君の背中
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8.世界の片鱗
2月17日、後楽園ホール。
奈々は、テレビでは見たことがあっても、生でボクシングを見るのは初めてだった。
手には木村園芸の店長…つまり木村達也の父親から買ったチケットを握りしめている。
木村は為す術無く、間柴の攻撃の前にただ立ち尽くすのみ。
1ラウンドごとに静まり返って行く会場。
「死刑執行」と謳われた試合にふさわしい、独特の緊張感と湿り気が会場を支配していた。
「毎日、同じ事を繰り返し繰り返し練習するんだそうだ。何千何万と繰り返した練習が、試合に生きるんだって言ってたよ」
でも、全く歯が立たないじゃない。
ずっと殴られてばっかりじゃない。
ずっと耐えてきた木村がとうとうダウン。
会場はみな声を発するのも忘れ「処刑」の時を待っていた。
そこに起死回生の、一発。
まさかの逆転劇。
リングで間柴を見下ろす木村の拳に、“それ”は確かにあった。
毎日、毎日、何千、何万と、繰り返した証が。
最後は結局、間柴の方に軍配が上がった。
しかし会場からは、木村に対する割れんばかりの拍手が起こっている。
もちろん奈々も無意識に手を叩いていた。
と同時に、自分の心に鉛のような重たい感触を味わった。
「これが…宮田くんのいる世界なんだ…」
*****
その翌週から、商店街でのイベントが始まった。
奈々は会場の設営や準備で、朝から晩まで商店街中を走り回っている。
福引きの本部でもあるテント内に戻り、ふぅとため息をついて椅子に腰掛けた。
「高杉ちゃん、どうぞ」
商工会のメンバーである、雑貨店の店長が缶コーヒーを奈々に差し出し、微笑んでくれた。
奈々は「どうも」と軽く会釈をし、しばしの休息に浸っていた。
しばらくして店長がいきなり椅子を立ち、
「お!達也くん!」
と、通りをこちらに向かって歩いてくる男性に手を振った。
よく見てみると、その男性は先週試合を見たばかりの“木村達也”選手。
「ども。先日は応援ありがとうございました。」
「いやぁ、惜しかったよねぇ!いい試合だったよ!」
“木村達也”選手は、リングで見たときとずいぶんと印象が違って、木村園芸の店長によく似た穏やかそうな人だった。
「活気づいてますねぇ、イベント」
木村がそういうと、雑貨店の店長はすかさず奈々を前面に押し出すようにして
「この子がメインで企画してくれたんだ。達也くんの試合も見に行ってくれたんだよ!」
「へぇ。どうもありがとうね」
にこりと微笑む木村さんに、奈々もはにかみながら会釈した。
「そしたら俺、店に戻るから、達也くんはゆっくりしていきなよ」
「あ、はい。本当に応援ありがとうございました」
「なぁに、次も絶対見に行くからさ!頑張れよ、商店街の希望の星!」
小さくなって行く店長の後ろ姿に手を振り、奈々は改めて木村と対峙した。
木村は少し照れながら椅子に腰掛けて、二言三言、試合を見に来てくれた礼などを述べながら、テーブルに置いてあった缶コーヒーに手を伸ばし、ゆっくりと飲み始めた。
「木村さん、このあいだの試合、凄く感激しました」
奈々が小さな声で言うと、木村は照れ笑いをしながら「いやいや」などと答えた。
「ホントに…なんていうか、“証”を見ましたよ」
「あ、証?」
木村の奈々に対する目線が、少し変わった子を見るようなものになったので、奈々は慌てて説明を加えた。
「命かけて戦ってる人の証、といいますか…」
「そ、そうかな」
木村は奈々の大げさとも言える表現に、少しかしこまりながら咳払いをした。
「ところで木村さん・・・」
「ん?」
本来なら木村に聞くべきことではない気がしていたが、奈々はどうしても、“彼”の姿を捉えたい気持ちを抑えきれず、口を開いた。
「宮田一郎って選手、知ってますか?」
木村がぽかんと口を開けて、不思議そうに奈々を見た。
他のボクサーの名前を出したりするのは失礼だったかな、と奈々が木村の顔色をうかがうと、木村はハッと我に返ったようになり
「知ってるも何も…。まぁ、友達みたいなもんだけど」
「え!そうなんですか!?」
奈々があまりにも大げさに驚くので、木村はいぶかしげに続けた。
「高杉さんは、宮田のファン?それとも知り合い?」
