Short Story
Name chenge
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□□□ 君がいたから[啓介] □□□
放課後。
試験期間が終わったばかりの校舎には、解放感をまとった生徒たちの足音が響いていた。笑い声、軽い足取り、部活へ向かう声。
そのすべてが、啓介には遠い世界のものに思えた。
がらんとした空気が漂う廊下を抜け、啓介は無言で図書館の扉を押した。
普段なら絶対に足を踏み入れない場所。静かすぎて落ち着かない。そもそも本なんて読まない。
本当なら、今頃バイクをぶっ飛ばしてピリピリと刺激的な風を感じていたかった。
「反省文、だとよ……」
啓介は小さく舌打ちをする。
些細なことから発展したケンカ騒動が、教師の目には暴力沙汰に映ったらしい。罰として、課題図書を読んで反省文を提出するよう言い渡された。
そんな面倒なことはごめんだと思いつつ、これを無視して起こる面倒事もなんとなく予感できた。詳細が書かれたプリントを握り潰しながら、仕方なくこの静かな図書館に足を踏み入れた。
しんと静まり返った空間。人の気配も感じない。少し湿っぽい匂いが鼻につき、立ち並ぶ本棚の圧に息苦しさを感じる。
啓介は、課題図書を探すことも嫌になった。
ーーカタンッ
小さな音だが、やけに響いて耳に届く。
音の方、貸出カウンターに一人の女子が座っていた。図書委員だろう。
名前は知らないが、確か学年上位の成績だと聞いたことがあった。
整った黒い髪と眼鏡、静かな佇まいが印象的だった。いかにも優等生って感じの落ち着いた雰囲気で、どこか啓介のよく知る人物と重なる雰囲気を纏っている。
啓介に気付いた彼女が向けた静かな視線に、啓介は思わず顔を逸らした。
その目は何かを見透かしているようで、どこか居心地が悪かった。兄が啓介を見つめる『あの目』に、少し似ていた。
「なぁ、本探してんだけど」
「どんな本ですか?」
シワシワになったプリントを広げ、本のタイトルが書いてある部分を指差す。
「反省文書けって言われて……」
彼女は無言のままプリントを見つめ、少しだけ目を細めた。
図書委員をしている彼女は、反省文を書けなんてプリントをもらったことなんてないだろう。こんな課題があることに驚いているのかもしれない、そして、啓介の姿容を見て納得しながら軽蔑しているのだろう。校則違反の明るい髪に着崩した制服、不真面目な生徒そのものだ。
「あぁ……あれかぁ。ふふっ」
少しの間があって、それから彼女は何かを思い出したかのように小さく笑った。
その笑顔は啓介が予想していた『軽蔑』とは違うことに、わずかに安堵する。
場違いな空間に、場違いな自分。
その違和感を、彼女の笑顔が少しだけ和らげてくれた気がした。
彼女は迷わずに目的の本棚に向かい、詰め込まれた本の中から1冊を抜き出し、どうぞと啓介に差し出した。
「どうも」
受け取った課題図書が思ったよりも厚みがなかったことにほっとしたが、表紙を見ても興味を感じる部分がない。
「貸出手続きするので、学年とクラスと名前、お願いします」
図書委員の仕事をテキパキと進める彼女の凛とした声に、思わずハキハキと答えた。
「2年7組、高橋啓介」
彼女の手が、一瞬止まった。
啓介の名は、校内でもそれなりに知れているだろうが、いったいどんな悪名を耳にしたのだろう。
メガネの奥の目を見開きながら、啓介の顔をじっと見つめる彼女。威圧感とも圧迫感とも違う、派手さもないのに強い存在感を示す深い色の瞳。
人に視線を向けられることに慣れている啓介も、『あの目』と似ている視線を真っ直ぐに向けられ、さすがにたじろいだ。
「高橋先輩の……、弟くん?」
——なんだ、そういうことか。
彼女は、兄涼介を知っている。
彼女の驚きの反応が腑に落ち、啓介は溜めた息を吐いた。
「……そうだけど。だから何だよ」
どうせ、涼介と啓介の風貌と素行を比較して驚いたのだろう。教師も、親も、同級生たちもそうだから。
『弟は出来が悪い』『素行の悪い弟がいて、お兄さんに悪影響を与えている』『同じ遺伝子なのに可哀想』と、今まで散々耳に入った言葉が過ぎる。
「……どうせ、反省文を書くような弟がいることに驚いたんだろ」
『涼介の弟』。その剥がせないレッテルのせいで、いつも勝手に期待されて勝手に失望されてきた。兄と同じことが、啓介には出来なかった。じっと座って勉強して、テストで100点を取って、礼儀正しくルールを守って行動する。そんな当たり前のことができない啓介を、みんな「出来が悪い」と言った。
みんながそういうなら、その通り『出来を悪く』にする方が気が楽だった。最初から期待もされず、失望もされない。どうせ頑張ったって、涼介のような『優等生』にはなれないのだから。
だから、反省文を書くようなことになったのだが。
「そんなことないよ」
困ったように眉を寄せる彼女。
図星だったのだろう。
どうせ、みんなと同じだ。似た『あの目』の兄と同じように否定はしても、きっとみんなと同じなんだろう。じゃあ、兄も……。
手続き途中の本を強引に取って、さっと背を向け入り口に向かった。これ以上あの目に見られたら、自分のことを唯一理解してくれていると思っていた兄も、実はみんなと同じように思っているのかと考えてしまいそうだ。心の支えが揺らいでしまう気がする。不安か苛立ちか、胸の奥が詰まったようで苦しい。
早く、ここから出たい。あの目から逃げたい。
しかし、ガラス扉の向こうに見えた人影に、思わず踵を返してしまった。
出くわした相手に「なぜお前がこんなとこにいるのか」って訝しがった視線を向けられたら、それだけでこのむしゃくしゃした感情が爆発しそうだった。
そのまま図書館の一番奥まで進み、窓際の席にどかっと腰をおろした。
外では野球部が、テスト明けの緩い練習をしているのが見える。かけ声を出し合いながら、明るい陽の下で仲間たちの白球を追っている。
今の啓介と大違いだ。
いつから啓介は、あの爽やかな青春を感じるコミュニティから外れてしまったのだろう……。自分で進んだ『劣等生』の生き方なのに、周りに馴染めず後ろめたさを感じる瞬間に寂しさを感じた。
この後ろめたさは、兄の弟なのに、兄の足を引っ張るような自分の価値、兄のそばにいたいのに、いてはいけない存在。兄とは違う道を選んだはずなのに、その道の先でさえ、自分の居場所が見つからない気がした。
胸の詰まるようなねっとりとした感情に、啓介は顔を歪ませた。
図書館の静かで重厚な空気は、そんな啓介を更に重く包んでいた。
机に肘をつきながらつまむようにページを捲る。目障りな文字の羅列にこれでもかと睨みを利かす。意味はまったく頭に入ってこない。
「……チッ」
「あの、これ……」
舌打ちした啓介に、遠慮がちに声がかけられた。いつの間にか、彼女が席の近くに立っていた。
貸出期限が書かれたカードを差し出す。
「さっきはごめん、名前を聞いてびっくりしちゃって。高橋先輩と似てると思ったの。だから、ちょっと懐かしくなっちゃった」
似てる? どこがだ?
