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刀の領分

 中庭に面した縁側は、昼間の熱気を静寂と夜気で冷ましている。夜空に浮かぶ、引きつった笑みのような細い三日月を一人で眺めながら、へし切長谷部は僅かに目を細めた。
 次の戦場が本能寺と聞いて、矢も楯もたまらず参加を申し出た。
 現在の主――審神者という――は少々驚いた様子ではあったが、錬度が足りていることもあってか何も言わずに了承してくれた。
 本能寺。
 織田信長公が最期を迎えたとされている場所。
 これまでの経緯からいって、『歴史修正主義者』が狙っているのは歴史上に起きた大きな事件や戦争だと考えられる。何故、そのようなことをするのかはわからない。が……。
「なんだ、へし切さん。まだ起きていたのか」
 背後から声をかけられ、思考が分断された。怪訝に思ってへし切が顔を振り向けると、そこには数冊の書物を抱えた薬研藤四郎の姿があった。束の間、息を呑む。
「……そう言うお前はどうなんだ?」
 ようやく口から出た声は、やけに掠れていた。
「俺か? 俺は大将の手伝い。歴史書を一から見直すんだと。そうすれば、より適した場所に俺達を送り込めるからってさ」
 これじゃ、明日はきっと寝不足だ。
 そう言って薬研は明るく笑った。その屈託のない表情が急に憎らしくなって、へし切は顔を背けた。
 近侍は持ち回り制だが、ことにそれが薬研の番となると妙に苛ついている自分がいる。
 とはいえ、原因なら既に気付いていた。
「お前も、本能寺に行くんだってな」
 月を見上げながらそう尋ねると、薬研は囁くように「ああ」と答えた。
「いいのか?」
「何が」
 問い返されて思わず無言になる。
 流れる雲の行方を目で追いながら言葉を探していると、ふいに傍らで小さな笑い声が聞こえた。
「『本能寺』だからか」
「……信長公だけでなく、お前も『終わった』場所だろう」
「確かにな。なんだ、気遣ってくれているのか?」
「ば、馬鹿言え! そんなことあるか! 俺は、ただ……」へし切は一旦言葉を切って、「お前が途中で心変わりしないか心配なだけだ」
「俺が、奴らに加担して信長公の自刃を阻止すると?」
「可能性が無いわけではあるまい」
 すると、薬研は少し考えるような素振りをした後、抱えていた本をおもむろに下ろした。そして、溜め息混じりに、
「なら、あんたはどうなんだ? へし切長谷部」
「なに?」
「あんただって昔は信長公の刀だった。どうして本能寺への出兵を志願した? 元の主への未練か?」
「違う!」
 カッとなり、思わずへし切は声を荒げた。その唇が自嘲気味につり上がる。
「未練などあるものか。俺は……、俺は見てみたいんだよ。自らを大六天魔王などと称した、あの傲岸不遜な男の最期を」
 心ならずも吐き出した言葉だった。
 薬研はどんな顔をしているだろう。ちらりと思って、へし切はさり気なく彼を見た。が、薬研の青白い頬に変化は無く、ただ一言、
「そうか」
 と返しただけだった。
 最期の時まで主といた者の余裕か。胸元にチリチリと焼けるような痛みを感じ、へし切は再び薬研から顔を逸らした。
「――俺がいれば」絞り出すように呟く。「自刃など有り得なかったはずだ」
 しかし、宛て所を失ったその声は夜を覆う闇に迷い、やがて溶けていった。
 この刀はよく斬れる、と認め、名付けてくれたのは貴方だったではないか。
 それなのに、何故……。
「信長公が常に俺を傍に置いていたのは」
 答えの出ない自問自答を繰り返しそうになっていたのを、薬研の低い声が引き戻す。
「確認する時を待っていたからだよ」
「確認だと?」
 予想もしていなかった言葉に、一瞬虚を衝かれた。よほど間の抜けた顔をしていたのだろう、薬研はへし切を見て小さく吹き出し、
