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曖昧なままで、このままで。

 そこは、俺の特等席だった。
 施錠された屋上に続く階段。掃除の時以外は誰も近づかない静かな場所。だから気に入った。一年生の頃から休み時間や放課後は、ここで音楽を聴いたりゲームをしたりして過ごしていた。今となっては殆ど日課だ。
 なのに、今日は先客がいた。屋上の扉の前でしゃがみ込み、何やらカチャカチャと物騒なもの音を立てている。少し苛立ちを覚えつつ、俺はその細い背中に声かけた。
「なあ、あんた」
「うわ」
 驚いてこちらを振り向いた顔には見覚えがあった。たまに廊下ですれ違う。名前までは知らないが、たしか隣のクラスの奴だった気がする。
 けれど、そいつは俺のことを知っていたようで、
「なんだ、桐谷君か」
 と、言って柔らかく微笑んだ。
「なんで俺の名前知ってんだ? つーか、お前は誰だよ」
「僕は蓮見了司。二組にいるんだけど見たことないかな」
「…………」
「君って結構有名なんだよ。気付いてないの?」
「はあ? 有名? 俺が? なんで?」
 眉を寄せる俺を見て、蓮見はまた笑った。
「ああ、やっぱり自覚無かったか。一組の桐谷宗佑は、無口で誰とも喋んなくて休み時間になるといつの間にかどこかに消えてる。忍者みたいな奴だって噂なってるんだよ、君」
「忍者って何だよ」
「でも、わりと喋るじゃん。なんだか拍子抜けしちゃった」
 当たり前だ。何を言っているんだ、こいつは。言い返そうと思ったその時、蓮見の指先がキラリと光った。
「……ていうか、お前こんな所で何してたんだ?」
「鍵開け」
 悪戯っぽく笑って言ったその言葉に一瞬虚を衝かれた。真っ白な頭の中を奴の返答が駆け巡り、数秒遅れてその意味を知る。
「鍵開けって……。お前、ひょっとして屋上開けようとしてんのか?」
「そう」
 短く返して蓮見は作業に戻った。
 屋上の扉の鍵は十数年前に壊されたらしい。だから、今は両開きの扉の取っ手に太い鎖をグルグルと巻きつけ、南京錠で固定するといった感じで厳重に戸締りされている。奴はその南京錠を開けようとしているわけだ。
「じゃあ、その手に持っているのは」
「もちろん、針金」
 誇らしげに蓮見は右手を掲げた。
「ほら、よく漫画とかアニメで開けたりするじゃん。だから、できるんじゃないかなーって」
 呆気に取られて言葉も出ない。僅かな沈黙の後、ようやく俺が出せたのは、
「バッカじゃねーの」
 の、一言だけだった。
「うん、バカだよ」
 笑って、蓮見は肩越しに振り向いた。それからカチャカチャと鍵をいじりながら、
「こんなこと、バカじゃないとできないって。……でもさ、つまんないじゃん。毎日。同じことの繰り返しで、退屈で。飽きちゃったんだよね、正直言って」
「だから、鍵開けんの」
「そう」
「……それで、何が変わんの」
 立っているのに疲れた。俺は階段に腰かけて廊下の窓を見つめた。今日はダメだな、と胸の中で呟く。一人になれそうにない。
「別に何かを変えたくて開けるわけじゃない」
「…………」
「暇潰しだよ。ただのね。そういう君は、いつもここで何してんの?」 
 問われて、少し考える。ゲームに音楽。大したことはしていない。だから、短く答えた。
「暇潰し」
「でしょ。ま、見ててよ。もうすぐ開くから。そしたらさ、一緒に外を眺めてみようよ」
 けれど、日が暮れて辺りが暗くなり始めても、その重い扉が開くことはなかった。手元が見えなくなったからか、蓮見は音楽を聴いている俺の所まで下りてきた。目の前でしゃがみ込み、気まり悪げに微笑む。俺はイヤホンを外して、
「開いたのか?」
「ムリでした」
「だろうな。さすがに素人じゃムリだろ」
「でも、手ごたえは感じた。帰ったら家で針金の調節してみるよ。で、明日リベンジする!」
 ぐっと拳を握る蓮見を見てうんざりした。こいつ、明日もここに来る気かよ。
「あーそう。精々頑張れよ」
「君ってさ、やっぱりあんま喋んないね」 
 真っ直ぐに俺を見つめて蓮見は言った。
「最初は結構喋る奴だと思ったけど、あれきり何も喋んなくなっちゃったし。僕が話しかけない限りは全然喋らなかった」
「いいじゃねーか、別に」
「うん。……でも、少しはさ」
 蓮見は何か言いたげだったけれど何も言わなかった。一体何なんだ。説教でもするつもりか?
「話すの苦手なんだよ」
 俺は布石を打っておくことにした。が、蓮見の目は何故か輝き出し、「じゃあ、良い物あげる」と言ってなにやらゴソゴソとポケットをまさぐりだした。
「はい」
 と、差し出されたのは小さな飴玉だった。暗くてよく見えないが、包みの巻き方でそれとわかる。
「それ、勇気をくれる魔法の飴なんだ」
「はあ? 魔法? お前、それマジで言って……」
「本当の気持ちを言うときって、すっごい勇気いるじゃん? そういう時に食べんの。効き目あるよ……って、あー!」
 蓮見の言葉を無視して、俺は包みを開けるとポイと飴玉を口の中に放り込んだ。何が勇気だ。ガキじゃあるまいし。
「普通の飴じゃん。どこで買ったの、これ」
 けれど、蓮見は怒るでも落胆するでもなく、
「あーあ、せっかくあげたのに」
 と、笑った。そして、おもむろに立ち上がると、
「まあ、いいや。いっぱいあるし。明日もあげるから楽しみにしといて」
 そう言い残して階段を下りていった。
 変な奴。
 いなくなった空白を見つめて俺はぼんやりと思った。
 口の中の飴はレモン味で、甘いけれどほんの少し酸っぱかった。