幼い頃は、作りはソックリとは言われていた。
ただ、成長とともに少しずつ違いが出てきたり、何より中身が全く違った。
こんなバカな弟と似ていると思われるのは兄も嫌だろうと、髪の色を変えたり服装を変えたり、……そうしているうちに正反対な印象を人に与えることになった。
似てるだなんて、最近言われたことはない。
彼女こそ似ている。
知的で、艶やかな黒い髪、多くを話さないが啓介の心を見透かすような眼。兄の持つ雰囲気に似ている。
「全然違うだろ、アニキと」
「ううん、似てる。特に目が似てるって思った」
そう言って、見つめる彼女の目は、嘘はついているとは思えないように真っ直ぐだった。
そうかよ、と気恥ずかしくなって手元の本に視線を戻した。
「あたしもその本読んだ時、思わず本睨んじゃったよ。啓介くんと同じ2年の時に、ちょっとやらかしてね。それで、この本読まされたの」
「……あんたが?」
「うん。反省文、書いたよ」
静かに目を細めて微笑む彼女とは対象に、啓介は目を見開いた。
「……マジかよ」
「マジマジ。この本読んで余計に腹が立ったなぁ」
腹がたったと言いながらも、懐かしそうに微笑む彼女の横顔を見つめた。
意外だった。
校則をきっちりと守った装いで、物静かな佇まいの彼女のような『ちゃんとした』人間にも、そんなことがあるのか。
「何したんだよ」
「聞きたい?」
ふふっと漏らした笑みは、澄ました顔を悪戯っぽくほころばせた。
あんなに重かった図書館の空気が、ふわりと柔らかくなった。一方的に持っていた警戒心も虚勢も、この空気の中で和らいだ。
「一度書いたことあんなら手伝ってよ、はんせー文書くの」
啓介にしてはずいぶん素直な言葉が、口から出た。
いつもなら、誰かに頼るなんて格好悪いと思っていた。けれど今は、虚勢を張るよりも、彼女に甘えてみたいと思ってしまった。
静かで、理知的で、何も言わなくてもこちらの気持ちを察してくれるような眼差し。啓介が唯一心を許している兄と、どこか重なる空気を纏っている彼女に。コラと嗜められても良いから、一歩内側に入りたくなった。
兄と似ているのに、違う。違うのに、似ている。
その曖昧さが、啓介には心地よかった。
「それじゃ、反省にならないよ……。でも、良いよ。こんな課題、大人が形式化させてるだけだもの。内容に大した意味を持たないんだから、私の書いたの写せばいいよ」
「——へぇ、意外。優等生がそんな不真面目でいいのかよ」
正しさを押しつけるのではなく、啓介に寄り添うような柔らかさがあった。
「優等生って、ズルすることを知ってるから、なれるんだよ」
「なんだよ、それ」
ズルする不真面目な優等生。矛盾した言葉に納得できない気持ちと、彼女の言葉ならそう思えてしまう気持ちが重なる。
「——、じゃぁ、アニキもそうなのかな?」
「高橋先輩は……どうなんだろ。でも、そんな気がする」
優等生の兄。そばにいたいのに、近くにいることで汚れを付けてしまう気がして。自分の存在が、兄の評価を下げるんじゃないかと、心のどこかで怯えていた。
「——もしそうだったら……、俺みたいな不良が近くにいても、迷惑になんないかな?」
思わず漏れた言葉だった。
彼女の言葉が、兄も完璧じゃないかもしれないという可能性をチラリと見せてくれた。
誰にも言ったことのない本音。兄にも、もちろん言えなかった。
「え? そんなこと考えてたの? なんない、なんない! 高橋先輩がそんなこと言ったの?」
「アニキは言ってないけど、みんな言ってるし」
「みんなって……。啓介くん、意外にそういうの気にするんだね」
「別に気にしないけど、アニキに迷惑かかるのは嫌なんだ……」
口ごもったのは、こんな内側に隠していた気持ちをこぼしてしまった自分に戸惑ったからだ。
彼女の静かで温かな眼差しが、啓介の心の奥にあるものを、そっと受け止めてくれるように感じた。
「啓介くんは、高橋先輩のこと大好きなんだね」
「そんなんじゃねーよ」
反射的に否定したけれど、彼女の茶化すわけでもない笑顔に、啓介はそれ以上何も言えなかった。
兄を好きなことを指摘されるのは、照れくさくて、でも少し嬉しかった。
すれ違うように過ごしていても、本当に好きなのだ、兄のことは。
その瞬間、チャイムが鳴った。
「あ、もう閉館時間だ。また明日ね」
また、の約束。
居場所をくれたようで、啓介の胸の奥にほんの少しだけ温かいものが灯った。
退屈だった学校に、少し楽しみができた。
ーーーーーーーー
「あーっ、くそっ」
帰宅後。
ベッドに寝転びながら、課題図書をパラパラめくりながら読む。案の定、面白くもなんともなかった。
まるで『これが正しい生き方だ』と押し付けてくるような文章に、余計にイラついた。
そういえば、彼女も「むかついた」って言ってたな。
あんなに涼しい顔で優等生で、それなのに啓介と似たような感情を持って、それを爆発させたことがあるんだなんて。
もしかしたら、この部屋の壁を隔てた隣に居る人物も、同じかもしれない……。
そんなことはないか。『高橋家代々で一番優秀』『我が校きっての秀才』と言われ続けている兄、涼介。一緒にいる時間が長いはずの啓介ですら、兄の乱れた姿をほとんど見たことがない。
「啓介。珍しいな、読書なんて」
部屋のドアを開け、兄が声をかけてきた。
「あー、ちょっとね……」
表紙に視線を移した兄が「昔読んだ」と呟いたので、思わず飛び起きた。
「まさか、アニキも反省文?!」
「違うけど。——啓介、反省文書くようなことしたのか?」
「うっ」
自ら吐いてしまった失態に、兄の反応を恐々と伺う。
「手伝うぜ? こんなの大事な課題じゃないんだから」
兄の口から出たのは、彼女と同じセリフだった。
兄もズルすることも知ってる優等生だと分かり、どこかホッとした。
