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君を忘れるということ

「よーし。あとは俺達だけだぜ、不動」
 鬱蒼と生い茂る竹藪を前に、薬研藤四郎は不敵に笑った。
 戦力拡充計画が実施されて数日が経つ。この訓練場にも幾度通ったかわからない。仮想の戦場、仮想の敵。しかし、受けるダメージは本物で、下手をすれば折れる可能性もある本格的なものだ。そして、それはフィールドに於いても同様だった。昼の野外、夜の市中、曇天の江戸の町など、これまで経験した戦場が見事に再現されている。
 目の前にそびえる竹藪も現実のものと大差無い。触れられるし、感触も実物さながらだ。仲間達は既に竹藪の細い隙間を縫って向こう側へ抜けている。次は自分達の番だ。
 その時、ふいに背後から不動行光の声が遠慮がちに飛んできた。
「なあ、薬研。少し……いいか?」
「どうした?」肩越しに振り向いて、薬研。
「いや……。その、訊いてみたいことがあってよ」
 言い出しにくいことなのか、不動は一旦言葉を切って息を吐き出した。やや間が空く。
「不動?」
「えーと、だな。なんつーか、その……」
 竹藪の向こうを気にしながら薬研は不動の言葉を待った。戦場に於いてさえ、不動は若干酔っ払っている。たまに絡んでくることもあるが、それは周囲の安全が確保されている時だけだ。移動中の、しかも部隊が分断されている今の状況下では当てはまらない。
 こちらから訊いてみるか、と薬研が口を開きかけた時、ようやく不動が話し出した。
「お前はさ、お前は……。辛い記憶を消してしまいたいと思ったことはないか?」
 予想外の質問だった。が、考えるまでもない。答えは一つしかなかった。
「無いな。辛い記憶も自分の大切な一部だ」
 きっぱりと薬研がそう言うと、不動は僅かに息を呑んだ。そして、事前に答えを知っていたような、それでいて落胆しているような曖昧な表情で笑う。
「なるほどな。それじゃあ、ついでにもう一つ。……もし、俺がお前や信長様のことを忘れちまったらどうする?」
 薬研は眉を顰めて不動をじっと見つめた。彼の真意が掴めない。
「わからん。想像もつかねーな」
「…………」
「そうだな……。お前が思い出したいと言うなら、いくらでも付き合うぜ。だが、『思い出したくねー』『今のままが良い』って言うなら、手出しはしねぇ。そのままでいい」
「本気で言ってんのか?」顔をしかめて、不動。「そのままって……。忘れられたままでいいのかよ」
「押し付けはできねーだろ」
 やや間が空いた。不動は顔を背け、そっと溜め息をついた。
「……お前らしい答えだよ」
「それにしても、どうしてそんなことを訊くんだ? 何かあったのか?」
 竹藪に向き直って薬研は尋ねた。心なしか胸が痛む。
「……別に。なんとなくだよ」
「そうか? まあ、言いたくねーなら、それで――」
 竹に掴まって足を踏み入れた瞬間、背筋に怖気が走り、全身が粟立った。本物とは異なる、歪でどこかグロテスクな気配。それは訓練のため、意図的に隠されることが多い。
「不動!」
 呼びかけ、薬研は咄嗟に振り返った。が、遅かった。大人の拳ほどある大きさの石礫がいくつも飛来し、二人に襲いかかってきた。直後に竹藪の向こう側でも複数の声が上がる。おそらく、そちらでも戦闘が始まっているのだろう。戦力の分断。そして、不意打ち。戦闘に於ける常套手段だが、嵌まると全滅の危機さえある。
 敵の規模は? 石礫はどこから飛んでくる? 必死に石礫を避けながら、薬研は神経を集中させて周囲の状況を把握する。と、その時、視界の端で不動がガクリと膝をついた。
「不動、大丈夫か!」
 大声で問いかけるが、不動は頭を押さえて蹲ったまま黙り込んでいる。
「不動!」
「……心配なんざいらねーよ。ちょっと石が頭にぶつかっただけだ!」
