今日までノーカン!

それから、数ヶ月。水森は最初も合わせて通算七回、犬に噛まれた。
 比喩である。
 どういうわけかあの日以来、砂噛と一緒に飲み会に出ると、必ずキスされていた。最初にされた時と同様に軽くて短いものだが、キスはキスだ。
 砂噛と帰る方向が同じというのも良くなかった。一人、また一人と帰り道で別れていって、最後に二人残る。そうして別れ際にじっとこちらを見てくるのだ。まるでずっと前からのお約束のように、自然な流れで肩を掴まれて、ここまでくると、もう逃げられない。水森にできるのは目を瞑ることぐらいだ。
 何かしら理由をつけて、別の道を選ぶとか、途中で飲み会から抜け出して先に帰るとか、避けようと思えばいくらでもできたが、それはしなかった。
 先輩の愚行をフォローするのも後輩の務めだ。そう考えて、むしろ積極的に一緒に帰っている。以前から無意識に同じ飲み会を選んではいたが、最近では、砂噛が顔を出す飲み会にはなるべく出席するようにし始めた。これまでの倍以上の出席率だ。
 フォロー、そう、フォローだ。お世話になっている先輩が、別の部署の人に迷惑をかけないようにしているだけだ。決して、他の人にして欲しくない、なんて理由じゃない。
 水森はそうやって、自分に言い聞かせていた。

◇◇◇

 そうして、今日が八回目になるんだろうな、と水森は覚悟していた。
 いつもと同じように、砂噛と飲み会の帰り道を歩く。隣を歩く砂噛の足取りはしっかりしているし、話しかけるときちんとした返答が返ってくる。キスさえしてこなければ、普段と全く変わらない。
 最初にキスされたのは、秋と言っていい季節だったのに、いつの間にかめっきり寒くなっている。季節は移り変わったというのに、自分たちの妙な関係には変化が見えないことに、水森は少しだけ嫌気がさした。かと言って、どうしたい、という具体的な考えもないので、自分から何か行動したわけではない。ここ数ヶ月、ただキスされていただけだ。
 乾燥して、唇がヒリヒリ痛む。かさつくそこに、この後キスなのに、と考えてしまう。そんな自分に気がついて、水森は慌てて自分の考えを軌道修正する。いや、ただのフォローに、そんな気遣い必要ないだろ、と。
 そうこうしているうちに、見慣れたT字路が見えてくる。砂噛とはここで別方向に行くことになる。つまり、普段はここでキスされていた。
 八回目になれば慣れたか、と言われれば、全くそんなことはない。そこが近づくにつれて、緊張感が高まり、心臓がバクバクする。今か今かと待ち構えていると、砂噛の手が水森の肩にかかった。
 水森が抵抗しなくなったからか、最初の頃に比べて、肩にかかる手に強引さは感じなくなった。ただ、こちらを見る目が、徐々に熱量を増している気がする。直視していたら、気がつきたくない自分の気持ちまで引き摺り出されそうで、水森は慌てて目を閉じた。
 アルコールの香りが鼻を掠めると、すぐに唇に温かい感触を感じた。
「いたっ……!」
 いつもと変わらず、すぐに唇は離れていった。しかし、その程度の刺激でも割れた口唇には十分ダメージがある。思わず声をあげた水森に、砂噛は「どうした?」と問いかけてきた。
「乾燥で唇割れてて」
 舌を少し出して、傷口を舐める。鉄の味がして、血がでていたことに気がついた。
「血、ついちゃったかもしれないっス」
 口ゆすぎます?と水を差し出すが、砂噛は受け取ってくれない。酔っ払ってるから気にならないのかな、と腕を下ろすと、頬に冷たい感触を感じた。
「せ、先輩?」
 無言で頬を撫でられて、びくりとする。頬の手はそのままに、親指を唇に這わされて、ぞくぞくと背筋が震えるのを感じた。
「いたい、です」
 じくじくと痛む唇が熱をもったかのように感じる。酔って、いじわるしてきているのか。砂噛に抗議しようと目を合わすと、水森はそれ以上何も言えなくなってしまった。
 普段皮肉げに細められていることが多い目が、鋭さを増している。先ほども感じた熱っぽさを、より煮詰めたような、そんな視線に目を逸らせなくなってしまう。
 逃げられない。
 そんな言葉が頭に浮かんだ。だが、水森自身、逃げたいのかも分からなかった。
「お前さ……」
 砂噛が、問いかけるように口を開いた。何を聞かれる?水森は緊張からごくりと喉を鳴らした。
 不意に、辺りが明るくなる。一拍遅れて、車のライトだと気がついた。それに合わせて、ぱっと砂噛の手が頬から離れていった。
 車はすぐに通り過ぎて行き、また辺りは暗くなる。それでも、砂噛の手が水森の頬に戻ってくることはなかった。
「悪い、もう遅いな。おやすみ」
 いつもの別れ際のようにそれだけ言うと砂噛は踵を返した。水森はしばらくその場に立ち尽くし、去って行く後ろ姿を見ていたが、相手がこちらを振り返ることはなかった。
 何を聞くつもりだったのだろうか。具体的な内容は見当がつかなかったが、きっと今までの関係性が変わる何かだったはずだ。
 水森はそう感じていた。

