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cointoss

 デスクに顎を乗せて深い溜め息をついていると、探偵兼所長の能巣蘇芳のうずすおうが不機嫌な顔で声をかけてきた。
「溜め息をつくな。辛気臭い」
 俺は首だけ動かして、大きな窓を背に座っている所長をチラリと見やる。
「……所長、愛って何なんでしょうね」
「いきなりどうした」
 と訊きながらも、所長の関心は既に愛用のパイプの手入れに移っている。探偵=パイプなんて、いかにもなところが所長らしい。
「今回の案件ですよ。あの老婦人、ずっと浮気を繰り返していた旦那を憎みながら何十年も過ごしていたんでしょう?」
「そうだな」
「挙句の果てに旦那は外に子供まで作って。……そりゃあ、認知して養育費を払えるだけの資産があるからできることなんだろうけど」
「あの夫婦には子供が出来なかったからな」
「だからって!」
 思わず、俺は身を起こした。所長は口元だけに笑みを浮かべている。
「……まあ、いいですよ。それは。だけど、わからないのは、あの奥さんのことです」
「ふん?」と、所長は目を上げる。
「事故に見せかけて殺された旦那の復讐を果たそうとするなんて。だって、奥さんは旦那を憎んでいたんでしょう? どうしてそんなことを……」
史季しき君にはまだ理解できないことかもしれんがね」
 くすくす笑って所長は磨いていたパイプを置いた。俺は悔しくなって睨みつける。
「なんですか、それは。俺が子供だからって言いたいんですか。確かに俺はまだ十九でガキですけど」
「そうだな。経験は金じゃ買えんから」
「うー……」
 言い返せず、俺は唸った。そんな俺を所長は面白そうに見つめている。
「じゃあ、アラフォーで大人な所長にはわかるんですね。子供のボクに教えて下さいよ」
「拗ねるなよ。そんなだから『子供』だって言われるんだ」
「どうせ俺は子供です」
「やれやれ。……そうだな。愛憎劇なんて言葉があるように、愛と憎しみは表裏一体なんだよ。どちらかの感情だけが存在するなんてありえないんだ。この、コインの裏表のようにね」
 そう言って、所長は一枚のコインを取り出した。それをピン、と上に弾いて手の甲で受け止める。
「つまり、どの感情が強く表に出ているか、という違いだけで、愛も憎しみも本質的にはそう変わりがない」
「変わりがない?」
「対象を強く想う、執着するという、その一点に関しては同じということだよ。永遠の愛があるなら、憎しみも永遠に続く」
「それって、なんか嫌だなあ」
「嫌かい?」
 所長はコインを伏せたまま、さも意外そうな顔をした。
「嫌ですよ。憎しみが永遠に続くなんて。苦しいだけじゃないですか」
「誰かを強く想うというのは苦しいことなんだよ。それが愛であれ、憎しみであれね」
 あの銀髪の美しい老婦人は、長い間ずっと裏切られ続けていた。それでも、愛していたというのだろうか。
 憎しみと同じくらい――愛していたのだろうか。
 逮捕の直前、彼女は言っていた。

――殺すのは、私の役目だったのに。私がこの手であの人を殺さなきゃならなかったのに。

 殺したいほど憎み、また、殺したいほど愛していたということなのだろうか。
 正直、俺にはまだわからない。
「……所長は経験があるんですか?」
「うん?」
「誰かを強く想ったり……憎んだり」
 すると、所長はおもむろに立ち上がり、俺の側にやってきた。そして、デスクに軽くもたれて、
「さあてね。どう思う?」
「ある……んでしょうね。所長は大人だから」
 鳶色の瞳に見つめられて、俺は思わず顔を背けた。馬鹿な質問をした。
 こんな時、俺は少し嫌な気分になる。所長の過去を意識せざるを得なくなるから。
 俺の知らない所長を知っている誰かがいる。
 それだけで胸が小さく疼いてどうしようもなくなる。
 見事に墓穴を掘った、と俺はまた溜め息をついた。
「溜め息はやめろ。辛気臭くなる」
「すみません」
「……愛について知りたいか?」
「え?」
 予想外の質問に頭を上げると、所長が顔を近付けてきた。瞬時に硬直して俺はぐっと息を呑む。
「賭けをしてみようか」
 秘密の話をするように所長は低く囁いた。
「か、賭け?」
「コインの裏表。僕が勝ったら、君が僕を愛する。君が勝ったら、僕が君を愛そう。どうかな?」
 悪戯っぽく微笑む所長の手には先程のコインが握られている。俺はその手に目をやってから、再び所長に視線を戻した。
「そんな簡単なものなんですか? 人を愛したり憎んだりするのって、コイン一つで決められるものなんですか?」
「そういう時もあったっていいさ」
 所長は表情を崩さない。
 その余裕っぷりが憎らしくてたまらない。

 愛おしくて、愛おしくて、憎い人。

 俺は呆れて小さく息を吐き出した。
 なんだ。俺もちゃんと経験しているじゃないか。
 殺したい、とまではいかないけれど。

「どうした?」
 と、所長は片眉を上げて尋ねる。
「いいえ。賭けなんかしなくても、人は大人になれるもんなんだなあと思っただけです」
 あえて澄ました顔でそう言うと、所長は意地悪そうな笑みで「へえ?」と答えた。そして、コインを握った右手を振ると、
「それじゃあ、予定変更。今日の夕飯を決めよう。僕が勝ったら大将亭のラーメン」
「あ、俺が勝ったら、シャンゼリゼのハンバーグセットをお願いします!」
「やっぱり君は子供だな」
 不敵な所長の指から勢い良く弾かれたコインは、回転しながら天井高く跳ね上がった。
 激しく入れ替わる表と裏。
 最後に見せるのは――。
 
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