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君を忘れるということ

 戦力拡充計画の全工程を終え、本丸は束の間の休息を楽しんでいた。
 顕現後の記憶を粗方取り戻した不動は、少しずつだが内番作業に加わるようになった。酒を一切呑まず、明るい表情で笑いながら軽い冗談などを飛ばす。そんな彼を見て大半の者は安堵していたが、薬研の胸には依然として言い知れぬ不安が渦巻いていた。
「不動は大丈夫そうだね」
 遠征から戻り、外の洗い場で手を洗っていると、傍らにいた鯰尾藤四郎がふいに話しかけてきた。 
「そう思うか?」素っ気なく、薬研。
「だって、最近の不動ってすごく元気だし……。よく笑うようになった。自棄酒もしなくなったし、良い傾向だよ」
「……ああ、そうだな。確かに」
 薬研の返答に鯰尾は沈黙し、奇妙な間が空いた。タオルで手を拭きながら、
「なんだよ」
 視線が気になって薬研が尋ねると、鯰尾は探るような目をしたまま小首を傾げて返した。
「なんか反応薄いよね。ひょっとして、薬研は嬉しくないの?」
「んなわけねーよ。不動が元気になるのは俺だって嬉しい。でも……」
「でも?」
「前と違いすぎるのが、ちょっとな……」
「それは仕方がないよ。顕現前のことは何一つ思い出せないんだから。……どうして自分がお酒を呑んでいたのかさえ」
「…………」
 薬研はタオルに目を落としたまま黙り込んだ。すると、鯰尾は気遣うように微笑んで、
「不動って、顕現する前はどうだったの? 今の、あんな風に笑う奴だった?」
「ああ。よく笑う、一生懸命な奴さ。誠実で真面目なところは顕現してからも変わっていない。ただ、今のあいつの笑い方が……少し気にかかる」
「笑い方?」
「どう言えばいいのかわからんが……、どこか無理をしているような気がしてな」
「カラ元気ってこと?」ハッとして、鯰尾。「さっき薬研が言ってた『違いすぎる』って、そのこと?」
「顕現する前とも後とも違う笑い方だ。それに……」
 言いかけて、薬研は躊躇った。が、鯰尾の真剣な眼差しに気圧されて続ける。
「鯰尾は気付いていたか? あいつ、みんなと満遍なく話しているように見えて、俺のことは意識的に避けている」
「それは……」
 伏し目がちに鯰尾は口籠った。その態度だけで十分だった。やはり、周囲も勘付いている。
「薬研の気のせいだよ。だ、だって、ほら! この前まで拡充計画で忙しかったしさ! それで、なかなか話す機会が無かっただけだって!」
 励ますように鯰尾は明るく言った。
「不動だってバタバタしてるしさ。落ち着いたら、きっと……」
「なら、いいんだけどな。あいつと俺は辛い過去を共有している。だから、俺を見ていると無意識に辛くなるんじゃねーかって。そう思っちまってよ」
「薬研……」
「正直なところ、過去を忘れることで前向きになれるなら、俺はそれで良いって思ってる。そりゃあ、寂しくはあるが」
「でも、それじゃ意味無いよ」
 鋭い口調で返され、薬研は口を噤んだ。束の間、気まずい沈黙が流れたが、やがて鯰尾が目を逸らしながら言った。
「忘れたままじゃ、きっといつまでも燻り続ける。それが良いなんて思わない」
「…………」
「大変だよ、薬研!」
 信濃藤四郎がただならぬ形相で駆けてきて薬研の腕を引いた。
「不動の様子がおかしいんだ! ずっと薬研の名を呼んでる。今すぐ来て!」
 咄嗟に薬研は鯰尾と視線を交わし、
「何があった!?」
 尋ねると同時に駆け出す。
「みんなと一緒に夕餉の用意をしていたんだ。でも、竈についた火を見た瞬間、それまで元気だった不動が急に震え出して……」
「火を見た?」眉を寄せて、薬研。
「俺や骨喰にも似たようなことがある。ちょっとしたことで昔の情景が甦るんだ。何があったか、ちゃんと思い出せる時もあるけど、すぐに消えてしまうこともある。……薬研」
