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君を忘れるということ

 強い風が吹きつけるたびに、ひらひらと薄紅色の花弁が舞う。薬研はそれを手の平で受け止めて静かに微笑んだ。
「良い日和だな」
「そうだな」
 欠伸をしながら不動はのんびりと答えた。酒は本丸に置いてきたらしいが、ほろ酔い気味だ。
 本能寺の遠征を終えて二日が経つ。主の計らいで思わぬ休日を得た二人は連れ立って桜の咲く丘へやって来た。春になると、この辺り一帯は桃色に染まる。桜は本丸の庭でも咲くが、場所が変わると趣も変わる。遠くに見える豆粒のような我が家を眺めながら、薬研は大きく伸びをした。こんなにもゆったりとした気分になるのは久し振りだ。
 しばらく二人は並んで景色を眺めていたが、ふいに不動がぎこちなく呟いた。
「……あー。その、なんだ。花が散る前に、みんなで花見をしねぇとな」
「花見?」
「いつだったか言ってただろ。春が来たら花見がしたいって」
 少し考えて、薬研は思い出した。不動が竈の火を見て錯乱した時、確かに言った。
「聞こえていたのか」
「まあな」
「それに、覚えていたんだな」
「まあな。……しょうもねーことだから、すぐに忘れるだろうって思っていたんだけどな」
 薬研から顔を背けて不動は返した。風が吹き、花弁がまた舞い上がる。その行き先を目で追いながら、不動は続けた。
「あの時、信長様と蘭丸を救わなかったこと、後悔していないと言えば嘘になる」
「不動」
「心配すんな。使命なら理解している。……でも、本当は」
 言葉を切って、不動は小さく洟を啜った。
「本当は助けたかった。この手で」
「そうだな」
 春の日差しを浴びる不動の背中を、薬研は目を眇めて見つめた。長い髪が風に揺れている。
「あの刀、主と一緒に渡れたかな」
「うん?」
「彼岸へさ」
「…………」
「ほんの少しだったけど、弔えて良かったよ」
 話を聞きながら、薬研は無言で頷いた。炎の中で斃れた男とその刀の弔いは、そのまま主と自分の弔いだったとも言える。人の身を得てできることは生殺与奪だけではない。死を悼み、想い続ける――そういう道も残されている。
 そして、自分はその道を選んだ。
「なあ、薬研。あの時、あの場所で、お前は何を考えていたんだ? 信長様の傍で……」
 薬研は目を上げた。不動はまだ背中を向けて遠くを眺めている。舞い散る花弁が火の粉に変わり、薬研は一瞬で『あの日』に引き戻された。
 出口を探して漂う煙。
 獣のような叫び声。
 渦巻く炎。
 けれど、あの人だけは静寂の中にいた。
「何も考えられなかったさ。あんな目を、見ちまったらよ」
 俯いて、薬研はポツリと答えた。あの日、あの場所で、あの人は何を考えていたのだろう。刀身に自らを映して、一体何を。埒も無い、と薬研は頭を軽く振って考えるのをやめ、代わりにそっと微笑んで続けた。
「ただ……。主と守り刀には、こんな終わり方もあるんだなって思った。それだけだ」
「お前らしい答えだな」
 聞き覚えのある言葉だ。竹藪の前で交わした会話を思い出して、薬研はさりげなく不動に目をやった。しかし、不動は気付いていないのか、穏やかな表情で手の平の花弁を眺めている。そして、しみじみと、
「お前はもう割り切っているんだな。本能寺のことや、信長様以外の主のことも。けど、それでも、お前を見ていると考えちまうんだ。本当は傷ついているんじゃねーかって」
「俺が強がりを言っていると?」
「周りを気遣って平気な振りをしている、とかな。いかにもありそうだろ?」
「買い被りすぎだ。俺はそこまで出来ちゃいない」
 笑って、薬研は言った。
「そうやって笑うところもさ」
「…………」
「だから、記憶を失くしている間は不安だった。お前に嫌な思いをさせているんじゃねーかって」
「俺が?」
 思いもよらない言葉だった。
