君の背中
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19.告白
「どうした一郎、タイトルマッチが終わって気が緩んでるのか?」
ミットを構える手を下げ、父親が苦言を呈する。
「そんなつもりはないけど」
宮田が答えると、父親は厳しい顔を崩さずに
「すぐに防衛戦もあるんだ。気を引き締めていけよ」
「OK父さん」
しかし、長年息子のミット打ちをしていた父親には、調子の善し悪しが手に取るように分かる。
元々、減量以外でこれほど調子を狂わすことは滅多にない。
何か他のことに気を取られているような、注意力の無い散漫なミット打ちに、父親はついに手を下ろした。
「ダメだダメだ、止め!」
「と、父さん」
「集中力が切れているぞ。お前・・・なんか悩みでもあるのか?」
宮田は一瞬、奈々の顔を思い浮かべて固まった。そしてすぐに「まさか」と小さくつぶやいてリングを降りた。
集中力が無いと言われ、宮田は内心面白くない。その苛立が振る舞いにも表れる。ついつい乱暴になり、グローブを投げ捨てるように棚に置くと、その音に驚いた練習生たちの背中がビクついた。
「走ってくるよ」
自分の心の中にあるモヤついた気持ちをかき消すようにロードワークに出て行った息子を眺めながら、父親はただ黙って何かを考えていた。ジム内もその雰囲気に釣られて、静まり返る。
「む。手を休めるな、集中だ、集中!」
大きな声で練習生を叱咤すると、またすぐにジム内は活気に包まれた。
宮田はスッキリとしない頭の中をかき消すように、河原を走った。
集中できないなんて、今までこんなことは無かった。
コンディションも整えられないなんて、一体自分に何が起きているのかと宮田は頭にかかった霞を取り払うように考えた。
どう思案しても拭えない、あのビジョン。
奈々が自分を無視して、逃げるように消えた瞬間。
あんなことが、こんなにも気になるっていうのか?
なぜだ?
今まで、こんな風に考えたことなんて無かったのに。
奈々のことは、初めは「一生懸命な人だな」くらいにしか思ってなかった。たまに店にくる、仕事熱心な人という程度の認識だ。
それから、たまに二人で会うようになって、意外と抜けてるなとか律儀だなとか・・・・・そして、まっすぐなヤツだな、と思っていた。
奈々は、自分の言葉に奮起して、一生懸命仕事を頑張って、自分なりの景色を見たと言っていた。
宮田には珍しく、そのことがひどく胸を打ったのを覚えている。
だからこそ、自分の試合を見て欲しかった。
他人に対して、こんな風に思ったことなど、このかた一度もない。
それに、ファイトマネーで食事を馳走するなどということも、自分には未だかつてあり得なかった発想だ。
「この背中を追いかけてきたの、ずっとずっと」
「この背中、大好き」
先日の奈々の言葉が頭から離れない。
あのとき、自分は何を言おうとしたのだろう。
何て答えようとしたのだろう。
腕を回された時の柔らかさや、ベッドまで運んだときの身体の軽さ、無防備な寝顔。
いつものあの、まっすぐな瞳。無邪気な笑顔。
全てが頭から離れない。
「・・・そういうことかよ」
宮田は足を止め、片手で目を覆うようにして、力なくうなだれた。
******
GWも過ぎ、世間が休日ムードから一気に平凡へ戻って来たころ。
仕事も一段落したはずの奈々が21時をすぎても帰ろうとしないのを見て、上司が言う。
「お前、まだ仕事あるのか?」
「いえ・・・手伝いで」
「また倒れたいのか?その必要はないから帰ってやすむんだ」
「でも・・・」
「業務命令だ!」
奈々は文字通りトボトボと会社を後にした。
正直、家に帰りたくないのだ。
一人になれば、嫌なことを考えてしまう。
だから、会社に残って仕事をして、すべてを考えないようにしたかった。
