この恋の終わりを教えて
乗り込んだ時には気にならなかったが、密閉すると車内はタバコの臭いがした。運転手が吸うのだろう。ラジオから陽気な音楽が流れているが、車内の空気は澱んでいるように感じた。
「前にいるあの黒い車を追ってくれ」という、ドラマのような言葉に、運転手は嫌そうな顔をしつつ対応してくれている。面倒な客、という認識のためか話しかけられることはない。
「お前、次は止めるなよ」
ぽつりと言われた言葉に、水森は先ほどのことを言っていると理解した。
「止めませんよ」
嘘じゃない。乗り込む前に伝えたように、ちゃんと仕事はするつもりだ。しかし、砂噛は疑わしげな目でこちらを見てくる。
「どうだか。土壇場になって同情して、やっぱり納得できるまで時間を、なんて言うなよ」
皮肉な物言いに、水森は妙な安心感を覚えてしまう。ずっと暗く、どこか苛立っているようだったが、普段の砂噛が垣間見えた気がした。
「言いませんよ。そんなの意味ないです」
水森は重ねて伝えた。先ほどは衝動的に止めてしまったが、今は本当にその気はなかった。そんな時間は無駄だと気付いたからだ。
「どうした?急にドライだな」
冷めた様子の水森に違和感を感じたのか、砂噛が顔を覗き込んでくる。心配と不審が相まって複雑な表情をしているのが見えた。
ドライ、ね。水森は皮肉に感じた。ドライな対応というよりも、むしろより自分を重ねてしまい今の結論に至った。彼が自分だったら?そう考えると、どれだけ時間を与えられても無駄だ。そこに、正解なんてない。
「誰も、自分の感情が消えることに、納得なんてできるわけないっスよ」
水森の自嘲するような言葉に、砂噛は顔を歪めた。「……そうだな」と呟くと、それから彼が口を開くことはなかった。
◇◇◇
土地勘がないせいか、あるいは慣れていない雪道のせいか。男女の乗る車とタクシーの距離は徐々に詰まっていった。
少し走っただけなのにあたりの景色はみるみる簡素なものに変わっていく。窓から見える家の数が減り、白い雪原が続くようになったあたりで、車の揺れが強くなった。道がまともに舗装されていないようだ。
タクシー運転手は慣れたもので、動揺もせずに運転を続けている。だが、前を走る車はそうではない。程なくして、黒い車が停まった。
「ありゃ、雪掘って抜け出せないんだろうな」と運転手の呆れたような呟きが聞こえる。なんにせよ、追いかけっこは終わりのようだ。
「払っとけ」
「うわっ」
砂噛から乱雑に投げられた財布をなんとかキャッチする。彼は返事も待たずにタクシーから降りて行った。ため息を我慢して、水森は財布を開いた。
「お客さんたち、刑事か何か?」
支払いの最中、運転手が興味津々と言った様子で尋ねてくる。明らかに歳の若い水森だけになったので、話やすいと思ったのだろう。
「うーん、ちょっと違うんですよねー。説明が難しいっス」
わざと困ったように笑って濁すが、運転手は納得できないようだった。窓の外では、男女が雪原を駆けている。最後まで諦めないようだが、相手が悪い。砂噛はすぐに追いつくだろう。
その様子を運転手も見ていたのだろう。好奇心を隠さない目で話を続けられる。
「すぐに済むなら待っていようか?帰りも足が必要でしょう?」
その言葉に善意があるのは嘘ではない。だが、運転手の本音はこの捕物の経緯と自分たちの素性だろう。水森は笑って答えずに、代わりに領収書をお願いした。
運転手は不満げではあった。それでも、領収書としてレシートを差し出してくれる。それを受け取りながら、左耳に手を当てた。
「領収書ありがとうございます。あと、ごめんなさい」
水森はMESを起動した。仕方ないとは言え、人の記憶を改竄することに罪悪感を覚え、謝罪が口から出てしまった。
前まで、さほど気にならなかったのに。感傷的な自分の心を無理にでも切り替えるように、水森はドアを開けた。
◇◇◇
水森が三人に追いついた時には、砂噛が男を押さえ込んでいた。女が必死に砂噛を引き剥がそうとしているが、彼は気にしてもいない。三人の周りだけ、足跡ともがいたような跡で、雪面が黒く汚れている。
