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ふたりのアンダンテ
(リクエスト作品 お題:一目惚れ/耳/足音)
「来月、一時帰国できそうなんだ」
「ほんとですか!?」
パリに留学して半年以上が経った。レッスンに明け暮れていた俺は正月の時期も帰国できず、ようやく一時帰国の目処がたったのは、日本で桜が咲き始める頃だった。一番会いたいひとーー美奈子に早速電話で報告をしたら、ぱあっと花が咲くような、明るい喜びの声を聞かせてくれた。
「帰国の期間はどのくらいになりそうなんですか?」
「2週間くらいになると思う」
「分かりました!聖司くんの都合もあると思うので、また予定聞かせてくださいね」
「ああ」
こうやっていつでも相手を思いやれる、物分かりの良すぎる恋人に些か心配になることもあるが、会えたらたっぷり甘やかしてやろうと思っている。それに桜の時期だし、久しぶりに森林公園へ散歩にでも行こうか、なんて想像を膨らませていたところ、あ、と小さく美奈子の声が聞こえた。何かあったのだろうか、とそっと耳を澄ませると、にゃあと、電話越しから微かに声がした。
「誰かいるのか……?」
「聖司くん、聞こえたんですか!?すごいです!ほら、おいで」
美奈子が誰かにそう呼びかけると、ドタドタと遠くから迫ってくるような物音が聞こえた。動物の足音のようだけれど、美奈子の家に美奈子以外の誰かがいることが頭の中で結びつけられなかった。電話越しには俺以外の誰かに向けられた、よしよし、という慈しむような声が聞こえてくる。
「今実家の猫を預かってるんです」
「猫……?家で猫なんて飼ってたか?」
「あれっ、言ってませんでしたっけ?」
「……知らない」
「私が大学に入学した頃、お母さんが一目惚れして、お迎えしちゃったんです」
「ふーん……」
美奈子が大学に入学した頃、まだ俺は日本にいた。けど、そんな話を聞いたことがなかったので知らなかったし、そもそも美奈子から猫のねの字も聞いたことがない。あの頃はよく一緒にいたから、全てを知っている気でいたけれど、知らないことがあったのか、と些細なことではあるが、不意打ちを食らったような気分になった。
「聖司くん、猫平気ですか?かわいいのでぜひ会ってほしいです」
「それは別に構わないけど……」
「あっ!そういえばわんにゃんハウス、高校生の時によく行きましたよね」
あの時からちょっと猫ちゃんが気になってたんですよね、と美奈子は高校生の頃、何度か行った動物園の思い出話を始めた。また行きたいですね、と声を弾ませながら話していて、俺もそれには同意しているけれど、なんとなく心のどこかが重い気がした。しばらく他愛もない話をして、また連絡すると言い、電話を切った。
***
桜の蕾が膨らみ始め、春を迎えつつある頃、長いフライトを終えて、日本に帰国した。運転手が空港まで迎えに来てくれたので、一度自宅に向かう。家に顔を出し、荷物を置いてから、美奈子の下宿先へ向かった。運転手には帰りは自分で帰ると伝えたので、時間の制約はない。
帰国する2週間ほど前に、また美奈子と電話で話した。帰国してすぐに、美奈子に会えそうだったから、予定を決めようと思った。というか、日本に帰る目的なんてほとんどそれだった。
「どこか行きたいところはあるか?」
「あっ、じゃあうちに来ませんか?」
聖司くんも長旅で疲れてると思うので、と美奈子の話し声が聞こえるのと同時に、まるで自分の存在を主張してくるように、にゃあにゃあと鳴く猫の声が混じっていた。
「猫に会ってほしいって言ってたからか?」
「それもあるんですけど、……えっと、詳しくは内緒です!お腹を空かせてきてほしいです!」
「なんだよそれ」
「楽しみにしててください!」
美奈子は悪戯を企んでいる子どものようにわくわくした様子だった。気になるけれど、こういう時の美奈子は絶対に口を割らないので、俺はあれこれ尋ねるのをやめ、当日まで楽しみに待つことにした。
