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刃、極まる

 青々とした稲の葉が陽光を受けて風に揺れている。ふいに聞こえてくる楽しげな笑い声は、田植えを終えてひと休みしている農民達のものだ。のどかな時間。空は晴れ渡り、連なる山々が遠くの方で淡い影になって横たわっている。
 薬研藤四郎は被っていた笠を少し上げ、周囲を見渡して小さく息をついた。もうすぐ、京を目指す一行がこの道を通る。
 修行をしたいという薬研の願いを受け、審神者である主が執り行った特別な術式によって飛ばされたのは、琵琶湖のほとりだった。この術式は、対象者の識域下に沈んでいる意識が行き先を決定するため、思ってもみない場所に着いてしまう可能性がある、と旅に出る前に薬研は主から聞いていた。
 到着地は安土。つまり、心の奥底で埋み火のように燻っているのは、信長――ひいては本能寺、ということになる。
 だが、薬研が足を運んだのは城郭の中にある摠見寺までで、城内へは入らなかった。かつて信長と共に天守で眺めた景色を思い返しながら、賑わう城下町を歩く。それだけで十分だと思った。
 市井の人々の活き活きとした表情が、今でも目に浮かぶ。薬研はそっと微笑みながら近くの木に背中を預け、やってくる行列を待った。
 主には二通、手紙を送った。どちらも修行の内容には触れず、信長のことばかりしたためたのだが、それを彼はどう思ったろう。前の主について語ったのはこれが初めてだ。こんな機会でもなければ、伝えることは無かったかもしれない。
 遠い未来で帰りを待っている主に想いを馳せたその時、薬研の耳に騒々しい足音が聞こえてきた。すぐさま、寄り掛かっていた木から離れて道の端で膝を落とす。馬の蹄の音や甲冑の擦れる音が次第に大きくなっていき、やがて行列の先頭が姿を現わした。
 薬研は急いで笠を取り、頭を下げた。目の前をゾロゾロと人馬が通りすぎる。旅装の少年に気を配る者など一人もいない。頃合いを見計らって薬研はそっと頭を上げた。と、同時に息を呑む。
 眩い光の中で騎兵に囲まれながら、不敵な君主は誇らしげに堂々と前を見つめていた。その眼差しに目を奪われる。
 顔を合わせたくなかったわけではない。
 話したいことなら山ほどある。
 だが、声などかけられるはずもなかった。
(なんせ、今の俺はただの小童で……あんたは殿様だもんな)
 立ち上がり、薬研は行列の背中を見つめた。ややして、後を追うように弱々しく一歩、二歩と進んだものの、躊躇って立ち止まる。彼らが向かうその先に待っているのは避けようのない裏切りの炎だ。
 無論、だからといって歴史を変えようなどとは思わない。
(だが、俺は……)
 薬研は、俯いて拳を握り締めた。束の間迷い、やがて意を決して顔を上げると笠を捨てて歩き出した。
 大股で行列を追いながら、肩当てに付いている朱色の房を一つ引きちぎる。
(たった一つだけ、どうしてもあんたに伝えたいことがあるんだ)
 歩みは、やがて駆け足となっていた。
(なあ、信長さん。あんたの名は未来にも残っているよ。その未来が、どんな風になっているか想像できるかい? きっとあんたは笑うさ。だってよ……)
「ちょっと待ってくれ!」
 息を切らしながら、薬研は近習の一人を捕まえた。そして、持っていた房をぐいっと差し出す。
「これ、さっき殿様が落としたみたいなんだ。装備の一部かもしれない。渡してくれるかい?」
 男はやや訝りつつも房を受け取ると、頷いて列に戻っていった。
 薬研はその場に留まり、深く息を吐き出して自分の手の平を見つめた。握り締めて、開く。意のままに動く、自分の身体。
(……だってよ、あんたが懐に入れている短刀が、人間の姿をして戦っているんだぜ。これほど荒唐無稽で面白ぇことはねーだろ?)
 思い出の中に住む信長に語りかけ、薬研は顔を上げた。
 行列が小さくなっていくにつれて、胸が軋むように痛んだ。黙って見送ったことに後悔は無い。では、この痛みは何だ。人間が言うところの罪悪感というものか。
 最後尾の背中が視界から消えた。しかし、薬研は唇をきつく結んだままその場に立ち尽くしていた。
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