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かみおとこ

「ここは……」
 自分は楽園に通じる扉を背に仲間と共に故郷へと戻り、ひと時の休息を取ろうと眠ったはずだ、と男は思った。
 無機質な空間にせせらぎが聞こえ、一本の川が流々と先まで続いている。
 男はその場所に見覚えがあった。
 そして川沿いに見える対岸へと渡る桟橋。
 あの桟橋の向こうに何があったかなど、とうに分かりきっていた。
 もうこの場所に用は無いというのに。
 見知った顔を殺した罪悪感は、ゲームだと楽しんで高みの見物をしていた相手に対する怒りで掻き消えてしまっていた。
 それが世界をしがらみから切り離す唯一の方法だったのだということも、よく分かっている。
 雑多な足音を立てて桟橋を渡れば、そこには洒落たヴィンテージのテーブルがあった。そして手付かずの未開封のワインと空のグラスがひとつ。
 その傍らに、まるで主を待つ様に椅子が鎮座していた。
 男はその椅子に乱雑に座って深い溜め息をついた。
 しばらくそのまま色々と思考を巡らせていると、不意にボトルがひょいと浮いて男がぎょっとして見上げれば、そこにはシルクハットを被った長い金髪の男がいた。
「祝杯の盃にワインはいかがですか?」
 ことりと首を傾げて微笑むシルクハットの男の肩から、しゃらりと音が鳴りそうなほど美々しい金の髪が流れ落ちる。
 それを少しでも綺麗だと思ってしまった自分を隠すように、男はテーブルに頬杖をついて悪態をついた。
「なんで、てめぇがいんだ」
「ごきげんよう。先程ぶりですかね」
「死んだはずだろ」
 男がそうはっきりと吐き捨てればシルクハットの男は、益々笑みを深めて手にしたボトルを静かに置く。
「実態は、の話でしょう。物質世界では事実、私はバラバラにされました。しかし神という概念は精神世界にも及ぶものです。あなたが私を忘れない限り、私はあなたに干渉し続けられるのですよ」
 指先を揃えた手を胸に置いて、浮かべた笑みは目が笑っていなかった。宝石の様に煌めく金の瞳は真っ直ぐ向けたまま男を捕らえて離さない。
 冗談ではないと、男はその視線を外すと退けるようにしっしっと振り払った。
「夢にまでお前が出てくるとか、迷惑この上ねぇな」
「忘れたくても忘れられない。なんと叙情的で美しいことでしょうか」
 胸を押さえる手とは反対の手を仰々しく天へと向けて、シルクハットの男は吟遊詩人のように高らかな声を上げた。その陶酔する姿にもう一方の男は横目で一瞥すると大きな溜め息をつく。
「はっ、反吐が出るぜ」
「まぁ、あなたには美しい言葉よりも猛々しい武器の方がお似合いなんて、分かっていますとも。しかしここでは私との対話にそんな不粋なものなど持ち込ませんよ」
「っ!」
 突然、シルクハットの男に至近距離から顔を覗き込まれ、その瞳を合わせた瞬間ぐらりと頭が揺れた気がした。
 そして伸ばされた腕を避けることもできずにその胸へ抱き込まれた。
「なに、しやがる!くそっ、身体が動かねぇ?!」
「無駄ですよ。自身の意志すらままならない夢という精神世界では、あなた方人間は生まれたばかりの赤子同然だ」
 身体は動かせず、その代わり自由に動くのは唇のみ。しかしどんなに声を荒げようがシルクハットの男の腕は緩まなかった。
 穏やかな胸の鼓動とくすくすと漏らす笑い声が伝わり、子供をあやすように背中をとんとんと叩かれて男の背筋に悪寒が走る。
「やめろ、気色悪ぃ!」
「相も変わらず口が悪いですねぇ。ああ、しかし何もできずになすがまま、というあなたも愛いですね。あの時、私の創ってきたものを、そして最上階にいた私をあなたが踏破した時は非常に愉快でした。私はあなたという唯一のヒーローを評価しているのですよ」
 背中を叩く音と優しい声音に男は遂に言葉を紡ぐこともできなくなり、意識は深みに嵌る様に段々と微睡んでいく。
 耳触りの良い称賛の言葉がじわりと心に滲んだ時、額に柔らかな唇が触れてからゆっくりと顔を覗き込まれる。
「これから先、あなたが手に入れた世界は私の手から解放された世界です。どうぞ、その世界を悔いのないよう謳歌なさい。生きとし生けるものの命は光の瞬きの如く儚いのだから」
 金の瞳の奥にぱちりと煌めく光が垣間見えた瞬間、微笑んだままのシルクハットの男に胸を押されて男はそのまま椅子の上から落ちていった。
「私はいつでもここで見守っています。最愛の子よ、また会いましょう」
 身体は地面をすり抜けて暗闇へと沈み、凛とした声が頭の中で反響した。
 それは確かに神からの告白の言葉だった。
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