美奈子の下宿先は2階で、階段を登って美奈子の部屋に向かう。初めて訪れた時、階段しかないのかと言ったらエレベーターなんてついてるわけないじゃないですか、と言い返されたことが懐かしい。ここに来るのも随分久しぶりだった。
ピンポン、とベルを鳴らす。はーい、とインターフォン越しに美奈子の声が聞こえたので、設楽ですと答えたら、すぐにドタバタと足音が聞こえて、がちゃりとドアが開いた。
「聖司くん!おかえりなさい!」
「ただいま」
にっこりと嬉しそうに笑った美奈子が、俺を出迎えてくれた。つられて俺も頬が緩む。美奈子は、去年一緒にショッピングモールに出かけた時に買ったピンク色のトップスを着ていて、最後に会った時より、髪が少し伸びていた。
「さっ、入ってください!聖司くんの家と比べたら狭いですけど……」
「そんなの別に気にすることじゃないだろ。お邪魔します」
美奈子に招かれ、脱いだ靴を並べ、部屋の中に入る。ローテーブルの真ん中にはたこ焼きを焼く機械が置かれていて、たこ焼きの具材、ソース、マヨネーズなどが並べられていた。
「これって」
「私、聖司くんに食べてほしくて、たこ焼きを焼く練習してたんです!」
「だからお腹を空かせてこいってことだったのか」
「そうです!へへ、聖司くんにびっくりしてほしくて……」
「こんな機械、家庭用に売ってるんだな」
「はい、大学の友達とホームパーティーしたら、友達の家にあったんです」
「へえ」
「それで、聖司くんのこと思い出して、食べてもらいたくて……何回も練習したので、任せてください!」
美奈子は得意げにそう言った。随分前から計画してたんだな、と喜びが溢れてくるような気持ちを感じつつ、先ほどからガタガタと音がして、気になっていた方向へちらりと目をやった。部屋の端のほうには白いゲージが置かれていて、中には美奈子が電話で話していた猫がいた。電話でどんな猫なのかまで聞かなかったが、おそらく三毛猫で、ゲージの中で落ち着かなさそうに走り回っていた。
「あっ、この子がうちの実家の猫ちゃんです」
「ふーん……」
「みけちゃん、聖司くんだよ。はじめましてだね」
俺たちは猫のいるゲージに近づいた。猫は俺のことなど見向きもせず、ゲージを動き回っていた。けれど、美奈子の存在に気づいた途端、ゲージの出入り口のそばまでやってきて、にゃあにゃあと鳴いていた。
「みけちゃん、聖司くんが来てるから今は出られないよ、またあとでね」
「なんて言いたいかわかるんだな」
「最初はわからなかったんですけど、だんだん分かるようになってきました」
「ふーん……。聞くまでもないが、なんでみけちゃんなんだ?」
「三毛猫だからみけちゃんです」
「やっぱり。そのままだな」
「お母さんがつけたから名付け親は私じゃないですよ。さっ、私は早速たこ焼きを作ります!聖司くんは座って待っててくださいね。あっ先に手を洗いますよね!?」
それだったらタオルはこれを使ってください、と急にバタバタと動き始め、白いタオルを取ってきて、はいっと俺の目の前に差し出した美奈子を、腕の中に閉じ込めた。俺をこの部屋に迎え入れたときから、ずっと嬉しそうにしていて、楽しみに準備をしてくれていた美奈子が、愛おしくて仕方なかった。美奈子はそっと俺に体を預けた。とても柔らかくて、こうしてるだけで心地良かった。
「大丈夫、慌てなくていいから」
「だって……聖司くんが私の家にいるの……嬉しくて……」
「俺も会えて嬉しい」
へへ、と照れ笑いする美奈子に唇に小さくキスを落とした。一度触れたら止められなくて、何度も何度も繰り返した。キスとキスの間に、聖司くん、と小さく俺の名前を囁く美奈子がかわいくて、食事よりやっぱり先に美奈子が欲しい。美奈子、と名前を呼んでもう一度キスをしようとしたら、美奈子がふるふると首を横に振った。
「っ、聖司くん、先にごはんです」
「……バレたか」
「バレバレです!せっかく準備したんだから……またあとで、ね?」
