このサイトは1ヶ月 (30日) 以上ログインされていません。 サイト管理者の方はこちらからログインすると、この広告を消すことができます。

other side

 やけに蒸し暑い夜だ。思って、大谷吉継はそっと障子戸を開けた。少し風を入れなければ。振り返る視線の先には床に伏せた石田三成の姿がある。包帯だらけの彼を見て、吉継はまるで鏡のようだと声を潜めて笑った。
 いつもの小競り合いのはずだった。少なくとも吉継にとっては、そうだった。辛うじて勝利はした。だが、三成はこの通りの有り様だ。敵の策に簡単に嵌まるような男ではない。何か迷いがあるように吉継には思えた。
(何を焦っておるのか)
 怪我の熱に浮かされている三成を見下ろして、吉継はその髪に優しく触れる。平素から気を張り詰め、決して油断を見せない彼だが、寝顔はひどく幼い。安らげるのは眠っている時だけか、と吉継は苦笑した。「まったく、難儀な男よなァ」
 いっそ手放してしまえば楽になるものを。しかし、それができないことを彼自身にもわかっていた。
(恨むために生きるのか。生きるために、恨むのか)
 障子戸の向こうでは欠けた月が淡い光を放ちながら浮かんでいる。いやに眩しい。吉継は逃れるように目を逸らした。そして、自分の影を映した三成を見つめ、優しく呟いた。
「今宵はゆるりと休むがよい。ぬしは我が守るゆえ……」


 気がつくと、見知らぬ丘の上にいた。夜空に散らばった星が呼応するように明滅し合っている。
 わけがわからず三成は辺りを見回した。背後に満開の桜の木々がある。季節は既に夏を迎えようとしているはず。それなのに、何故。眉間に皺を寄せて考えていると、甲冑を身につけていないことに気がついた。このような小袖姿で奇襲を受けようものなら一溜まりもない。周囲を警戒し、三成は身構えた。どこに敵が潜んでいるかわからない。早く城に戻らなければ。しかし、ここは一体どこだ――。
 その時、一陣の風が吹き抜け、桜の枝を強く揺らした。
 舞い散る桜の花弁のその奥に人の気配を感じ、三成はとっさに振り返った。薄暗くてよく見えない。気を張り詰めたまま目を凝らす。
 やがて、薄雲に隠れていた月が出た。月光とともに現れたその姿に、三成は息をのみ、大きく目を見張った。
「やあ、三成君。調子はどうだい?」
『彼』は、いつもそうしていたように柔らかい笑顔でそう言った。小袖に羽織を纏った格好で、トレードマークの紫の仮面はつけていない。三成は目の前で起こっている現実に対処しきれず動けないでいる。わなわなと小刻みに膝が震え出し、それが全身へと伝わった。これは忍の術だろうか。騙されてはいけない。思うが、警戒よりも先に懐かしさが胸を覆う。
「半兵衛、様……?」
 震える唇で、ようやくそれだけが言えた。竹中半兵衛の姿をした『それ』は、月の光の中で美しく微笑んで頷いた。
「久し振りだね。元気そうで何よりだ。吉継君も変わりはないかい?」
「どう、して……」
「それはこっちの台詞だよ。君こそこんな所で何しているの」
「私は……」
 言葉に詰まる三成を見て、半兵衛は呆れたように小さく息を吐いた。そして静かに歩み寄る。既に病死したはず。それなのに、彼は生前の頃のように凛とした佇まいでここにいる。三成は困惑した。これは、敵方の策だろうか。だとしたら危険だ。罠に嵌まるまい。三成は目に力を込めて息を殺した。
「貴方は、既に亡いはずだ」
「――そうだね」半兵衛は目を伏せた。
「なら、何故ここにいる」
「だから、それは僕が訊きたい……」
「言うな!」
 叫んで、三成は半兵衛に掴みかかった。「騙されんぞ!! 半兵衛様の姿で、声で! 私を欺こうなどと、よくも考えたものだな! 貴様、どこの手の者だ! 言え! 言わないと――」
「殺す、かな?」
 三成は絶句した。息がかかりそうなほど近くに、彼の澄み切った眼差しがある。それが、思い出の中の彼と重なった。三成は振り払うように強く頭を振る。
「まさか、そんなことがあるはずない!!」