一瞬、全て終わってしまったのかと思ったが、男はまだ砂噛の下で暴れている。記憶の改竄はこれからのようだ。水森は駆け寄ると、砂噛に縋りついて懇願する女を引き剥がした。あらかじめ聞いていたように、女の力は弱く、水森でも押さえつけることはできた。ただ、いかんせん必死に動き続けるので、最後には後ろから抱きかかえるように腕を押さえた。
「終わりだな」
砂噛が呟いた言葉で、今から記憶を消すのだと水森は悟った。ついにこの時が来てしまった。記憶を消せば、きっと男の抵抗は無くなるだろう。
ああ、この男も、雛川も、オレも。みんな、ジュリエットなんだ。水森は漠然とそう思った。
恋人と引き裂かれ、自分の目の前から消えることに絶望し、最後には死んでしまう。そんな悲劇の登場人物。男も雛川も死ぬことはないが、記憶改竄は実質今の自分の死と言っていい。
誰も、望んで悲劇の登場人物になったわけではない。ただ、恋をしただけだ。どうしようもなく、好きになってしまった。そこに、未来がなくても引き返せなかった。
水森の頬を涙が伝った。自然と泣いていた。男を憐れんでいるのか、男に重ねた自分の立場を嘆いているのか、水森自身も分からなかった。
男の怒鳴り声が聞こえる。まだ諦めていないようで、必死にもがいているが、取り押さえている砂噛はびくともしない。
水森が押さえつけている女は、暴れ疲れたのか、それとも諦めたのか、先ほどから抵抗がない。これから行われる処置も分かっているようで、かすかに嗚咽が聞こえる。
「分からないくせに!」
男の声が響く。先ほども言われた言葉だ。彼女の事情も、引き裂かれる自分たちの絶望も、お前らには分からないだろ。男はそう言っている。彼の目には、自分たちは冷酷無比な政府の手先にしか見えないのだろう。
黙って男の罵倒を聞いていた砂噛が口を開いた。
「分かるよ」
その声は、この場にそぐわない、優しく響きを持っていた。だが、それに気付いたのはこの場では水森だけだった。砂噛の下で男は喚きながらなんとか抜け出そうともがき続けている。
「オレにも、分かる」
そう重ねて言うと、砂噛は一度目を閉じた。水森から見える横顔はどこか悲しそうで、ああ、やっぱりこの人も二人と自分たちを重ねていたのだと理解した。それでも、砂噛は自身のMESを操作した。
水森も先ほど行ったが、MESによる記憶の改竄は一瞬で行われる。あっけなく、目の前の男の記憶は消えていく。想いの強さも、積み重ねた時間の長さも関係なく、全て。
呆けた顔で、ぼんやりと辺りを見回す男。その様子を見て全てを悟ったのか、水森の腕の中で女の泣き声はより一層大きくなった。泣くというよりも、叫ぶに近い声量で発せられる言葉は、意味をなしておらずただただ彼女の絶望を示していた。
女の顔は、涙と鼻水でぐしゃぐしゃに崩れていた。鳴き声に近い叫びも相まって、儚げな美人の面影はすっかりなくなっている。
聞いているこちらも辛くなるような叫びを聞きながら、水森は男から目を離せなかった。記憶を失って、呆けている男に残されたものは何もない。
それでも、水森は思ってしまった。
羨ましいと。
そうして、何かがはまるように、自身の心が決まったのを感じた。
◇◇◇
話したいことがある、と砂噛の泊まる部屋に呼ばれたのはその晩のことだった。
泣きじゃくる女と、心ここに在らずといった様子の男を政府の人間に引き渡し、二人の仕事は終わった。帰るには遅い時間だったので、今日はホテルに宿泊し明日の朝早くにこの地を立つことになった。
水森は自分を呼んだ時の砂噛の表情を思い出して、憂鬱になった。何か思い詰めたような、そんな顔だった。先ほど、男の記憶を消したことが堪えているのかもしれない。未来がない関係に嫌気がさして別れを切り出される可能性が高い。
どれだけ気分が落ち込んでも、水森は言われた通りに部屋に向かった。逃げるつもりはなかった。砂噛が何を考え、どんな結論を出したのか、きちんと向き合うつもりだ。
ただ、別れてやることはできない。水森は自身の中にあるわがままで自分本位な考えに嫌気がさした。自分の中のもやもやは、あの男女を見ているうちに決着がついた。そうなってしまった今、恋人の手を離すなんて考えられなかった。いつか来る別れに怯えていたが、そのいつかは今じゃない、と勝手に思っていた。