美奈子にそう念押しされてしまっては、続きは後にせざるを得ない。もう一度だけちゅっ、と軽くキスをして、美奈子から離れた。美奈子は聖司くん、手を洗ってきてくださいね、とタオルを手渡され、急に現実に引き戻されたような気がした。
***
美奈子のたこ焼きを焼く手際は、思っていたよりも良かった。たこ焼きの機械に生地を流し込むと、じゅうと音がして、美奈子はたこなどの具材を入れていく。そのうちに生地が固まってきて、くるりんと綺麗にひっくり返す。たこ焼きが出来上がっていく様子は、いつか商店街で見た本物の店員のようで、見ているだけでも面白かった。聖司くんもやってみますか、と言うのでやってみたけど、形がすぐに崩れてしまって、なかなかうまくいかなかった。ひっくり返すタイミングとか、綺麗に丸く焼くコツがあるようで、美奈子がたくさん練習したことがよく分かった。
「どうでしたか?」
「美味かった、本当に練習したんだな」
「はい、ふたりで食べてたらあっという間に全部なくなりましたね」
美奈子はひたすら焼きながら出来上がったものを食べて、食べながらまた新しく焼いてを繰り返し、その間に俺と他愛もない話をして、忙しなかった。せめて片付けを手伝おうとしたら、聖司くんはお客さんだから座っててください、と断固拒否されたので、大人しく座っていることにする。
キッチンで片付けをしている美奈子を眺めながら、ふと敷かれているカーペットに目線が移る。前に来た時は、こんなのなかったな、と思った。なんとなくやっぱり心が重くなる。はば学にいてよく会っていた頃、卒業しても時々会えていた頃は、美奈子の些細な変化も知ることができたけれど、今はそうではないことを痛感せざるを得なかった。
片付けを終えた美奈子は、聖司くんからのお土産も一緒に食べましょうと、俺がパリから買ってきたお土産のお菓子を並べて、お揃いで買ったマグカップにコーヒーを淹れてくれた。テーブルにそっと置いた後、俺の隣に座った。
「……聖司くんに会わない間に、聖司くんの知らないことがたくさん増えた気がします」
「え?」
「例えば、いま着てるお洋服とか。グリーンが入ってるお洋服、着てるのはじめてみました」
「適当に買ったやつだよ。俺だって、おまえが猫飼ってるの知らなかった」
「あんまり動物の話、しなかったから……」
「大学の友達とホームパーティーした話も知らない」
「聖司くんとなかなか話せなかった時期のことです」
「……なんだよそれ」
思わずむっとしてしまう。会話の雲行きが怪しいと感じたけれど、自分では止められなかった。確かに、試験が近い時期は美奈子とも電話やメールの頻度が減っていた。なるべく連絡するようにはしているけれど、俺だって、忙しい。当たり前だろう、遊びに行ってるわけじゃないんだから。心の奥底から沸々としたなんとも言えない気持ちが溢れてくる。美奈子にそんな意図はないだろうけど、連絡が少ないことを責められてるような気がして、少し苛立った。
「あのな、パリには、」
「わたし、さみしかったのかも」
勉強しに行ってるんだぞ、と口にしようとしたと同時に、美奈子からぽつりとつぶやかれた、さみしかったのかも、の一言。俺は頭に冷水をかけられたような気持ちになった。少し感情的になって苛立ちをぶつけてしまいそうになっていたのに、美奈子は素直に心をまるごと、そのまま見せてくれたような気がしたからだ。
「聖司くんも頑張ってるし、私も頑張らなきゃって思ったんですけど、……ちょっと強がってただけなのかも」
「美奈子……」
「本当は会えなくて、すごくさみしかったです」
美奈子は少し震えた声でそう言って、俺の肩に頭を乗せて寄りかかってきた。美奈子がこうするときは、甘えたい時だということを俺は知っているし、さみしい、の一言であっという間に苛立ちなんてどこかへ行ってしまった。俺は美奈子の肩をそっと抱いた。
「……なんで」
「?」
「なんでいつも、美奈子は俺の欲しい言葉をくれるんだろうな」
