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君を忘れるということ

 当初の予定通り、本能寺遠征は薬研を筆頭に、不動、三日月、髭切の四人で向かった。主の力によって飛ばされたのは人里離れた林の中で、目的の本能寺までは少し歩くことになった。
 天正十年六月二日。月の無い夜更けの道を滑るように進む。先頭に立つのは短刀の二人だ。
 不動は薬研から目を逸らしたままずっと押し黙っていたが、随伴の二人が和やかな会話を進めてくれたおかげで、さほど険悪な雰囲気にはなっていない。
「不動、どうだい? 何か思い出せそう?」
 背後から髭切が呼びかける。不動は一拍置いた後、素っ気なく答えた。
「いや、まだ何も」
「そっか。まあ、まだ始まったばかりだしね。明智とかいう武将の軍は、もう現地に来ているのかな」
「いいや、襲撃は朝方だ。おそらく、俺達と同様、今は移動中だろうさ」
 と、薬研は髭切の問いに答えながら、そっと傍らに視線を移した。闇に浮かぶ影は気配を隠してひたすら走っている。
 結局、花壇での一件以来、不動の薬研に対する拒絶はますます強くなった。姿を見れば避けられ、口すら碌に利いていない。しかし、どういうわけか、やたらと目だけは合った。
『お前のことを大切に思うが故』
 そう骨喰は言っていた。大切に思うから過去を取り戻すのを急ぐ。それは理解できる。では、避けるのは何故か。その理由だけが見つからない。信長の影に過去の恐怖が垣間見えるから、と考えるのが自然だろうが、骨喰にはどうやら違う景色が見えているらしい。
 傍らから不動の息遣いが微かに聞こえてくる。危険なほどに張り詰めていることだけは、顔を見ずともわかった。
 雨の匂いを運ぶ朝の風とともに、その軍団はやって来た。静かな熱狂を帯びた巨大な人馬の塊は眠りから覚め始めた町を駆け抜け、一心不乱にその場所を目指している。
 民家の壁に身を隠し、明智光秀の軍を確認した薬研は背後の三人を振り向き、無言で頷いた。いよいよ始まる。幸い、今のところ遡行軍や検非違使の気配は感じられない。
「いやあ、凄いねぇ」感嘆の溜め息をついて、髭切が呑気に呟く。「どの人間も獲物を狙う獣の目をしている」
「本能寺は塀の中にある。混乱に乗じて侵入することは可能だろうが……大丈夫か?」
 不動が青褪めていることに気付いた薬研は、彼の顔を覗き込んで尋ねた。一旦、退くか。そんな思いが一瞬よぎったその時、不動は見透かすように鼻で笑って、
「心配なんざいらねーよ。早く行こうぜ」
 と、言った。しかし、強気な言葉とは裏腹に彼の指先は小刻みに震えていた。恐ろしいのだろう、と薬研は唇を軽く噛み、不動から視線を外した。すると、その先にいた三日月とちょうど目が合った。彼は無言で微笑んでいたが、ふいに彼の瞳に浮かぶ金色の月から静かな問いかけが聞こえてきた。――お前は、支えられるのか、と。
 薬研は小さく息を吐いて、
「わかったよ。こっちだ」
 早口でそう言うと、本能寺へ向かって駆け出した。
 喊声。怒号。狂乱。本能寺は、薬研達が到着する頃には明智軍によって包囲されていた。野心に滾った軍勢は、我先にと手柄を求めて怒涛の如く雪崩れ込んでいる。四人は再び近くの物陰に隠れ、本能寺を眺めた。広い境内は濠と塀に囲まれている。まるで城郭だ。
「寺が燃え始めたら、あの塀を乗り越える」
「跳ぶのか?」
 濠と塀を交互に見て、三日月が静かに問う。
「ああ、民家の屋根を伝ってな。煙に紛れりゃバレにくい。なあに、あの程度の濠なら三日月さん達にも越えられるよ」
「煙? でも、まだ何も燃えていないようだけど?」と、髭切。
「予期せぬ襲撃だったが、信長さん達は少ない手勢ながらも最後まで抵抗した。火が出るのは、しばらく後だ。それまで待つ」
「じゃあ、みんなで屋根に上ろうか。あの場所からなら、向こうの様子もよく見える」
 手を翳し、すぐ側にある民家の屋根を見上げて髭切は微笑んだ。
 寺の喧騒とは裏腹に、町は不気味なまでに静まり返っていた。早朝に突如起こった予期せぬ戦を、屋根に上がってまで見物する者などいない。誰もが戸を固く閉ざし、窓の隙間から恐る恐る様子を窺っている。
「見事なまでの多勢に無勢だね。これじゃあ、ひと溜まりもない」
 のんびりとした口調で髭切は言った。
「明智軍一万三千人に対して、織田は百数十人。おまけに急襲と来たもんだ。いくら謀叛慣れしている信長さんでも、こればっかりはな」