「自分で書いてみる」
口から出た言葉に、啓介自身も実は驚いた。兄の助けを拒否したかった訳じゃない。劣等生の自分にできる何かがあるかもしれない、そんな好奇心が僅かに胸の奥に灯ったからだった。
兄は一瞬驚いたように眉を上げた後、「あんまり考え過ぎるなよ」とだけ言って、静かに部屋を出ていった。
がんばれとは言わない兄の言葉。
以前は、頑張っても追いつけないと思われているように感じていた。でも今は、それが啓介のペースを尊重してくれていることだと、少しだけ理解できるようになっていた。
ーーーーーーーー
翌日の放課後。
図書館の扉を押すと、昨日と同じ空気が啓介を迎えた。けれど今日は、緊張はしなかった。
彼女は、カウンターの奥で本を整理していた。啓介の姿に気づくと、軽く手を挙げた合図をした。
「来たね」
「……約束したし」
昨日と同じ奥の席に座ると、しばらくして彼女は隣に座った。
「読んだけど、やっぱムカついた」
「だよね! ってか、読んだんだ! 真面目だね、啓介くん」
言われ慣れていないから、くすぐったくて照れくさかった。
「でもね、時間経ってくるとちょっと大人が言いたいこともわかってくるんだよね」
「それで、この本に書いてるみたいな良い子ちゃんになったってわけ? オレはそんな良い子ちゃんになれないぜ」
「良い子なわけないでしょ、はいこれ、私のはんせー文」
イタズラっ子のようにはにかみながら、原稿用紙を差し出した。整った綺麗な字が並ぶ用紙は、触れて良いのかためらうほどだった。
「マジで写していいのか? ほんとに優等生かよ」
さすがに冗談かと思っていただけに、なんのためらいもなく啓介に見せる彼女の行動に唖然とした。
「え? ズルするの嫌? んーじゃあね、この本から大人が好きそうだなって思う部分を書き写して、ちょこっとだけ反省してますって書いといたらいいよ。大した課題じゃないから」
「アニキとおんなじこと言ってる。ってか、そんな提案するって、全然良い子じゃないじゃん」
「そんなに、良い子に見えてた?」
「見えてた、今だって見た目はそう見える」
「得でしょ、私」
あっけらかんと笑う彼女。
見た目で勝手に判断されることなんか、啓介はよく分かっているはずなのに、結局啓介も見た目で人を判断していた。
からっとした笑顔を見せている彼女は、規律に沿った姿の彼女は、本当は……。
渡された彼女の反省文を読むことで彼女の内側を少しでも感じ取れたらと、視線を落とす。でも、綺麗な文字で書かれた整った文章は、まるで課題図書で言われる『良い子ちゃん』そのもので、『彼女』がいなかった。
これを写すのもどこかいけないような気がして、ぼんやりと眺め続けながら机に置いたままペンを持てずにいた。
反省文は手つかずのまま、時間が過ぎて行く。
「じゃあさ、この紙にとりあえず感じたこととか反省したこととか書き殴ってみよう」
啓介が気乗りしていないことに気付いた彼女から、次の提案が出された。啓介の前に裏紙がさしだされる。
啓介は、ペンを握った。
「……思ったことなんて上手く書けねえよ」
「ぐちゃぐちゃのまま書いてみたら? 単語でも、文字じゃなくて矢印とか○や×でも」
とても文章を書くための作業と思えない提案に、最初は躊躇しつつも、少しずつペン先が紙の上を滑り始めた。文字にならないぐちゃぐちゃの図形に矢印を指したり、イコールで繋いだり……。言葉にできないムカつきや、自分でも気づいていなかった感情が形となって紙上に現れる。
隣で彼女が小説のページをめくる音が、図書館の空気を静かに動かしていた。
それに気付かないまま、啓介は手を動かし続けた。
「啓介くんって、やっぱ真面目だよ」
その声にはっと気づくと、閉館のチャイムが響いていた。
イスに座って机に向かう時間がこんなにも早く過ぎたことは、今までなかった。授業中も、説教中も、時間の進むスピードの遅さにうんざりしているのに。
じっとしているのが苦手で、決められたことをするのが嫌いで……そんな啓介のことを『不真面目』と表現する奴らばかりだった。真面目なんてカッコ悪いし、啓介には似合わない。誰にもそう呼ばれたこともないし、自分でもそう思ったことはなかった。
唯一、兄だけが啓介の真面目さを口にすることがあったが、それは不思議なことで、嫌味と捉えた時も過去にはあった。
「オレのことマジメって言うけどさ、アンタみたいな本読んで勉強できて、大人や教師に認められて……。そんな奴のことを言うんだろ」
とは言いながら、そんな真面目な彼女も反省文を書くようなことを起こしていたとすれば、真面目と不真面目の線引きは曖昧だ。
「こんなに自分に向き合うって、真面目でないとできないよ」
ポツリと呟いた彼女。
しっかり者で優等生の彼女が、差し込んだ夕陽の中でふと揺らいだ。
儚くて崩れそうな姿に、啓介は思わず手を伸ばしそうになって、思い止まった。
優秀な彼女を支えることなんか、不良な啓介にはできないと思ったから。
ーーーーーーーー
図書館に来るのは、これで3日目。
貸し出し手続きをしている彼女を横目に、いつもの窓際の席に座った。
昨日の裏紙に殴り書いたメモを眺めながら、反省文の下書きを書き出したが、文章にするのはかなり苦手だった。原稿用紙に書いては、それをぐちゃぐちゃに握り潰すことを繰り返す。
「苦戦してるね」
彼女が声を掛け、昨日とは違う小説本を手に隣に座った。
「……なんか、うまく書けねえ」
「見せてみて」
啓介は、ためらいながらも一度潰した紙を広げて渡した。
彼女がじっと原稿用紙の文章を辿る様子を、ごくりと息を呑んで伺う。書いた文章を読まれるのは、まるで心の中を読まれているようで心地悪かった。それでも、彼女にならそれを許そうと思えた。
目を少し見開いて何か考えるように小さくうなづいた後、彼女は啓介を向いてにっこりと笑った。