「軍神殿の言葉を借りるなら、これも御仏の御加護、ということなのかな。……おかしな子だね。なにをそんなに怯えているんだい」
 そっと、半兵衛は三成の頬に触れた。冷たい手の平。そこから次々と思い出が甦り、三成は不覚にも涙を滲ませた。
「僕が怖いかい?」
 と、半兵衛は頬に当てていた手を額に移し、瞼を撫でる。
「君が疑うのも当然だ。死んだ人間と再び相見えるなんて、現の世ではありえないからね」
「では……これは、夢?」
 三成の問いに、半兵衛は「さあ、どうだろう」とうそぶいて笑った。夢か現か。おかしなことばかりだ。だが、少なくとも今の彼からは、殺気はおろか戦意すら感じられない。三成は俯いて小さく溜め息をついた。夢ならば、たとえ斬られたとしても構わないだろう。しかし、現ならば――。
「――三成君。人は怖いかい?」
 ふいに尋ねられ、三成は突かれたように顔を上げた。ひたむきなほど真っ直ぐに自分を見つめる瞳に出会い、返す言葉を失う。
「……あ」
「人から裏切られるのが怖い?」
「…………」
 三成の脳裏にある男の後ろ姿が浮かんだ。忘れ難い、仇の背中。
「私は――」
 と言いかけ、三成は言葉を切った。やや逡巡し、言い直す。
「怖くなどありません。ただ、許せないのです」
「許せない? 一体何が?」
「裏切ったことが、です。半兵衛様はご存知ないでしょうが、家康は……あの男は、秀吉様を――」
「だが、それが戦というものだろう」
 キッと三成を見据えて半兵衛は切るように言った。が、すぐに表情を和らげ、
「君は家康君を許せないんだね。けれど、それ以上に自分をも許せないでいる。……違うかい?」
「…………」
 三成はぐっと言葉を飲み込んだ。違う、とは言い切れずしばらく黙っていると、半兵衛が呆れたように小さく溜め息を吐き出した。そして、
「真っ直ぐなのは君の良い所だけど。でも、同時にそこが短所でもある。秀吉が、いつ君に仇を討ってほしいなどと言った?」
 強い口調で言い放つ。
「それは……」思わず、三成はたじろいだ。
「三成君。これは誰のための仇討ちだ? 秀吉のためか? 豊臣のためか? 違うだろう。何もかも、自分のためじゃないのか?」
 半兵衛の言葉が、鋭い矢となって三成の心臓を貫いた。胃の辺りが重く、疼く。
「ちが……違います! 半兵衛様、私は!」
「違う? どう違うというんだい。秀吉が命じたわけでもない仇討ちを、君は一生懸命果たそうとしている。命じたのは誰だ? 他でもない君自身だろう? 君が家康君をこうも恨むのは、彼が君の信頼を裏切ったから。君は秀吉の仇を討ちたいんじゃない。君自身の仇を討ちたい……ただ、それだけだろう。さあ、三成君。違うなら反論してごらん」
 三成の足が俄かに震え出した。立ち続けていられず、脱力してその場にくずおれる。だが、半兵衛は冷酷な目で彼を見下ろすだけで声すらかけなかった。すると、
「そのくらいにしておけ、半兵衛」
 懐かしい声が落ちてきた。俯いたまま、三成は目を見張る。息が、止まりそうになった。
「秀吉」
「少々、言葉が過ぎるぞ」
「僕は本当のことを言ったまでだよ。……君は、三成君に甘過ぎる」拗ねるように半兵衛は言った。
「そうか? 我は、お前ほどではないと思っていたが」
 三成はおそるおそる顔を上げた。目の前に、いつかの光景が甦る。そこにいたのは、一目でも会いたいと焦がれ続けた君主、豊臣秀吉だった。鎧は着けていない。羽織袴姿で両腕を組み、半兵衛の傍らで佇んでいる。彼は三成に目をやると、薄く笑った。
「久しいな。三成、達者でいるか」
「……はっ」
 姿勢を正し、片膝をついて三成は秀吉に頭を垂れた。そうしながらも、胸の奥は懐かしさと喜びでいっぱいになり、ついには涙が溢れた。震えが止まらない。
「秀吉様、私は……私は……っ!」
 喉が詰まって言葉にならない。声は嗚咽となり、双眸からこぼれる涙が地面を濡らした。大きく息を吸い、想いを吐き出す。
「浅ましいと思われても構いません。私は、それでも家康のことが許せない!!」
