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降り積もるもの、消えるもの

 翌朝まで降り続いた雪は地面を白く覆ったが、その後の好天ですっかり溶けてしまった。
 そして、数日後、前線に出陣していた骨喰が重傷を負って帰って来た。
 手入れ部屋に運び込まれる骨喰をぼんやりと眺めていると、見守る仲間達の輪の中から囁き声が聞こえてきた。
「大丈夫かな……」
「手負いを一体逃したと聞いたが……」
「他の者の怪我はどうだ?」
「戦闘中に一瞬だけ動きが鈍ったって……」
「そういえば最近、ずっと考え事をしているふしがあった」
 手入れ部屋の障子戸が閉まり、ほのかに灯りがつく。と同時に不動は踵を返した。廊下を歩きながら、
「……へっ。なーにしてんだか」
 口の中で呟く。前線の敵は言うまでもなく強敵揃いだ。考え事をしている余裕などあるはずもない。それなのに、一体何を……。その時、ふいに不動の脳裏を掠めるものがあった。――あの夜の、黙り込んだ骨喰の瞳。
 立ち止まり、傍にあった柱に軽く拳をぶつける。
――俺のせいか?
 記憶を失ったお前が羨ましいと言ってしまったのが原因で?
 まさか、と頭を振る。けれど、改めて思い返してみると、たしかに物思いに耽っているような様子があった気がする。だが、普段から物静かな骨喰なだけに、いつものことだろうと大して気に留めなかった。もし、あの夜のことが原因だとするなら――。
 不動は居間に向かい、壁に掛けてある時計を見上げた。骨喰は重傷だ。治療が終わるまでしばらくかかる。ため息をついて、不動は俯いた。こんな日に限って出陣も内番も無い。収穫が終わってしまったから畑当番の手伝いも無い。馬当番の手伝いは既に枠が埋まっている。薬研でも誘って手合わせでも……と思ったが、彼が戦場から帰って来たばかりであることを思い出して取りやめる。
 せめて、体を動かすことができれば少しは忘れることができるだろうに。苦々しく思いつつ、不動は自室へ戻った。
 骨喰の治療が終わったことを知った不動は、人目を忍ぶようにそっと手入れ部屋へ入っていった。戸の脇に掲げられている木札を確認し、音を立てないように障子戸を開ける。すると、横たわる彼の傍に座る細い背中が見え、不動は息を呑んだ。
 先客があった。
「なんだ、見舞いか?」
 肩越しに振り返って、主は静かに笑った。
「見舞いっていうか……」不動は口籠り、「あ、あんたはここで何してんだよ。仕事はいいのかよ」
「ああ、不動か」
 言って、主は顔を骨喰に戻した。この初老の主は生まれつき殆ど目が見えない。だが、それ故に視力以外の全ての感覚が鋭敏になっている。
「骨喰と仲が良いのか? なぁに、心配しなくてもいい。じきに治る」
「別に、仲が良いってわけじゃ……」
「……主、なんて呼ばれていても、結局俺には何もできない。時代を遡って戦えるでもない。傷ついたお前達を治すこともできない。安全な本丸の中で作戦を練って指示するだけだ。それが、どうにも歯痒くてな」
 それが不動の質問に対しての主の答えだった。
「せめて、お前達が受けた痛みを俺も受けることができたらなあ。そうしたら、俺も少しは胸を張って『お前達の主だ』と言えるのにな……」
「そんなことになったら、痛みに耐えきれなくてあんた死ぬだろ」
「死ぬほどの目に遭わなけりゃ仲間とは言えねぇさ」
 その時、不動は主の寂しげな背に炎の情景を見た。見送る者、取り残される者――そこに違いはあるのだろうか。
 視線を移し、不動は眠る骨喰の様子を窺った。頭には包帯を巻き、頬には湿布が貼られていて痛々しい。不動はぐっと奥歯を噛み締めた。拳を握り、
「……なあ、俺を出陣させてくれよ。骨喰さんが行った場所に」
「そいつは無理な相談だな」
「なんでだよ! 他の奴らから聞いたぞ。敵を取り逃がしたって!」
「仇討ちでもするつもりか? やめておけ。手負いの奴なら既に本陣に戻ってるはずだ。運悪く検非違使に見つからなければな。それに、ここでの経験が長い骨喰とついこの間来たばかりのお前とでは錬度に差がありすぎる。お前に前線は任せられない。部隊の足を引っ張るだけだ。他の奴らを危険に晒すつもりか?」