「書けてるよ、ちゃんと。啓介くんの言葉で書けてる。良いね」
褒められるような綺麗な文章ではないと分かっていても、彼女の言葉に嘘がないのも伝わって嬉しかった。
「自分の気持ちを整理することって、大事って分かっていても、なかなかできないんだよね」
呟かれた言葉。
啓介を褒める言葉、だけのようには感じられなかったのは、気のせいか。
それから、彼女に言葉を引き出してもらいながら続きの文章を考えていった。彼女が隣にいると、荒い文章でも汚い文字でもそれが『啓介らしさ』で無理に取り繕わなくていいと後押ししてくれているようで。不思議とペンが進んだ。
閉館時間が迫る頃、反省文はようやく完成した。
「終わった~!」
思い切って伸びをした啓介は、窓からそよぐ風を思いっきり吸い込んだ。
こんなに爽やかな気持ちになれるなんて。
なんだ、やろうと思えばできるんだ、オレ。
不真面目で、不良で、頭も良くない自分が、一つの課題に真剣に仕上げるなんて。自分のことなのに、不思議に思える。
もちろん啓介だけの力じゃないのは分かっている。ただ、誰かに力を借りることで、啓介でもできることが広がるんだ。その実感を彼女が与えてくれたことが、とてもありがたかった。
劣等を抱える啓介の中に、ほんの少しでも自信をくれたのが、彼女だった。
「サンキューな」
真剣に伝えるのは気恥ずかしくて、目線をずらしながら伝えた啓介に、「どういたしまして」と返した彼女。
なぜだろう。彼女の笑みが、穏やかなのに、でも少し陰っているのは。
『ズルいこと』を進める時に見せた、悪戯っ子のようなあっけらかんとした明るさは、ない。
「啓介くんはさ、考えることを諦めちゃうのと、文章にするのが苦手なだけなんだよ。でも今回は、時間を掛けてちゃんと考えて向き合った。すごいよ」
「でも、賢い奴ならもっと簡単に綺麗な言葉で書けるだろ」
「綺麗すぎる言葉って意外と心に残らないんだよね……」
啓介は、啓介の反省文に視線を落とす彼女の横顔を見た。
そう言われると彼女の反省文は、確かに綺麗で整っていた。でも、彼女がどんなことを考えて反省したのかなんて、書いていたのかどうかももう思い出せなかった。
夕陽の中に溶けてしまいそうな儚い彼女の姿。
彼女も、優等生の道を選びながらもその場所に居心地の悪さを感じているのかもしれない。
だとしたら、啓介に何かできることはないんだろうか。啓介に少し自信を与えてくれた彼女に、少しでも返せることは……。
俯いた彼女とその横顔を眺める啓介との無言の間に、さぁと風が吹き込んだ。
なびいた髪が、再び頬に落ち着いた後、彼女は顔を上げ啓介と視線を合わせた。深い色の瞳は、先ほどまでの儚さではなく、凜とした力強さを見せていた。
彼女も、変わろうとしているんだ。
「ねぇ、そのプリントちょうだい」
彼女が指さしたのは、啓介が彼女から渡されぐちゃぐちゃに殴り書いた裏紙だった。
こんなゴミがなぜ欲しいのかと、首を傾げる。 それでも、彼女の望むことならと、彼女に差し出した。
彼女が受け取った裏紙をひらりと裏返すと、『進路意向調査・自己分析シート』と書かれていた。3年生にとって、とても重要な書類であることが分かり、啓介は慌てた。啓介なんかが汚していい物ではない。優等生の彼女の未来を示す大事なプリントだ。
啓介の焦りとは裏腹に、彼女はちょっとばつ悪そうにはにかみながら微笑んでいた。
「全然書けなかったんだ、実は。自分と向き合うのも避けてた。今までこれで良いと思ってた優等生のふりが、本当に良いのか分からなくなって。でも間違ってたとしたら、今までの自分は何だったんだろうって、怖くて……」
初めて聞いた、彼女の『彼女そのもの』の言葉。
「でもね、啓介くんが向き合ってる姿を見て……私も、逃げたくないって思えた。だから欲しいんだ。啓介くんが『向き合った証』をお守りにさせて」
優等生であることに惑う彼女が、自分自身と向き合おうとしている。
啓介が向き合った証を大切そうに胸に当る彼女を、キラキラとした夕陽が照らす。
その姿は、啓介にとって何よりも眩しく見えた。
「啓介くんのおかげ。背中を押してくれてありがとう」
ありがとうと言われることを、啓介ができたのか。
誰かの迷惑じゃなく、誰かの役に立てたということ。不器用でも、ぐちゃぐちゃでも、言葉や行動が誰かを動かすキッカケになるかもしれないということ。
それなら、もう少しだけ、自分を信じてみてもいいのかもしれない。
不真面目で劣等生な自分を。
図書館の窓から差し込んだ夕日が、啓介と彼女を照らす。
明日は朝日となって、啓介と彼女の今までとは少しだけ変化した日常を照らすのだ。
2025.11.13
放課後。
試験期間が終わったばかりの校舎には、解放感をまとった生徒たちの足音が響いていた。笑い声、軽い足取り、部活へ向かう声。
そのすべてが、啓介には遠い世界のものに思えた。
がらんとした空気が漂う廊下を抜け、啓介は無言で図書館の扉を押した。
普段なら絶対に足を踏み入れない場所。静かすぎて落ち着かない。そもそも本なんて読まない。
本当なら、今頃バイクをぶっ飛ばしてピリピリと刺激的な風を感じていたかった。
「反省文、だとよ……」
啓介は小さく舌打ちをする。
些細なことから発展したケンカ騒動が、教師の目には暴力沙汰に映ったらしい。罰として、課題図書を読んで反省文を提出するよう言い渡された。
そんな面倒なことはごめんだと思いつつ、これを無視して起こる面倒事もなんとなく予感できた。詳細が書かれたプリントを握り潰しながら、仕方なくこの静かな図書館に足を踏み入れた。
しんと静まり返った空間。人の気配も感じない。少し湿っぽい匂いが鼻につき、立ち並ぶ本棚の圧に息苦しさを感じる。
