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君を忘れるということ

 月の光が皓々と夜を照らしている。
 庭に置かれた長椅子に腰かけ、晴れた夜空を眺めながら薬研は宗三が来るのを待った。
「遅れてしまいましたか」
 後ろの方でカサリと葉の揺れる音がした。待ち人に薬研は微笑みかけて、
「いや、俺も来たばかりだ。良い月夜だな、宗三さん」
「ええ、そうですね。静かな夜です」
 穏やかに返して、宗三は薬研の隣りに座った。
「ですが、また慌ただしくなりそうですよ。少し前に政府から何やら通知が来ていましたから」
「そうか」そっと息を吐き出して、薬研。
「第一部隊は、またあなた達……短刀部隊でしょうね」
「斥候も兼ねてるからな。修行帰りが増えてきたから、以前よりも偵察しやすくなったよ」
「ここに来たばかりの頃は、そんなことをせずとも良かったのに」
「それだけ戦が複雑になったってことだな。つまりは、敵にも考える頭があるということだが……」
 会話の途中で、薬研は宗三の視線に気付いて口を噤んだ。訝しく思って見つめ返し、
「なんだ?」
「いえ……。戦の話になると、途端に生き生きしますよね、あなた」
「そうか? まあ、嫌いじゃないからな」
「三日月とは……別の話を?」
 言い出しにくそうに宗三は空を見上げて尋ねた。
「ああ、不動の話をな。あんたもそのつもりで来たんだろう? 宗三さん」
「……ええ、まあ」
「気になるよな、やっぱり」
「記憶を失って十日以上経ちますが、不動はまだ織田での出来事を思い出しませんね。……あの人の名前さえ」
「ああ」
「思い出せないなら、思い出さないままでいたらいいんですよ」
 突き放すように宗三は言った。彼らしい暴言だ。薬研が苦笑して、
「そうかもな」
 と受けると、宗三はポカンとした表情で薬研を見つめた。同意が返ってくるとは思わなかったのだろう。少し間を置いて、
「薬研も……そう思いますか」
「思い出したら辛くなるだけだ。本能寺で起きたことは俺が覚えている。信長さんも蘭丸さんも、それで勘弁してくれるんじゃねーかなってな」
「ですが、それでは……」
「なんだ?」
 問われて、宗三は言い出しかけた言葉の続きを躊躇いながら口にした。
「……それでは、不動は火を克服できないのではないですか?」
「火?」
「だって、そうでしょう? 不動は竈の火を見て倒れたんですよね。このままでは、火を見るたびに彼は苦しむのではないか、と」
 決まり悪げに答えた宗三の言葉に、薬研は声を上げて笑った。
「なんだ、宗三さん。あんた、さっき俺に『忘れたままでいい』と言ったばかりじゃねーか。考えが変わったのかい?」
「いいえ、変わってなどいませんよ。忘れられない想いに縛られるくらいなら、思い出せないままでいた方が幸せかもしれません。……ただ、今の不動にとって、火は刻印に似ているのではないかと思いまして」
「刻印?」
 薬研が眉を顰めると、宗三は白い手を自身の左胸に当てた。
「これですよ。我が身に刻まれた刻印。たとえ忘れたとしても、この刻印を見るたびに『忘れたことを思い出す』……。似ていると思いませんか? 不動の『火』と」
「…………」
「もし、僕なら――忌々しいことですが、きっと思い出したいと思うはずです。この刻印の意味を。これを刻んだ……織田信長という人物を。たとえ、思い出すことが新たな苦悩や絶望に繋がるのだとしても……」
「宗三さん」
「振り払えない想いというものは、良くも悪くも厄介ですね」
 独り言のようにそう呟いた宗三は口元に笑みを浮かべて再び夜空を仰いだ。沈黙する痩せた頬が、月光を浴びてほの白く浮かび上がる。薬研はぼんやりとそれを見つめてから、彼と同様に顔を上げた。
「不動は怯えている」
「思い出すことにですか?」
「どちらかと言えば、信長さんを失うことに、かな」
「何故、そうなるんです? 思い出の中のあの人を失いたくないのなら、思い出すことに怯える必要など、どこにも……」
「過去を取り戻すということは、あの日の情景を思い出すということだ。あいつは、もう一度傷ついて――そして、もう一度信長さんを失う」