泣き喚いてでも、別れを撤回させる。そう心に決めて、水森は砂噛の部屋をノックした。
「お疲れ」
「……お疲れ様です」
出迎えてくれた砂噛に着いて、奥に進む。部屋の中はひんやりとしており、暖房の効きが悪い。狭い部屋に、椅子もないので、どうしたものかと突っ立っていると、ベッドに座るように促された。
普段であればひっついて座るが、微妙な空気感の中そんなことはできず、少し距離を空けて座った。ぎしりと、ベッドのスプリングが軋む。重たい空気も相まって、妙に不快に感じた。
砂噛は、口を開けては閉めてを繰り返している。なんと話し出していいか、決めかねているようだ。気まずい沈黙が嫌で、水森はこの空気を壊したくなった。
「先輩、話、聞くのはいいんスけど、寒いです」
「悪い、暖房強くするか」
立ち上がろうとする砂噛の服の裾を掴み、制止する。水森が求めているのは、そんなことではない。もっと、優しく、温かいものだ。
「いや、いいんで。抱っこしてほしいっス」
「……真面目な話をしたいんだが」
呆れた顔の砂噛に、水森は言い募る。
「抱いてほしいっつーわけじゃないんで、そのくらい、いいじゃないっスか。まだ恋人なんだから」
まだ、という部分に砂噛の眉が動いた。暗に、これからの話を覚悟して来た、と伝わったらしい。恋人の目が揺れるのを見て、水森の心はざわついた。この出張に来てから、砂噛の目は負の感情ばかり示す。鉄の言っていた甘ったるい目線なんて、見せてくれない。
それでも、水森は努めて明るい声をだした。砂噛の気持ちが、少しでも自分に残っているうちは、別れてやるつもりなんてなかった。
「寒いし、ね?」
ダメ押しするように、水森は砂噛に向けて腕を広げた。手が震えているのは、寒さのせいだけではない。もし、ここで拒絶されたらと考えると怖くなってしまう。強がってここまで来たが、本当は不安でいっぱいだ。
そんな様子に気づいてか、恋人は泣きそうな顔をし、それでも水森を抱きしめた。そのまま、体重をかけられて、二人してベッドに沈む。自分を抱きしめる砂噛の腕が、いつものように強く囲い込んでくるのが嬉しい。水森は恋人の胸に頬擦りするように顔をうずめた。
砂噛の長い指が、水森の髪を漉くように動く。決して柔らかくもなく、長くもない髪だが、年上の恋人は時折撫でるように髪を触ることがある。こそばゆい感触に目を細めながら、水森は穏やかに流れる時間に自分の心が凪いでいくのを感じた。優しい手つきはあんまりにもいつも通りで、愛されていると実感した。
「もしも」
頭上から聞こえてきた砂噛の声に、水森は顔を上げようとした。しかし、髪を漉いていた手が、水森の後頭部をやんわりと抑え込む。抱き込まれたまま聞け、ということのようだ。
「もしもお前と別れる時がきたら、その時はきっとお前だけ記憶が消されることになる」
「……今日のように?」
「ああ」
取り押さえた女は、記憶をそのまま持って絶望したまま連れて行かれた。文明レベルが向こうの方が上なので、別段地球のことを忘れさせる必要はないと言う。
「そうなった時、お前のこの時間は全て消える。お前の、若くて貴重な時間は、全て無駄になるんだ」
あの男のように、と昼間の男を引き合いに出される。水森は砂噛の手に、より一層力が入ったのを感じた。
「……なぁ、嫌になってないか?ある日急に理不尽な別れが来るとも限らない関係だ。お前が望むなら、ここで終わりにしてもいい」
砂噛の声は感情を押し殺したように淡々としていた。予想通り、別れを仄めかされた。だが、水森は嬉しくなってしまった。最後の言葉はまるっきり嘘だ。終わりにしてもいいなんて、砂噛はこれっぽっちも思っていない。
ただ、水森に対して、時間を奪っていると感じているのは本当のようで、そうした罪悪感からの言葉だと理解した。そう思ったら、堪らなくなってしまった。一体どんな顔して言っているんだ。それが気になって仕方がなかった。
「先輩、顔見せてください」
「……なんで」
「いいから」
水森の強気な声に、砂噛は戸惑いながらも大人しく従った。腕の力を緩められ、水森は砂噛の横で目を合わせるように寝転んだ。