 長い沈黙が訪れた。三成は頭を垂れたまま動かない。二人の視線が突き刺さるように感じる。三成は地面を掻き、手中の土を強く握り締めた。
 ややして、秀吉が静かに口を開けた。
「許さない、か。我は何度となくその言葉を聞いた」
「え……」
 三成は顔を上げた。二人は笑んでいる。
「だが、我に後悔はない。己が信じた道を行き、そして果てた。家康もまた己の信じた道を歩んでいるのだろう。ただそれだけのことだ。どうして恨むことがあろう」
「信じる、道……」
「三成君、君の願いはなんだい?」
 ふいに半兵衛が尋ねた。
「願い?」
「君の本当の願い。それはきっと家康君への復讐などではないはずだよ」
「私は……」
 月光に包まれた二人を見つめながら三成は思いを巡らせた。ふつふつと湧き上がってくる熱。それを、口にしてみる。
「私は、秀吉様と半兵衛様が目指した世を……秀吉様の信じた道を、歩みたい」
「我が覇道を継ぐか!」
 それもいい、と秀吉は豪快に笑った。途端に恥ずかしくなって三成は再び頭を下げる。
「分不相応な願いでありました! どうか、お忘れ下さ――」
「そんなことはない」
 三成の言葉を遮って半兵衛は彼の前に膝をついた。そっと三成の手をとり、そこに自分の手を重ねる。
「……僕が掴めなかった夢。秀吉が掴みたかった夢。それを、今度は君が掴もうとするのか。夢を掴むのに相応も不相応もないよ。恥じることはない」
 真っ白な手は相変わらず冷えていた。月光を背にし、半兵衛は微笑む。
「でも、君はその道を誰と行く?」
 唐突に尋ねられ、三成の頭の中は真っ白になった。そこまで考えてはいない。第一、自分について来てくれる『誰か』などいるのだろうか。もし誰も来てくれなかったら? そう思うと胸が軋んだ。 そんな彼に、半兵衛は小さく息を吐き出して優しい口調で言った。
「決して楽な道ではない。誰かを裏切り、裏切られ、理不尽を承知で人の命を奪うことだってある。この道を行く限り、それは避けられない。そして、人知れず傷を背負い、途方もない暗闇の中で迷うことにもなるだろう。……一人では、辛過ぎる。君の背を守る者が必要だ。君が信じるのなら、きっと応えてくれるはず」
 背を守る者。思った瞬間、真っ先に浮かんだ顔がある。
「あ……」
「思い出したかい?」
 言って、半兵衛は寂しげに目を伏せた。
「確かに僕達はもう君達の住む場所へは戻れないけど。でも、君は何も失ってなどいないよ。よく考えてごらん。僕達が生きた日々はずっと君の中に宿っている。誰がそれを消してしまえる? 君が忘れないでいてくれるなら、永遠にそれは生き続ける」
「半兵衛様」
「君を信じている人がいる」
 立ち上がり、きっぱりと半兵衛は言った。踵を返し、
「その人を裏切ってはならない」
 風が、吹いた。
 三成は決意し、キッと二人を見据えて背筋を伸ばした。桜が舞い散る中、深く息を吸い、ゆっくりと頭を下げる。そして、
「秀吉様。改めて申し上げます」
「なんだ」
「私に、秀吉様の歩まれた覇道を行く許可を!」
 澄み切った声で、そう言った。
「三成、顔を上げろ」
 命じられるまま、三成は頭を上げる。そこには、鎧を着けた秀吉と戦闘服に身を包んだ半兵衛が立っていた。月と桜を背にし、夜に映え、神々しいまでに美しい。その威厳に満ちた姿に三成は震えた。
「我らが覇道、お前に預けた」
「君は、どんな夢の続きを歩むのかな。楽しみだね、秀吉」
「だが、三成。お前が継いだこの覇道、私怨などで汚すことは許さん。たとえそれが我を想ってのことであったとしても。この言葉、ゆめゆめ忘れるでないぞ」
「――はっ!」
 三成は深々と頭を下げた。強く風が吹き、木々の揺れる音がした。ハッと気がつき、急いで頭を上げる。
「秀吉様! 半兵衛様! 私は――」


 見慣れた天井を、三成は呆然と見つめていた。背中が汗で濡れている。困惑していると、薄闇の中、吉継がひょっこりと顔を覗かせた。