「…し、知り合い…です…」
ふぅん、と何事もなさげに、木村は缶コーヒーを飲み干した。そして
「あいつに女の知り合いねぇ」
と言って、何やら不思議な笑みを浮かべ始めた。
「いえ、まぁ。恩人というか…」
「へぇ」
「そして心のライバルというか…」
「え?」
木村の動きがピタリと止まり、奈々の正体を探るようにジロジロと眺め始めた。
「あ、あの別に変な間柄ではないんです!ふ、普通の知り合いで!」
「あ、うん、わぁってるよ?」
フォローするように木村が答えたので、奈々は少し安心して続けた。
「ただ…、ボクサーってみんな、ああいうところで戦うんだって思ったら…。ちょっと、ズシンと来て」
木村は奈々の言葉をじっくり考えるように少し上を向いて、静かに答えた。
「まぁ宮田の場合は、オレよか凄いわな。凄いっつーか、凄まじいっつーか」
奈々は木村の次の言葉を待って、静かに息をのんだ。
「あいつ…まぁいろいろ抱えてんだけどさ。減量とか半端じゃねぇんだ。それこそ飲まず食わずで。普通のボクサーよりずっと辛い思いしながら、リングにあがってると思う」
「そうなんですか…」
「でも、それがあいつの選んだ道で、あいつが決めたことだから。泣き言も聞いたことねぇし、苦労して勝ち上がってきて、次はついにタイトルマッチだからな。すげぇよ」
「タ、タイトルマッチ!?」
奈々は思わず、持っていた缶コーヒーを地面に落としてしまうほど驚いた。
奈々の反応に木村も驚いたのか、目を大きく見開いて奈々を見ている。
「…知らなかった?」
「いえ、全然。次の試合は4月って言ってたくらいで…」
呆然とする奈々の様子をみて、木村は何かひらめくことがあったらしい。
奈々のいい方から察するに、宮田と奈々が直接そういう会話をしたことがあるというのは明白。
ならば、二人はそういう会話をする距離にいるのではないか…
そして最近その距離が近づいたという間柄ではないか…
というのが、木村の推測だった。
木村は少し意地悪そうな顔をして奈々を覗き込み、
「ひょっとして…高杉さんって宮田のこと好きなの?」
「・・・・えっ?」
木村の突然の質問に、奈々は自分がどんな顔をしているのか、わからなかった。
2月17日、後楽園ホール。
奈々は、テレビでは見たことがあっても、生でボクシングを見るのは初めてだった。
手には木村園芸の店長…つまり木村達也の父親から買ったチケットを握りしめている。
木村は為す術無く、間柴の攻撃の前にただ立ち尽くすのみ。
1ラウンドごとに静まり返って行く会場。
「死刑執行」と謳われた試合にふさわしい、独特の緊張感と湿り気が会場を支配していた。
「毎日、同じ事を繰り返し繰り返し練習するんだそうだ。何千何万と繰り返した練習が、試合に生きるんだって言ってたよ」
でも、全く歯が立たないじゃない。
ずっと殴られてばっかりじゃない。
ずっと耐えてきた木村がとうとうダウン。
会場はみな声を発するのも忘れ「処刑」の時を待っていた。
そこに起死回生の、一発。
まさかの逆転劇。
リングで間柴を見下ろす木村の拳に、“それ”は確かにあった。
毎日、毎日、何千、何万と、繰り返した証が。
最後は結局、間柴の方に軍配が上がった。
しかし会場からは、木村に対する割れんばかりの拍手が起こっている。
もちろん奈々も無意識に手を叩いていた。
と同時に、自分の心に鉛のような重たい感触を味わった。
「これが…宮田くんのいる世界なんだ…」
*****
その翌週から、商店街でのイベントが始まった。
奈々は会場の設営や準備で、朝から晩まで商店街中を走り回っている。
福引きの本部でもあるテント内に戻り、ふぅとため息をついて椅子に腰掛けた。
「高杉ちゃん、どうぞ」
商工会のメンバーである、雑貨店の店長が缶コーヒーを奈々に差し出し、微笑んでくれた。
奈々は「どうも」と軽く会釈をし、しばしの休息に浸っていた。
しばらくして店長がいきなり椅子を立ち、
「お!達也くん!」
と、通りをこちらに向かって歩いてくる男性に手を振った。
よく見てみると、その男性は先週試合を見たばかりの“木村達也”選手。
「ども。先日は応援ありがとうございました。」
「いやぁ、惜しかったよねぇ!いい試合だったよ!」
