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降り積もるもの、消えるもの

 覚えているのは炎。大切な人を呑み込み、焼き尽くして吹き上げる赤い龍。怒号。悲鳴。足音。火を纏う柱。焼け落ちる梁。勇敢な指先。野心に溺れた目。そして、着物を染める、どこまでも赤い、赤い――。
 悪夢にうなされて不動行光は目覚めた。一瞬、自分がどこにいるのかわからなくなって混乱する。戸惑いながら視線を巡らし、本丸の自室だと気付くと、深い安堵のため息を漏らした。ここには炎も怒号も無い。静かな夜だ。
 不動はもう一度深く息を吐きながら寝返りを打った。背中がじんわりと湿っている。嫌な汗をかいた。燃え盛る本能寺。あの悪夢は何度も見ているが、やはり慣れるということはない。不動は頭を動かして障子戸を見やった。灯を落とした室内は暗いままだったが、障子戸の向こうはぼんやりと明るい。月でも出ているのかと思い、起き上がると冷えた空気が肩口を撫でた。
「……寒いな」
 呟いて、布団を被り直す。そして、そのまま立ち上がって障子戸へ向かった。
 音を立てないように気をつけながら、そっと開ける。すると、闇の中に白い欠片がフワフワと落ちてくるのが見えた。
「雪、か」
 見上げて、白い息を吐き出す。どうりで寒いわけだ。思って、薄雲に隠れている月に向かって微笑みかける。炎の悪夢にうなされた頭を冷やすのに丁度いい、と思った。
「――まだ寝てないのか」
 突然声をかけられ、不動はギクリと肩を震わせた。肩に掛けた布団の端を握り締めてゆっくりと声のした方に顔を向ける。骨喰藤四郎が書類を手に立っていた。今日の近侍は彼だ。どうやら真夜中になっても仕事が終わらないらしい。
「あんたは、まだ働いてんのか?」
「これを主に渡したら終わる」
「御苦労なこって」
「どうせ明日……いや、もう今日か。この後は非番だからな。気にしていない。ところで、不動はそんな格好で何をしているんだ?」
「……雪を、見てた」
 悪夢を忘れたくて――とは、到底言えなかった。不動は空を見上げて続ける。
「やけに寒かったから目が覚めちまったんだ。それで外を見たら、この雪だ。眠れねーし、どうせだから酒でも飲むかなぁって思っていたところだよ」
「眠れないのか」淡々とした口調で、骨喰。
「寒くてな」と、不動は強調する。
「温めた牛乳を作ってやろうか。寝る前に飲むと気分が落ち着くと燭台切が言っていた」
「いや、だから俺は」
「体も温まる」
「…………」
 不動は小さく溜め息をついた。骨喰は口数が少なく表情が乏しいが、それは人見知りが激しいとか内向的な性格だからというわけではなく、マイペースで沈着冷静な性格ゆえである。何を考えているのかわからない。この手の性格は苦手だ、と不動は顔をしかめる。決して強引な手段はとらないが、なんだかんだと言って結局――。
「作ってくる。少し待っていろ」
 言って、骨喰は歩き出した。
「あ、おい! 別にいらねーって!」
「大した時間はかからない。とはいえ、待つのは部屋の中の方がいい。そこは寒いからな」
――結局、こうやって自分のペースに持っていくのだ。不動は深い溜め息を漏らしながら、歩いて行く骨喰の細い背中を見送った。
 十数分後、骨喰がカップを二つ載せた盆を手に戻って来た。手渡された白いカップからは湯気が立ち、ふんわりと甘い香りがした。骨喰が『温めた牛乳』と称したこの飲み物が『ホットミルク』という名であることは、以前、燭台切光忠から聞いて知ってはいるが、実際に飲むのは初めてだった。
 カップからチラリと目を上げて、対面に座る骨喰を見る。
「あんたも飲むのか」
「主に挨拶も終えたし、俺も体が冷えたからな。それに、話し相手がいた方がいいだろうとも思った」
「ふーん、話し相手ねぇ……」
 言って、不動はゆっくりとホットミルクに口をつけた。優しい味が口いっぱいに広がり、少しだけ穏やかな気持ちになる。
「で? 何を話すんだ?」
「…………」
「…………」
 長い沈黙が続いた。やがて、骨喰がカップを持ち上げ、一口飲む。そして、
「すまない、甘すぎたな」
「……そうでもねぇよ」
 と、不動がぶっきらぼうに返すと、骨喰は微かに口元だけに笑みをのぼらせた。
「そうか」
「……あんた、たしか記憶が無ぇんだっけ?」
「殆どな。完全に記憶が無いわけじゃない」
「ふーん。どんなことを覚えているんだ?」
「ここに来た頃は炎だけ。それから少しずつ思い出している」
「え……」
 不動の胸が微かに鳴った。夢で見た炎が脳裏をよぎる。
「あんたも……焼けたのか」
「お前もそうらしいな。本能寺、だったか」
「…………」
「記憶を失わずに済んで良かったな」
「本当に、そう思うか?」
 俯いて、不動は低い声で続ける。
「炎の中で何があったか覚えているか?」
「いや……。断片だけで、正確には覚えていない」
 すると、不動は俯いたまま口角を上げた。
「――俺は、あんたが羨ましいよ。あんな思いを繰り返し思い出すよりは、忘れていた方がずっと良い」
「…………」
「なあ……。もし、あんたの忘れた記憶の中に思い出したくもねぇほどの悲惨なことがあったら、どうする? それを取り戻したいと思うか?」
 不動の呟くような問いかけを骨喰は静かに聞いていた。それから少しの間沈黙していたが、やがて囁くような声でそっと返した。
「思い出すものが全て良いものばかりではないことくらい、承知している」
「……そうかよ」
 不動は喉の奥で笑った。カップの中のミルクが湯気を辿って、ほのかな香りを漂わせる。甘い、と思った。
「だがな、そうやって余裕ぶれんのは知らねぇからさ。それを知ったら……知っちまったら、もう後には戻れねぇ。忘れた頃のままじゃいられなくなる」
「…………」
「記憶ってのは傷みたいなもんだ。何度もなぞるたび、どんどん深くなる。忘れたくても……忘れられなくなる。思い出しちまうんだ。どうしても」
「忘れたいのか?」
 骨喰の問いに不動は無言で返した。手の中のカップは少し冷め、細い湯気を残している。軽く目を閉じると、瞼の裏にあの日の炎が生々しく映った。へし切長谷部、宗三左文字、そして、薬研藤四郎。織田家――いや、信長に関わった刀剣達に再び相見えることになったが、自分だけが思い出の中に取り残されている気がする。まだ、あの火の中にいるのだ。
「どうしたら、忘れられるんだろうな」
 震える声で、そう呟いた。骨喰は沈黙している。
「もう……嫌なんだよ」
 後悔、絶望、憎悪、失望――。ことあるごとに湧き上がるこれらの感情を真っ直ぐに受け止められるほど、自分は強くない。酔っていれば、いくらかは楽になる。酔っている自分を演じていれば、周りを、自分をごまかすことができる。だが、心の片隅でもう一人の自分が、そんな自分を嘲笑っているのだ――そうしていて、一体何になる、と。
 不動は顔を上げ、呻くように言った。
「いっそ、あんたみたいに何もかも忘れられたらって思うよ。……愛された記憶も、枷になるくらいなら」
「…………」
 骨喰は何も答えず、神妙な顔をしたまま不動を見つめていた。
 障子戸が風に揺れてカタカタと震える。
 沈黙の夜は部屋に満ち、口を閉ざした二人を静かに呑み込んだ。
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