「やれ、ようやく目覚めたか。随分うなされておったぞ。何か悪い夢でも見ていたか?」
 やはりあれは夢だったのか。理解した途端、涙が溢れる。三成は包帯だらけの両手で目を塞いだ。
 懐かしい人達は、もういない。
「――にも、言えなかった」
「三成?」
「何も言えなかった。あんなにも会いたいと願い、ようやく会えたというのに! 感謝も償いの言葉も――何も!」
「……何があった? 話してみやれ」
 冷静に吉継は尋ねた。三成の話を聞き、ゆっくりと頷きながら声を潜めて笑う。
「幽鬼と出会うたか。よくあることよ」
「そうなのか」
「我も深くはわからぬがの。斯様な話はよく聞く。情を深く交わした者は、契るという。げに、おぞましきことよ」
 言って、下卑た笑みを浮かべた。三成は天井を向き直り、溜め息をつく。
「何一つ、言えなかった。伝えなければならないことがたくさんあったはずなのに。私は、本当に――」
「……すまんな、三成」
 吉継が、遮った。
「何がだ?」
「ぬしの苦しみはよう知っとる。だが、我は己のことで精一杯で、ぬしの苦しみの半分も背負うてやれぬ。こんなにも世話になっておるのにな。その恩すら返さず、ただ朽ちるだけの身体を引きずるばかりだ。すまないなァ。三成よ。本当に、すまぬ」
 深く頭を下げる吉継を見て、三成は跳ね起きた。
「よせ、刑部! 謝るな! 貴様はよくやってくれている! 今もこうして病をおして動いてくれているではないか! それは私が一番よくわかっている! だから、そのように頭を下げる必要など……」
「それよ」
 言って、吉継は三成の鼻先を指でピンと弾いた。
「何をする、刑部!!」鼻を押さえて、三成。
「太閤も同じよ」
 ヒッヒ、と吉継は笑った。
「ぬしはようやっとった。言葉などいらぬほど、太閤も竹中殿も理解しておったろうよ。今のぬしのようにな。だからこそ、夢の中にも現れたのであろ」
「……そうだろうか。私にはとてもそのようには思えん」
「だが、覇道をぬしに譲ったのであろ?」
 三成は答えない。黙り込んで、じっと自分の手に目を落としている。
「三成よ」
 低く、吉継は言った。
「家康を許せ、とは言わん。だが、己のことくらいはそろそろ許してはやれんかの」
「なに?」
「どんなに己を責め、追い詰めたとて、永久に救われん。ぬしが許さん限りな」
「…………」
「そうやって追い立てた後にあるのは、ただ闇よ。己への憎悪はやがて他者へと向かう。周りが憎うて憎うてたまらんようになる。だが、その他者を排除したとて、そも憎しみの根源が己にあるのだから何も変わらん。ぬしは聡い男よ。そのことに気付いていないわけではあるまい」
 吉継はしばらく彼の言葉を待っていたが、やがて小さな溜め息をつくと、後ろ手で半開きだった障子戸を全開にした。
「よう見やれ、三成」
 呼ばれ、三成は顔を上げる。夢で見たものとは違う、欠けた月と儚い光を放つ星が浮かんでいた。
「月が美しかろ」
 夜空を見上げてそう話す吉継の真意をはかりかねて、三成は小首を傾げる。横目でそれを見やり、吉継は続けた。
「太陽は直視すると目を焼くが、月はそうではない。ずっと眺めていられる。強過ぎる光は弱き者には毒よ。我らには、月の光が丁度良い」
 だが、と吉継は向き直った。逆光で彼の顔は翳り、目だけが爛々と光っている。
「月もまた、影を落とす」
「…………」
「家康が太陽ならば、ぬしは月よ。ぬしだけが家康と対峙できる。ぬしは――」
 と言いかけて言葉を切った。喉の奥で嗤い、言い直す。
「ぬしもまた、脅威よ」
「私が、脅威?」
「家康にとってのな」
 吉継はまた月を見上げた。眩しさに、そっと目を細める。
(そうか。我は、よくやっているか)
 そう思うと、ふいに胸の奥から何か熱いものが込み上げてきた。吉継は口元に笑みを浮かべる。――この想いの正体に、名などいらない。
「ぬしが月なら、我は星だろうよ」
 三成を振り返らず、囁くように言う。
「どこまでも、ぬしと共に在る星よ」