“木村達也”選手は、リングで見たときとずいぶんと印象が違って、木村園芸の店長によく似た穏やかそうな人だった。
「活気づいてますねぇ、イベント」
木村がそういうと、雑貨店の店長はすかさず奈々を前面に押し出すようにして
「この子がメインで企画してくれたんだ。達也くんの試合も見に行ってくれたんだよ!」
「へぇ。どうもありがとうね」
にこりと微笑む木村さんに、奈々もはにかみながら会釈した。
「そしたら俺、店に戻るから、達也くんはゆっくりしていきなよ」
「あ、はい。本当に応援ありがとうございました」
「なぁに、次も絶対見に行くからさ!頑張れよ、商店街の希望の星!」
小さくなって行く店長の後ろ姿に手を振り、奈々は改めて木村と対峙した。
木村は少し照れながら椅子に腰掛けて、二言三言、試合を見に来てくれた礼などを述べながら、テーブルに置いてあった缶コーヒーに手を伸ばし、ゆっくりと飲み始めた。
「木村さん、このあいだの試合、凄く感激しました」
奈々が小さな声で言うと、木村は照れ笑いをしながら「いやいや」などと答えた。
「ホントに…なんていうか、“証”を見ましたよ」
「あ、証?」
木村の奈々に対する目線が、少し変わった子を見るようなものになったので、奈々は慌てて説明を加えた。
「命かけて戦ってる人の証、といいますか…」
「そ、そうかな」
木村は奈々の大げさとも言える表現に、少しかしこまりながら咳払いをした。
「ところで木村さん・・・」
「ん?」
本来なら木村に聞くべきことではない気がしていたが、奈々はどうしても、“彼”の姿を捉えたい気持ちを抑えきれず、口を開いた。
「宮田一郎って選手、知ってますか?」
木村がぽかんと口を開けて、不思議そうに奈々を見た。
他のボクサーの名前を出したりするのは失礼だったかな、と奈々が木村の顔色をうかがうと、木村はハッと我に返ったようになり
「知ってるも何も…。まぁ、友達みたいなもんだけど」
「え!そうなんですか!?」
奈々があまりにも大げさに驚くので、木村はいぶかしげに続けた。
「高杉さんは、宮田のファン?それとも知り合い?」
「…し、知り合い…です…」
ふぅん、と何事もなさげに、木村は缶コーヒーを飲み干した。そして
「あいつに女の知り合いねぇ」
と言って、何やら不思議な笑みを浮かべ始めた。
「いえ、まぁ。恩人というか…」
「へぇ」
「そして心のライバルというか…」
「え?」
木村の動きがピタリと止まり、奈々の正体を探るようにジロジロと眺め始めた。
「あ、あの別に変な間柄ではないんです!ふ、普通の知り合いで!」
「あ、うん、わぁってるよ?」
フォローするように木村が答えたので、奈々は少し安心して続けた。
「ただ…、ボクサーってみんな、ああいうところで戦うんだって思ったら…。ちょっと、ズシンと来て」
木村は奈々の言葉をじっくり考えるように少し上を向いて、静かに答えた。
「まぁ宮田の場合は、オレよか凄いわな。凄いっつーか、凄まじいっつーか」
奈々は木村の次の言葉を待って、静かに息をのんだ。
「あいつ…まぁいろいろ抱えてんだけどさ。減量とか半端じゃねぇんだ。それこそ飲まず食わずで。普通のボクサーよりずっと辛い思いしながら、リングにあがってると思う」
「そうなんですか…」
「でも、それがあいつの選んだ道で、あいつが決めたことだから。泣き言も聞いたことねぇし、苦労して勝ち上がってきて、次はついにタイトルマッチだからな。すげぇよ」
「タ、タイトルマッチ!?」
奈々は思わず、持っていた缶コーヒーを地面に落としてしまうほど驚いた。
奈々の反応に木村も驚いたのか、目を大きく見開いて奈々を見ている。
「…知らなかった?」
「いえ、全然。次の試合は4月って言ってたくらいで…」
呆然とする奈々の様子をみて、木村は何かひらめくことがあったらしい。
奈々のいい方から察するに、宮田と奈々が直接そういう会話をしたことがあるというのは明白。
ならば、二人はそういう会話をする距離にいるのではないか…
そして最近その距離が近づいたという間柄ではないか…
というのが、木村の推測だった。
木村は少し意地悪そうな顔をして奈々を覗き込み、
「ひょっとして…高杉さんって宮田のこと好きなの?」
「・・・・えっ?」
木村の突然の質問に、奈々は自分がどんな顔をしているのか、わからなかった。