啓介は、課題図書を探すことも嫌になった。
ーーカタンッ
小さな音だが、やけに響いて耳に届く。
音の方、貸出カウンターに一人の女子が座っていた。図書委員だろう。
名前は知らないが、確か学年上位の成績だと聞いたことがあった。
整った黒い髪と眼鏡、静かな佇まいが印象的だった。いかにも優等生って感じの落ち着いた雰囲気で、どこか啓介のよく知る人物と重なる雰囲気を纏っている。
啓介に気付いた彼女が向けた静かな視線に、啓介は思わず顔を逸らした。
その目は何かを見透かしているようで、どこか居心地が悪かった。兄が啓介を見つめる『あの目』に、少し似ていた。
「なぁ、本探してんだけど」
「どんな本ですか?」
シワシワになったプリントを広げ、本のタイトルが書いてある部分を指差す。
「反省文書けって言われて……」
彼女は無言のままプリントを見つめ、少しだけ目を細めた。
図書委員をしている彼女は、反省文を書けなんてプリントをもらったことなんてないだろう。こんな課題があることに驚いているのかもしれない、そして、啓介の姿容を見て納得しながら軽蔑しているのだろう。校則違反の明るい髪に着崩した制服、不真面目な生徒そのものだ。
「あぁ……あれかぁ。ふふっ」
少しの間があって、それから彼女は何かを思い出したかのように小さく笑った。
その笑顔は啓介が予想していた『軽蔑』とは違うことに、わずかに安堵する。
場違いな空間に、場違いな自分。
その違和感を、彼女の笑顔が少しだけ和らげてくれた気がした。
彼女は迷わずに目的の本棚に向かい、詰め込まれた本の中から1冊を抜き出し、どうぞと啓介に差し出した。
「どうも」
受け取った課題図書が思ったよりも厚みがなかったことにほっとしたが、表紙を見ても興味を感じる部分がない。
「貸出手続きするので、学年とクラスと名前、お願いします」
図書委員の仕事をテキパキと進める彼女の凛とした声に、思わずハキハキと答えた。
「2年7組、高橋啓介」
彼女の手が、一瞬止まった。
啓介の名は、校内でもそれなりに知れているだろうが、いったいどんな悪名を耳にしたのだろう。
メガネの奥の目を見開きながら、啓介の顔をじっと見つめる彼女。威圧感とも圧迫感とも違う、派手さもないのに強い存在感を示す深い色の瞳。
人に視線を向けられることに慣れている啓介も、『あの目』と似ている視線を真っ直ぐに向けられ、さすがにたじろいだ。
「高橋先輩の……、弟くん?」
——なんだ、そういうことか。
彼女は、兄涼介を知っている。
彼女の驚きの反応が腑に落ち、啓介は溜めた息を吐いた。
「……そうだけど。だから何だよ」
どうせ、涼介と啓介の風貌と素行を比較して驚いたのだろう。教師も、親も、同級生たちもそうだから。
『弟は出来が悪い』『素行の悪い弟がいて、お兄さんに悪影響を与えている』『同じ遺伝子なのに可哀想』と、今まで散々耳に入った言葉が過ぎる。
「……どうせ、反省文を書くような弟がいることに驚いたんだろ」
『涼介の弟』。その剥がせないレッテルのせいで、いつも勝手に期待されて勝手に失望されてきた。兄と同じことが、啓介には出来なかった。じっと座って勉強して、テストで100点を取って、礼儀正しくルールを守って行動する。そんな当たり前のことができない啓介を、みんな「出来が悪い」と言った。
みんながそういうなら、その通り『出来を悪く』にする方が気が楽だった。最初から期待もされず、失望もされない。どうせ頑張ったって、涼介のような『優等生』にはなれないのだから。
だから、反省文を書くようなことになったのだが。
「そんなことないよ」
困ったように眉を寄せる彼女。
図星だったのだろう。
どうせ、みんなと同じだ。似た『あの目』の兄と同じように否定はしても、きっとみんなと同じなんだろう。じゃあ、兄も……。
手続き途中の本を強引に取って、さっと背を向け入り口に向かった。これ以上あの目に見られたら、自分のことを唯一理解してくれていると思っていた兄も、実はみんなと同じように思っているのかと考えてしまいそうだ。心の支えが揺らいでしまう気がする。不安か苛立ちか、胸の奥が詰まったようで苦しい。
早く、ここから出たい。あの目から逃げたい。
しかし、ガラス扉の向こうに見えた人影に、思わず踵を返してしまった。
出くわした相手に「なぜお前がこんなとこにいるのか」って訝しがった視線を向けられたら、それだけでこのむしゃくしゃした感情が爆発しそうだった。
そのまま図書館の一番奥まで進み、窓際の席にどかっと腰をおろした。
外では野球部が、テスト明けの緩い練習をしているのが見える。かけ声を出し合いながら、明るい陽の下で仲間たちの白球を追っている。
今の啓介と大違いだ。
いつから啓介は、あの爽やかな青春を感じるコミュニティから外れてしまったのだろう……。自分で進んだ『劣等生』の生き方なのに、周りに馴染めず後ろめたさを感じる瞬間に寂しさを感じた。
この後ろめたさは、兄の弟なのに、兄の足を引っ張るような自分の価値、兄のそばにいたいのに、いてはいけない存在。兄とは違う道を選んだはずなのに、その道の先でさえ、自分の居場所が見つからない気がした。
胸の詰まるようなねっとりとした感情に、啓介は顔を歪ませた。
図書館の静かで重厚な空気は、そんな啓介を更に重く包んでいた。
机に肘をつきながらつまむようにページを捲る。目障りな文字の羅列にこれでもかと睨みを利かす。意味はまったく頭に入ってこない。
「……チッ」
「あの、これ……」
舌打ちした啓介に、遠慮がちに声がかけられた。いつの間にか、彼女が席の近くに立っていた。
貸出期限が書かれたカードを差し出す。
「さっきはごめん、名前を聞いてびっくりしちゃって。高橋先輩と似てると思ったの。だから、ちょっと懐かしくなっちゃった」
似てる? どこがだ?