「なら、俺一人で行けばいいだろ! こうなったのは、多分……俺のせいなんだ。俺が始末つけなきゃならねぇことなんだよ!」
「お前達の間に何があったかは知らんが、駄目なもんは駄目だ。前線に、未熟なお前を一人で出陣させる? んなことしたら、俺が皆に殺される」
「あんたには迷惑かけねーよ! なあ、だから飛ばしてくれよ。俺はもう無力なままでいるのは嫌なんだよ!」
 苛立ちを吐き出すように激昂し、不動は思わず主の肩に取り縋った。主の身体は枯れ枝のように細く、軽かった。その主の口元がニヤリと笑みを浮かべた。
「――なるほどな」
 ぼそりと呟く。
「な、なんだよ」
「よし、わかった。お前の気持ちはよーくわかったから、ここはひとつ勝負といこうや」
「勝負?」
 眉を顰める不動の両肩を、主はガシッと掴み、
「今からお前にチュウをする。防げたら、お前の勝ち。無事にチュウができたら俺の勝ち。負けた奴は勝った奴の言い分を呑む」
「ちょっと待て! なんだよ、その勝負! なんでそうなるんだよ!」
 不動は主の腕を掴んで引き剥がそうとしたが、この細い身体のどこからそんな力が出るのか、節くれ立った主の手は一向に離れない。その姿勢のまま、主は不動の問いに答える。
「あー……、話せば長くなるんだが」
「じゃあ、話さなくていい。話さなくていいから、この手をどけろよ」
 尚も不動は抵抗するが、主の手の力は強まるばかりである。主は平然とした顔で、
「審神者として初めて顕現の術式を行った時、なかなか顕現しない歌仙に業を煮やしたことがあってな。奴めの機嫌が悪いのは挨拶が無かったからだと思うに至った俺は、ひとまずチュウをしてみようと試みた」
「日ノ本式の挨拶しろよ」
「さすがに刀身にするのは憚られたんでな、柄の方に一発ぶちかましてやろうとしたんだが、歌仙の奴、大慌てで顕現しやがってなァ」
「なにしてんだよ、あんた……」不動は呆れて、「初っ端から歌仙さんに嫌な記憶植え付けてんじゃねーよ」
「いいじゃねーか。あいつにとっては嫌な記憶かもしれんが、俺にとっては大事な思い出の一つだ。それに、今じゃお互い笑い話だよ」
「…………」
 不動は返す言葉を失った。嫌な記憶も、いずれは変わる……? いや、しかし――程度の問題か。
「さあて、不動、覚悟を決めろよ。そういう経緯があって、俺は力ずくっていうのも、時には必要な手段だと学んだのだ。――いざ、尋常にほっぺた出しやがれ!」
「お、おい。ちょっ……待っ……! うわっ! やめろー!!」
「うるさい」
 突然、静かな声が二人の間に割って入った。声のする方に視線を降ろすと、骨喰が目を開けてこちらを見上げていた。
「おお、骨喰。目覚めたか」嬉しそうに、主。しかし、両手はまだ不動を諦めていない。
「何をしているんだ?」
「いやなに、不動がどうしてもお前の仇を討ちたいと駄々をこねるもんだから、チュウしてやろうと思ってな」
「……『だから』の前と後の繋がりが全く見えないな」
「不動を落ち着かせたくてなぁ」
「落ち込むだけだと思うが」
 骨喰は一旦言葉を切り、少し間を置いた。そして、
「不動と少し話をしてもいいか?」
「もちろん。ただし、傷に障らねぇ程度にな」
 言って、主は不動を解放した。
「わかってる」骨喰は寝たまま頷く。
「不動、聞いたとおりだ。勝負はお流れ。出陣だなんだは骨喰と話した後だ。いいな?」
 おもむろに立ち上がりながら、主は言った。障子戸を開け、僅かに振り返る。
「不動?」
「……わかったよ」
 不動が渋々そう答えると、主は安心したように微笑んで手入れ部屋から出ていった。
 途端に室内は静寂に満ちた。先ほどまでの騒ぎが嘘のようだ。
 ややして、骨喰が口火を切った。
「仇を討ちたいと言ったそうだな」
「…………」
 返答せず、不動は気まり悪げに身じろぎした。
「これはお前のせいじゃない。気にするな」
「けどよぉ……。戦闘中に動きが鈍ったって聞いたぞ。何か考え事をしていたんじゃねーのか?」
「…………」
「例えば――あの夜、俺があんたに言ったこと、とか」
 すると、骨喰は薄く微笑んだ。
「思い上がるな。こうなったのは俺のせいだ。……油断していたのかもしれない」