 怒鳴り声が返ってきた。不動はよろよろと立ち上がり、額から垂れてくる血をぞんざいに拭って短刀を構えた。石礫の飛来が完全に止まると、辺りは異常なまでの静寂に包まれた。空気が冷たく張り詰める。
 薬研は不動と背中合わせに立って身構えた。
「おい、本当に大丈夫か?」
「バーカ。今は、それどころじゃねーだろ。――来るぞ」
 風が鳴り、茂みの奥から鋭い刃が飛び出してきた。考えるより先に体が動く。薬研は短刀で敵の刃を弾き、相手の姿をじっと見据えた。曲線を描く刀、烏帽子、鎧。姿こそ遡行軍の太刀そのものだが、纏っている瘴気が全く違う。
「検非違使だな。訓練とはいえ、飽きもせず、よく出てきやがる」と、薬研。
「まったくだ。あれって政府が作ったもんだろ? なら、少しくらい手加減してくれてもいいのにな」
「……あいつだけだと思うか?」
「まさか。少なくとも、もう一匹はいるだろうよ。……ったく、岩みてーな石ぶん投げやがって。頭がガンガンするじゃねーか」
「傷が深そうだな。竹藪の中に入ったらどうだ? デカい奴らは俺が相手するからよ」
 すると、不動は鼻で笑い、
「冗談だろ」
 低くそう言って薬研を突き飛ばした。そして、自身も身を翻す。次の瞬間、不動の足元に槍の穂先が深々と突き刺さった。その槍を目にして薬研は小さく舌打ちをする。長柄槍。少々、面倒な相手だ。
 道端の雑木林の中から化け物じみた巨体がのそりと現れ、薬研と不動は竹藪を背に、急いで体勢を整えた。背後でも喚声が上がっている。
「助かったぜ、不動」薬研は短く礼をして、「それにしても、厄介な奴が出てきたな」
「なぁに、間合いに入っちまえばいい。簡単なもんさ」
 強気な笑みを浮かべる不動につられて薬研も笑う。
「――だな。だが、槍は俺が貰うぜ。あの馬鹿みてーに硬ぇ刀装ごと貫いてやる」
「へーへー、わかりましたよ。ダメ刀の俺じゃ、あの刀装は砕けねぇもんな」
「だが、太刀なら?」
 薬研の問いに、不動はニヤリと笑った。
「一発だ」


「――それで、太刀と槍とを相手して」
 煙管を吸い、主は溜め息とともに煙を吐き出した。
「戦闘を終えたら不動が倒れていた、と」
「……ああ」
 小さな声で答えて薬研は頷く。文机を挟んで薬研と主は向かい合って座っていた。沈黙の執務室。隣室で近侍の仕事をしているのだろう、三日月宗近の衣擦れの音が微かに聞こえてくる。
 膝に置いた拳を震わせながら薬研は再び口を開いた。
「俺が悪かったんだ。あいつは頭を強く打っていた。無理やりにでも退避させておけば、こんなことには」
「俺の台詞を取るんじゃねぇよ。こうなった責任は俺にある」
「いや、大将のせいじゃ……」
「俺はお前達の主だろ?」
 真剣な声で遮られ、薬研は口を噤んだ。そのまま黙って見つめていると、主は寂しげに微笑して、
「責任くらいは負わせてくれ」
「…………」
「それで、不動は今どのくらい思い出しているんだ?」
 煙管を置き、両腕を組んで主は尋ねた。
「日常生活の動作は大体思い出しているよ。しばらくすれば、俺達のことやここでの仕事も思い出すだろう。だが……」
 言葉に詰まって薬研は唇を噛んだ。少し間を置いた後、主が彼の話を引き取って続ける。
「過去のことは思い出せねぇ、か」
「本能寺での出来事は特にな」
 戦闘後に不動が意識を失ったことを知ると、主はすぐに帰城を命じた。手入れ部屋に直行して全てが終わると思っていた。しかし、違っていた。手入れ部屋へ見舞った時に向けられた、不動のよそよそしい目を思い出して、薬研は小さく溜め息を漏らした。
「正直言って、今も信じられねーよ。俺のことはともかく……、あいつが信長さんや蘭丸さんを忘れるなんてさ」
「まあ、まだ手入れが終わったばかりだ。日常を取り戻せば、昔のこともだんだんと思い出すさ。気長にいこうぜ」
 薬研を励ますように、ゆったりとした口調で主は言った。
 執務室を出た薬研は、俯きながら廊下を歩いた。不動の記憶喪失を知ってから、ずっと耳に残っている問いかけがある。