 答えながら、薬研はどこか懐かしい気持ちで本能寺の騒乱を眺めていた。油断していたと言われたらそれまでだが、中国地方へ向かっていたはずの明智軍がこちらへ攻めてくると誰が予想し得ただろう。溜め息を漏らして、薬研は明智方へ視線を移した。ここからでは光秀がどこにいるのかわからないが、彼もきっと固唾を呑んであの寺を見つめているはずだ。その姿を想像して、薬研はポツリと呟いた。
「人の心の裡というものは誰にも推し量れんものらしい。……ともすれば、その当人でさえも」
「だから、恐ろしい」
 背後から三日月の声が飛んできた。彼は町を見渡しながら、
「この仕事を終えた後、彼は何を思うのだろうな。天下は我の手の中と無邪気に喜ぶのか。それとも、一瞬ちらりと見えたそれは、ただの夢であったと気付くのか」
「…………」
「天下。天下、か」
 三日月は小さく繰り返して空を仰いだ。そして、そのまま押し黙る。
「明智……光秀」
 ややして、膝を抱えて座り込んでいた不動が口の中で呟いた。すぐに薬研はしゃがみ込み、
「どうした、不動。何か思い出せそうか?」
「お前は平気なのか?」
 薬研を一瞥して、不動は尋ねた。
「あの場所に、お前もいたんだろ。この有様を目の当たりにして、どうしてそんなに冷静でいられるんだよ。俺もそんな風だったのか? 三日月さんも髭切さんも……他のみんなも、同じなのか?」
「いいや」
 穏やかに答えて薬研は首を振る。遠くの方で何かが崩れた音がした。
「みんな、それぞれさ。割り切れる奴もいれば、割り切れねぇ奴もいる。お前は……、信長さんや蘭丸さんへの想いが強かったな」
「お前だってそうじゃないのか? 元の主だろ。助けたいとか思うもんじゃねぇのかよ」
「そうだな。だが……」
 言いかけて、咄嗟に薬研は立ち上がった。息を詰めて、辺りを見回す。今、一瞬だけ匂いがした。ゾッとするほど冷たく、禍々しい、死臭にも似た匂い。三日月と髭切も察して身構える。三人のただならぬ様子に不動も腰を上げた。顔をしかめて、
「なんだ、この嫌な空気は。何かが……来る?」
「お前もよく知っている気配さ」
 自らの得物に触れて不動の問いに答えた直後、焼け焦げた匂いが薬研の鼻先を掠めた。本能寺から煙が上がっている。こんな時に、と薬研は鋭く舌打ちをして前を向き直った。視線の先には青い光を纏った大太刀と打刀、そして脇差がいる。遡行軍だ。
「薬研、不動を連れて境内に入れ」
 すらりと太刀を引き抜いて三日月は薬研と不動の前に立った。続いて、髭切がその隣りに並ぶ。
「こんな足場の悪い場所じゃ戦いにくいね。降りようか」
 ゆるやかにそう言って微笑んだ後、髭切は軽やかに駆け出した。出現したばかりの遡行軍の群れの中を風のように走り抜け、ついでに脇差を一体斬り捨てる。
「さて、俺も行くか」
「三日月さん!」
 屋根から飛び降りようとする三日月を薬研が呼び止めると、彼は振り向いて柔らかく笑った。
「これが、今回の俺達の仕事だ。お前にはお前の役目があるだろう? それを成すがいい」
 徐々に煙の匂いは強くなってきている。薬研は傍らの不動に視線を走らせた後、三日月に向かって強く頷いた。そして、
「不動、こっちだ!」
 不動の腕を引き、本能寺へ向かって駆け出した。
 屋根から素早く塀に跳び移ると、薬研は懐から黒い布を二枚取り出した。片方を不動に渡し、もう一枚で自分の口元を覆う。そして、不動の準備が整うのを待った後、すっかり煙に呑まれてしまった境内へ忍び込んだ。そのまま身を低くして火の手の上がる方へと突き進む。
 煙の中で影のように蠢く明智の兵を避けながら走るのは、さほど難しいことではない。澱んだ空気はどんどん熱を帯び、悲鳴や怒号も強くなった。本能寺炎上。まるで地獄絵図だ。
 その時、不動を掴んでいた左手が、突然ガクリと重くなった。
「不動! 大丈夫か?」
 不動はその場でくずおれていた。息が荒い。煙を吸い込んで気が遠くなったか。そう思った薬研は素早く煙の少ない場所を見つけると、不動を半ば引きずるようにして運んだ。青々と茂る灌木の陰に隠れ、口元を覆う布を下げてやると、不動は大きく息を吐き出した。
「ここなら少しは楽だろう。煙を吸い過ぎたか?」
「……違う」不動は小さく首を振った。「この匂い……。この匂いだ」
「煙の、匂いか?」
「火の匂い。木も人も何もかも焼いていく……この匂い、覚えがある」
 呻くように呟きながら、不動は顔を上げて赤々と燃え上がる炎を瞳に映した。
「あ、ああ……。燃えている。寺が……。寺が燃えて……」
 その時、突然、不動の目が変わった。薬研を強引に押しのけて立ち上がり、走り出す。
「不動!」
「どうして……! どうして、こんなことに! 信長様……。蘭丸! 蘭丸はどこだ!」