「自分の感じた気持ちを、伝えてるだけです」
「それがおまえのすごいところで、いいところなんだよ」
美奈子と出会って、知らないことがこの世界には山ほどあること、感じたことのない気持ちや言葉にできないような思いをたくさん知った。そして、美奈子はいつも、恐れることなく、自分のこころを、うつくしい言葉で、当たり前のように俺に見せてくれる。美奈子がそうであるのなら、俺もできるだけそうありたいと思う。たぶん、本当は俺だって。
「……俺もさみしかった」
「よかった、寂しいの、私だけじゃなくて」
「ああ。……好きだ」
「もっと言ってください」
「愛してる」
「私も愛してます」
目線が絡み合って、どちらからともなく唇を重ね合う。当たり前だけど、離れている分、俺の知らない美奈子が増えていくし、美奈子の知らない俺だって増えていく。だから、お互い様といえばお互い様だし、離れている分、もっと素直に言葉を交わし合うしかないのだ。好きだと伝えるだけで、こんなに幸福になることを俺は知らなかった。今度こそゆっくり美奈子を味わおうと、美奈子をぎゅっと抱きしめて、深く口付けた。お互い舌を絡ませて、どちらの唾液が分からないものがたらりとこぼれて、美奈子からだんだん甘い声が漏れてくる。
「あっ、コーヒー……冷めちゃう……」
「あとで淹れ直せばいいだろ、もう待たない」
「聖司くん、」
とろんとした目の美奈子にもう一度口付けようとした時、突然、にゃーーー!と大きな猫の鳴き声が聞こえた。ふたりとも一瞬体をびくりと震わせ、同時にゲージのほうを見た。こいつがいることを、俺はすっかり忘れていた。
「……みけちゃん、聖司くんが私のこといじめてるって思ってるかも」
「そんなことしてない」
「みけちゃんから見たらそんなのわからないですよ」
「…………」
「むっとした顔しないでください。……あっち、行きましょうか」
今はふたりきりがいいから、と美奈子は伏し目がちにそう言い、俺の手を引いて、寝室へ招いた。最初から最後まで、俺は美奈子に敵うことなんかないと思った。
20240710
(リクエスト作品 お題:一目惚れ/耳/足音)
「来月、一時帰国できそうなんだ」
「ほんとですか!?」
パリに留学して半年以上が経った。レッスンに明け暮れていた俺は正月の時期も帰国できず、ようやく一時帰国の目処がたったのは、日本で桜が咲き始める頃だった。一番会いたいひとーー美奈子に早速電話で報告をしたら、ぱあっと花が咲くような、明るい喜びの声を聞かせてくれた。
「帰国の期間はどのくらいになりそうなんですか?」
「2週間くらいになると思う」
「分かりました!聖司くんの都合もあると思うので、また予定聞かせてくださいね」
「ああ」
こうやっていつでも相手を思いやれる、物分かりの良すぎる恋人に些か心配になることもあるが、会えたらたっぷり甘やかしてやろうと思っている。それに桜の時期だし、久しぶりに森林公園へ散歩にでも行こうか、なんて想像を膨らませていたところ、あ、と小さく美奈子の声が聞こえた。何かあったのだろうか、とそっと耳を澄ませると、にゃあと、電話越しから微かに声がした。
「誰かいるのか……?」
「聖司くん、聞こえたんですか!?すごいです!ほら、おいで」
美奈子が誰かにそう呼びかけると、ドタドタと遠くから迫ってくるような物音が聞こえた。動物の足音のようだけれど、美奈子の家に美奈子以外の誰かがいることが頭の中で結びつけられなかった。電話越しには俺以外の誰かに向けられた、よしよし、という慈しむような声が聞こえてくる。
「今実家の猫を預かってるんです」
「猫……?家で猫なんて飼ってたか?」
「あれっ、言ってませんでしたっけ?」
「……知らない」
「私が大学に入学した頃、お母さんが一目惚れして、お迎えしちゃったんです」
「ふーん……」
美奈子が大学に入学した頃、まだ俺は日本にいた。けど、そんな話を聞いたことがなかったので知らなかったし、そもそも美奈子から猫のねの字も聞いたことがない。あの頃はよく一緒にいたから、全てを知っている気でいたけれど、知らないことがあったのか、と些細なことではあるが、不意打ちを食らったような気分になった。