幼い頃は、作りはソックリとは言われていた。
ただ、成長とともに少しずつ違いが出てきたり、何より中身が全く違った。
こんなバカな弟と似ていると思われるのは兄も嫌だろうと、髪の色を変えたり服装を変えたり、……そうしているうちに正反対な印象を人に与えることになった。
似てるだなんて、最近言われたことはない。
彼女こそ似ている。
知的で、艶やかな黒い髪、多くを話さないが啓介の心を見透かすような眼。兄の持つ雰囲気に似ている。
「全然違うだろ、アニキと」
「ううん、似てる。特に目が似てるって思った」
そう言って、見つめる彼女の目は、嘘はついているとは思えないように真っ直ぐだった。
そうかよ、と気恥ずかしくなって手元の本に視線を戻した。
「あたしもその本読んだ時、思わず本睨んじゃったよ。啓介くんと同じ2年の時に、ちょっとやらかしてね。それで、この本読まされたの」
「……あんたが?」
「うん。反省文、書いたよ」
静かに目を細めて微笑む彼女とは対象に、啓介は目を見開いた。
「……マジかよ」
「マジマジ。この本読んで余計に腹が立ったなぁ」
腹がたったと言いながらも、懐かしそうに微笑む彼女の横顔を見つめた。
意外だった。
校則をきっちりと守った装いで、物静かな佇まいの彼女のような『ちゃんとした』人間にも、そんなことがあるのか。
「何したんだよ」
「聞きたい?」
ふふっと漏らした笑みは、澄ました顔を悪戯っぽくほころばせた。
あんなに重かった図書館の空気が、ふわりと柔らかくなった。一方的に持っていた警戒心も虚勢も、この空気の中で和らいだ。
「一度書いたことあんなら手伝ってよ、はんせー文書くの」
啓介にしてはずいぶん素直な言葉が、口から出た。
いつもなら、誰かに頼るなんて格好悪いと思っていた。けれど今は、虚勢を張るよりも、彼女に甘えてみたいと思ってしまった。
静かで、理知的で、何も言わなくてもこちらの気持ちを察してくれるような眼差し。啓介が唯一心を許している兄と、どこか重なる空気を纏っている彼女に。コラと嗜められても良いから、一歩内側に入りたくなった。
兄と似ているのに、違う。違うのに、似ている。
その曖昧さが、啓介には心地よかった。
「それじゃ、反省にならないよ……。でも、良いよ。こんな課題、大人が形式化させてるだけだもの。内容に大した意味を持たないんだから、私の書いたの写せばいいよ」
「——へぇ、意外。優等生がそんな不真面目でいいのかよ」
正しさを押しつけるのではなく、啓介に寄り添うような柔らかさがあった。
「優等生って、ズルすることを知ってるから、なれるんだよ」
「なんだよ、それ」
ズルする不真面目な優等生。矛盾した言葉に納得できない気持ちと、彼女の言葉ならそう思えてしまう気持ちが重なる。
「——、じゃぁ、アニキもそうなのかな?」
「高橋先輩は……どうなんだろ。でも、そんな気がする」
優等生の兄。そばにいたいのに、近くにいることで汚れを付けてしまう気がして。自分の存在が、兄の評価を下げるんじゃないかと、心のどこかで怯えていた。
「——もしそうだったら……、俺みたいな不良が近くにいても、迷惑になんないかな?」
思わず漏れた言葉だった。
彼女の言葉が、兄も完璧じゃないかもしれないという可能性をチラリと見せてくれた。
誰にも言ったことのない本音。兄にも、もちろん言えなかった。
「え? そんなこと考えてたの? なんない、なんない! 高橋先輩がそんなこと言ったの?」
「アニキは言ってないけど、みんな言ってるし」
「みんなって……。啓介くん、意外にそういうの気にするんだね」
「別に気にしないけど、アニキに迷惑かかるのは嫌なんだ……」
口ごもったのは、こんな内側に隠していた気持ちをこぼしてしまった自分に戸惑ったからだ。
彼女の静かで温かな眼差しが、啓介の心の奥にあるものを、そっと受け止めてくれるように感じた。
「啓介くんは、高橋先輩のこと大好きなんだね」
「そんなんじゃねーよ」
反射的に否定したけれど、彼女の茶化すわけでもない笑顔に、啓介はそれ以上何も言えなかった。
兄を好きなことを指摘されるのは、照れくさくて、でも少し嬉しかった。
すれ違うように過ごしていても、本当に好きなのだ、兄のことは。
その瞬間、チャイムが鳴った。
「あ、もう閉館時間だ。また明日ね」
また、の約束。
居場所をくれたようで、啓介の胸の奥にほんの少しだけ温かいものが灯った。
退屈だった学校に、少し楽しみができた。
ーーーーーーーー
「あーっ、くそっ」
帰宅後。
ベッドに寝転びながら、課題図書をパラパラめくりながら読む。案の定、面白くもなんともなかった。
まるで『これが正しい生き方だ』と押し付けてくるような文章に、余計にイラついた。
そういえば、彼女も「むかついた」って言ってたな。
あんなに涼しい顔で優等生で、それなのに啓介と似たような感情を持って、それを爆発させたことがあるんだなんて。
もしかしたら、この部屋の壁を隔てた隣に居る人物も、同じかもしれない……。
そんなことはないか。『高橋家代々で一番優秀』『我が校きっての秀才』と言われ続けている兄、涼介。一緒にいる時間が長いはずの啓介ですら、兄の乱れた姿をほとんど見たことがない。
「啓介。珍しいな、読書なんて」
部屋のドアを開け、兄が声をかけてきた。
「あー、ちょっとね……」
表紙に視線を移した兄が「昔読んだ」と呟いたので、思わず飛び起きた。
「まさか、アニキも反省文?!」