あの日から何度か、宮田の電話があったが、すべて無視していた。
自分の態度がおかしかったから心配してくれてるんだろう、とは分かっていた。
けれども、宮田には彼女が居る。
そんな人を、これ以上好きになりたくない、惨めな気持ちになりたくない。
「高杉さん」
マンションの前の黒い影が口をきいたと思ったら、そこに立っていたのは宮田だった。
まさか奈々は、宮田がこんなところに居るとは思わなかった。
唖然としている間に、宮田は一歩二歩と近づいてくる。
反射的に、奈々は宮田を振り切るように入り口へと走り出した。
「待てよ!」
宮田が奈々の手首をグッと掴んで引き止めた。
その頃にはもう、奈々には振り切る力は残っていなかった。
代わりに、すぐにでも溢れそうな涙を堪えることに集中していた。
「どうして逃げるんだよ」
少しでも口を開くと、涙がこぼれてしまいそうだった。
何も言えずにただ下を向き、時間が過ぎ去るのを待つ。
宮田の口からは、直接聞きたくない。
だからこのまま、何事も無く終わればいいのに、と奈々は念じていた。
いくら経っても、何の返事もしない。
宮田は苛立って、手首を握る力を少し強めて言った。
「顔、上げろよ」
それでも奈々は、何も答えない。
宮田はとうとう、奈々の肩に両手をかけ、力任せに無理矢理こちらを振り向かせた。
顔を上げた奈々の頬に伝う涙は、宮田の予想通りの展開だった。
しかし、なぜ泣いているのかは、全く理解できない。
「逃げるなら逃げるで構わない。けど、一言だけ言わせてくれ」
少し焦りを含んだ口調で問いかける。
「こないだの試合・・・アンタが来てくれて嬉しかった」
そこまでいうと、宮田はギリッと奥歯を噛み締めるように一旦時間をおいて、再度口を開いた。
「・・・見に来て欲しかったから」
奈々の表情や目の色は、さっきと何も変わらない。
そうして、すっと顔を下げ、下を向いたままようやく、小さな声でつぶやいた。
「もういい・・・」
とぎれとぎれの微かな声を受け、宮田はやや怒り口調で答える。
「何がだよ」
「これ以上、惨めなのは嫌だよ・・・」
「・・・何のことだ?」
奈々の両肩が震えだし、涙がいっそう溢れてきたのが、宮田にも伝わった。
「彼女・・・いるくせに・・・」
「・・・は?」
「彼女いるのに・・・勘違いさせないでよ!」
思っていたことと全く違う答えが返って来て、宮田は本当にワケが分からなくなった。
彼女?
自分には彼女なんて居ない。
それに、彼女らしき人を見せた覚えも無い。
奈々は何を見て勘違いしたのだろう、と記憶を辿ってみて、ようやく気づいた。
あのボクシングの記者の取材、あの現場を目撃したのだろう、と。
こいつはあれを見てこんなに取り乱しているのかと思うと、宮田はホッとした反面、思わず大笑いしてしまいそうな可笑しみがこみ上げてきた。
「お、おい、ちょっと待てよ」
「嫌!聞きたくない!」
「落ち着けって」
「やだー!もうやだ!ほっといてよ!」
「だから・・・」
奈々が拳を握りしめて、腕を振りながらボコボコと宮田の胸を殴りつけて来た。
その両手首を捕まえて、攻撃できないように押さえるも、奈々の叫びは止まらない。
「なによ!宮田くんのバカ!バカ!知らない!」
「あ~~~~もう、静かにしろ!!!」
宮田は奈々の口を塞ぐように、頭を胸に押し当てるようにして抱きしめた。
最初は腹の辺りでドスドスと低い音を立てていた奈々のパンチが、次第に力を失っていく。
「高杉、聞け」
「・・・呼び捨て・・」
「うるさい」
奈々がようやく落ち着いたところで、宮田が言った。
「まず、オレに彼女は居ない」
奈々の返事は無かったが、取り乱す様子もない。
宮田は更に続けて、
「そして・・・オレが好きなのはアンタだ」
そういうと、宮田は奈々をさらに強く抱いた。