 次の日は雨で、俺は時折窓ガラスを滑る雫を目で追いつつ、昨日と同じ場所で同じ曲を聴いていた。
 蓮見は相変わらず後ろの方でカチャカチャと頑張っている。
 今日は廊下で奴とすれ違った。けれど、奴は少しはにかむように笑うだけで何も話しかけてはこなかった。
 その時、何故か一瞬あのレモンの味を思い出した。
 それから、次の日も、また次の日も。
 蓮見は鍵を開けようとカチャカチャやり続け、俺はというと音楽を聴いたりゲームをしたり。
 大した会話もなく、ただ別れ際に蓮見が例の『勇気の出る飴玉』を俺に渡す。
 そんな日々が続いた。
 けれど、相変わらず蓮見はこの階段以外の場所で俺に話しかけることはなかった。どうしてなのか気にならないと言ったら嘘になる。でも、俺は奴にそのことを尋ねられないでいた。
 ちらりと奴の背中を窺う。鍵開けに集中しているようだ。
 普段、俺に話しかけないのは。
 ……俺が、他の奴に『変人』と噂されているからかもしれない。
 途端に音楽が煩わしくなって、ゆっくりとイヤホンを外すと、静寂に響く背後のカチャカチャ音が妙によそよそしく聞こえてきた。
 俺は、居ても居なくてもいいんだろうな。
 ふいにそんな思いが湧いてきて心を満たす。
 考えてみれば、蓮見は屋上の鍵を開けに来ているのであって、俺に会いに来ているわけじゃない。暇潰し。ただそれだけだ。そんなことはわかっている。わかっているんだ。
 ていうか、おかしい。なんでこんなことをいちいち気にして俺は曇ってるんだ?
 その理由を探ろうとした時、突然ゾクリと戦慄が走った。
 咄嗟に立ち上がる。後ろで何か動く気配がしたけれど、無視して俺は一気に階段を駆け降りた。
 一段降りるごとに恐怖が加速する。加速に合わせて心臓が高鳴る。
 だめだ。
 気付いちゃいけない。
 この、気持ちは――。
 一階に着いて、ようやく俺は足を止めた。下校時間が過ぎた学校は空気が冷たくて静かすぎて、なんとなく違う建物に見える。普段はあんなに人がいて嫌でも誰かと会うのに。
 息を整えながら振り向いて階段を見上げた。薄暗くひっそりとした階段の奥。追いかけてくる足音はない。
 違う。……そうじゃない。
 小さく息を吐いて歩き出す。ゆっくりと。一歩、二歩、三歩。
 それでも、足音は聞こえてこなかった。





