君の背中
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1.好青年
毎日毎日、朝から晩まで、いったい何のために仕事してるんだろう。
奈々はふと猛烈な虚無感に襲われた。
腕時計に目をやると、時間は5時をさしている。
眠っていた草木も起き始め、小さな呼吸を始めるころだ。
景色が良いからと、ちょっとだけ遠回りして河原を歩く。
ひんやりしていて、人の気配はない。
奈々の自宅と会社は徒歩20分ほどの距離にあり、健康のためにと毎日徒歩で出勤していたが、最近はずっとタクシー帰りが続いていた。仕事が深夜まで及んでいるからだ。
そして今日は“深夜”などという枠をとっくに越えてしまった。
タクシーをつかまえるほど暗い道ではないし、清々しい朝の空気を吸いながらリフレッシュして帰ろうと、少し息が白くなり始めた初冬の河原を歩いた。
突然、後ろからガサッっと小さな雑音がした。
誰かいるのだろうか、こんな朝早くに。
ふっと振り返ってみると、そこに立っていたのは、下半身を露出した初老の男性だった。
「・・・・・!!」
人間、驚きすぎると声も出ないらしい。
あまりの唐突な出来事に、これは現実なのだろうかと一瞬思考が停止した。
奈々にとってはとてつもなく長い一時停止に思われたが、相手がゆっくりとこちらに向かいはじめたのを見て、ようやく身体の全てが反応した。
「きゃ、きゃ、きゃああああ~~~!!!」
とにかく逃げなくては、と思いながらも河原では隠れる場所もない。
ただ闇雲に逃げ回り、自宅に続く路地の方へと向かった。
ああ、こんなことなら大人しくタクシーに乗れば良かったんだ、もう私死んじゃうのかな、などと様々な後悔や恐怖を感じながら、やたら耳に残る卑猥な足音を消すように音を立てて走った。
路地に入ると、1人の青年が走っているのが見えた。
ジャージ姿のスポーツマン風の男性だ。
見た目は決して怪しくない。
実際、それほど冷静に相手を分析できる状態では無かった。
とにかく、見かけた瞬間に駆け寄り、抱きつくようにして助けを求めた。
「あ、あのっ!さっきそこに変な人がっ!た、助けて!!」
「…大丈夫ですか?」
「もうやだ!怖いよぉ!朝からなんなのぉ!」
恐怖と安堵が混ざり合い、気がつくと涙が流れていた。
青年が自分の身体をしっかり支えてくれるおかげで立っていられた。
「…もう居ないみたいですよ」
青年に促され、固く瞑った目を少しずつ開きながら来た道の方向を見てみると、確かにそこには誰もいなかった。
心はホッとしたものの、まだ身体が震えている。
冷たくなった指先の感覚が戻る頃、ようやく自分が「誰かを掴んでいる」ことに気がついた。
「あ…、ご、ごめんなさい!」
「いや…立てますか?」
「はい、なんとか…」
彼の言葉にようやく、自分が腰を抜かしかけていたことを知った。
我を取り戻そうと深呼吸し、ふと相手を見てみるとまだ20そこそこと言った凛々しい顔つきの好青年だった。
彼の顔を見て、何かいい知れない既視感に駆られた。
どこかで会ったことがあるような気がする。
しばし見つめるような形で顔を眺めているうちに、彼が無表情のままこちらを見つめているのに気がついて、すぐさま体勢を整えた。
「ご、ごめんなさい、本当に…どうもありがとうございました」
「いや…」
「もう大丈夫です、ありがとう。じゃあ…」
青年の身体から手を離し、まだふらつきの残る身体を立て直して歩き出した。
家はもうすぐそこだ。
さすがにもう、変な人も居ないだろう。
2、3歩ほど歩いたところで、背後から青年が声を掛けた。
「送りますよ」
声に驚いて後ろを振り向くと、青年は既に自分の横まで来ていた。
「え!いいですよ!もう大丈夫だし、家も近いし!」
「…女性がこんな時間に1人で歩くもんじゃないですよ」
「でも…」
「オレもこっちの方向に行くんでね」
青年の有無を言わせない態度に、奈々は申し訳ない気持ちになりながらも、有り難く甘えることにした。
あの十字路を曲がったらすぐに自宅に着く。