「そうさ。俺の名前の由来は知っているよな。切腹しようとしていた主の腹に刺さらなかったくせに、鉄の薬研は貫いた。だから、藤四郎の短刀は主を傷つけない。主を守るのだ、と」
 言って、薬研は月を見上げた。いつの間にか雲は流れ去り、金色に輝く月が凛とした姿を見せている。
「だが、信長公はそんな『迷信』信じちゃいなかった。いずれ確かめるつもりだったんだろうさ。――『薬研藤四郎は本当に主の腹に刺さらないのか』を。そして、思いがけず本能寺でその時を得た」
「まさか」
 へし切は息を呑んだ。
 そうだ。何故、今まで気付かなかった?
 信長公が『肌身離さず持っていた』のなら、彼が自刃する時に用いる刃は唯一つ。
「薬研、お前……」
「俺達は武器だぜ。そうだろう? へし切さんよ」
 弱々しいへし切の声を振り切るように、薬研は言った。
「武器が……道具が、人の意思を超えられるわけがない。未来を変える? 世界を変える? 馬鹿げた話だ。そんなこと、ハナから俺達の領分じゃあねぇだろうが」 
「…………」
「実に『らしい』死に様だったよ。あの人は、不思議に思ったことは何でも自分で確かめてみなけりゃ気の済まないお人だったからなあ。あんな時でさえ……。まったく、本当にどうしようもない」
 その瞳の向こうには『彼』がいるのか。そう思わせるほど、薬研の目は遠くを見つめていた。ややして、彼はその目を閉じ、足元に置いてある本を抱え始めた。
「さ、夜も更けてきた。そろそろ休んだらどうだ? 人間の身体は何でもできるようで、意外と不便だからな。ちゃんと休んでおかねーと良い仕事ができなくなるぜ」
 言いながら、最後の一冊に手を伸ばす。が、それよりも早く、へし切が拾い上げた。薬研が怪訝な表情で見上げる。
 今では珍しいものとなってしまった、紙の書物。端が擦り切れ、奇妙な匂いを発するその書物の表紙には、金色の箔押しで『安土桃山』と書かれている。へし切りは薬研の細い両腕に収まっている数冊の書物に目をやった。どれも分厚く、非常に重そうだ。
「……ちゃんと休まなければならないのは、お前も同様だろうが」
「は?」
「手伝ってやる。明日、寝不足で怪我でもされたら迷惑だからな」
 早口でそう言うと、へし切は書物を片手にその場から離れた。直後、背後から薬研のくつくつと笑う声が追いかけてくる。
「そいつは助かるぜ。あんたが来てくれたら百人力だ」
「世辞はいい」
「俺は世辞なんか言わん。本当にそう思ってるんだよ。……あんたは頼りになる」
「…………」
 無言で返しながらも、へし切りは歩く速度をほんの少しだけゆるめた。

――俺達の領分、か。

 先程の薬研の言葉を思い返す。
 人には人の。
 武器には武器の――領分がある。
 ならば、武器である自分にできることは……。
 チリチリと焼けるような感覚が胸に広がる。
 だが、それはこれまで感じていた『痛み』とは違っていた。
 燃えるような、焼け付くような熱さだ。
「薬研」
「うん?」
「本能寺では存分に戦おう。主の為に。そして――」

『あの人』の最期を守るために。

 口の中で言ったはずのその言葉をどう聞き取ったのか、薬研はニッと笑って力強く頷いた。
「ああ! よろしく頼むぜ。大将を守れんのは俺達しかいねえからな!」
 その先に待っているのが自らの『死』であったとしても、そうやって笑えるのは自分の運命を受け入れているからに他ならない。
 そして、おそらく『あの人』も。
 分厚い書物を持つ手に力を込めて、へし切は前を見据える。
 雲の晴れた月に照らし出された廊下は、淡い光の中で白く輝いて見えた。

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