砂噛の目は複雑そうに揺れていた。不安と、罪悪感と、戸惑いと。いつも頼りになる恋人が、自分の返事を待って、ここまで心を乱している。その事実だけで、十分だった。
「別れませんよ、絶対」
水森ははっきりと自分の思いを口にした。ずっと感じていた、感情が消えることへの恐怖は、もはやなくなっていた。「そうか」とつぶやいた砂噛の表情は少し安心したように緩められた。それでも、本当にいいのか?と確認してくるのは、優しさからだろう。
水森は自分の口角が上がるのを感じた。こんなに大切にされて、別れられるはずがない。
「先輩、オレ、あの男の人を見て、羨ましいって思ったんスよ」
「羨ましい?」
怪訝な表情の恋人に、今度は水森の方から抱きついた。自分よりも広い背に手を回すと、愛おしさと安心感でいっぱいになる。
「あの人の恋人、泣いてましたよね」
「……そうだな」
話が読めないらしく、砂噛の声は少し固いままだ。それでも、水森の背に手を回すと、同じように抱きしめ返してくれる。それが嬉しくて、水森は砂噛の首元に顔をうずめた。
「絶望させるくらい、相手の心に残れるのが、羨ましかったんです」
あの女性のように激しく、相澤のように静かに、ずっと引きずっていてくれるなら。そんな存在になれるのであれば、きっと。
「オレの記憶が消えても、先輩の中に残るなら無駄じゃないっスよ」
断言した水森の言葉に、砂噛は少しの間沈黙した。恋人の言葉の意味を考えているようだった。
「……そういうものか?記憶が残るオレが、なんかずるくないか?」
「ずるいって」
水森は笑ってしまった。どうにも砂噛には自分の言葉の重みが伝わっていない。自分勝手で傲慢で、水森にしてみればこちらの方がずるいくらいのつもりだった。顔を上げて目を合わせると、納得いっていない、と言う表情で砂噛はこちらを見ている。
それならば、ダメおしで約束してもらおうじゃないか。水森はわざと甘えた声を出した。
「先輩、そんなに気になるんだったら、一つだけ約束してくださいよ」
水森の提案する約束に、砂噛は一瞬虚をつかれたように目を見開いた。だが、次の瞬間には苦笑し「分かった、約束な」と水森の頭を撫でた。
「前にいるあの黒い車を追ってくれ」という、ドラマのような言葉に、運転手は嫌そうな顔をしつつ対応してくれている。面倒な客、という認識のためか話しかけられることはない。
「お前、次は止めるなよ」
ぽつりと言われた言葉に、水森は先ほどのことを言っていると理解した。
「止めませんよ」
嘘じゃない。乗り込む前に伝えたように、ちゃんと仕事はするつもりだ。しかし、砂噛は疑わしげな目でこちらを見てくる。
「どうだか。土壇場になって同情して、やっぱり納得できるまで時間を、なんて言うなよ」
皮肉な物言いに、水森は妙な安心感を覚えてしまう。ずっと暗く、どこか苛立っているようだったが、普段の砂噛が垣間見えた気がした。
「言いませんよ。そんなの意味ないです」
水森は重ねて伝えた。先ほどは衝動的に止めてしまったが、今は本当にその気はなかった。そんな時間は無駄だと気付いたからだ。
「どうした?急にドライだな」
冷めた様子の水森に違和感を感じたのか、砂噛が顔を覗き込んでくる。心配と不審が相まって複雑な表情をしているのが見えた。
ドライ、ね。水森は皮肉に感じた。ドライな対応というよりも、むしろより自分を重ねてしまい今の結論に至った。彼が自分だったら?そう考えると、どれだけ時間を与えられても無駄だ。そこに、正解なんてない。
「誰も、自分の感情が消えることに、納得なんてできるわけないっスよ」
水森の自嘲するような言葉に、砂噛は顔を歪めた。「……そうだな」と呟くと、それから彼が口を開くことはなかった。
◇◇◇
土地勘がないせいか、あるいは慣れていない雪道のせいか。男女の乗る車とタクシーの距離は徐々に詰まっていった。
少し走っただけなのにあたりの景色はみるみる簡素なものに変わっていく。窓から見える家の数が減り、白い雪原が続くようになったあたりで、車の揺れが強くなった。道がまともに舗装されていないようだ。