 
 それから一週間、俺はあの場所に近付くことができなかった。蓮見と廊下で会っても目を逸らす。そんなことばかりをしていた。『バカみてぇ』って何度もそう思ったけれど、あいつの姿を見るたび全身が金縛りに遭ったみたいに固まってしまうから、ぎこちなく逃げるしかなかった。
 蓮見は屋上の鍵を開けることができたのだろうか。もしそうなら、あいつはもうあの場所に来ることはない。また別の『暇潰し』を探すだろう。
 覚悟を決めて教室を出る。今日、行ってみよう。二組のHRはもう終わっている。蓮見がいれば鍵をいじる音がするはず。いなければ鍵開けは終わったということだ。それならそれで、またいつもの毎日が始まる。それだけだ。
 騒がしい廊下を抜けて階段を上る。
 最初は勢い良く。でも、だんだん足は重くなっていった。
 階段の向こう側はひどく静かな気がした。
 一歩一歩、慎重に上る。
 心の中で『いるわけない』と『いるかもしれない』を呪文みたいに繰り返して、『もし、いたらどうするんだ』とか、そうなった時のシミュレーションとかグルグル考えていたら、屋上に着いていた。
 そして、やっぱりというか、蓮見はいなかった。
 少しの間ぼんやりとして、それからなんだか笑えてきた。
 扉に背中を預け、こみあげてくる笑いを噛み殺す。
 なにやってんだ、俺は。
 向こうは大して何も思ってないのに、曇ったり、気にしたり、意識したり……。
「マジ、俺ってキモ……」
 呟くと余計に惨めになって泣きたくなった。
 ズルズルとその場に座り込み、膝を抱える。
 ひどく静かだと思った。
 この静寂が好きだった。たった一人の、誰にも邪魔されない俺だけの空間。
 誰にも、気にされない空間。
 それが戻ってきたんだ。嬉しい、はずなんだ。
 うなだれると乾いた笑いが漏れた。
 場所を変えよう。
 ここには、もういられない。
 そう心に決めて、俺はふと扉の取っ手に巻きついている鎖に目をやった。南京錠は閉じている。蓮見は鍵開けに成功したのかどうか。俺には関係ないことだけど、なんとなく南京錠に触れてみる。
 そういえば、こうしてまじまじとこの鍵を見るのは初めてだ。
「あれ……?」
 奇妙なことに気付いてしまった気がする。
 南京錠は鎖の片方にだけにぶら下がっていた。これじゃ、鍵の意味がない。普通はグルグル巻きにした鎖の両端を鍵で結ぶはず……。
「まさか」
 俺は垂れ下がっている鎖の断面を持ち上げた。千切れて、錆びついている。
 大昔の誰かがやらかしたのか、屋上の鍵は随分前から開いていたようだ。
 そのことを、俺達生徒も先生達でさえも気付かなかった。
 屋上は立ち入り禁止。当たり前のことだし、鎖と鍵で厳重に閉じられているのをみんな知ってる。
 生徒達に開放するイベントでもなければ、きっと誰も意識しない。
 でも、蓮見は違う。
 ずっと南京錠と格闘していたあいつが、このことに気付かなかったわけがない。なら、どうしてあいつは無意味な解錠を毎日何度も試していたんだ?
 俺はゆっくり鎖をほどいて扉を開けた。
 すう、と涼しい風が流れ込む。屋上には柵が無い。初めから人を立ち入れさせるつもりのない設計だ。遠くの方から聞こえてくる笑い声に誘われて、俺は屋上の中ほどまで歩いた。
 その時、背後で声がした。
「バレちゃったね」
「……蓮見」
 扉の前で、蓮見は寂しげに笑っていた。
「あれから全然来なかったから、どうしたのかと思ってた」
「…………」
「やっぱり、怒ってる?」
「え?」
「君の居場所、無理やり取っちゃったみたいな感じになったもんね。……ごめん」
 そうじゃない、という言葉が喉元まで出かけるが、声にならない。そうじゃない。だとしたら、何だ? 疼くような痛みと共に、にわかに胸が騒ぎ出す。
「でも、安心して。僕はもうここへは来ないから。だけど……」
「どうして」
 気がつくと口が動いていた。
「え?」
「鍵を開けようとしたんだ? あれ、鍵の意味無かったよな」
 すると、蓮見は叱られた子供のような顔で俯いた。
「……ごめん。本当は、知ってたんだ。鎖がずっと前に千切れていたことも、鍵は単なる飾りでしかなかったことも。だけど」
「だけど?」
 それから長い沈黙が続いた。明るい空に乾いたチャイムの音が鳴り響く。顔を伏せる蓮見から目を離さず、俺はじっと答えを待っていた。いつまでも待てるような気がした。
「君と話したかった」
 掠れた声で蓮見は言った。
「ずっと……初めて見かけた時から話してみたいと思っていたんだ。だから、偶然あの場所に君がいるのを見つけた時は嬉しかった。二人きりなら自然な形で話ができるかもって……思ったから」
「それが、『鍵開け』?」
「うん。でも、やっぱり不自然だったよね」
「まあ、な」
 不思議だ。こうしていると、なんだか落ち着く。そもそも最初からおかしかったんだ。初めてこいつの背中を見た時、どうして話しかけてしまったんだろう。あのまま無視して帰ることだってできたはずだ。二日、三日と一緒に放課後を過ごすことだって回避は可能だった。なのに、俺はそれをしなかった。その理由は――。
「じ、じゃあ、もう帰るね。悪いけど、鎖は戻しておいて。明日にでも先生に報告しておくから……」
「ちょっと待て!」
 踵を返しかけた蓮見を呼び止め、俺は駆け寄った。
「……なに?」
「あの飴、欲しいんだけど」
 大きく息を吸い込んで、そう言った。
 予想外の言葉だったんだと思う。蓮見は目をパチクリさせながら俺を見上げていた。
「……は? あめ?」
「勇気の出る魔法の飴だよ。持ってるんだろ、早く出せよ」
 まるでカツアゲをするかのような口振りで蓮見を急かす。
 すると、蓮見は戸惑いながらも透明の包みに入ったいつもの飴を取り出して俺に渡した。今日の飴はピンク色。相変わらずガラス玉みたいだ。もどかしく包みを開けて口の中に放り込むと、ほのかに甘い桃の味がした。けれど、心臓はバカみたいにドクドクいって治まらない。
「あのさ」
 声の震えを抑えながら、俺は言葉を探して話し出す。
「このこと、他の奴らには内緒にしておこう」
「え?」
「だから、俺達だけの秘密にしようってこと!」
「…………」
「どうせ誰も近寄らない。この辺にいる分にはバレないって……」
 ようやく言えたのは、そんな言葉だった。今の俺には『俺達だけの』を言うだけで精一杯だ。
 沈黙する蓮見に不安を覚えて、そっと蓮見の顔を盗み見て――ギョッとする。
「は、蓮見?」
 蓮見は真っ赤な顔をして小さく震えていた。それにつられたのか、俺の頬も急激に熱くなる。
「秘密だね」
 蓮見が呟くように確認する。
「そ……、そう。秘密」
 二人だけの。胸の中で続きを言って、俺は頷く。すると、蓮見は泣き出しそうな顔で微笑んだ。
「それじゃあ、僕はまたここに来ていいんだね」
「当たり前だろ。何言ってんだ」
「だって、あの階段、君の巣みたいだったからさ。僕がいていいのかなって」
「巣って……」
 蓮見の視線を追って俺も階段の方を見やった。薄暗くて、冷たい孤独な場所。たしかに、あそこは俺の巣だったのかもしれない。あんな場所でも居心地は悪くなかった。――昨日までは。
「桐谷君」
「あ?」
 呼ばれて振り向くと、蓮見は柔らかく微笑みながら尋ねてきた。
「飴の魔法は効いた?」