さほど迷惑をかけるほどの距離ではないだろう、というのも素直に甘えさせてもらった理由のひとつだ。
「いつもはタクシーで帰るんだけど…」
青年は無言で話を聞いてくれているようだ。
「今日に限って、朝まで仕事が長引いちゃって、どうせなら歩いて帰ろうかなって。気持ちいいじゃない?朝の空気って」
「安全に超したことはないですよ」
突き放すような冷めた言い方に、先ほどの親切な好青年とのギャップを感じた。
どうやら彼は、世間話などは苦手な感じの人なのだろう。
それにしても奈々は、今は世間話などをして先ほどのショックを和らげたかったのもあって、些か落胆に似た気持ちを感じた。
「…そうね。おっしゃる通りですわよっ」
少し拗ねたような言い方で答えると、先ほどまで無表情だった青年が少し笑って答えた。
「だいぶ落ちついて来たようですね」
「ええ、来ましたとも、おかげさまで」
「そりゃどうも」
ああ、彼は人に馴れ馴れしくするのは苦手だけれど、実は優しいんだな。
青年のおかげで先ほどまでの恐怖は薄らぎ、太陽が上ると共に心も少しずつ温かくなっていくのを感じた。
「どうもありがとう」
「いえ。それじゃ」
マンションの前で、簡素なお別れをする。
彼が立ち去るのを見届けてから入ろうと、その背中を眺めていると
「危ないから早く家に入ってください」
少しだけ後ろを振り返ってそう言い放ち、走り始めた。
毎日毎日走り込んでいるんだろうな、と思わせる軽快なフットワーク。
路地を曲がって、すぐに彼の姿は見えなくなった。
朝から変質者に遭遇して死ぬ思いをしたけれど、清々しい好青年に会えて結果は良かったな、なんて思った。
「それにしても、なんだかどこかで見たことがあるような気がするなぁ」
重たい鉄のドアを開けて家に入ると、カーテンが閉まったままで薄暗い、外の爽やかな景色とは全く違った現実が待っていた。
「さて、明日も仕事だ…。何時間寝られるかな」
ベッドにへたり込んでようやく気づいた身体の疲れに身を任せ、奈々はしばしの眠りについた。
毎日毎日、朝から晩まで、いったい何のために仕事してるんだろう。
奈々はふと猛烈な虚無感に襲われた。
腕時計に目をやると、時間は5時をさしている。
眠っていた草木も起き始め、小さな呼吸を始めるころだ。
景色が良いからと、ちょっとだけ遠回りして河原を歩く。
ひんやりしていて、人の気配はない。
奈々の自宅と会社は徒歩20分ほどの距離にあり、健康のためにと毎日徒歩で出勤していたが、最近はずっとタクシー帰りが続いていた。仕事が深夜まで及んでいるからだ。
そして今日は“深夜”などという枠をとっくに越えてしまった。
タクシーをつかまえるほど暗い道ではないし、清々しい朝の空気を吸いながらリフレッシュして帰ろうと、少し息が白くなり始めた初冬の河原を歩いた。
突然、後ろからガサッっと小さな雑音がした。
誰かいるのだろうか、こんな朝早くに。
ふっと振り返ってみると、そこに立っていたのは、下半身を露出した初老の男性だった。
「・・・・・!!」
人間、驚きすぎると声も出ないらしい。
あまりの唐突な出来事に、これは現実なのだろうかと一瞬思考が停止した。
奈々にとってはとてつもなく長い一時停止に思われたが、相手がゆっくりとこちらに向かいはじめたのを見て、ようやく身体の全てが反応した。
「きゃ、きゃ、きゃああああ~~~!!!」
とにかく逃げなくては、と思いながらも河原では隠れる場所もない。
ただ闇雲に逃げ回り、自宅に続く路地の方へと向かった。
ああ、こんなことなら大人しくタクシーに乗れば良かったんだ、もう私死んじゃうのかな、などと様々な後悔や恐怖を感じながら、やたら耳に残る卑猥な足音を消すように音を立てて走った。
路地に入ると、1人の青年が走っているのが見えた。
ジャージ姿のスポーツマン風の男性だ。
見た目は決して怪しくない。
実際、それほど冷静に相手を分析できる状態では無かった。
とにかく、見かけた瞬間に駆け寄り、抱きつくようにして助けを求めた。
「あ、あのっ!さっきそこに変な人がっ!た、助けて!!」