タクシー運転手は慣れたもので、動揺もせずに運転を続けている。だが、前を走る車はそうではない。程なくして、黒い車が停まった。
「ありゃ、雪掘って抜け出せないんだろうな」と運転手の呆れたような呟きが聞こえる。なんにせよ、追いかけっこは終わりのようだ。
「払っとけ」
「うわっ」
砂噛から乱雑に投げられた財布をなんとかキャッチする。彼は返事も待たずにタクシーから降りて行った。ため息を我慢して、水森は財布を開いた。
「お客さんたち、刑事か何か?」
支払いの最中、運転手が興味津々と言った様子で尋ねてくる。明らかに歳の若い水森だけになったので、話やすいと思ったのだろう。
「うーん、ちょっと違うんですよねー。説明が難しいっス」
わざと困ったように笑って濁すが、運転手は納得できないようだった。窓の外では、男女が雪原を駆けている。最後まで諦めないようだが、相手が悪い。砂噛はすぐに追いつくだろう。
その様子を運転手も見ていたのだろう。好奇心を隠さない目で話を続けられる。
「すぐに済むなら待っていようか?帰りも足が必要でしょう?」
その言葉に善意があるのは嘘ではない。だが、運転手の本音はこの捕物の経緯と自分たちの素性だろう。水森は笑って答えずに、代わりに領収書をお願いした。
運転手は不満げではあった。それでも、領収書としてレシートを差し出してくれる。それを受け取りながら、左耳に手を当てた。
「領収書ありがとうございます。あと、ごめんなさい」
水森はMESを起動した。仕方ないとは言え、人の記憶を改竄することに罪悪感を覚え、謝罪が口から出てしまった。
前まで、さほど気にならなかったのに。感傷的な自分の心を無理にでも切り替えるように、水森はドアを開けた。
◇◇◇
水森が三人に追いついた時には、砂噛が男を押さえ込んでいた。女が必死に砂噛を引き剥がそうとしているが、彼は気にしてもいない。三人の周りだけ、足跡ともがいたような跡で、雪面が黒く汚れている。
一瞬、全て終わってしまったのかと思ったが、男はまだ砂噛の下で暴れている。記憶の改竄はこれからのようだ。水森は駆け寄ると、砂噛に縋りついて懇願する女を引き剥がした。あらかじめ聞いていたように、女の力は弱く、水森でも押さえつけることはできた。ただ、いかんせん必死に動き続けるので、最後には後ろから抱きかかえるように腕を押さえた。
「終わりだな」
砂噛が呟いた言葉で、今から記憶を消すのだと水森は悟った。ついにこの時が来てしまった。記憶を消せば、きっと男の抵抗は無くなるだろう。
ああ、この男も、雛川も、オレも。みんな、ジュリエットなんだ。水森は漠然とそう思った。
恋人と引き裂かれ、自分の目の前から消えることに絶望し、最後には死んでしまう。そんな悲劇の登場人物。男も雛川も死ぬことはないが、記憶改竄は実質今の自分の死と言っていい。
誰も、望んで悲劇の登場人物になったわけではない。ただ、恋をしただけだ。どうしようもなく、好きになってしまった。そこに、未来がなくても引き返せなかった。
水森の頬を涙が伝った。自然と泣いていた。男を憐れんでいるのか、男に重ねた自分の立場を嘆いているのか、水森自身も分からなかった。
男の怒鳴り声が聞こえる。まだ諦めていないようで、必死にもがいているが、取り押さえている砂噛はびくともしない。
水森が押さえつけている女は、暴れ疲れたのか、それとも諦めたのか、先ほどから抵抗がない。これから行われる処置も分かっているようで、かすかに嗚咽が聞こえる。
「分からないくせに!」
男の声が響く。先ほども言われた言葉だ。彼女の事情も、引き裂かれる自分たちの絶望も、お前らには分からないだろ。男はそう言っている。彼の目には、自分たちは冷酷無比な政府の手先にしか見えないのだろう。
黙って男の罵倒を聞いていた砂噛が口を開いた。
「分かるよ」
その声は、この場にそぐわない、優しく響きを持っていた。だが、それに気付いたのはこの場では水森だけだった。砂噛の下で男は喚きながらなんとか抜け出そうともがき続けている。
「オレにも、分かる」
そう重ねて言うと、砂噛は一度目を閉じた。水森から見える横顔はどこか悲しそうで、ああ、やっぱりこの人も二人と自分たちを重ねていたのだと理解した。それでも、砂噛は自身のMESを操作した。