 穏やかな沈黙が二人を包んだ。相変わらず蒸し暑い。ややして、遠くの方で風が鳴った。
「――刑部」
「ん?」
「私は決めたぞ」
 強い瞳で三成は告げた。夢を、夢で終わらせはしない、と。


 見回りの兵からの報せを聞いて、徳川家康は耳を疑った。
 三成が、来ている。
 それも、供の者も連れずたった一人で。そんなことがあるだろうか。俄かには信じがたい話だったが、家康は現場に急いだ。奇妙なことはまだある。兵の話では、三成は刀を置き「戦う気はない」と言ったらしい。家康と話がしたいだけだ、と。
(本当にそれは三成なのだろうか)
 聞けば聞くほど信じられなくなる。もし本当ならば、一体どういうつもりなのだろう。期待と恐れが同時に湧き起こり、彼の心を乱した。森を駆け抜けながら、ぐっと握りこぶしに力を込める。罠かもしれない。だが……。
(行ってみねば、わからぬことだ)
 到着し、まず家康は目をこすってみた。
 三成が、いる。
 見回りの兵らは抜刀し、彼を取り囲んでいた。先の報せの通り、甲冑姿ではあるものの、三成は足元に刀を鞘ごと置いていた。堂々と両腕を組んで立ち、平然と、むしろ見下した様子で自分を囲む兵士達を眺めている。が、やがて家康の存在に気付くと不敵に微笑した。
「刀を置いた人間にも刃を向けるとは、さすがは徳川の兵だな。いい躾をしている」
「三成……お前、どうして」
「話をしに来た。それだけだと先刻から言っている」
 本当にそうらしい。頷いて、家康は兵に命じた。
「ここはいい。さがれ」
「しかし……」
 と、兵の一人が口ごもる。家康はその兵を睨みつけた。目に、彼独特の昏さが走る。
「聞こえなかったのか? さがれと言っている」
 いつもの口調ではあったが声に凄みが帯びている。威に圧され、兵士達は一斉に返事をして後ろにさがった。が、警戒は解いていないらしく、離れた場所で三成を睨みつけている。
 家康はくるりと表情を変え、明るく笑った。
「お前がこうしてわしに会いに来てくれるとは思わなかった。しかも刀まで置いて。わしは、本当に嬉しいぞ」
 すると、三成は白々しいと鼻で笑った。
「こうしなければならなかったから、そうしたまでだ」
「それでもいい。で、話とは? まさか、お前、とうとうわしと絆を結ぼうと……」
「馬鹿か、貴様は」
 と、三成はにべもない。家康は苦笑した。
「そうか。違うか」
 当然だ、とばかりに三成は顔を背けた。沈黙が流れる。ややして、三成が切り出した。
「貴様はいつもそうだ。笑んで好意を見せ、相手の出方を窺う。本当の心など実は誰にも見せたことがないのではないか?」
 家康は、黙り込んでいる。
「貴様は単なる臆病者だ」
「……そうかも、しれぬな」
 小さく家康は呟いた。だが、三成は意に介することなく続ける。
「家康、私は天下を狙うぞ」
 思いがけない言葉に、家康は勢い良く顔を上げた。
「なに?」
「天下だ。貴様が乱した豊臣の世を、私が取り戻す」
 家康の目を真っ直ぐ見据えて三成は言った。相変わらず、その目には迷いがない。
「私は秀吉様の覇道を継いだ。秀吉様と半兵衛様の見た夢の続きを、今度は私が刑部と共に歩む。その為ならば鬼にでもなろう。だが、当然、貴様は邪魔をするのだろうな」
「……太閤のことはいいのか?」
 尋ねると、三成は静かに目を伏せた。
「貴様への恨みなど、もう無い」
「…………」
「全ては私怨だった。貴様と秀吉様との間には通じ合う言葉があった。だが、そこに私はいなかった。私の居場所はなかったのだ、初めから。……それが口惜しかったのだと、今は思う」
 しかし、と三成は身を屈め、刀を持ち上げた。反射的に家康は身構える。
「今は違う。ようやく私も秀吉様や半兵衛様と同じ地平に立てそうだ。――あの方達は、私に笑んでくれた」
 言って、三成は踵を返した。肩越しに振り返り、
「いいか、家康。だからといって貴様を許したわけではない。へらへら笑ってやりすごせると思うなよ。貴様に、私は欺けん」
「戦わねばならんのか?」