◇◇◇

 あの夜から数日が経ち、唇の傷もすっかり塞がった。血の味を感じなくなったが、水森は憂鬱だった。
 仕事中の砂噛の態度はいつも通りで、まるであの夜なんてなかったかのようだ。せっかく、何か変わると思ったのに。水森はそれが不満だった。
 次に飲み会があったとして、酔った砂噛はこの前のことを覚えているのだろうか。少なくとも、酔っていない状態では記憶がないように見える。酔った時だけ都合よく、記憶を取り戻す、なんてことあるのだろうか。
 ただ、最初にキスしてからは、まるで決まった習慣のようにキスされている。そのことを考えると、酔った人間の行動にも一貫性がある気がする。酔ったことのない水森には、推測するしかなかった。
 
 その日、珍しく穂村と砂噛が定時前に帰宅の準備を始めていた。
「どこか行くんですか?」
 まさか、デートじゃないよな?、と不安な気持ちを押し殺しながら、水森が尋ねると穂村から回答があった。
「はい、会食です」
「かいしょく……?」
「地位のある顧客との飲み会だよ。学生には縁がないか」
 普段馴染みのない言葉に疑問符を浮かべていると、砂噛が呆れたように補足をした。
「え、そういうのって、早退していくもんなんですか?」
「そうですね、待ち合わせに間に合わないので」
「半分以上仕事みたいなもんなのに。社会人になるとこういうこと増えるからな」
 お前も覚悟しておけよ、と脅すように言われてしまう。この言い方だと、さすがについていきたい、とは言い出せなかった。
「せ、先輩。飲みすぎないようにしてくださいね」
「あ?……まぁ、失礼がない程度にしておくけど」
 ピンときていない様子の砂噛に、水森は歯痒い気持ちになった。酔うとキスするという悪癖を把握していないのだろう。よっぽど言ってやろうか、と思ったが、さすがに上司である穂村の前で指摘するのは憚られた。
 結局、それ以上の忠告ができないまま、水森は会社を出ていく二人を見送った。
 
◇◇◇

 その日の夜、水森は何もする気が起きずに早めにベッドに入った。
 さっさと眠ってしまおう、そう思って目を瞑るのに、一向に眠気はおとずれてくれなかった。
 どうにも落ち着かずに、スマホを眺めては消してを繰り返して、水森はため息をついた。砂噛の行った会食のことが気になってしかたなかった。
 先輩は、今日は誰かと一緒に帰ったのだろうか。酔っ払って、あの目を他人に見せたのだろうか。
 キスを、したのだろうか。
 嫌だなと、水森は素直に思えた。蓋をして、見ないふりをしていた気持ちに、初めて向き合うことができた。先輩のフォローだとか、自分に言い訳をしていたが、結局自分が嫌だから、と言う理由でしかなかった。
 なんで、嫌だと思うのかも、もう分かっている。キスを繰り返されるうちに、好きになってしまった。我ながらちょろすぎでは?と気になったが、きっかけなんて、そんなものかもしれない、と思い直す。
 砂噛が自分のことをどう思っているかは分からない。何かが変わると思ったあの日も、相手は酔っていた。もしかしたら、何か、も勘違いだったのかもしれない。
 そもそも、酒が入らないと、砂噛はあの目で水森を見ることはないのだ。自分と同じ気持ちであるはずがない。
「オレも、飲めたら良かったのに」
 ぽつりと出た独り言は、水森がずっと考えていたことだった。
 飲めたら、酔ったふりして砂噛にキスできる。あるいは、勢いに任せて、告白めいたことも言える。そんな、ずるい選択肢を思い浮かべては、自分のことが嫌になった。
 早く、次の飲み会が来ればいい。犬に噛まれたようなものでも、キスをできればそれで。そんな、不純な思いを抱えながら、水森は眠りについた。
 
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