『もし、俺がお前や信長様のことを忘れちまったらどうする?』
 それが本当になった。不動は織田での記憶を取り戻すことができるだろうか。もし、何も思い出さなかったら。
 瞬間、背筋に冷たいものが走った。
「……そんなこと、あるわけねぇよな」
 口の中で呟いて、薬研は立ち止まった。暦の上では春だが、窓の外にはまだ雪が残っている。ふいに、鍛錬所の方から威勢の良い掛け声が聞こえてきた。それを追いかけるように木刀の打ち合う音が響く。
「よし、考えるのは後だ」
 答えの出ない問いかけを繰り返したところで埒が明かない。こういう時は体を動かすに限る。そう考えた薬研は、鍛錬所へ向かって元気良く歩き出した。
 廊下を進んでいると、居間の方から突然大きな笑い声が飛んできた。非番の者達が遊んでいるのだろう、と薬研が引き戸に手を伸ばした、その時。中から不動の楽しそうな声が聞こえてきた。
「さーて、乱、ババはどっちだろうな。当ててみな」
「うっそ。不動君、もう二枚なの!? よーし、ここはボクが頑張んなきゃね」
 不動は兄弟達とババ抜きをして遊んでいた。ゲームに夢中で、誰も引き戸の側に立つ薬研の姿に気付いていない。見たところ、不動は酒を呑んでいないようだ。顔色も良く、以前のような気怠い雰囲気は消え去っている。
 ふいに懐かしさが胸をよぎった。
 織田の刀として働いていた頃を思い出す。口調こそ違うものの、あの頃は、まだ不動もあんな風に笑えていたのだ。信長と蘭丸がいた、あの時までは。昔に戻ったような気持ちになり、薬研は俯いて目を閉じた。その直後、背中に遠慮がちな声がぶつかってきた。
「薬研兄さん?」
 振り向くと、五虎退が茶菓子の載った盆を手に立っていた。
「ああ、入り口を塞いでいたか。悪い」
 薬研がそう言って脇へ寄ると、五虎退は不思議そうな顔で小首を傾げた。
「兄さんは中へ入らないんですか?」
「俺は……」
 言葉を探しながら思わず居間に視線を投げると、不動が乱藤四郎と心理戦めいた小競り合いをして笑っているのが見えた。その目が、一瞬こちらを向いた。知らない誰かを見るような、他人行儀な目――。咄嗟に薬研は五虎退に向き直り、笑みを作った。
「悪いが、行く所があるんだ」
「そうですか」
 五虎退はしゅんとして、おずおずと盆を差し出した。
「このお茶菓子、すごく美味しいんです。良かったら食べませんか? 立ちながら食べるのは行儀が悪いですけど……、その、だ、誰も見ていないうちなら……」
「わかったよ。じゃあ、一つ戴くぜ」
 くすりと笑って、薬研は小さな饅頭をつまんだ。上品な甘さの菓子だ。
「美味い」
「良かったです」
 ホッとしたように五虎退は微笑んだ。
「……不動と遊んでいるのか」
「はい。遊んでいれば何か思い出すかもしれないって、みんなで考えて……。あの、薬研兄さんも用事が終わったら一緒に」
 その時、無造作に開いた引き戸が五虎退の言葉を遮った。
「二人とも部屋の前で何してんの?」
 きょとんとした顔で乱が尋ねる。ようやく戸の前に立つ二人の気配に気付いたらしい。彼の背後から茶菓子に対する歓声と薬研を誘う声が同時に飛んでくる。乱は明るく笑って、
「今ね、トランプしてるんだよ。薬研も遊ばない? あるじさんへの報告は、もう終わったんだよね?」
「報告は終わったが、遊ぶのはまだだな」
 答えながら乱の向こう側に目をやる。兄弟達は相変わらず賑やかだ。しかし、不動だけはテーブルに頬杖をついて顔を背けている。どんな表情をしているのかはわからない。が、歓迎されていないのは確かだ。薬研はそっと微笑み、
「饅頭、美味かったぜ。ごちそうさん」
「あ、薬研!」
 呼び止める兄弟達に軽く手を振って、その場から離れた。喧騒が遠ざかるにつれて薬研の胸に微かな痛みが広がっていった。避けられているかもしれない。そう思えてならなかった。