「…大丈夫ですか?」
「もうやだ!怖いよぉ!朝からなんなのぉ!」
恐怖と安堵が混ざり合い、気がつくと涙が流れていた。
青年が自分の身体をしっかり支えてくれるおかげで立っていられた。
「…もう居ないみたいですよ」
青年に促され、固く瞑った目を少しずつ開きながら来た道の方向を見てみると、確かにそこには誰もいなかった。
心はホッとしたものの、まだ身体が震えている。
冷たくなった指先の感覚が戻る頃、ようやく自分が「誰かを掴んでいる」ことに気がついた。
「あ…、ご、ごめんなさい!」
「いや…立てますか?」
「はい、なんとか…」
彼の言葉にようやく、自分が腰を抜かしかけていたことを知った。
我を取り戻そうと深呼吸し、ふと相手を見てみるとまだ20そこそこと言った凛々しい顔つきの好青年だった。
彼の顔を見て、何かいい知れない既視感に駆られた。
どこかで会ったことがあるような気がする。
しばし見つめるような形で顔を眺めているうちに、彼が無表情のままこちらを見つめているのに気がついて、すぐさま体勢を整えた。
「ご、ごめんなさい、本当に…どうもありがとうございました」
「いや…」
「もう大丈夫です、ありがとう。じゃあ…」
青年の身体から手を離し、まだふらつきの残る身体を立て直して歩き出した。
家はもうすぐそこだ。
さすがにもう、変な人も居ないだろう。
2、3歩ほど歩いたところで、背後から青年が声を掛けた。
「送りますよ」
声に驚いて後ろを振り向くと、青年は既に自分の横まで来ていた。
「え!いいですよ!もう大丈夫だし、家も近いし!」
「…女性がこんな時間に1人で歩くもんじゃないですよ」
「でも…」
「オレもこっちの方向に行くんでね」
青年の有無を言わせない態度に、奈々は申し訳ない気持ちになりながらも、有り難く甘えることにした。
あの十字路を曲がったらすぐに自宅に着く。
さほど迷惑をかけるほどの距離ではないだろう、というのも素直に甘えさせてもらった理由のひとつだ。
「いつもはタクシーで帰るんだけど…」
青年は無言で話を聞いてくれているようだ。
「今日に限って、朝まで仕事が長引いちゃって、どうせなら歩いて帰ろうかなって。気持ちいいじゃない?朝の空気って」
「安全に超したことはないですよ」
突き放すような冷めた言い方に、先ほどの親切な好青年とのギャップを感じた。
どうやら彼は、世間話などは苦手な感じの人なのだろう。
それにしても奈々は、今は世間話などをして先ほどのショックを和らげたかったのもあって、些か落胆に似た気持ちを感じた。
「…そうね。おっしゃる通りですわよっ」
少し拗ねたような言い方で答えると、先ほどまで無表情だった青年が少し笑って答えた。
「だいぶ落ちついて来たようですね」
「ええ、来ましたとも、おかげさまで」
「そりゃどうも」
ああ、彼は人に馴れ馴れしくするのは苦手だけれど、実は優しいんだな。
青年のおかげで先ほどまでの恐怖は薄らぎ、太陽が上ると共に心も少しずつ温かくなっていくのを感じた。
「どうもありがとう」
「いえ。それじゃ」
マンションの前で、簡素なお別れをする。
彼が立ち去るのを見届けてから入ろうと、その背中を眺めていると
「危ないから早く家に入ってください」
少しだけ後ろを振り返ってそう言い放ち、走り始めた。
毎日毎日走り込んでいるんだろうな、と思わせる軽快なフットワーク。
路地を曲がって、すぐに彼の姿は見えなくなった。
朝から変質者に遭遇して死ぬ思いをしたけれど、清々しい好青年に会えて結果は良かったな、なんて思った。
「それにしても、なんだかどこかで見たことがあるような気がするなぁ」
重たい鉄のドアを開けて家に入ると、カーテンが閉まったままで薄暗い、外の爽やかな景色とは全く違った現実が待っていた。
「さて、明日も仕事だ…。何時間寝られるかな」
ベッドにへたり込んでようやく気づいた身体の疲れに身を任せ、奈々はしばしの眠りについた。
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