 鯰尾の言葉に薬研は頷いた。不動は竈の火に過去の断片を見たはずだ。薬研の耳に、あの日の不動の声が響く。熱風の中、崩れ落ちていく木材の奥から聞こえてくる、遠い声。泣き声にも似た、悲痛な――。
「薬研……。薬研、どこだ。火が……、火が来る。燃えてしまう。何もかも……」
 台所の隅で、不動は蹲ったまま薬研の名を呼んでいた。一種の錯乱状態か、ひどく震えている。食事当番の仲間達が見守る中、薬研は不動の傍らに跪き、そっと手に触れた。
「不動、俺ならここにいる」
 ピクリ、と不動の手が反応する。
「火はもうどこにも無ぇから安心しろ」
「…………」
 おずおずと不動は顔を上げた。そして、怯えた目を薬研に向けると眩しげに眇め、
「……良かった」
 と、消え入りそうな声で囁いた。直後、全身の力が抜け、ガクリと薬研の腕に倒れ込む。
「おい、不動!?」
 慌てて呼びかけたが、不動からの応答は無い。どうやら気を失ったらしい。安心していい、と仕草で周囲に知らせると、張り詰めていた空気が一気に緩んだ。薬研は目を戻して不動を見つめた。血の気の引いた頬に影が落ちている。それが自らのものだと気付いた瞬間、不動が自分を避ける理由が見えた気がした。
 薬研は唇を噛みしめ、目を伏せた。耳の奥で、あの日の声が呼んでいる。
「怖かったよな」
 囁いて、薬研は不動を抱く手に力を込めた。
 ちょうど料理当番だった御手杵に頼んで不動を部屋へ運んでもらい、代わりに薬研が当番に入った。しゃがみ込んで竈の火に薪をくべる。信長や蘭丸のことを考えながらぼんやりと炎を見つめていると、ふいに声をかけられた。
「傍にいてやらなくていいの?」
 見上げると、信濃が心配そうな顔で隣りの竈に立っていた。お玉で鍋を掻き回しながら、
「当番なら他の誰かに頼んでさ、薬研は不動の所に行ってやんなよ」
「……いや」目を逸らして、薬研は立ち上がる。「むしろ、俺は行かねぇ方がいいかもしれん」
「なんで?」
「あんなことがあった直後だからな。俺を見たら、また不安定になるかもしれねぇ」
「それって本能寺の……」
「ああ」
 薬研が頷くと、信濃はしばらく無言で鍋を見つめた。足元ではパチパチと乾いた音が鳴っている。ややして、
「でも、不動は薬研を呼んでいたんだよ。ずっと」
「…………」
「行ってやりなよ。怖い思いをして、目が覚めたら誰もいないなんて、可哀相だ」
「そうは言うがな」
「ここは俺がやるからさ。不動の傍についていてよ」
 これは言う通りにするまで粘るだろうな。思って、薬研は弱く笑った。
「わかった。じゃあ、ここを頼む」
「任せといて。ご飯ができたら、二人分を部屋に運ぶからさ」
 微笑み返す信濃に頷いてみせると、薬研は踵を返して不動の部屋へと向かった。
 御手杵の話では、運ばれた後も不動は暴れたりせず、静かに眠っていたらしい。音を立てないように気を遣いながら部屋の中へ入ると、薬研は屈んで不動の様子を窺った。
 頬の血色は戻っていないが、寝息は穏やかだ。この様子だと朝まで目が覚めないかもしれない。少し換気をするか、と薬研は窓辺に寄って細く窓を開けた。暮れなずむ空に夜が忍び寄っているが、風はあまり冷えていない。春はもうすぐだ。そうなれば、この本丸も色とりどりの花で埋まるだろう。
「花見をしなきゃな、不動」
 枕元に戻ってそう囁くと、薬研は側にあったタオルで優しく彼の額を拭いた。
「桜を見て、一緒に酒でも呑もうや。なあ」
 すると、ピクリと不動の瞼が動いた。気がついたらしく、小さな呻き声を上げた後、不動は身動ぎして目を開けた。焦点が定まらない瞳がゆっくりと左右に揺れていたが、やがて薬研を認めるとピタリと止まった。数回の瞬き。そして、
「……なんだ、いたのか」
 深く息を吐き出して、そう言った。
「そろそろメシだぜ。腹、空いてないか?」
「少しだけ」
「よし。メシができたら、信濃がここまで持って来てくれるそうだから、一緒に食おうぜ」