「違うけど。——啓介、反省文書くようなことしたのか?」
「うっ」
自ら吐いてしまった失態に、兄の反応を恐々と伺う。
「手伝うぜ? こんなの大事な課題じゃないんだから」
兄の口から出たのは、彼女と同じセリフだった。
兄もズルすることも知ってる優等生だと分かり、どこかホッとした。
「自分で書いてみる」
口から出た言葉に、啓介自身も実は驚いた。兄の助けを拒否したかった訳じゃない。劣等生の自分にできる何かがあるかもしれない、そんな好奇心が僅かに胸の奥に灯ったからだった。
兄は一瞬驚いたように眉を上げた後、「あんまり考え過ぎるなよ」とだけ言って、静かに部屋を出ていった。
がんばれとは言わない兄の言葉。
以前は、頑張っても追いつけないと思われているように感じていた。でも今は、それが啓介のペースを尊重してくれていることだと、少しだけ理解できるようになっていた。
ーーーーーーーー
翌日の放課後。
図書館の扉を押すと、昨日と同じ空気が啓介を迎えた。けれど今日は、緊張はしなかった。
彼女は、カウンターの奥で本を整理していた。啓介の姿に気づくと、軽く手を挙げた合図をした。
「来たね」
「……約束したし」
昨日と同じ奥の席に座ると、しばらくして彼女は隣に座った。
「読んだけど、やっぱムカついた」
「だよね! ってか、読んだんだ! 真面目だね、啓介くん」
言われ慣れていないから、くすぐったくて照れくさかった。
「でもね、時間経ってくるとちょっと大人が言いたいこともわかってくるんだよね」
「それで、この本に書いてるみたいな良い子ちゃんになったってわけ? オレはそんな良い子ちゃんになれないぜ」
「良い子なわけないでしょ、はいこれ、私のはんせー文」
イタズラっ子のようにはにかみながら、原稿用紙を差し出した。整った綺麗な字が並ぶ用紙は、触れて良いのかためらうほどだった。
「マジで写していいのか? ほんとに優等生かよ」
さすがに冗談かと思っていただけに、なんのためらいもなく啓介に見せる彼女の行動に唖然とした。
「え? ズルするの嫌? んーじゃあね、この本から大人が好きそうだなって思う部分を書き写して、ちょこっとだけ反省してますって書いといたらいいよ。大した課題じゃないから」
「アニキとおんなじこと言ってる。ってか、そんな提案するって、全然良い子じゃないじゃん」
「そんなに、良い子に見えてた?」
「見えてた、今だって見た目はそう見える」
「得でしょ、私」
あっけらかんと笑う彼女。
見た目で勝手に判断されることなんか、啓介はよく分かっているはずなのに、結局啓介も見た目で人を判断していた。
からっとした笑顔を見せている彼女は、規律に沿った姿の彼女は、本当は……。
渡された彼女の反省文を読むことで彼女の内側を少しでも感じ取れたらと、視線を落とす。でも、綺麗な文字で書かれた整った文章は、まるで課題図書で言われる『良い子ちゃん』そのもので、『彼女』がいなかった。
これを写すのもどこかいけないような気がして、ぼんやりと眺め続けながら机に置いたままペンを持てずにいた。
反省文は手つかずのまま、時間が過ぎて行く。
「じゃあさ、この紙にとりあえず感じたこととか反省したこととか書き殴ってみよう」
啓介が気乗りしていないことに気付いた彼女から、次の提案が出された。啓介の前に裏紙がさしだされる。
啓介は、ペンを握った。
「……思ったことなんて上手く書けねえよ」
「ぐちゃぐちゃのまま書いてみたら? 単語でも、文字じゃなくて矢印とか○や×でも」
とても文章を書くための作業と思えない提案に、最初は躊躇しつつも、少しずつペン先が紙の上を滑り始めた。文字にならないぐちゃぐちゃの図形に矢印を指したり、イコールで繋いだり……。言葉にできないムカつきや、自分でも気づいていなかった感情が形となって紙上に現れる。
隣で彼女が小説のページをめくる音が、図書館の空気を静かに動かしていた。
それに気付かないまま、啓介は手を動かし続けた。
「啓介くんって、やっぱ真面目だよ」
その声にはっと気づくと、閉館のチャイムが響いていた。
イスに座って机に向かう時間がこんなにも早く過ぎたことは、今までなかった。授業中も、説教中も、時間の進むスピードの遅さにうんざりしているのに。
じっとしているのが苦手で、決められたことをするのが嫌いで……そんな啓介のことを『不真面目』と表現する奴らばかりだった。真面目なんてカッコ悪いし、啓介には似合わない。誰にもそう呼ばれたこともないし、自分でもそう思ったことはなかった。
唯一、兄だけが啓介の真面目さを口にすることがあったが、それは不思議なことで、嫌味と捉えた時も過去にはあった。
「オレのことマジメって言うけどさ、アンタみたいな本読んで勉強できて、大人や教師に認められて……。そんな奴のことを言うんだろ」
とは言いながら、そんな真面目な彼女も反省文を書くようなことを起こしていたとすれば、真面目と不真面目の線引きは曖昧だ。
「こんなに自分に向き合うって、真面目でないとできないよ」
ポツリと呟いた彼女。
しっかり者で優等生の彼女が、差し込んだ夕陽の中でふと揺らいだ。
儚くて崩れそうな姿に、啓介は思わず手を伸ばしそうになって、思い止まった。
優秀な彼女を支えることなんか、不良な啓介にはできないと思ったから。
ーーーーーーーー
図書館に来るのは、これで3日目。
貸し出し手続きをしている彼女を横目に、いつもの窓際の席に座った。