 薬研の言葉に宗三は僅かに目を見開いた。
「それを……恐れているから、不動はいつまで経っても織田での出来事を思い出さないというんですか?」
「俺はそう睨んでいる。今日の不動の様子でわかった。が、不動自身は気付いていない。おそらく、無意識に拒絶しているんだろう。だから……」
 言いかけた言葉を薬研は呑み込んだ。
――だから、俺を避けているんだ。
 胸の裡で呟いて拳を握りしめる。信長に一番近かった自分を、本能寺で信長と共に果てた自分を、無意識に不動は避けている。
――俺の背後に信長さんの影を見たか。
 ならば、この存在自体、不動にとっての『刻印』であり、『火』であり、『傷』ということになる。
 薬研は喉の奥で嗤った。一番傷つかない方法など無いのだ。いずれにしても、不動は心に再び傷を負う。
「……辛い記憶を、消してしまいたいと思ったことはないか?」
「え?」
 薬研の呟きに驚いて、宗三は戸惑いながら訊き返した。
「薬研? 今、何を……」
「記憶を失くす前の不動に尋ねられたんだ。それから戦闘後に倒れて……。あいつは何を思ってそんなことを訊いてきたんだろうな」
「…………」
「あの時のことが、ずっと頭の隅に引っかかっているんだ。俺は素直に自分の考えを話したが……。今、こうなってみると、酷なことを言ってしまったと思う」
「あなたのことだから、きっと『辛い記憶も自分の一部だから、消したいと思ったことは無い』とか言ったのでしょう」
 今度は薬研が驚きの表情を浮かべた。唖然としながら、
「すごいな、当たりだ」
「予想くらいつきますよ。それで? 不動は何と言っていましたか?」溜め息混じりに、宗三。
「今の宗三さんみたいに納得していた……ように見えた。それから、もう一つ訊かれた」
「もう一つ?」
「ああ。『もし、俺がお前や信長様のことを忘れちまったらどうする?』って。俺は不動の思う通りにすると答えた。思い出したければ手伝うし、そうじゃないなら……そのままでいいと」
「あなたらしいですね」
「あいつにも同じことを言われたよ。今はそう答えたことを少し後悔している」
 お前らしい答えだよ。そう口にした不動の横顔は、ひどく寂しげだった。
「忘れられたままで……いいわけなかったのにな」
 その時、誰かの呼び声が聞こえた気がした。それは徐々に近付き、やがてハッキリと聞こえてきた。
「薬研、ここにいたのか。探したよ」
 木の陰から頭を出したのは一期一振だった。彼はすぐさま宗三に視線を移して、
「すまない、薬研を少し貸してくれないか? 主が呼んでいるんだ」
「ええ、構いませんよ。僕の用事はもう済みましたから」
 穏やかに言って、宗三は立ち上がった。
「いち兄、大将が呼んでるって?」
 そういえば今日の近侍はいち兄だったか、と思って薬研も席を立つ。
「ああ、少し話したいことがあるそうだ。おそらく――」
「今日の不動の件か」
 一期の言葉の先を読んで、薬研は小さく溜め息をついた。
 執務室では主が窓辺に凭れて夜風を受けていた。
 一期と共に部屋に入った薬研は膝を折って背筋を伸ばした。
「悪いな、休息中に呼んだりして」
「いや……。ところで、話って?」
「不動のことだ」
「ぶっ倒れた件だな。竈の火を見て取り乱したんだ。今は落ち着いているよ」
「そのことなら知っている。仔細は食事当番の奴らと不動本人から聞いた」
「え?」
 息を呑んで薬研は目を見開いた。
「不動から?」
「ああ、食事の後で二人きりで話がしたいと言われてな。それで、少し困ったことになった」
 主は座り直して茶を啜った。そして、溜め息混じりに、
「今すぐ本能寺へ飛ばしてほしいと言われたよ。天正十年――本能寺の変があった、あの日に」
「な……っ」
 薬研は絶句して思わず出入口で控えている一期を振り返った。彼も驚いたのだろう、張り詰めた表情で薬研を見つめ返す。
「不動は相当に焦っているな」
 言って、主は愛用の煙管箱を引き寄せた。慣れた手つきで煙管に刻み煙草を入れて火をつける。
「それで、大将は不動を本能寺へ飛ばしたのか?」