「お前と?」
「嫌か?」
「いや……、別にそういうわけじゃねぇけど」
 気まり悪げに返して、不動は掛け布団を引き上げた。寝返りを打ち、薬研に背を向けると、
「俺、どうしてここで寝てるんだ?」
「覚えてないのか?」
「台所で晩飯の用意をしていた。竈に火を入れなきゃって思って、それで……」
 不動の声が震え出し、やがて小さくなっていった。布団の端を強く握り締め、何かに耐えるように身を固くしている。
「それで、お前が……」
「落ち着け、不動」
 と、薬研は思わず手を差し出しかけたが、ぎゅっと拳を握ってそのまま下ろした。やはり、ここには来ない方が良かったのだ。小刻みに震える不動の指先から顔を背け、薬研はそっと目を伏せた。そして、後悔を滲ませた声で、
「大丈夫だ。ここには、怖いことなんて何も無ぇ」
「……怖いことって何だよ」
「…………」
「俺、火を見たんだよ。そしたら、一瞬、頭の中でお前がチラついて……。でも、その後のことは何も……」
 薬研は目を上げて時計を見た。そろそろ夕餉が出来てくる頃だ。
「とりあえず、メシにしよう。話はそれからだ」
 これ以上、不動を動揺させるわけにはいかなかった。だが、不動は背中を向けたまま、
「まだいらねーよ。それより、知ってるなら教えてくれ。何があったんだ?」
「向こうの様子を見てくる。少し待ってな」
 半ば強引に言って、薬研が立ち上がりかけた、その時。
「いいから、答えろよ!」
 大声で怒鳴り、不動は起き上がりざま布団を跳ねのけた。肩で荒く息をしながら薬研を強く睨みつける。瞬間、二人の間に緊張が走った。薬研は身動ぎもせずに、じっと不動を見つめ返していたが、やがて小さく息を吐き出すと、
「俺を呼んでいた。怯えて震えながら、ずっと俺の名を呼んでいたんだよ」
「何に……怯えていたんだ?」
 唖然とした表情で問いかける不動から目を逸らし、薬研は俯いて首を振った。
「……さあな」
「火を見た瞬間、胸の奥がざわついた。だから、俺、自分が焼けたことを思い出すんだろうなって思ったんだ」
 失った記憶を求めて、不動は頻繁に歴史書を読んでいた。当然、自身の身に起きたことも知っている。
「でも、違った。胸の奥からやって来たのは、もっと違う――息ができないくらい、ゾッとする何かで……。それが、お前の姿と重なって……。だから……」
 胸元を強く掴みながら、不動は不安そうに視線を泳がせていた。これ以上は体に毒だ。薬研は不動を呼び、傍に寄って彼を落ち着かせた。
「もう、よせ。お前だってわかっているはずだ。今は、ここまでだって」
「…………」
「メシでも食って気分を変えようぜ。そうすれば、また何か断片を思い出せるかもしれねぇ」
「……他人事だと思って好き勝手言いやがって」
 と、不動は溜め息混じりに毒づいたが、反論はせず、素直に薬研の提案を受け入れた。
「わかったよ。だが、メシは食堂で食うからな。別に病人じゃねーんだし、特別扱いはごめんだ」
「確かにな」小さく笑って、薬研。「忙しい信濃達の手を煩わせるわけにはいかねーもんな?」
「べ……っつに、そういうわけじゃねーよ! 俺は記憶が無ぇだけで、体はこの通りピンピンしてんだ。膳を運んでもらうほどでもねーってだけだよ!」
 真っ赤に染まった頬と早口は図星の証だ。こういう所は記憶を失っても変わらない。薬研は踵を返し、不動の照れ隠しの言葉を背中で聞きながら部屋を出た。
 すると、廊下をこちらに向かって歩いてくる宗三左文字の姿が見えた。向こうもこちらに気付いたらしく、静かな笑みを湛えて話しかけてきた。
「ああ、起きたんですね。夕餉が整ったので一応様子を見に来たのですが……。存外、元気そうですね」
「当たり前だ。俺は病人じゃねぇからな!」
 拗ねたように答えると、不動はドスドスと大きな足音を響かせながら宗三の脇をすり抜けた。
「……どうかしたんですか?」不動の背中を見送りながら、宗三。