奈々はただ呆然と、突然訪れた告白に、現実を感じられないでいた。
「どうした一郎、タイトルマッチが終わって気が緩んでるのか?」
ミットを構える手を下げ、父親が苦言を呈する。
「そんなつもりはないけど」
宮田が答えると、父親は厳しい顔を崩さずに
「すぐに防衛戦もあるんだ。気を引き締めていけよ」
「OK父さん」
しかし、長年息子のミット打ちをしていた父親には、調子の善し悪しが手に取るように分かる。
元々、減量以外でこれほど調子を狂わすことは滅多にない。
何か他のことに気を取られているような、注意力の無い散漫なミット打ちに、父親はついに手を下ろした。
「ダメだダメだ、止め!」
「と、父さん」
「集中力が切れているぞ。お前・・・なんか悩みでもあるのか?」
宮田は一瞬、奈々の顔を思い浮かべて固まった。そしてすぐに「まさか」と小さくつぶやいてリングを降りた。
集中力が無いと言われ、宮田は内心面白くない。その苛立が振る舞いにも表れる。ついつい乱暴になり、グローブを投げ捨てるように棚に置くと、その音に驚いた練習生たちの背中がビクついた。
「走ってくるよ」
自分の心の中にあるモヤついた気持ちをかき消すようにロードワークに出て行った息子を眺めながら、父親はただ黙って何かを考えていた。ジム内もその雰囲気に釣られて、静まり返る。
「む。手を休めるな、集中だ、集中!」
大きな声で練習生を叱咤すると、またすぐにジム内は活気に包まれた。
宮田はスッキリとしない頭の中をかき消すように、河原を走った。
集中できないなんて、今までこんなことは無かった。
コンディションも整えられないなんて、一体自分に何が起きているのかと宮田は頭にかかった霞を取り払うように考えた。
どう思案しても拭えない、あのビジョン。
奈々が自分を無視して、逃げるように消えた瞬間。
あんなことが、こんなにも気になるっていうのか?
なぜだ?
今まで、こんな風に考えたことなんて無かったのに。
奈々のことは、初めは「一生懸命な人だな」くらいにしか思ってなかった。たまに店にくる、仕事熱心な人という程度の認識だ。
それから、たまに二人で会うようになって、意外と抜けてるなとか律儀だなとか・・・・・そして、まっすぐなヤツだな、と思っていた。
奈々は、自分の言葉に奮起して、一生懸命仕事を頑張って、自分なりの景色を見たと言っていた。
宮田には珍しく、そのことがひどく胸を打ったのを覚えている。
だからこそ、自分の試合を見て欲しかった。
他人に対して、こんな風に思ったことなど、このかた一度もない。
それに、ファイトマネーで食事を馳走するなどということも、自分には未だかつてあり得なかった発想だ。
「この背中を追いかけてきたの、ずっとずっと」
「この背中、大好き」
先日の奈々の言葉が頭から離れない。
あのとき、自分は何を言おうとしたのだろう。
何て答えようとしたのだろう。
腕を回された時の柔らかさや、ベッドまで運んだときの身体の軽さ、無防備な寝顔。
いつものあの、まっすぐな瞳。無邪気な笑顔。
全てが頭から離れない。
「・・・そういうことかよ」
宮田は足を止め、片手で目を覆うようにして、力なくうなだれた。
******
GWも過ぎ、世間が休日ムードから一気に平凡へ戻って来たころ。
仕事も一段落したはずの奈々が21時をすぎても帰ろうとしないのを見て、上司が言う。
「お前、まだ仕事あるのか?」
「いえ・・・手伝いで」
「また倒れたいのか?その必要はないから帰ってやすむんだ」
「でも・・・」
「業務命令だ!」
奈々は文字通りトボトボと会社を後にした。
正直、家に帰りたくないのだ。
一人になれば、嫌なことを考えてしまう。
だから、会社に残って仕事をして、すべてを考えないようにしたかった。
あの日から何度か、宮田の電話があったが、すべて無視していた。