**********



「どうして、普段話しかけてこないのかって?」
 俺から借りたゲーム機を手に、蓮見は驚いたような顔をして聞き返した。
「そうだよ。ずっと疑問だったんだ。……そりゃ、俺が話かけりゃそれで済む話だけど。なんていうか……気になるっていうか、気にならないっていうか」
 ごにょごにょと口の中で言い訳しながら、俺はイヤホンのコードをグルグルと指先に巻いた。
「だって、嫌じゃん」
「人前で俺と話すのが?」
 自分で言っておきながら何気に傷ついた。完全に自爆だ。すると、蓮見はそんな俺の気持ちを知ってか知らずか、慌てて両手を振って「違うよ」と言った。
「そうじゃなくて、僕達のことを他の奴らに説明するのが嫌ってこと。君は他の人と話をしない。なのに、僕とは雑談をする。なんで? って絶対訊かれるでしょ? ……この場所でのことは、あんまり他の人に知られたくなかったんだ」
 耳まで真っ赤にしながら答える蓮見を見ていると、「どうして知られたくないんだ?」って訊くのはなんだか野暮な気がした。
 何もかもハッキリさせなくていい。
 俺の気持ちも。
 蓮見の気持ちも。

 とりあえず、今は。


 曖昧なままで、このままで。






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