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「あれ? 鼎君、早いお帰りですね」
 神社へ続く長い石段を上り終えると、袴姿の鏡市きょういちさんが竹箒を片手に迎えてくれた。背が高く、スラリとしていて顔立ちの優しい鏡市さんは、この『渡ノ守わたしのもり神社』の神主で周辺に住むオバ様達のアイドルだ。
「うん……。なんか体調が悪くてさ、早退してきた」
「それなら、学校から電話してくれたら車で迎えに行ったのに。大丈夫ですか? 熱は……」
「あ、えっと……。熱は無いけど、ちょっと頭が痛くてさ。寝れば治ると思うから」
「そうですか……。ですが、病院に行きたくなったら、いつでも言って下さいね」
「うん。ありがとう」
 鏡市さんの名字は橘。もの凄く遠い親戚らしいけど、両親を亡くして盥回しにされていた俺を三年前に引き取ってくれた。潰れかけた渡ノ守神社を立て直したのも鏡市さんだ。たぶん、困っている人や物を放っておけない性分なのだろう。二十八歳という若さでそんなことをしている彼を変わり者だと言う人がいるけれど、本人は全く気にしていない。
 俺が穏やかな毎日を送れているのは、この人のお陰だ。
 俺の、失いたくないたった一人の人。
「あったかくして寝て下さいね。冷えは万病の元なんですから」
「大袈裟だな」
 少し笑ったものの忠告はありがたく受け取って、俺は境内から母屋に回った。中に入り、玄関の引き戸を閉じた途端、静寂が耳を打った。
 不思議と現実に戻ったような気がした。
 学校での出来事は夢だったのかもしれない。そうだといい、と考えながら階段を上って部屋に入る。着替えて、特にやることもないから、鏡市さんに言われたとおりに布団をしっかりと被って寝た。
 しばらくして、枕元のスマホが鳴った。メッセージアプリに着信。原からだった。
『具合はどうだ?』
『寝てた』
『風邪?』
『かも。頭すげー痛かった』
 とりあえず、嘘ではない。
『明日、学校来れる? 琥珀がすげー心配してる』
 …………。
 まぁ、わかってはいたけど。
 都合良く夢にはならないよな。
 俺とは違って早退が許されなかったコハクは、あれこれと気遣いながら結局玄関まで俺を見送った。
 正直ウザかったけど……、ほんの少しだけ心地良かった、ような……気がした、と思う。たぶん。
『行ける。心配すんなって伝えて』
 俺は溜息交じりにそう打ち込むと、スマホを閉じてまた目を閉じた。が、またも着信。
『了解。あと、夜の学校って興味ある?』
『いきなり何?』
『生物室の準備室に忍び込む計画があるんだけど、伊波も来る?』
 真っ先に間宮先生の顔が浮かんだ。それからコハクの心配顔も。どうして先生をあんなにも警戒するのか。少し考えてから、俺は原に返事した。
『生物室で何かあるの?』
『あれ? 噂知らない?』
 噂?
『夜の生物室で間宮が変な儀式してるって』
『なにそれ。ガチなん?』
『わからないから俺達で検証する』
『マジか』
 なるほど。
 間宮先生の風貌から出た噂だろうけど、ちょっと興味がわいてきた。もしそれが本当なら、コハクが先生を警戒する理由がわかるかもしれない。
『で、どうする?』
『行く。数に入れといて』
 即答してスマホを閉じ、俺は長い時間をかけて鏡市さんに嘘をつく罪悪感に折り合いをつけた。



『あの子』の話は子供の頃、嫌というほど聞かされた。
 主に話題にしていたのは母さんだ。逆に父さんの方は避けていたように思える。
『あの子が生まれてきていたら』
『あの子が生きていたら』
『あの子が』
『あの子が』
 あの人がそんなことを口にするたび、父さんは居心地悪そうに目を伏せて沈黙した。
 あの人が話した『あの子』の話の中で印象に残っているものがある。
 それはひどく暑い日。
 逆光の中であの人は歌うように言った。
『かなえっていう名前はね、本当はあの子につけるはずだったの』
『でも、あの子は生まれてこられなかった』
『だからね、生んであげられなかった代わりに、せめて名前だけでも生かしてあげたくて』
 本来、『俺達』は二人で生まれてくるはずだった。俺の兄か弟か姉か妹かになる予定だった、双子の片割れ。
 その子はあの人の胎内で死に、肉体になりきれなかった細胞や組織は俺の中に取り込まれた。だから、俺の全身には見も知らぬ片割れの残滓が染みついている。
 そして、名前にも。
 幼い俺は好奇心からあの人に訊ねた。
『それじゃあ……、本当の僕の名前は?』
 その時、あの人はどんな顔をしていたのだろう。
 覚えているのは、真っ黒に塗り潰された影のような彼女とその向こうに見えていた強すぎる太陽の光。
 ややして、影は呆れたように答えた。
『そんなこと聞いてどうするの。本当の名前なんて。今更、どうだっていいじゃない。
 ああ、そうだね。母さん。
 あんたにとっては、『そんなこと』どうでもよかったんだ。
 あの子さえいれば。
 あの子さえ生まれてきていれば。

 車の後部座席で、俺は二人を見つめていた。
 助手席にはあの人。運転席には父さん。
 あの人は楽しそうに父さんと話をしていた。
 一度も俺を振り向かずに。
 わかっているんだ、本当に。
 あんたは俺を見ない。
 いつだって、俺の中にいる『あの子』ばかりを見つめている。
 ねえ、母さん?
 そんなにあの子がいいなら。
 そんなにあの子と一緒に居たいのなら。

――あんたが、あの子の所へ行けばいい。



「うあ!」
 ベッドから飛び起きて、それが夢だと気付くまで数秒かかった。日が落ちて暗くなった部屋で呼吸を整える。あれからまた寝てしまったようだ。スマホで時刻を確認し、俺は深く息を吐き出した。もう七時を過ぎている。空腹を感じているし、今すぐ鏡市さんの待つ一階に下りたかったが、体が重くて動けなかった。
 あの悪夢をまた見るなんて思わなかった。
 事故の直後に頻繁に見ていた夢だ。医者はそれを「PTSDによる症状だろう」と言った。治療は長く続いたけれど、最近は見なくなってホッとしていた。それなのにどうして……と思った瞬間、あいつの顔が浮かんだ。コハクシズマ。あいつが俺の傷に触れて妙なことを言ったせいだ。たぶん、きっと。
 俺は目を閉じて服の上から左腕の傷をさすった。
 父さんがハンドルをきりそこなった末に起きた、衝突炎上事故。
 けれど、それは奇妙な事故だった。
 晴天の行楽日和。見通しの良いカーブ。対向車も無く、父さんはいつだって安全運転を心がけていて、事故を起こす要因は少なかった。
 忌まわしい衝撃と熱。煙。酷く鼻につく焦げた匂い。息苦しさ。
 気を失う寸前に見た景色は地獄そのものだった。
 炎に包まれた車内で悲鳴を上げて暴れる、あの人の影。そして、そんな時ですら無言だった父さん。
 意識が遠くなりかけた瞬間、俺は視界の隅に白い靄のようなものを見た気がした。
 その後、俺はいつの間にか車外に投げ出され、今こうして生きている。
 奇跡の生還。
 それが本当に幸運だったとは、言いきれないまま。


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