「今更何を。……あぁ、貴様の言う、絆とやらか」
 少し考え、三成は歩き出した。
「絆、絆と貴様は何かにつけそう言ってうるさいが、その絆というものがどういうものなのか、貴様は真剣に考えたことがあるのか?」
「なに」
「絆は糸でもなければ線でもない。関係の、濃淡だ。そんなもの、断ち切ろうとしても断ち切れるものではあるまい。だから、私と秀吉様、そして半兵衛様との絆は生きている」
 お二人との絆は私の中に色濃く溶け込んでいるのだ、と家康の耳には聞こえた。
「次は合戦場で会うことになるだろう。家康、首を洗って待っていろ。私は負けない」
 決意を込めて三成は言った。宣戦布告だ。家康も、気を取り直して「おう」と返す。もう何を言っても止められない。そう、悟った。
「お前がそういうつもりなら、わしも負けん!」
 家康はその場に立ったまま、遠ざかっていく三成の細い背中を見送った。そうしながら、彼が武器を取った時、つい身構えてしまった自分を恥じた。午後の日差しが、彼の陣羽織の上に降り注ぐ。銀色に反射する光を見つめ、家康は思った。
(何があったのかはわからぬが、三成の奴、随分と眩しくなったなぁ)
 城に戻ると、家康は真っ先に本多忠勝のもとへ行った。忠勝は彼専用の格納庫に鎮座している。傍に寄り、足元に背を預け、そっと語りかける。
「三成に会ったよ。あいつ、たった一人でわしのもとにやってきおった」
 忠勝は小さな機械音を鳴らし、家康の言葉に応える。
「許さん、とまた言われた。だが、何故だろうな。今まで聞いたどんな『許さん』よりも、ずっと気持ち良く響いた」
 言ってから、何を思ったのか大慌てで、
「ち、違うぞ? わしは決して独眼竜の言う『MAZO』とかいうものではないからな!!」
 と、妙な言い訳をした。忠勝は黙っている。少し間を置いた後、家康は真面目な口調で再び話し始めた。
「天下を狙うそうだ。三成に嘘はない。本気で、わしに立ち向かってくる気だ」
 外では数羽の雀が舞い降りて、芝生の上で遊んでいる。じっとそれを眺めながら、
「これで、わしは堂々と奴と戦える」
 ぽつりと呟いた。直後、心の奥底からじわりとどす黒いものが滲んでくるのを感じて、家康は額を押さえた。
「大義名分。そんなものでもなければ……こんなこと、よう続けられはせん」
 秀吉の覇道を継ぐと三成は言っていた。その為ならば鬼にでもなる、と。彼は彼の義を貫こうとしている。泥や血や憎悪をかぶってでも。その覚悟を馬鹿正直にも自分に示したのだ。
(ならば、わしもわしの義を貫かねばな)
 思って、口元に淡く笑みを浮かべた。
「大きな戦になる。いつになるかはまだわからんが、その日は必ず来る。どうあっても避けられん。三成は、今までよりも一層手強い相手となろう」
 忠勝が甲高い音を出した。意気込んでいる。頷いて、
「あぁ、勝たねばならん。……それで何を失おうとも」
 雀が飛び立った。吹き込んでくる風に夏の匂いを感じる。真っ直ぐに自分を見据える三成の純粋すぎる瞳を思い出し、家康はゆるく微笑んだ。
「だが、わしの心は不思議と躍っておる。なぁ、忠勝。これでようやくわしも独眼竜と真田達のような、好敵手という名の友を得たのだと考えてしまうのは……いささか呑気すぎるだろうか」
 そして彼もまたそう思ってくれているだろうか。願うように思いながら、家康は鷹が旋回する空を見上げた。


 慶長五年九月十五日。夜はまだ明けきってはいない。
 三成は本陣を敷いた笹尾山から関ヶ原を見下ろしている。霧が立ち込めて今はまだよく見えないが、あの場所が、あるいは自分の死地となる。だが、不思議と恐れはなかった。腹の底からふつふつと気が昂ってくるのを感じる。それは、以前憎悪の塊となっていた頃に感じたものとは比べものにならぬほど清廉なもののように思えた。
「三成」
 と、後ろから吉継が声をかけた。
「手筈通り、布陣は完了した。あとは開戦を待つのみよ」