自分の態度がおかしかったから心配してくれてるんだろう、とは分かっていた。
けれども、宮田には彼女が居る。
そんな人を、これ以上好きになりたくない、惨めな気持ちになりたくない。
「高杉さん」
マンションの前の黒い影が口をきいたと思ったら、そこに立っていたのは宮田だった。
まさか奈々は、宮田がこんなところに居るとは思わなかった。
唖然としている間に、宮田は一歩二歩と近づいてくる。
反射的に、奈々は宮田を振り切るように入り口へと走り出した。
「待てよ!」
宮田が奈々の手首をグッと掴んで引き止めた。
その頃にはもう、奈々には振り切る力は残っていなかった。
代わりに、すぐにでも溢れそうな涙を堪えることに集中していた。
「どうして逃げるんだよ」
少しでも口を開くと、涙がこぼれてしまいそうだった。
何も言えずにただ下を向き、時間が過ぎ去るのを待つ。
宮田の口からは、直接聞きたくない。
だからこのまま、何事も無く終わればいいのに、と奈々は念じていた。
いくら経っても、何の返事もしない。
宮田は苛立って、手首を握る力を少し強めて言った。
「顔、上げろよ」
それでも奈々は、何も答えない。
宮田はとうとう、奈々の肩に両手をかけ、力任せに無理矢理こちらを振り向かせた。
顔を上げた奈々の頬に伝う涙は、宮田の予想通りの展開だった。
しかし、なぜ泣いているのかは、全く理解できない。
「逃げるなら逃げるで構わない。けど、一言だけ言わせてくれ」
少し焦りを含んだ口調で問いかける。
「こないだの試合・・・アンタが来てくれて嬉しかった」
そこまでいうと、宮田はギリッと奥歯を噛み締めるように一旦時間をおいて、再度口を開いた。
「・・・見に来て欲しかったから」
奈々の表情や目の色は、さっきと何も変わらない。
そうして、すっと顔を下げ、下を向いたままようやく、小さな声でつぶやいた。
「もういい・・・」
とぎれとぎれの微かな声を受け、宮田はやや怒り口調で答える。
「何がだよ」
「これ以上、惨めなのは嫌だよ・・・」
「・・・何のことだ?」
奈々の両肩が震えだし、涙がいっそう溢れてきたのが、宮田にも伝わった。
「彼女・・・いるくせに・・・」
「・・・は?」
「彼女いるのに・・・勘違いさせないでよ!」
思っていたことと全く違う答えが返って来て、宮田は本当にワケが分からなくなった。
彼女?
自分には彼女なんて居ない。
それに、彼女らしき人を見せた覚えも無い。
奈々は何を見て勘違いしたのだろう、と記憶を辿ってみて、ようやく気づいた。
あのボクシングの記者の取材、あの現場を目撃したのだろう、と。
こいつはあれを見てこんなに取り乱しているのかと思うと、宮田はホッとした反面、思わず大笑いしてしまいそうな可笑しみがこみ上げてきた。
「お、おい、ちょっと待てよ」
「嫌!聞きたくない!」
「落ち着けって」
「やだー!もうやだ!ほっといてよ!」
「だから・・・」
奈々が拳を握りしめて、腕を振りながらボコボコと宮田の胸を殴りつけて来た。
その両手首を捕まえて、攻撃できないように押さえるも、奈々の叫びは止まらない。
「なによ!宮田くんのバカ!バカ!知らない!」
「あ~~~~もう、静かにしろ!!!」
宮田は奈々の口を塞ぐように、頭を胸に押し当てるようにして抱きしめた。
最初は腹の辺りでドスドスと低い音を立てていた奈々のパンチが、次第に力を失っていく。
「高杉、聞け」
「・・・呼び捨て・・」
「うるさい」
奈々がようやく落ち着いたところで、宮田が言った。
「まず、オレに彼女は居ない」
奈々の返事は無かったが、取り乱す様子もない。
宮田は更に続けて、
「そして・・・オレが好きなのはアンタだ」
そういうと、宮田は奈々をさらに強く抱いた。
奈々はただ呆然と、突然訪れた告白に、現実を感じられないでいた。