「まあ、ちょっとな」
 悪戯っぽく笑って返す薬研の顔を、宗三はしばらくじっと見下ろしていたが、廊下に不動の気配が無くなると、そっと口を開いた。
「薬研、この後の予定は?」
「メシを食い終わった後ってことか? 特に何も無いが……」
「なら、二人で少し話しませんか?」  
 食事を終えた頃には不動も調子を取り戻し、冗談を言っては仲間とふざけ合う姿が見られた。台所の一件があるからだろう、大袈裟なまでの身振りと声で平静を装っている。自分は大丈夫だ、心配無い、と精一杯周りを気遣っている。
 少し離れた席で彼らの笑い声を聞きながら、薬研は不動の震える指先を思い出していた。
「元気が無いな」
 隣りの席で食事を摂っている三日月宗近がのんびりとした口調で言った。
「この頃は出陣続きで随分と忙しかった。が、今、薬研が必要としているのは、その忙しさのようだな」
「儘ならねぇもんだな」溜め息混じりに笑って、薬研。「立て続けに任務がある時は『少し休みてぇな』って思うくせに、いざ時間が取れると手持ち無沙汰になっちまう。俺は、忙しい方が性に合うようだ」
「ここにいるより、戦場の方が楽か?」
「……今は、そうかもな」
「不動は勿論だが、お前も気を楽にした方がいい。こだわり続けていると……辛くなる」
 薬研は目を上げて、チラリと三日月を見た。自身の経験から来る言葉なのだろう。彼もまた、記憶喪失の骨喰に存在を忘れられている。薬研は遠くの席で鯰尾と食事している骨喰に視線を移すと、三日月にだけ聞こえる声で呟いた。
「それが、なかなか難しいんだ」
「難しい?」
「なあ、三日月さん。俺は知っているんだよ。不動にとって、あの日が――本能寺での出来事が、どれだけ辛いものだったか。けれど、あいつはそれを取り戻そうとして……苦しんでいる。そりゃそうだよな、忘れているんだから。思い出したいと思うのが自然だ。だが、記憶が戻れば、あいつはまた傷つく」
「……そうだな」
「だから、どうしても考えちまう。あいつが一番傷つかない方法を」
「…………」
「あんたは、どうなんだ? 骨喰のこと。折り合いはもうついているんだろう?」
 すると、三日月は柔らかく微笑んで、
「そりゃあ、ここに来て随分と経つからな。初めの頃は俺も色々と考えもした。だがな、結局のところ、俺に出来るのは支えることだけだと悟った」
「もし、自分が『辛い記憶』と関係あってもそう思えるか?」
「それならば、尚更だ。辛い記憶を共有できるの者は、そうそういるものではない」
「目の前から消えてくれ、と言われたら?」
 薬研の目は、自然と不動の方に向いていた。彼は今、痛々しいほど明るい表情で笑っている。
「……それが本心からの望みなら、そうするだろうな。寂しいことだが」
「そうだよな」
「まさか、不動から言われたのか?」
 彼には珍しく、ひどく焦った顔をしている。それが妙に可笑しくて薬研は吹き出して笑った。
「すまんすまん。そんなことは言われてねぇよ。少し訊いてみたかっただけだ」
「なんだ、そうか。驚かさないでくれ」ホッと息を吐いて、三日月。「だが、まあ、笑ってくれたからそれでいいか」
「いっそのこと、そう言われた方が気が楽になるかもしれないな」
「うん?」
「――『目の前から消えてくれ』ってさ。それじゃ、お先に失礼するぜ。用事があるんでな」
 早口でそう言うと、薬研は膳を手に席を立った。直後に、不安そうな三日月の声が背後から追いかけてくる。
「薬研」
「なに、冗談だ」笑って、振り向く。「話を聞いてくれて感謝するぜ、三日月さん」
 ごまかしてみたが、上手く笑えていなかったらしい。じっと見つめてくる三日月の目は真剣だった。振り払うように薬研は向き直り、足早に歩き出す。
 視界の隅で、薄紅の影が揺れた気がした。
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