水森も先ほど行ったが、MESによる記憶の改竄は一瞬で行われる。あっけなく、目の前の男の記憶は消えていく。想いの強さも、積み重ねた時間の長さも関係なく、全て。
呆けた顔で、ぼんやりと辺りを見回す男。その様子を見て全てを悟ったのか、水森の腕の中で女の泣き声はより一層大きくなった。泣くというよりも、叫ぶに近い声量で発せられる言葉は、意味をなしておらずただただ彼女の絶望を示していた。
女の顔は、涙と鼻水でぐしゃぐしゃに崩れていた。鳴き声に近い叫びも相まって、儚げな美人の面影はすっかりなくなっている。
聞いているこちらも辛くなるような叫びを聞きながら、水森は男から目を離せなかった。記憶を失って、呆けている男に残されたものは何もない。
それでも、水森は思ってしまった。
羨ましいと。
そうして、何かがはまるように、自身の心が決まったのを感じた。
◇◇◇
話したいことがある、と砂噛の泊まる部屋に呼ばれたのはその晩のことだった。
泣きじゃくる女と、心ここに在らずといった様子の男を政府の人間に引き渡し、二人の仕事は終わった。帰るには遅い時間だったので、今日はホテルに宿泊し明日の朝早くにこの地を立つことになった。
水森は自分を呼んだ時の砂噛の表情を思い出して、憂鬱になった。何か思い詰めたような、そんな顔だった。先ほど、男の記憶を消したことが堪えているのかもしれない。未来がない関係に嫌気がさして別れを切り出される可能性が高い。
どれだけ気分が落ち込んでも、水森は言われた通りに部屋に向かった。逃げるつもりはなかった。砂噛が何を考え、どんな結論を出したのか、きちんと向き合うつもりだ。
ただ、別れてやることはできない。水森は自身の中にあるわがままで自分本位な考えに嫌気がさした。自分の中のもやもやは、あの男女を見ているうちに決着がついた。そうなってしまった今、恋人の手を離すなんて考えられなかった。いつか来る別れに怯えていたが、そのいつかは今じゃない、と勝手に思っていた。
泣き喚いてでも、別れを撤回させる。そう心に決めて、水森は砂噛の部屋をノックした。
「お疲れ」
「……お疲れ様です」
出迎えてくれた砂噛に着いて、奥に進む。部屋の中はひんやりとしており、暖房の効きが悪い。狭い部屋に、椅子もないので、どうしたものかと突っ立っていると、ベッドに座るように促された。
普段であればひっついて座るが、微妙な空気感の中そんなことはできず、少し距離を空けて座った。ぎしりと、ベッドのスプリングが軋む。重たい空気も相まって、妙に不快に感じた。
砂噛は、口を開けては閉めてを繰り返している。なんと話し出していいか、決めかねているようだ。気まずい沈黙が嫌で、水森はこの空気を壊したくなった。
「先輩、話、聞くのはいいんスけど、寒いです」
「悪い、暖房強くするか」
立ち上がろうとする砂噛の服の裾を掴み、制止する。水森が求めているのは、そんなことではない。もっと、優しく、温かいものだ。
「いや、いいんで。抱っこしてほしいっス」
「……真面目な話をしたいんだが」
呆れた顔の砂噛に、水森は言い募る。
「抱いてほしいっつーわけじゃないんで、そのくらい、いいじゃないっスか。まだ恋人なんだから」
まだ、という部分に砂噛の眉が動いた。暗に、これからの話を覚悟して来た、と伝わったらしい。恋人の目が揺れるのを見て、水森の心はざわついた。この出張に来てから、砂噛の目は負の感情ばかり示す。鉄の言っていた甘ったるい目線なんて、見せてくれない。
それでも、水森は努めて明るい声をだした。砂噛の気持ちが、少しでも自分に残っているうちは、別れてやるつもりなんてなかった。
「寒いし、ね?」
ダメ押しするように、水森は砂噛に向けて腕を広げた。手が震えているのは、寒さのせいだけではない。もし、ここで拒絶されたらと考えると怖くなってしまう。強がってここまで来たが、本当は不安でいっぱいだ。
そんな様子に気づいてか、恋人は泣きそうな顔をし、それでも水森を抱きしめた。そのまま、体重をかけられて、二人してベッドに沈む。自分を抱きしめる砂噛の腕が、いつものように強く囲い込んでくるのが嬉しい。水森は恋人の胸に頬擦りするように顔をうずめた。