「聖司くん、猫平気ですか?かわいいのでぜひ会ってほしいです」
「それは別に構わないけど……」
「あっ!そういえばわんにゃんハウス、高校生の時によく行きましたよね」
あの時からちょっと猫ちゃんが気になってたんですよね、と美奈子は高校生の頃、何度か行った動物園の思い出話を始めた。また行きたいですね、と声を弾ませながら話していて、俺もそれには同意しているけれど、なんとなく心のどこかが重い気がした。しばらく他愛もない話をして、また連絡すると言い、電話を切った。
***
桜の蕾が膨らみ始め、春を迎えつつある頃、長いフライトを終えて、日本に帰国した。運転手が空港まで迎えに来てくれたので、一度自宅に向かう。家に顔を出し、荷物を置いてから、美奈子の下宿先へ向かった。運転手には帰りは自分で帰ると伝えたので、時間の制約はない。
帰国する2週間ほど前に、また美奈子と電話で話した。帰国してすぐに、美奈子に会えそうだったから、予定を決めようと思った。というか、日本に帰る目的なんてほとんどそれだった。
「どこか行きたいところはあるか?」
「あっ、じゃあうちに来ませんか?」
聖司くんも長旅で疲れてると思うので、と美奈子の話し声が聞こえるのと同時に、まるで自分の存在を主張してくるように、にゃあにゃあと鳴く猫の声が混じっていた。
「猫に会ってほしいって言ってたからか?」
「それもあるんですけど、……えっと、詳しくは内緒です!お腹を空かせてきてほしいです!」
「なんだよそれ」
「楽しみにしててください!」
美奈子は悪戯を企んでいる子どものようにわくわくした様子だった。気になるけれど、こういう時の美奈子は絶対に口を割らないので、俺はあれこれ尋ねるのをやめ、当日まで楽しみに待つことにした。
美奈子の下宿先は2階で、階段を登って美奈子の部屋に向かう。初めて訪れた時、階段しかないのかと言ったらエレベーターなんてついてるわけないじゃないですか、と言い返されたことが懐かしい。ここに来るのも随分久しぶりだった。
ピンポン、とベルを鳴らす。はーい、とインターフォン越しに美奈子の声が聞こえたので、設楽ですと答えたら、すぐにドタバタと足音が聞こえて、がちゃりとドアが開いた。
「聖司くん!おかえりなさい!」
「ただいま」
にっこりと嬉しそうに笑った美奈子が、俺を出迎えてくれた。つられて俺も頬が緩む。美奈子は、去年一緒にショッピングモールに出かけた時に買ったピンク色のトップスを着ていて、最後に会った時より、髪が少し伸びていた。
「さっ、入ってください!聖司くんの家と比べたら狭いですけど……」
「そんなの別に気にすることじゃないだろ。お邪魔します」
美奈子に招かれ、脱いだ靴を並べ、部屋の中に入る。ローテーブルの真ん中にはたこ焼きを焼く機械が置かれていて、たこ焼きの具材、ソース、マヨネーズなどが並べられていた。
「これって」
「私、聖司くんに食べてほしくて、たこ焼きを焼く練習してたんです!」
「だからお腹を空かせてこいってことだったのか」
「そうです!へへ、聖司くんにびっくりしてほしくて……」
「こんな機械、家庭用に売ってるんだな」
「はい、大学の友達とホームパーティーしたら、友達の家にあったんです」
「へえ」
「それで、聖司くんのこと思い出して、食べてもらいたくて……何回も練習したので、任せてください!」
美奈子は得意げにそう言った。随分前から計画してたんだな、と喜びが溢れてくるような気持ちを感じつつ、先ほどからガタガタと音がして、気になっていた方向へちらりと目をやった。部屋の端のほうには白いゲージが置かれていて、中には美奈子が電話で話していた猫がいた。電話でどんな猫なのかまで聞かなかったが、おそらく三毛猫で、ゲージの中で落ち着かなさそうに走り回っていた。
「あっ、この子がうちの実家の猫ちゃんです」
