丁寧ではない暮らし
水森は漫画を読むのが好きだ。ジャンルについては面白ければこだわらない。少年漫画、青年漫画、少女漫画と雑多に読んできたので、その知識を得たのがどこからだったかは定かではない。ともかく、せっかく同棲したのだから、やってみたいと思ったのだ。
『ご飯にする、お風呂にする、それともわ・た・し?』のお約束を。
思うのは自由だが、実行に移すとなると、意外とハードルが高い、ということを水森は計画段階で思い知った。
まず、恋人の帰宅時間がまちまちである。一応、夕飯は水森が担当することになっているので、その日食べない場合には連絡は来ることになっているが、何時に帰ってくるかは正確にはわからない。加えて、自分も同じ会社で働いているので、出社する日は万全の準備をしてお出迎え、なんてことはできない。出社しない日も、授業のスケジュールによっては、むしろ向こうの方が先に帰って来ているなんてこともある。
また、ご飯と風呂を選択肢に挙げると言うことは、先に風呂を沸かす必要がある。風呂が先に選択されればいいが、後の場合、追い焚きのガス料金もったいないな、節約の思考が働いてしまう。
そして、最後の難関は『それともわたし?』の部分だ。こちとら男性である。通常使わない器官を使って性行為を行う以上、それなりの準備が必要なのだ。問いかけした時点で、準備をしておく、と言うことは、イコールお誘いだし、なんかそれを選べと圧をかけているようにも感じる。いやまぁ、このお約束の文句自体がそもそも三択目を期待して行われるものではあるのだけども。
だいたい、前提として問いかけが発生しない、と水森は考えている。砂噛も水森も、夕食の前に風呂に入ることは基本的にないし、風呂入る前に衝動的に行為に及ぶなんてことは、最近では稀だ。聞くまでもなく、食事、風呂の順だし、三択目はまぁ、あっても最後だろう。
おそらく、全ての準備をして問いかけをしたところで、「いつも通りの順で」みたいな答えが返ってくる。下手したら無視されるかもしれない。そんな訳で、水森は計画段階での中止を決定した。
珍しく東京に雪が降ったその日、砂噛の帰りは遅かった。夕食を食べないという連絡がなかったので、二人分の夕食を準備したが、七時を過ぎた時点で先に食事を済ませた。別に、こんな日は初めてではない。仕事をしていれば、予想外のトラブルで帰宅が遅くなることは水森にも経験はあるし、連絡を入れられないような状況もあり得ると理解している。
ただ、二人で囲む食卓と違って、一人の食事は何だかとても静かに感じた。少し前に買ったダイニングテーブルは二人用で決して大きくないはずなのに、自分一人の皿を並べるとやたらと広い気がする。普段であれば、夕食が終わってもこの席でだらだらと二人で取り止めもない話をしている。水森はその時間が好きだった。一緒に住むようになって、帰宅時間を気にすることなく、好きな人と話していられることが、何とも贅沢なことだと今だに感じている。
夕食の片付けをして、テレビをつけても寂しさは消えなかった。何かが足りない、そんな気持ちになってしまう。虫の良い話だが、こんな日には無性に実家が恋しくなる。自分のものでない生活音、何かとかまってくる妹、住んでいたときにはわからなかったが、あの家には常に暖かさがあった。
水森はため息をついた。冷え込みのせいか、気持ちが暗くなっている。早めだが風呂に入ってしまおう。そう決めて脱衣所に向かった。
水森が風呂から上がったとき、ちょうど玄関のドアが開く音がした。待ち望んでいた恋人の帰宅に、彼はパジャマ姿のまま玄関に向かった。
「おかえりなさい……って、めっちゃ雪ついてる!」
砂噛の頭や肩は雪でところどころ白くなっている。さらさらとした粉雪のようで、すぐには溶けないが見た目から寒そうだ。
「傘はどうしたんスか?」
「会社に忘れた」
砂噛はうんざりした様子でコートについた雪を払っている。水森も、持っていたタオルで砂噛の髪の毛を拭く。思ったより濡れていないが、その冷たさに心配になってしまう。
「風呂沸いてますし、すぐ入ります?それとも、夕飯まだならそっち先にします?今日はシチューっス」
あわあわと自分の世話を焼く水森を見つめ、砂噛は眩しそうに目を細めた。そのまま、水森の頬に優しく触れる。冷たい手に、びくりと震え、水森は恋人を拭く手を止めた。
「先輩……?」
「まず、夕飯食って、次に風呂入って」
砂噛の指が水森の首をなぞるように降りていく。背筋がぞくぞくと震えるのは、きっと手の冷たさのせいではない。
「最後にお前を抱きたい」
その選択肢は入れてなかったはずだ。今日は準備もしてないし、これから風呂に入り直せって言うのか。つーか、あのお約束知ってるんだ。いろいろと言ってやりたいことがあったが、自分を見つめる砂噛の目が、あまりにも分かりやすく欲を宿していて水森は拒絶の言葉を口にできない。こんな風に直球で求められては、抗えるはずがない。
