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刃、極まる

 主に三通目の手紙を送ってから少し経った後、薬研は本丸へ戻った。
 帰ろう、と明確に意識したからなのか、それとも充分に力をつけたからなのかは定かではないが、気がつくと本丸の正門の前にいた。辺りは静まり返り、月が冴え冴えとした光で闇を洗っている。
 どうやら、夜更けらしい。きっと明日は大騒ぎだ、と思いながら潜り戸に触れると、全く力を入れていないのに戸が開いた。そこから、ひょっこりと頭が覗く。現れた人影に薬研は目を見張った。
「……大将」
 主は薬研の声に気付くと、屈んだままニッと笑った。後ろに撫でつけた白い髪が月の光を受けて輝く。
「おお、薬研。ようやく帰ってきたか」
「まさか一人で出歩いているんじゃねーだろうな」
「そのまさかだ。こんな時間だからな」
「危ねーな。本丸から出るなら誰か供をつけろよ」
「みんな、もうとっくに寝ているよ。なあに、ここから先へは行くつもりなどない。こうしてちょっと顔を出すだけだ。が、それも今日で終わりだな」
 言って、主は身体を戻すと踵を返した。この初老の主は生まれつき目が殆ど見えない。が、その代わりに視覚以外の全ての感覚が人一倍鋭くなっている。朱塗りの杖を使い、器用に障害物を避けながら、
「ご苦労だったな、疲れたろう」
「……まあ、色々あったからな」
「そのようだな。今夜はゆっくり休め。修行の詳細は明日聞くことにしよう」
「いや……」
 言葉を切った後、薬研は少し考えた。そして、
「大将が疲れているのは百も承知だが……。少し二人で話したいことがあるんだ」
「……そうか。なら、身支度を整えた後で執務室に来るといい」
 主に我儘を言ったのはこれが初めてだった。薬研は頷くと、唇を引き結んだ。
 玄関で旅装を解くと、装備が一新していた。これも主の術式の賜物だろうか。薬研は装備をあらかた確認した後、真っ直ぐ執務室へ向かった。
 ひと声かけて障子戸を開けると、主は窓辺にもたれながら夜風を浴びていた。開いた障子の陰から大きな月が覗いている。
 主の対面に坐し、薬研は背筋を伸ばすとおもむろに伏した。
「薬研藤四郎。ただ今、帰還した」
「ああ。……おかえり、薬研」
 主の優しい声に、薬研は胸が詰まる思いがした。『おかえり』など、戦場や遠征から帰ってくるたびに聞く言葉なのに、今日に限っては妙に響く。
 薬研は顔を上げ、口元に笑みを上らせた。
「ただいま、大将」
「装備が少し変わったか? 音が増えたな」
「ああ、新しい装備だ。以前よりも耐久性があるから、強敵相手でも何とかなりそうだぜ」
「無理はするなよ。ヤバくなったら逃げりゃいいんだ。そうすりゃ、また戦える」
「……逃げたくても逃げられねぇ時だってあるさ」
 ふいに口をついて出た言葉だった。主は少し驚いたように眉を上げたが、そっと息を吐き出すと、
「そうだな」
 とだけ言った。僅かな沈黙の後、主が明るい声で尋ねた。
「それで、旅の方はどうだった?」
「悪くなかった。いろいろ考える時間もできたし……」薬研は一旦言葉を切り、その先を呑み込んだ。「心身ともに鍛えられたと思う。これまで以上の働きを期待してくれていいぜ、大将」
「そいつは頼もしい」
 笑って、主は頬杖をついて窓の外を見上げた。そして、
「――信長公は、元気だったか?」
 水を向けられ、薬研はそっと目を閉じた。瞼の裏に遠い日の背中がある。
「……ああ、元気そうだった。直接話すことはなかったが」
「そうか」
「みんな、行っちまったよ」薬研は膝の上で拳を握り、絞り出すように繰り返した。「……行っちまった」
「…………」
「どうして、あんなことになっちまったのかな」
「…………」
「もし、今の俺みたいに未来を知る奴がいたなら……。それで危険が回避されたなら、そういう風に導けたなら……泣く奴はいなくなるのかな」
 愚にもつかない話だ、と薬研は喉の奥で嗤った。
「すまねぇな、大将。妙なことを言っちまった。懐かしい場所に行ったせいか、どうも少し感傷的になっているらしい」
「泥を被ってでも守りたいもんがある奴には、効かんだろうな、それは」
 溜め息混じりに主は言った。
「え?」
「死と引き換えにしてでも得たいものってやつさ。たとえば、天下、貫きたい信念、仲間や家族の安寧……」
「…………」
「自分が死んでも残されるものがあるなら、と喜んで首を差し出す者もいる。たとえ、未来を知り得たとしても、それが成されるなら……人は戦って死ぬだろうよ。武将であれ、農民であれ。そして、その死を悼んで誰かが泣く」
 主の憐れむような声を聞きながら、薬研は唇を噛みしめた。胸の中に、かつての主達の姿が浮かんでいる。
「薬研、『人は二度死ぬ』という言葉を知ってるか?」
「二度?」
 顔を上げて、薬研は眉を顰めた。
「一度目は肉体の死。そして、二度目は自分のことを覚えている人間がいなくなることで起きる。語られることのない者は、一度目の死を迎えた後、完全にこの世から消えちまう」
 言葉を切って、主は周辺に置いてある書物に触れた。
「歴史というものは、結局のところ二度目の死を免れたもの達の集合体さ。語るものが消滅してしまえば、その事実さえも消えちまう。それは人だろうと物だろうと同じこと。現に、お前がな」