「ふーん……」
「みけちゃん、聖司くんだよ。はじめましてだね」
俺たちは猫のいるゲージに近づいた。猫は俺のことなど見向きもせず、ゲージを動き回っていた。けれど、美奈子の存在に気づいた途端、ゲージの出入り口のそばまでやってきて、にゃあにゃあと鳴いていた。
「みけちゃん、聖司くんが来てるから今は出られないよ、またあとでね」
「なんて言いたいかわかるんだな」
「最初はわからなかったんですけど、だんだん分かるようになってきました」
「ふーん……。聞くまでもないが、なんでみけちゃんなんだ?」
「三毛猫だからみけちゃんです」
「やっぱり。そのままだな」
「お母さんがつけたから名付け親は私じゃないですよ。さっ、私は早速たこ焼きを作ります!聖司くんは座って待っててくださいね。あっ先に手を洗いますよね!?」
それだったらタオルはこれを使ってください、と急にバタバタと動き始め、白いタオルを取ってきて、はいっと俺の目の前に差し出した美奈子を、腕の中に閉じ込めた。俺をこの部屋に迎え入れたときから、ずっと嬉しそうにしていて、楽しみに準備をしてくれていた美奈子が、愛おしくて仕方なかった。美奈子はそっと俺に体を預けた。とても柔らかくて、こうしてるだけで心地良かった。
「大丈夫、慌てなくていいから」
「だって……聖司くんが私の家にいるの……嬉しくて……」
「俺も会えて嬉しい」
へへ、と照れ笑いする美奈子に唇に小さくキスを落とした。一度触れたら止められなくて、何度も何度も繰り返した。キスとキスの間に、聖司くん、と小さく俺の名前を囁く美奈子がかわいくて、食事よりやっぱり先に美奈子が欲しい。美奈子、と名前を呼んでもう一度キスをしようとしたら、美奈子がふるふると首を横に振った。
「っ、聖司くん、先にごはんです」
「……バレたか」
「バレバレです!せっかく準備したんだから……またあとで、ね?」
美奈子にそう念押しされてしまっては、続きは後にせざるを得ない。もう一度だけちゅっ、と軽くキスをして、美奈子から離れた。美奈子は聖司くん、手を洗ってきてくださいね、とタオルを手渡され、急に現実に引き戻されたような気がした。
***
美奈子のたこ焼きを焼く手際は、思っていたよりも良かった。たこ焼きの機械に生地を流し込むと、じゅうと音がして、美奈子はたこなどの具材を入れていく。そのうちに生地が固まってきて、くるりんと綺麗にひっくり返す。たこ焼きが出来上がっていく様子は、いつか商店街で見た本物の店員のようで、見ているだけでも面白かった。聖司くんもやってみますか、と言うのでやってみたけど、形がすぐに崩れてしまって、なかなかうまくいかなかった。ひっくり返すタイミングとか、綺麗に丸く焼くコツがあるようで、美奈子がたくさん練習したことがよく分かった。
「どうでしたか?」
「美味かった、本当に練習したんだな」
「はい、ふたりで食べてたらあっという間に全部なくなりましたね」
美奈子はひたすら焼きながら出来上がったものを食べて、食べながらまた新しく焼いてを繰り返し、その間に俺と他愛もない話をして、忙しなかった。せめて片付けを手伝おうとしたら、聖司くんはお客さんだから座っててください、と断固拒否されたので、大人しく座っていることにする。
キッチンで片付けをしている美奈子を眺めながら、ふと敷かれているカーペットに目線が移る。前に来た時は、こんなのなかったな、と思った。なんとなくやっぱり心が重くなる。はば学にいてよく会っていた頃、卒業しても時々会えていた頃は、美奈子の些細な変化も知ることができたけれど、今はそうではないことを痛感せざるを得なかった。
片付けを終えた美奈子は、聖司くんからのお土産も一緒に食べましょうと、俺がパリから買ってきたお土産のお菓子を並べて、お揃いで買ったマグカップにコーヒーを淹れてくれた。テーブルにそっと置いた後、俺の隣に座った。
「……聖司くんに会わない間に、聖司くんの知らないことがたくさん増えた気がします」