「そうだよ。俺が思い出せない間は、ずっと織田での出来事がついて回る。思い出すのも辛いことだって俺のために話さなきゃいけなくなる。それが……耐えられなかった」
「それで、俺を避けていた?」
 不動は答えなかったが、おそらく図星だろう。お前のことを大切に思うが故。ふいに骨喰の言葉が脳裏をよぎる。少しの沈黙の後、薬研は静かに口を開いた。
「お前を苦しめているのは、俺だと思っていた」
「どういうことだ?」
 今度は不動がきょとんとした顔で首を傾げた。
「お前と逆さ。お前にとって俺は、本能寺の火そのものだと……。だから避けるのだと、最初はそう思っていた。だが、骨喰にその考えを否定されてな。それから、ずっと考えていた」
「しょうもない理由で驚いたろ?」
「いや。お前らしい理由だと思ったよ」
 深く息をついて、薬研は穏やかに返した。不動は信長の影など見ていなかった。一人の同胞を、ただ真っ直ぐに見つめていた。
「織田での日々を忘れたと知った時、正直、実感なんて無かった。顕現した後のことはちゃんと思い出せたし、不都合は無いって……そう思ってた」
 桜色に煙る本丸を見つめながら、不動は溜め息混じりに言った。
「でも、なんかフワフワして落ち着かねぇんだ。そうしているうちに、過去が空っぽなのは根無し草と変わらねーってことに気付いて……。おかしな話だけど、俺そのものが消えちまうみたいに思えた」
「だから、焦っていたのか」
「ゆっくり思い出せばいいと、お前は言ってくれたけど……。時間が経てば経つほど手遅れになる気がして――怖かったんだ」
「…………」
「馬鹿だよな。焦ってどうにかなるわけでもねーのに」
 言い終えると、不動は照れ隠しなのか、また大きく伸びをした。そして、そのまま空を仰ぐ。
「ああ、この空。昔見た空に似てるな。覚えているか? 信長様が相撲をご覧になって、それで……」
「……前に、竹藪の前で俺に訊いたよな。もし、お前が俺や信長さんのことを忘れちまったらどうする……って」
 思い出話を遮って、薬研は話を戻した。すると、途端に不動が顔を赤らめて、
「ああ、随分前のことだな。忘れてくれよ、もう」
「あの時は、忘れられるということをあまり深く考えていなかった。『まあ、なんとかなるだろう』と思っていたんだ。だが、実際にそうなってみると……。なんていうか、思っていた以上に寂しいもんだな」
「……だろうな」
「だから、ずっとお前のことを考えていたのかもしれない」
「なんだよ、それ」
「俺の記憶の中のお前が、新しい、俺を知らないお前に変わっちまいそうで怖かった……なんて言ったら、笑うか? 不動」
 不動は沈黙した。遠くに霞む山々を見つめたまま、真剣な表情で考え込んでいる。長い静寂が続いた。薬研はそっと不動の様子を窺い、また前を向き直った。
 そして、もし、自分が不動の立場になっていたらどうなっていたのだろう、と考えた。
 もし、過去を失ってしまったら。紡がれた時間が遠くへ去ってしまったら。
 哀しげな眼差しを送ってくる者達に、どんな表情で、どんな言葉をかけるのだろう。 
――きっと、俺は笑うだろうな。
 思って、口元に自嘲気味な笑みを上らせる。
――それくらいしかできねぇもんな。
 だが、それでもきっと不動は泣くだろう。離れた場所で背中を向けて。
 きっと一人で泣くだろう。
「なあ、不動」
「うん?」
「もう忘れるなよ」
「…………」
「寂しくなるからよ」
「…………」
 ザア、と強い風が吹き、激しく揺れた木々から一斉に花弁が舞い散った。薄紅色の花の中で不動は静かに微笑んでいた。しかし、その瞳は凛としていて、強い意志が感じられた。
「薬研。俺、決めたことがあるんだ」
 ひどく懐かしい目だと思った。
 桜吹雪の中で、薬研は久し振りに彼の姿を見た気がした。
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