「じゅ、じゅんびしときます……」
触られた箇所は、冷たくなったはずなのに、やけに熱く感じた。
『ご飯にする、お風呂にする、それともわ・た・し?』のお約束を。
思うのは自由だが、実行に移すとなると、意外とハードルが高い、ということを水森は計画段階で思い知った。
まず、恋人の帰宅時間がまちまちである。一応、夕飯は水森が担当することになっているので、その日食べない場合には連絡は来ることになっているが、何時に帰ってくるかは正確にはわからない。加えて、自分も同じ会社で働いているので、出社する日は万全の準備をしてお出迎え、なんてことはできない。出社しない日も、授業のスケジュールによっては、むしろ向こうの方が先に帰って来ているなんてこともある。
また、ご飯と風呂を選択肢に挙げると言うことは、先に風呂を沸かす必要がある。風呂が先に選択されればいいが、後の場合、追い焚きのガス料金もったいないな、節約の思考が働いてしまう。
そして、最後の難関は『それともわたし?』の部分だ。こちとら男性である。通常使わない器官を使って性行為を行う以上、それなりの準備が必要なのだ。問いかけした時点で、準備をしておく、と言うことは、イコールお誘いだし、なんかそれを選べと圧をかけているようにも感じる。いやまぁ、このお約束の文句自体がそもそも三択目を期待して行われるものではあるのだけども。
だいたい、前提として問いかけが発生しない、と水森は考えている。砂噛も水森も、夕食の前に風呂に入ることは基本的にないし、風呂入る前に衝動的に行為に及ぶなんてことは、最近では稀だ。聞くまでもなく、食事、風呂の順だし、三択目はまぁ、あっても最後だろう。
おそらく、全ての準備をして問いかけをしたところで、「いつも通りの順で」みたいな答えが返ってくる。下手したら無視されるかもしれない。そんな訳で、水森は計画段階での中止を決定した。
珍しく東京に雪が降ったその日、砂噛の帰りは遅かった。夕食を食べないという連絡がなかったので、二人分の夕食を準備したが、七時を過ぎた時点で先に食事を済ませた。別に、こんな日は初めてではない。仕事をしていれば、予想外のトラブルで帰宅が遅くなることは水森にも経験はあるし、連絡を入れられないような状況もあり得ると理解している。
ただ、二人で囲む食卓と違って、一人の食事は何だかとても静かに感じた。少し前に買ったダイニングテーブルは二人用で決して大きくないはずなのに、自分一人の皿を並べるとやたらと広い気がする。普段であれば、夕食が終わってもこの席でだらだらと二人で取り止めもない話をしている。水森はその時間が好きだった。一緒に住むようになって、帰宅時間を気にすることなく、好きな人と話していられることが、何とも贅沢なことだと今だに感じている。
夕食の片付けをして、テレビをつけても寂しさは消えなかった。何かが足りない、そんな気持ちになってしまう。虫の良い話だが、こんな日には無性に実家が恋しくなる。自分のものでない生活音、何かとかまってくる妹、住んでいたときにはわからなかったが、あの家には常に暖かさがあった。
水森はため息をついた。冷え込みのせいか、気持ちが暗くなっている。早めだが風呂に入ってしまおう。そう決めて脱衣所に向かった。
水森が風呂から上がったとき、ちょうど玄関のドアが開く音がした。待ち望んでいた恋人の帰宅に、彼はパジャマ姿のまま玄関に向かった。
「おかえりなさい……って、めっちゃ雪ついてる!」
砂噛の頭や肩は雪でところどころ白くなっている。さらさらとした粉雪のようで、すぐには溶けないが見た目から寒そうだ。
「傘はどうしたんスか?」
「会社に忘れた」
砂噛はうんざりした様子でコートについた雪を払っている。水森も、持っていたタオルで砂噛の髪の毛を拭く。思ったより濡れていないが、その冷たさに心配になってしまう。
「風呂沸いてますし、すぐ入ります?それとも、夕飯まだならそっち先にします?今日はシチューっス」
あわあわと自分の世話を焼く水森を見つめ、砂噛は眩しそうに目を細めた。そのまま、水森の頬に優しく触れる。冷たい手に、びくりと震え、水森は恋人を拭く手を止めた。
「先輩……?」
「まず、夕飯食って、次に風呂入って」
砂噛の指が水森の首をなぞるように降りていく。背筋がぞくぞくと震えるのは、きっと手の冷たさのせいではない。
「最後にお前を抱きたい」
その選択肢は入れてなかったはずだ。今日は準備もしてないし、これから風呂に入り直せって言うのか。つーか、あのお約束知ってるんだ。いろいろと言ってやりたいことがあったが、自分を見つめる砂噛の目が、あまりにも分かりやすく欲を宿していて水森は拒絶の言葉を口にできない。こんな風に直球で求められては、抗えるはずがない。
「じゅ、じゅんびしときます……」
触られた箇所は、冷たくなったはずなのに、やけに熱く感じた。