 頷いて、三成は遠くを見据えた。向こうには桃配山がある。あの場所に、家康はいる。この笹尾山と同様に高い山ではないが、そこからも関ヶ原は見渡せる。奴もまた、自分と同じくこの死地を見つめているだろう。
 ふいに吉継が小さく笑った。
「おかしなものよな、三成。これからこの国の東西がぶつかるのだ。斯様な大戦、そうそう起きるものではない。そこに身を置く。だが、昂りこそあれ、不安や恐れは露程もない」
 それは三成も同じだった。無言で頷く。ふよふよと輿を動かし、彼と肩を並べて吉継は続けた。
「三成よ、死に場所を選べるということは、ともすれば幸福なことやもしれぬな」
「――私は死ぬ気などないぞ」
 三成の返答に、吉継はまたヒッヒと笑った。
「戯れ言よ。聞き流せ」
 秋風が夏の匂いを掻き消す。季節は変わった。三成はあの熱波のような日々を思い出しながら、そっと口を開いた。
「刑部、私は貴様を信じている」
 沈黙があった。ややして、
「いいのか? 我はぬしを土壇場で裏切るやもしれぬぞ?」
 からかうように笑いながら、吉継は意地悪なことを言う。だが、三成は平然としていた。
「それならそれで構わん。私は貴様を信じた。ただ、それだけのことなのだから」
 ただそれだけのこと。そう思えるまでに、どれほど彼が苦悩し傷ついてきたかを吉継は知っている。随分と大人になったものだ。若干の寂しさとそれを上回る喜びで、つい笑ってしまう。
「信じる、か。ヒッヒ。実に青臭い言葉だ。……が、不思議よなァ。ぬしの口から聞くと嫌な気がせんわ」
 言いながら、吉継は視線を南に向けた。その先には小早川秀秋が陣を敷く松尾山がある。
「どうかしたのか?」
「いや、ぬしが気にかけるほどのことではない」
――策なら既に練ってある。
 胸の裡で呟き、吉継は密かに嗤った。
 沈黙を、突然の発砲音が切り裂いた。音のする方に目をやっていると、伝令の兵が息せき切って駆けてきた。跪き、よく通る声で、
「申し上げます! 福島勢、宇喜多勢に向けて発砲! 宇喜多勢、これに応戦し、ただいま交戦中であります!」
 二人とも無表情でそれを聞いた。
「家康め、仕掛けてきおったか」吉継が喉の奥で楽しそうに笑う。
「我らも出る! 狼煙を上げろ!」
 振り向きざま、三成は叫んだ。狼煙が上がり、兵達の緊張は最高潮に達する。異様な熱気に三成はゾクリとした。――機は、熟した。
「我らと運命を共にする者どもよ、よく聞け! 東軍など恐るるに足らん! 互いに競い合い、武功を上げろ!」
 大声で気を吐きながら、三成はふと遠い日に見た夢を思い出していた。彼の優しい声が胸の奥で絶えず鳴る。
「そして、必ず!」
――君が信じるのなら……
「生きて帰れ! 必ずだ!!」
――きっと、応えてくれるはず。
 直後、一斉に声が上がり、地響きのように唸りを上げて轟いた。地を揺らし、ビリビリと三成の体にも伝わってくる。生きている人間だけが放つ、熱。あぁ、これか、と三成は思った。なんて重い。この熱を、声を、秀吉様や半兵衛様はずっと一身に受けていたのだ。
 そして、あの家康も。
「ヒヒッ。三成よ、立派な大将になったものよな。今のぬしなら、かの秀吉公をも越えられようぞ」
「戯れ言を。私なんぞ、秀吉様の足元にも及ばない。まだまだ、精進せねば」
「殊勝なことよ。まぁ、よい。ぬしの背中は我が守る。存分にやり合おうぞ」
 数珠を広げ、吉継は言った。彼もまた気力十分である。
「だが、刑部。ぬかるなよ。死ぬことは、私が許さん」
「あい、わかった」
 ぬしもな、とは吉継は言わなかった。だが、代わりに誓いの言葉を口にする。
「我はぬしと共に在る星よ。どこまでも、ぬしと歩もうぞ」
 頷き、三成は刀を引き抜いた。鈍く光る切っ先で虚空を切り裂き、今か今かと待ち望む兵士達に向かって叫ぶ。
「道は私が切り開く! 皆の者! 出撃だ!!」
 鬨の声が天高く響き渡り、大地を駆ける。
 関ヶ原を覆っていた霧は、いつの間にか晴れていた。



 そして、
 想いは永劫に輪廻する――。





1/1ページ
    スキ