 本当にそうだろうか、と不動は訝った。戦闘中に『一瞬だけ』動きが鈍った。つまり、それ以外は戦闘に集中していたことになる。油断が原因とは思えなかった。
「一瞬だけ、油断したのか」
 骨喰の真意を探るように不動は彼の目を見つめて尋ねる。骨喰は数回瞬きした後、静かに目を閉じて沈黙した。
 外では風が鳴っていた。空は時間ごとに色を変え、冬の気配を連れてくる。遠くから誰かの声が聞こえた。
「……実は、戦闘中に何かを思い出しかけた」
「え?」
 骨喰の告白に不動は目を見張った。
「何を思い出したんだ?」
「何も。すぐに消えてしまったから。……だけど、その時、一瞬だけ怖くなった」
「怖い? 嬉しい、じゃなくてか?」
「ああ。その隙を衝かれて、こうなった」
 と、骨喰は包帯だらけの右手を上げて見せた。その手を力無く下ろし、
「結局記憶は戻らなかったが、怖いと思った感覚は残ったままだ。ずっと、思い出せるなら思い出したいと思っていたんだがな。……おかしいと思うだろう、不動」
「思い出すの、嫌なのか?」
「わからない。そんなことはない、はずだが……。『違う』と断言できない自分がいることも事実だ」
「…………」
「ただ」
 言って、骨喰は迷うように言い澱んだ。視線がスッと不動から逸れる。
「……ただ?」
 と、不動が促す。すると、骨喰はやや逡巡した後で再び口を開いた。
「思い出すことで得られる幸福があるなら、思い出せないことで得られる幸福もある、と思った」
「思い出せないことで得られる、幸福……?」
「そう。この前、不動が言ったとおりだ。知らないから幸福でいられる。今の俺のままでいられる。俺は結構この生活が気に入っててな、過去の記憶が無くても何とかなると思っているんだ」
「…………」
「だが、だからといって思い出したくないわけでもない。できることなら思い出したい。――それを待っている奴もいるからな」
 ふいに骨喰の表情が柔らかくなった。その変化を不動は吸い込まれるような気持ちで見つめる。
 そして、気付く。骨喰に記憶が無いなら、彼に『忘れられている者』がいるということだ。そして、その者の存在を彼は知っている。
 存在を忘れられた者。見送る者。取り残された者。どれもどこか似ている、と思った。瞬間、部屋の中に、小さな宴を開く信長と蘭丸の幻影が浮かんだ。和やかな表情で杯を傾ける信長と口元に微かな笑みを浮かべて侍る蘭丸。怒号と怨嗟の渦巻く苛烈な戦ばかりではない。こんな静かな夜も、確かに在った。
 不動の瞳は揺れた。この夜を、穏やかだった日々を、本当に忘れたいと思うのか。二人の向こう側に禍々しく燃え盛る炎が見える。それでも、彼らの表情は崩れない。
 静かな声で骨喰は続けた。
「待たせて悪いと思っているが、過去ばかりが全てじゃない。待たせている分、新しい記憶を作ろうと思っている」
「思い出じゃなくてか?」
 幻影が消え、不動は戸惑いながら骨喰に尋ねた。
「同じことだ。思い返すごとに、深くなる。お前が言ったことだ、不動」
「え……」
「記憶が傷なら、思い出もまたそうだろう。俺もお前も同じものに振り回されているな」
 不動は目を見開いた。耳元で幸福だった日々が唄い出す。
 忘れたい、と思った。
 忘れなければ、と思っていた。
 そうしなければ、いつまでも炎に身を置くことになる。
 誰もいなくなった場所で、ずっと。
 だけど――。
「不動、覚えていることの幸福と不幸、覚えていないことの幸福と不幸は等価だ。俺もお前も対極にあるだけで、結局は何も変わらない。だから……」
「…………」
「無理に忘れようとしなくていい」
 不動は膝を抱えて顔を伏せた。とめどもなく溢れる涙を骨喰に見られたくなかった。しかし、絶対に隠せはしないと思った。
 それでもいい。
 今だけは、酔った振りもできない。
 風が吹き、木の葉が乾いた音を立てて鳴る。冬の匂いがした。また雪が降る。もうすぐ。今度はきっと積もるだろう。
 濡れた瞼の裏に浮かんだ白い雪とほのかに浮かぶ月が、炎の情景を掻き消す。
 冷え始めた空気の中で、骨喰の声が優しく響いた。
「忘れなくても、忘れられなくても……。それでも、きっと――生きていける」

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