「俺が?」
「実体が無くとも、語り継がれてきた逸話の中でちゃんと生きている。だから、お前には二度目の死はやって来ないわけだ。その逸話自体が消えない限り」
「…………」
「だが、大半の者達は二度目の死を迎えている。数十人死んだ、数百人死んだ、と一口で言うが、それは数にすぎん。数は、その人達の生きてきた時間までは語ってくれない」
 一瞬、主の頬に陰が走った。そして、やや間を置いた後、落ち着いた声で続けた。
「薬研、お前はこれまで遠征や出陣……今回の旅の途中でもいろんな人達に出会ったろう。寿命で死ぬならまだしも、そうじゃねぇ人だっていたはずだ。その人達の死も、俺達が守る歴史の中に当然含まれている。お前が初めてここに来た時も話したよな。誰一人、欠けても増えてもいかんのよ」
 話を聞きながら、薬研は幾度となくすれ違ってきた市井の人々のことを思い出していた。彼らは笑いさざめき、時には泣き、喧嘩をしながら日々を精一杯に生きていた。
 けれど、そんな人達の理不尽な死さえも自分達は見過ごさなくてはならない。
「皮肉なもんだよな」
 小さな声で薬研は呟いた。
「歴史を守る、なんて格好の良いことを言っていてもよ、やっていることは誰かを見殺しにするのと変わらねぇ。死ぬことがわかっていながら、それを伝えずに見送るしかねぇ……なんてな」
 本能寺へ向かう信長の、不敵な横顔を思い出す。野心と希望に満ちた瞳に映っているのは、自分の行くべき道。それしか無かったはずだ。
「それが、俺達が被る『泥』なのかもしれねぇな」
 窓に顔を向けたまま、主はポツリと言った。何かを考えるような短い沈黙の後、足をさすりながら溜め息混じりに続ける。
「……だが、そんなに悪いもんでもねぇさ」
「…………」
「なあ、薬研。こんなことを言うのは今更かもしれんが、俺と一緒に泥を被ってくれるか? 散るべき時に散る命を見送り、生きるべき人の命を守り抜く。そんな泥をさ」
 薬研は月を背負う主を、ただじっと見つめていた。
『泥』にまみれる覚悟はあるのか、と問いかけられているような気がした。
 そして、自分達がしていることの正当さの有無も。
 その時、ふいに信長を見送った時の痛みが薬研の胸に甦った。軋むような、焼けつくような痛み。あの時は、罪悪感のせいなのだと思っていた。だが、それ以上に膨れ上がっているのは、やりきれない思いだ。おそらく、心を断ち切る痛みがこうして現れているのだろう。
――この痛みから解放されたいなら、『泥』を被ることを放棄すればいい。
 だが、そんなことをして何になる。脳裏をよぎった甘い言葉を心の裡で嗤い、薬研は主に目を戻した。
 答えなら、とっくに決まっていた。
「ああ、被ってやるさ。いくらでも」
 そう口にした途端、鼻の奥が熱くなり、薬研の双眸から突然雫がこぼれた。慌てて頬を拭ったが、自分の意思とは関係無く、涙はとめどもなく溢れる。
「いや、これは……。おかしいな。すまん、大将。みっともねーとこ見せちまって。少し、疲れたかな」
 洟を啜り、薬研はおどけたふりで取り繕った。が、涙に濡れた声と雰囲気が全てを物語っていた。
 とりあえず、ここは中座しよう、と思ったその時、主が微かな笑みを浮かべて首を横に振った。
「みっともなくなんかねぇよ。旅の途中でも、お前はきっと泣けなかったんだろうさ。それだけのことだ」
 涙が一層熱くなり、堪えきれずに薬研は口元を手で覆って嗚咽した。
 禍々しい炎へと向かう行列の背中が淡く滲んで遠くなる。
 これからもきっと、泥を被ってはこんな痛みに襲われるのだろう。
 思い出深い人達の散り際に立ち会うたび。
 偶然出会った名も知らぬ誰かの死を目の当たりにするたび。
 大切な人を失う仲間達を見るたびに。
 それでも――。 
 主は何も言わずに空を仰いでいる。
 声を殺して泣きながら、薬研は過去に置いてきた装備の一部――朱色の房のことを思い出していた。
 あれは、あの後どうなったのだろう。信長の元に届いたか。それとも、どこかに打ち捨てられてしまったか。
 その時、ふと薬研の記憶の底から遠い日の声が甦ってきた。
 まだ信長の短刀であった時のこと。本能寺へ向かう途中で休息をとっていた信長に、装備が欠けているのではないかと尋ねる声があった。数人で丹念に装備の点検をしたが不備はなく、声をかけた近習がひどく不思議がった。
――先ほど妙な小僧が「殿の落し物だ」と申してこの房を手渡してきたのです。ひょっとしたら、小僧は誰かの物と見間違えたのかもしれませぬな。今から皆の装備を検めて……。
――……待て。
――は?
――寄こしてみろ。
「良い夜だなあ」
 しみじみと呟いた主の声が、薬研を過去から現在に連れ戻す。
「お前が無事に帰ってきて、みんながいて。本当に、今夜は良い夜だ」
 主の言葉と、房を眺めた信長の瞳とが重なった。
 自分の身に起きた不可思議を信長がどう思ったのかは、わからない。だが、その房は彼が愛用していた短刀の拵えにしっかりと結ばれた。
 夜の静寂が涙で震えている。
 月の光に頭を垂れながら、薬研は頬を濡らし続けた。
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