」
「嫌じゃなかった、って思っていいんだよな?」
いつの間にか会話の主導権を握られている。こちらは何も言い返せずにあたふたしているのに対して、向こうは余裕を取り戻しつつある。悔しい、今日は一日自分が優位だったのに。
まぁ、でもいいか、と水森は思い直した。最初から、告白への返答は決まっている。気になっていたことも確認できたし、ここ数ヶ月悩まされたことへの仕返しも今日のデートを奢ってもらったことでチャラだ。
「そうっスよ」
水森は真っ直ぐに砂噛のことを見つめ返した。
「嫌じゃなかったっス。先輩のことが好きだから」
できれば、ちゃんと付き合ってからしたかったけど。そうちくりと釘をさしてから、水森は微笑んだ。
「付き合いたいです、オレも」
向かい合う相手も微笑んだのを見て、水森は満足した。
◇◇◇
ようやく、きちんとした関係になれて、水森は肩の力が抜けるのを感じた。この数ヶ月、気持ちが落ち着くことはなかった。
冷めてしまった缶コーヒーを口に運ぶ。なんだか先ほどよりも甘く感じた。浮かれてんな、と自分でも思うが、幸せなんだから仕方ないだろ、とも思う。
そういえば、とふわふわした頭で思いついたことを口にする。
「先輩、オレ、キスしたことないんスよ」
「は?結構したよな?」
アバウトな返答に、水森はキッと先ほどできたばかりの恋人を睨みつけた。
「飲み会の後のアレのことなら九回っスけど、付き合う前だからカウントしません」
犬に噛まれたことにしてます、と言うと、砂噛は「犬って……」と複雑そうな表情で呟いた。
そんな相手を無視して、水森は話を進めた。
「今日までのは、全部ノーカンっス。次がオレのファーストキスです」
だから、次はムード作って、できれば噴水広場的ないい感じの場所でしたい。そう、伝えるつもりだった。
「ファーストキス、か」
独り言のように、砂噛は呟いてこちらをじっと見てくる。水森は叫び出したくなった。
今まで、夜道で何回も見てきた目だ。優しくて柔らかいような形をして、その癖奥底に獰猛な何かを感じさせる、そんな。昼の光の元で見ると、破壊力がすごい。
またこんな、適当な場所で。ほら、さっきからませた小学生がこっち見てるじゃないか。もっと、ムードある場所選んでくれよ。
色々言いたいことはあった。けれど、それを口にすることはできない。
そんな目で見られたら、水森にできるのは、目を瞑ることだけなのだから。