「まさか。あんな状態で飛ばせるか。だが、近いうちに必ずと約束しちまった。本来なら、もうしばらく待つべきなんだが……。そうでもしないと自棄を起こしかねなかったからな」
「俺は何をしたらいい?」
「本能寺への遠征は時期を見て命ずる。その時は不動に付いて行ってほしい。無論、お前達二人だけで行かせはしない。護衛も二人ほど付けようと考えている」
「二人……。へし切さんと宗三さんか?」
「いいや。あの二人は、信長に対する感情が強すぎる。今回の遠征は不動の記憶回復が目的であって、気持ちを整理させたいわけでも信長について議論させたいわけでもない」
「なら、どうして俺を付き添い役にする? 織田や本能寺に関係のない奴を付けたらいい」
「お前は本能寺に詳しいだろう?」
 煙を吐き出しながら主は突き放すように言った。僅かに訪れた沈黙の最中に互いの呼吸を読み合う。
「記憶が戻って取り乱した不動が、主を助けようと火の中へ飛び込むかもしれん。もしくは、明智の兵を殺すことだってあり得る。そうならねーよう適切な対処ができるのはお前だけなんだよ、薬研藤四郎」
「……ああ、そうだな。確かに」
 呟いて、薬研は苦笑した。
「俺ほど、あの日の出来事に明るい奴はいねぇだろうからな」
「酷なことを言ってすまないな」
「いや、いいさ。お役目はしっかりと務めるぜ。……だが、俺が一緒だと不動が余計に取り乱しそうでな」
「何かあったのか?」
「不動から聞いてないのか?」
 どうやら不動は部屋での出来事を主に伝えていないらしい。一瞬、話していいものか悩んだが、すぐに考え直して薬研は詳細を主に語った。
 主は身動ぎもせずにじっと聞いていたが、やがて薬研が話し終えると、小さく唸って両腕を組んだ。
「複雑なものだな。つまり、思い出したいと心底願っているが、その一方では思い出すことを恐れているわけだ」
「だが、薬研」
 それまで沈黙していた一期が口を挟んだ。
「だからといって、お前が責任を感じることはないだろう。冷たい言い方かもしれんが、これは不動の問題だ」
「わかっている。だが……、それでも、多少はな。俺は随分と信長さんと近かったから」
「無意識に重なって見えるわけか」と、主。「本能寺や織田が、不動の中から消えていない証拠だな」
「喜ぶべきなのかもしれねぇが……」
 言いかけた言葉の先を溜め息に変えながら、薬研は肩を落とした。すると、主がとりなすように、
「遠征はまだ先だ。その間に不動と話でもして仲良くなっておけばいい。そうすりゃ、向こうの恐れも軽くなるかもしれん」
「そうしたいのは山々なんだがな」
「よし。じゃあ、こうしよう」
 何か考えついたらしい。主はポンと膝を打って微笑んだ。
「二人で内番をするんだ。いつになるかは出発時期と併せて考えるから楽しみに待っておけ」
「内番か」
 口の中で呟いて、顔を上げる。
「なあ、大将。それなら、手合わせが……」
「却下だ。お前ら、いつもぶっ倒れるまでやり合うだろうが」
「確かに記憶を失う前はそうだったが、今はそこまで熱くならねーよ。不動も、俺も」
「なに言ってんだ、お前」
 煙管の灰を落とし、主は呆れたような口調で吐き捨てた。
「どんなに過去を忘れようが、本質なんざ変わらねーよ。負けず嫌いが二人揃えば何が起きるかくらい想像がつく。それに、手合わせとはいえ、お前と対峙して今の不動が平常心を保てるとは思えん」
「確かに……。そうだな」
「では、玄関の前にある花壇の植え替えをさせてはいかがでしょう。花は心を穏やかにすると聞きますれば、不動の緊張もいくらか和らぐのでは」
 一期の提案に主は満足げに頷いた。
「妙案だな。この時期はまだ寒さが残るから畑はまだ早いと思っていたんだが、花壇ならちょうどいい。どうだ、薬研?」 
「ああ、わかった。土いじりは悪くない。まあ、なんとかやってみるさ」 
 不動と二人きりで作業することに懸念が無いわけではないが、ずっと問題から避けているわけにもいかない。薬研は腹を括り、膝に置いていた両手を強く握り締めた。
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