昨日の裏紙に殴り書いたメモを眺めながら、反省文の下書きを書き出したが、文章にするのはかなり苦手だった。原稿用紙に書いては、それをぐちゃぐちゃに握り潰すことを繰り返す。
「苦戦してるね」
彼女が声を掛け、昨日とは違う小説本を手に隣に座った。
「……なんか、うまく書けねえ」
「見せてみて」
啓介は、ためらいながらも一度潰した紙を広げて渡した。
彼女がじっと原稿用紙の文章を辿る様子を、ごくりと息を呑んで伺う。書いた文章を読まれるのは、まるで心の中を読まれているようで心地悪かった。それでも、彼女にならそれを許そうと思えた。
目を少し見開いて何か考えるように小さくうなづいた後、彼女は啓介を向いてにっこりと笑った。
「書けてるよ、ちゃんと。啓介くんの言葉で書けてる。良いね」
褒められるような綺麗な文章ではないと分かっていても、彼女の言葉に嘘がないのも伝わって嬉しかった。
「自分の気持ちを整理することって、大事って分かっていても、なかなかできないんだよね」
呟かれた言葉。
啓介を褒める言葉、だけのようには感じられなかったのは、気のせいか。
それから、彼女に言葉を引き出してもらいながら続きの文章を考えていった。彼女が隣にいると、荒い文章でも汚い文字でもそれが『啓介らしさ』で無理に取り繕わなくていいと後押ししてくれているようで。不思議とペンが進んだ。
閉館時間が迫る頃、反省文はようやく完成した。
「終わった~!」
思い切って伸びをした啓介は、窓からそよぐ風を思いっきり吸い込んだ。
こんなに爽やかな気持ちになれるなんて。
なんだ、やろうと思えばできるんだ、オレ。
不真面目で、不良で、頭も良くない自分が、一つの課題に真剣に仕上げるなんて。自分のことなのに、不思議に思える。
もちろん啓介だけの力じゃないのは分かっている。ただ、誰かに力を借りることで、啓介でもできることが広がるんだ。その実感を彼女が与えてくれたことが、とてもありがたかった。
劣等を抱える啓介の中に、ほんの少しでも自信をくれたのが、彼女だった。
「サンキューな」
真剣に伝えるのは気恥ずかしくて、目線をずらしながら伝えた啓介に、「どういたしまして」と返した彼女。
なぜだろう。彼女の笑みが、穏やかなのに、でも少し陰っているのは。
『ズルいこと』を進める時に見せた、悪戯っ子のようなあっけらかんとした明るさは、ない。
「啓介くんはさ、考えることを諦めちゃうのと、文章にするのが苦手なだけなんだよ。でも今回は、時間を掛けてちゃんと考えて向き合った。すごいよ」
「でも、賢い奴ならもっと簡単に綺麗な言葉で書けるだろ」
「綺麗すぎる言葉って意外と心に残らないんだよね……」
啓介は、啓介の反省文に視線を落とす彼女の横顔を見た。
そう言われると彼女の反省文は、確かに綺麗で整っていた。でも、彼女がどんなことを考えて反省したのかなんて、書いていたのかどうかももう思い出せなかった。
夕陽の中に溶けてしまいそうな儚い彼女の姿。
彼女も、優等生の道を選びながらもその場所に居心地の悪さを感じているのかもしれない。
だとしたら、啓介に何かできることはないんだろうか。啓介に少し自信を与えてくれた彼女に、少しでも返せることは……。
俯いた彼女とその横顔を眺める啓介との無言の間に、さぁと風が吹き込んだ。
なびいた髪が、再び頬に落ち着いた後、彼女は顔を上げ啓介と視線を合わせた。深い色の瞳は、先ほどまでの儚さではなく、凜とした力強さを見せていた。
彼女も、変わろうとしているんだ。
「ねぇ、そのプリントちょうだい」
彼女が指さしたのは、啓介が彼女から渡されぐちゃぐちゃに殴り書いた裏紙だった。
こんなゴミがなぜ欲しいのかと、首を傾げる。 それでも、彼女の望むことならと、彼女に差し出した。
彼女が受け取った裏紙をひらりと裏返すと、『進路意向調査・自己分析シート』と書かれていた。3年生にとって、とても重要な書類であることが分かり、啓介は慌てた。啓介なんかが汚していい物ではない。優等生の彼女の未来を示す大事なプリントだ。
啓介の焦りとは裏腹に、彼女はちょっとばつ悪そうにはにかみながら微笑んでいた。
「全然書けなかったんだ、実は。自分と向き合うのも避けてた。今までこれで良いと思ってた優等生のふりが、本当に良いのか分からなくなって。でも間違ってたとしたら、今までの自分は何だったんだろうって、怖くて……」
初めて聞いた、彼女の『彼女そのもの』の言葉。
「でもね、啓介くんが向き合ってる姿を見て……私も、逃げたくないって思えた。だから欲しいんだ。啓介くんが『向き合った証』をお守りにさせて」
優等生であることに惑う彼女が、自分自身と向き合おうとしている。
啓介が向き合った証を大切そうに胸に当る彼女を、キラキラとした夕陽が照らす。
その姿は、啓介にとって何よりも眩しく見えた。
「啓介くんのおかげ。背中を押してくれてありがとう」
ありがとうと言われることを、啓介ができたのか。
誰かの迷惑じゃなく、誰かの役に立てたということ。不器用でも、ぐちゃぐちゃでも、言葉や行動が誰かを動かすキッカケになるかもしれないということ。
それなら、もう少しだけ、自分を信じてみてもいいのかもしれない。
不真面目で劣等生な自分を。
図書館の窓から差し込んだ夕日が、啓介と彼女を照らす。
明日は朝日となって、啓介と彼女の今までとは少しだけ変化した日常を照らすのだ。
2025.11.13