「え?」
「例えば、いま着てるお洋服とか。グリーンが入ってるお洋服、着てるのはじめてみました」
「適当に買ったやつだよ。俺だって、おまえが猫飼ってるの知らなかった」
「あんまり動物の話、しなかったから……」
「大学の友達とホームパーティーした話も知らない」
「聖司くんとなかなか話せなかった時期のことです」
「……なんだよそれ」
思わずむっとしてしまう。会話の雲行きが怪しいと感じたけれど、自分では止められなかった。確かに、試験が近い時期は美奈子とも電話やメールの頻度が減っていた。なるべく連絡するようにはしているけれど、俺だって、忙しい。当たり前だろう、遊びに行ってるわけじゃないんだから。心の奥底から沸々としたなんとも言えない気持ちが溢れてくる。美奈子にそんな意図はないだろうけど、連絡が少ないことを責められてるような気がして、少し苛立った。
「あのな、パリには、」
「わたし、さみしかったのかも」
勉強しに行ってるんだぞ、と口にしようとしたと同時に、美奈子からぽつりとつぶやかれた、さみしかったのかも、の一言。俺は頭に冷水をかけられたような気持ちになった。少し感情的になって苛立ちをぶつけてしまいそうになっていたのに、美奈子は素直に心をまるごと、そのまま見せてくれたような気がしたからだ。
「聖司くんも頑張ってるし、私も頑張らなきゃって思ったんですけど、……ちょっと強がってただけなのかも」
「美奈子……」
「本当は会えなくて、すごくさみしかったです」
美奈子は少し震えた声でそう言って、俺の肩に頭を乗せて寄りかかってきた。美奈子がこうするときは、甘えたい時だということを俺は知っているし、さみしい、の一言であっという間に苛立ちなんてどこかへ行ってしまった。俺は美奈子の肩をそっと抱いた。
「……なんで」
「?」
「なんでいつも、美奈子は俺の欲しい言葉をくれるんだろうな」
「自分の感じた気持ちを、伝えてるだけです」
「それがおまえのすごいところで、いいところなんだよ」
美奈子と出会って、知らないことがこの世界には山ほどあること、感じたことのない気持ちや言葉にできないような思いをたくさん知った。そして、美奈子はいつも、恐れることなく、自分のこころを、うつくしい言葉で、当たり前のように俺に見せてくれる。美奈子がそうであるのなら、俺もできるだけそうありたいと思う。たぶん、本当は俺だって。
「……俺もさみしかった」
「よかった、寂しいの、私だけじゃなくて」
「ああ。……好きだ」
「もっと言ってください」
「愛してる」
「私も愛してます」
目線が絡み合って、どちらからともなく唇を重ね合う。当たり前だけど、離れている分、俺の知らない美奈子が増えていくし、美奈子の知らない俺だって増えていく。だから、お互い様といえばお互い様だし、離れている分、もっと素直に言葉を交わし合うしかないのだ。好きだと伝えるだけで、こんなに幸福になることを俺は知らなかった。今度こそゆっくり美奈子を味わおうと、美奈子をぎゅっと抱きしめて、深く口付けた。お互い舌を絡ませて、どちらの唾液が分からないものがたらりとこぼれて、美奈子からだんだん甘い声が漏れてくる。
「あっ、コーヒー……冷めちゃう……」
「あとで淹れ直せばいいだろ、もう待たない」
「聖司くん、」
とろんとした目の美奈子にもう一度口付けようとした時、突然、にゃーーー!と大きな猫の鳴き声が聞こえた。ふたりとも一瞬体をびくりと震わせ、同時にゲージのほうを見た。こいつがいることを、俺はすっかり忘れていた。
「……みけちゃん、聖司くんが私のこといじめてるって思ってるかも」
「そんなことしてない」
「みけちゃんから見たらそんなのわからないですよ」
「…………」
「むっとした顔しないでください。……あっち、行きましょうか」
今はふたりきりがいいから、と美奈子は伏し目がちにそう言い、俺の手を引いて、寝室へ招いた。最初から最後まで、俺は美奈子に敵うことなんかないと思った。
20240710