 苛立ちを振り払うように薬研は勢い良く鍛錬所の扉を開けた。バンッと荒々しい音が響き、その場にいた全員が注目する。構わず薬研は一礼し、
「すまねぇが、俺も混ぜてくれや」
「訓練場から戻ってきてまだ数時間しか経っていないのに、もう鍛錬か?」
 タオルを手に、へし切長谷部がやって来た。薬研の顔をまじまじと見つめて、
「あまり顔色が良くないな。部屋で休んだ方がいいんじゃないか?」
「いや、逆だ。休んでいると余計なことを考えちまって、却って体に悪い。動きたいんだ。……クタクタになるまで」
「不動のことか?」
「……ああ」
 呟くように答えた薬研を壁際へ促し、へし切は彼の傍らに腰を下ろした。それを見て、薬研も座る。
「あれは俺も驚いた。だが、あいつは少しずつだが回復しているんだろう?」
「日常生活に支障のない程度にはなったよ。だが……」言いかけて、口を噤む。やや逡巡して、「いや、何でもない」
「何でもないようには見えんがな。……休んでいると、余計なことを考えてしまう。さっき、お前はそう言ったな?」
 へし切の口調は優しかった。普段は厳しいくせに、こういった時は包み込むような柔軟さを見せる。参ったな、と苦笑して、薬研は両膝を抱えた。
「もし、あいつが織田での記憶を取り戻さなかったら……なんて、埒も無いことを考えちまってな」
「心配しすぎだ。全く思い出せないなら話はわかるが、現に不動は俺達のことを思い出しているじゃないか」
「本丸で再会してからのことはな。だが、織田にいた時のことは全然だ」
「記憶を失ってから、さほど時間は経っていない。そのうち思い出すさ」
「大将もそう言っていたが……」
「何か気になることでも?」
「いや、大したことじゃないんだが」やや言い淀んで、薬研。「なんとなく不動に避けられているような気がしてな」
「お前、不動に何かしたんじゃないか?」
「別に変なことはしてねぇよ。簡単な自己紹介と信長さんのことを少し話しただけだ」
「そうか……」
 呟いて、へし切は真剣な表情で両腕を組んだ。が、思案の時間は思いのほか長くはなかった。へし切は腕組みを解くと、おもむろに立ち上がり、
「ひょっとしたら、不動はお前に引け目を感じているのかもしれないな」
「引け目?」
「昔のことを綺麗さっぱり忘れて、お前を失望させてしまった、とでも思っているんだろう。で、合わせる顔が無くて避けている」
「なるほどな」
 薬研も立ち上がり、
「それなら筋が通る。失望、とまではいかないが、寂しくなったのは事実だ。無意識にそんな顔を見せていたのかもしれん。不動には悪いことをしたな」
「奴が一番混乱している。落ち着いてきたら、ゆっくり話すといい。俺も時期を見計らって昔のことを話してみよう」
「あんたが、信長さんのことをか?」
 意外に思って薬研はへし切を見上げた。信長に対して複雑な思いを抱いている彼が、どのように語るのか。少し興味がわいた。そんな思いを察してか、へし切は決まり悪げに薬研から目を逸らして、
「そんなに驚くことか? 俺だって織田にいたのだから、思い出話の一つや二つくらいある。無論、私情は挟まん。起きたことを淡々と語って聞かせるだけだ」
「淡々と、ね」
「……なんだ?」
「まだ、わだかまりは解けないか?」
 薬研の問いかけに、へし切は頬を強張らせながら固く唇を引き結んだ。それからしばらく重い沈黙が続いた。木刀の打ち合う音や騒がしい声が室内に満ちていたが、薬研とへし切の間は、しんと静まり返っていた。
「そうか」
 ややして、薬研は溜め息をついて、へし切の無言の返答に頷いた。すると、へし切は少し笑って、
「お前のようにはいかないさ。そんなことより手合わせを願おうか。クタクタになるまで相手してやる」
「ああ。宜しく頼むぜ、へし切さん」
 願ってもない。そう思いながら、薬研は歩き出すへし切を追いかけた。
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