 錯乱している。薬研は動揺しつつも不動の背中を追いかけた。不動は過去の記憶の一部を取り戻したようだ。が、間の悪いことに、おそらく記憶の退行が起きている。
 今、ここにいるのは、本能寺の変を知らない不動だ。
「俺はどうしてここにいる!? 蘭丸! 信長様!」
「落ち着け、不動!」
 薬研の手が不動の肩を掴んだ瞬間、聞き覚えの無い野太い声がどこからともなく飛んできた。
「そこにいるのは誰だ!?」
 明智の兵だろう。薬研は不動を庇いながら後退る。小刻みに震える指が背後から伸び、薬研の腕を弱々しく掴んだ。そして、声を潜めながら、
「兵か? 織田の……」
「不動」
「いや、違うな。この感じ、覚えがあるぜ。信長様の……、信長様の首を狙う駄犬どもが放つ嫌な気配だ」
「不動! よせ!」
 にわかに強烈な殺気を感じ、思わず薬研は声を荒げた。が、それがいけなかった。
「子供か?」
 煙に包まれた影がゆらりと揺れて二人に近付いてくる。
「さては右府殿の小姓だな。まだこんな所をうろついているとは……。死に損なったか」
 薬研はもがく不動を必死に押さえて後ろに下がった。しかし、足音は執拗に追いかけてくる。
「逃げても無駄だ。寺はもうすぐ落ちる」
「信長様をどうした!」薬研の背後で不動が激昂する。
「右府殿なら既にあの火の中よ。もう生きてはいまい」
 背後で息を呑む気配を感じた。薬研は素早く燃え盛る寺に視線を走らせ、
「なら、俺達は主に殉じなけりゃならん。誰かは知らんが、教えてくれてありがとよ。……あんたも、あんたの主に殉じるがいい」
 冷めた口調でそう言うと、不動の腕を乱暴に掴んで駆け出した。そして、全速力で煙の中を突っ切り、誰かが叫んだ制止の声も無視して炎の中に飛び込んだ。直後、煙に巻かれた夥しい死体の姿を目にして立ち止まる。どれも懐かしい顔ばかりだ。束の間、胸の奥にざわめくものを感じたが、薬研は歯を強く食いしばって耐えた。
「なあ、ここまで突っ走ってきたけどよ」
 傍らで、不動が死体を見つめたまま尋ねた。
「信長様の所へ行くのか?」
「……お前は、どうしたい? 信長さんを助けるか?」
「馬鹿なことを訊くんじゃねーよ。行ったところでどうにもならねーってこと、お前はよく知っているくせに」
 鼻で笑って、不動は拗ねたような口振りでそう言った。声色から拒絶するような冷たさが消えている。薬研は目を見張った。こちらを見つめる不動の眼差しには、同じ痛みを持つ者に対する親しさと憐れみがあった。
「そうだよな、薬研」
「不動、お前……。正気に戻ったのか……?」
「まだ少し頭がハッキリしねぇけど、大丈夫だよ。世話かけたな」
「いや、気にしなくていい。混乱するのも無理はないからな」
 話しながらも、薬研は呆然としていた。急な出来事の連続で、狐につままれたような気持ちになる。
「思い出せねぇ時はどんなに必死になっても全然ダメだったのに、思い出せる時は呆気ねぇもんだな。だが、これでもう嫌な思いをさせずに済む」
「何のことだ? お前のことで嫌な思いをした奴なんていないぞ」
「いたよ。……本人は気付いてなさそうだけどな」
 呟いて、不動はそっぽを向いた。返答の意味はわからなかったが、その表情、しぐさ、言葉の一つ一つが覚えのあるもので、薬研は思わず笑みを浮かべた。
「ここから出ようぜ、薬研」
「え?」
「目的は果たした。同じ場所で二度も焼けてたまるか」
 そう言いながらも、不動の目は奥の方を向いていた。炎に包まれた向こう側には蘭丸と信長がいる。そして、自分達も。
「信長さんのことは、いいのか?」
 愚問だとわかっていても尋ねずにはいられなかった。不動は沈黙して、自分の足下に転がる打刀をじっと見つめていた。ややして、その刀を静かに拾い上げると、すぐ側に倒れている男の手にしっかりと握らせた。そして、その場で手を合わせる。
 薬研も不動の傍らに膝をついて手を合わせた。目を開け、そっと息をつく。刀を握った血まみれの手に、自分と信長の像が重なって見えた。
「これでいい」
 と、不動が呟く。立ち上がって、
「ずっと一緒だ。離れ離れは、やっぱり寂しいもんな」
「……そうだな」
 呟くように返して、薬研も立ち上がり、
「さて、と。それじゃあ、三日月さん達と合流しねーとな。走れるか?」
「当然。甲冑を着た奴らなんかに追いつかれるかっての!」
 不動の強気な答えが妙に嬉しくて、薬研は吹き出して笑った。
 そして、二人は束の間視線を交わした後、踵を返して素早く外へ飛び出した。


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