砂噛の長い指が、水森の髪を漉くように動く。決して柔らかくもなく、長くもない髪だが、年上の恋人は時折撫でるように髪を触ることがある。こそばゆい感触に目を細めながら、水森は穏やかに流れる時間に自分の心が凪いでいくのを感じた。優しい手つきはあんまりにもいつも通りで、愛されていると実感した。
「もしも」
頭上から聞こえてきた砂噛の声に、水森は顔を上げようとした。しかし、髪を漉いていた手が、水森の後頭部をやんわりと抑え込む。抱き込まれたまま聞け、ということのようだ。
「もしもお前と別れる時がきたら、その時はきっとお前だけ記憶が消されることになる」
「……今日のように?」
「ああ」
取り押さえた女は、記憶をそのまま持って絶望したまま連れて行かれた。文明レベルが向こうの方が上なので、別段地球のことを忘れさせる必要はないと言う。
「そうなった時、お前のこの時間は全て消える。お前の、若くて貴重な時間は、全て無駄になるんだ」
あの男のように、と昼間の男を引き合いに出される。水森は砂噛の手に、より一層力が入ったのを感じた。
「……なぁ、嫌になってないか?ある日急に理不尽な別れが来るとも限らない関係だ。お前が望むなら、ここで終わりにしてもいい」
砂噛の声は感情を押し殺したように淡々としていた。予想通り、別れを仄めかされた。だが、水森は嬉しくなってしまった。最後の言葉はまるっきり嘘だ。終わりにしてもいいなんて、砂噛はこれっぽっちも思っていない。
ただ、水森に対して、時間を奪っていると感じているのは本当のようで、そうした罪悪感からの言葉だと理解した。そう思ったら、堪らなくなってしまった。一体どんな顔して言っているんだ。それが気になって仕方がなかった。
「先輩、顔見せてください」
「……なんで」
「いいから」
水森の強気な声に、砂噛は戸惑いながらも大人しく従った。腕の力を緩められ、水森は砂噛の横で目を合わせるように寝転んだ。
砂噛の目は複雑そうに揺れていた。不安と、罪悪感と、戸惑いと。いつも頼りになる恋人が、自分の返事を待って、ここまで心を乱している。その事実だけで、十分だった。
「別れませんよ、絶対」
水森ははっきりと自分の思いを口にした。ずっと感じていた、感情が消えることへの恐怖は、もはやなくなっていた。「そうか」とつぶやいた砂噛の表情は少し安心したように緩められた。それでも、本当にいいのか?と確認してくるのは、優しさからだろう。
水森は自分の口角が上がるのを感じた。こんなに大切にされて、別れられるはずがない。
「先輩、オレ、あの男の人を見て、羨ましいって思ったんスよ」
「羨ましい?」
怪訝な表情の恋人に、今度は水森の方から抱きついた。自分よりも広い背に手を回すと、愛おしさと安心感でいっぱいになる。
「あの人の恋人、泣いてましたよね」
「……そうだな」
話が読めないらしく、砂噛の声は少し固いままだ。それでも、水森の背に手を回すと、同じように抱きしめ返してくれる。それが嬉しくて、水森は砂噛の首元に顔をうずめた。
「絶望させるくらい、相手の心に残れるのが、羨ましかったんです」
あの女性のように激しく、相澤のように静かに、ずっと引きずっていてくれるなら。そんな存在になれるのであれば、きっと。
「オレの記憶が消えても、先輩の中に残るなら無駄じゃないっスよ」
断言した水森の言葉に、砂噛は少しの間沈黙した。恋人の言葉の意味を考えているようだった。
「……そういうものか?記憶が残るオレが、なんかずるくないか?」
「ずるいって」
水森は笑ってしまった。どうにも砂噛には自分の言葉の重みが伝わっていない。自分勝手で傲慢で、水森にしてみればこちらの方がずるいくらいのつもりだった。顔を上げて目を合わせると、納得いっていない、と言う表情で砂噛はこちらを見ている。
それならば、ダメおしで約束してもらおうじゃないか。水森はわざと甘えた声を出した。
「先輩、そんなに気になるんだったら、一つだけ約束してくださいよ」
水森の提案する約束に、砂噛は一瞬虚をつかれたように目を見開いた。だが、次の瞬間には苦笑し「分かった、約束な」と水森の頭を撫でた。
