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記憶の桜

 本丸に春がやってきた。
 庭を白く埋めていた雪が消え、代わりに色鮮やかな桜の花が今が盛りと咲き誇っている。柔らかな日差しに誘われ、骨喰藤四郎は部屋を出た。
 顕現化してから初めて迎える春に少々戸惑いを覚える。が、悪くはない。
――昔の俺も、春を好んでいたのだろうか。
 眩しい青空に目を眇めながら思う。ふとしたきっかけで、失った記憶の欠片を取り戻すことがあるものの、未だに全てを思い出すには至っていない。
 散歩の気分で廊下を歩き、縁側に差し掛かると、三日月宗近が正座をして庭を眺めているのが見えた。傍らに座布団が一枚敷かれているところを見るに、これから誰かが来るのか、それとももう立ち去ってしまった後なのか。それにしても、ただそこに居るというだけなのに目を逸らすことのできない圧倒的な存在感は、さすが「最も美しい刀剣」と謳われるだけある。骨喰はその場に立ち止まり、半ば感心する思いでぼんやりと彼の横顔を見つめていた。
 吹き抜ける風が春の匂いを運び、三日月の黒髪を撫でる。その時、やや横を向いた彼の目が骨喰を捉えた。
「おお、骨喰か」
 穏やかな笑みを浮かべてそう言うと、三日月は小さく手招いた。
「よかったら一緒にどうだ? いや、先ほどまで主がここにいたのだが、愛染達が何か面白い遊びを見つけたらしくてな、連れて行かれてしまった。まだ茶も淹れ終えていなかったというのに」
「茶?」
「骨喰も飲むか? 主の湯呑みだが、案ずるな。まだ使っていない」
「あんたが淹れるのか?」
 少しだけ興味をひかれて骨喰は歩み寄りながら尋ねた。見ると、三日月の向こう側に小さなポットと急須セットがある。
 三日月は急須に湯を注ぎながら、
「この姿になってから色々と自分ですることが多くなった。世話をされるのは好きだが、これはこれでなかなか楽しいものだな」
 湯気の立つ、『主』と書かれた大きな湯呑みを差し出され、骨喰は仕方なく座布団に腰を下ろした。
「羊羹もあるぞ」
「……ああ」
 小さく答えて、湯呑みに口をつける。渋いものの、どこか甘い。目を瞬かせた後、もうひと口飲んでみる。
「美味いか?」
「ああ」
「そうか」
 嬉しそうに頷いて三日月は前を向き直った。
 遠くの方で賑やかな笑い声があがった。おそらく、主と愛染達だろう。
 一方、こちらは静寂に満ちていた。ゆるやかに吹く風が桜の花を揺らし、桃色の欠片を数枚さらってゆく。ハラハラと散ってゆく雪のような花弁を見つめながら、骨喰は顕現化した三日月と初めて出会った時のことを思い出していた。
「この『ぽっと』というのは面白いな。押せば湯が出る。主が言うには、この中で既に湯が沸いているのだそうだ。これもどこかを押せば成るそうだが……。本当に便利な世の中になったものだな」
 言って、三日月はハッハッハと笑った。
「だが、昔も今も変わらないものがある」
「……昔も、こうして並んでいたのか? 俺達は」
 唐突な質問だったせいだろう。一瞬にして三日月は真顔になった。
「骨喰?」
「知っているんだろう、昔の俺のことを。けれど、あんたは全く話そうとしない」
 前を見据えたまま、淡々とそう言った。
「知りたいか?」
「…………」
「訊かれもしないのに嬉々として話す趣味は持ち合わせてはいないからな。骨喰が聞きたいと言うのなら、いくらでも話そう」
「……俺は」
 口籠ったきり、骨喰は押し黙った。
 知りたい、とは思う。だが、同時に「聞いて何になる」とも思うのだ。自分の内に無いものを外部から聞かされたところで、結局は別の誰かのことのように思えてしまうのではないか、と。
 それに――。
 思って、骨喰は湯呑みの中に映る自分を見つめた。
――三日月から聞いた過去の自分が、今の自分とあまりにかけ離れていたら? もし、何かのきっかけで過去の自分を取り戻した時、今ここに在る自分は消えてしまうのだろうか。
 風が吹き、湯呑みの中の像が揺らいだ。
 おそらく、これは恐怖なのだろう。たしかに過去は炎の記憶だけで、それ以外はぽっかりと空白になっている。が、顕現化してからの記憶――過去を失った自分が積み重ねてきた時間は、しっかりと残っているのだ。過去を取り戻すことで、『これまでの自分』を失ってしまうのだとしたら……。
「いや、いい」
 目を閉じて、骨喰はきっぱりと断った。
「いいのか?」三日月は意外そうな声で聞き返す。
「――ああ。あんたの言葉で俺の空白を埋めても、過去を取り戻したことにはならないからな」
「そうか」
「すまない、気を悪くしないでくれ。申し出は感謝している」
 骨喰はそう言って頭を下げた。すると、三日月は明るく笑って、
「なに、気にするな。知りたくなったら、いつでも聞きに来ればいい」
 頷きかけたその時、歓声が風に乗って聞こえてきた。気になってそちらを見やると、三日月も振り返って空を仰いだ。
「楽しそうな声が聞こえてくるな」
「主か」
「おそらくな。どれ、では、俺達も春を楽しもうか」
 言って、三日月は静かに立ち上がった。
「春を……楽しむ?」
 困惑しながら骨喰は三日月を見上げた。空の青と花の薄紅を背負って立つ彼の目の中に、金色の冴えた月が浮かんでいる。
「この近くに桜の連なる、見事な丘があると歌仙から聞いた。一人で見ても味気無いのでな。共に行こう」
「…………」
「どうした? 他に用事でもあるのか?」
「……いいや」
 と、骨喰は首を左右に振った。そういえば、これまで『何かを楽しむ』ということをしてこなかった気がする。口元にうっすらと笑みを浮かべて、骨喰は立ち上がった。
「連れて行ってくれ。俺も、その桜が見たい」
「では、行こうか」満足げに頷いて、三日月は歩き出した。「あの歌仙が言うほどの桜だ。さぞ、美しいのだろう」
「なあ、ひとつ訊いていいか」
「なんだ?」
「昔も今も変わらないものって、何だ?」
 それは、三日月が言いかけた言葉だった。何を言おうとしていたのか、妙に引っかかっていた。
 三日月は肩越しに振り返ると、春の陽のような柔らかな笑みを湛えて答えた。
「咲いては散る花。正正流転は、どんなに時代が移ろうと変わらないようだ。――『正正流転』が『変わらない』とは、おかしなものだとは思わないか、骨喰」

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