春告げの鳥
麗らかな春の日差しが、僅かに開いた障子戸の隙間から差し込んでくる。今日は幾分調子が良い。竹中半兵衛は布団から起き上がり、そっと縁側に出て庭を眺めた。春風とはいえ病身の身には少し冷たく感じる。そこで半兵衛はいつも身につけている羽織を取りに部屋へ戻った。
大谷刑部が太閤に諌言し、謹慎を命じられたという。
その話は療養中の半兵衛の耳にも届いていた。大谷は思慮深く、何よりも義を重んじる武将だ。彼が諌めた、ということは秀吉の側に行き過ぎたところがあったのかもしれない。
(……彼もまた真っ直ぐな人間だからね)
戦場を離れてから随分経つ。その間に、あらゆる面で状況が変わりつつあるのを半兵衛は肌で感じ取っていた。先の大戦で念願だった本多忠勝と徳川家康を手に入れ、晴れて日の本は豊臣の世となった。――だが、半兵衛の病が進行していくにつれ、秀吉は焦燥感をあらわにするようになっていった。
(この身が、煩わしい)
喉元に触れ、半兵衛は思う。三つ子の魂百まで、とはよく言ったものだ。戦えぬ身体となった今でも頭の中では絶えず陣立て図を描いている。天下を取ったとはいえ、まだ完璧ではない。抵抗勢力との小競り合いは依然として続いていた。
(あの元就君が大人しくしているのは、少々気にかかるが……)
それよりも今は豊臣家中の結束を固めなければ。いつもより体調が良いのも手伝って気力もある。今日なら外出しても大丈夫だろう。そう考え、半兵衛は夜着を脱いだ。
身嗜みを整えて廊下に出た途端、数人の家臣に呼び止められた。城下にある大谷屋敷へ向かうと告げると、案の定彼らは全力で止めに入ったので、仕方なく半兵衛はその中の一人を供につけ屋敷を後にした。
久し振りの外の景色に若干の目眩を覚える。目深に被った笠を押し上げ、半兵衛は空を仰いだ。突き抜けるような青い空に白い雲がゆっくりと流れている。
「やはり、屋敷の中に籠ってばかりはいけないな」
そう呟くと、即座に従者が「ですが、くれぐれもご無理だけはなさらぬよう」と釘を刺す。半兵衛は苦笑いで返し、ここからさほど遠くもない大谷屋敷を目指した。
賑やかな城下町を抜けてしばらく歩いたところに、ひっそりと佇む大谷屋敷がある。業病を患ってしまった彼が城の内外でどのような目で見られているのかを半兵衛は知っていた。
「中に入るのが厭なら、先ほど通りかかった茶屋で待つといい」
と従者に言ったが、彼は神妙な面持ちで「いいえ」と首を横に振った。彼もまた病に苦しむ主君を持つ家臣。やはり他家の者とは違うな、と半兵衛はそっと笑んでみせた。
門の前を掃除していた下男に従者が訪問の旨を伝えると、彼は大慌てで屋敷に戻り、ややして主自らが出迎えた。白い頭巾に白い着流し。その上に袖の無い臙脂色の羽織を着た彼は一礼して、
「お久しゅうございます、竹中殿」
「久し振りだね、紀之介君」
「このような姿で申し訳ありませぬ。まさか竹中殿がいらっしゃるとは思いもよらず、急ぎ迎えに上がった次第で……」
と、大谷は袴も着けずに現れた非礼を詫びた。
「構わないよ。それよりも元気そうで安心した」
「……春とはいえ外の風は身体に障りますゆえ、どうぞ中に」
目元から下は白い布で覆われているため、表情はわからない。だが、歓迎してくれているのだろうと、半兵衛は笠の下で柔和な笑みを浮かべた。
大谷が着替えてくると言うので、半兵衛は通された部屋で一人待った。障子戸を少しだけ開け、庭で遊ぶ小鳥を眺める。そうしているうちに大谷がやってきた。半兵衛は障子戸をそのままにしておき、背筋を伸ばして大谷と向かい合った。
「わざわざすまないね。この陽気に誘われたのか、今日は殊更に気分が良い。そうしたら君に会いたくなってね」
大谷ほどの聡い男なら、既にこの突然の来訪の理由を察していることだろう。だが、彼は真っ直ぐに半兵衛の目を見、しっかりとした口調で返した。
「それは恐悦至極に存じますな」そして庭先に目をやり、「まことに、陽光の心地好い季節となりました」
「体調はどうだい? 僕の方は相変わらずだが」
「今のところは落ち着いております。――ですが、おそらくこの病はもう治らんでしょう」
包帯の巻かれた腕をさすりながら大谷は呟くようにそう言った。
「諦めてはいけないよ」低い声で、半兵衛。
「諦めてなどおりませぬ。ただ、全て天運なれば……。我が命もまた、そのようにあるのだと悟ったまでのこと」
「だからこそ、命懸けで豊臣に尽くしている?」
大谷は答えない。代わりに半兵衛の目をじっと見据えている。
「君は秀吉を諌めたらしいね」
「やはりお耳に届いておりましたか」
「怒りを買うのを承知で進言したのだろう? なかなかできることではない」
「…………」
「秀吉の揺らぎに――君は気付いているんだね」
半兵衛の言葉に、大谷は目を上げた。
「三成君の方はどうだい? 彼もまた勘の鋭い人間だ」
「申される通り、あれは人の本心を見抜く。が、残念なことにその使い方を知りませぬ。ゆえに、鋭き洞察にて太閤殿の本質を見抜き、またその御心に深く心酔しているがため、竹中殿の申される“揺らぎ”には気付けずにいる。……我は病ゆえの弱視であるが、どうやらあれの病も相当に深いらしい」
「流石は紀之介君だね。三成君のことをよくわかっている」
「長く共におりますゆえ」
「そうだね。君達は幼い頃から豊臣に仕えてきてくれた。そして、これからも」
「…………」
「命を賭してまで秀吉を諌めたのは豊臣のためかい? それとも……」
間が空いた。半兵衛はじっと大谷を見つめ、彼の返答を待っている。しばらくして、大谷はおもむろに口を開いた。
「我は思ったことを太閤殿に申し上げたまで。ただ、それだけにございます」
その言葉は半兵衛の胸に心地好く響いた。
ややして、廊下から声がかけられた。どうやら三成が来ているらしい。噂をすれば影とはこういうことか、と二人は顔を見合わせて笑う。大谷は取次の者に三成をここへ通すよう伝え、半兵衛とともに彼を待った。
「三成君と約束があるのなら、僕は挨拶だけして屋敷に戻ろう」
「いや、約束を交わした覚えはありませぬな。どうも今日は陽光に誘われる者が多いようで。竹中殿がいらっしゃることを知れば、三成もきっと喜びましょう」
にっこりと微笑んで大谷は嬉しそうに言った。表情が見えずとも声の調子でわかる。つられて半兵衛も口元に笑みを浮かべた。すると、早速遠くの方から慌ただしい足音が聞こえてきた。早足で歩く彼に何とか追いついたのだろう。取次が息を弾ませながら声をかけた。
「よ、吉継様、石田殿にございます」
「うむ」
障子戸が開くと、着物と袴を身につけた三成が深々と一礼した。
「半兵衛様、お久し振りにございます」
「ああ。会えて嬉しいよ、三成君。さ、そんな所に座っていないで中に入ったらどうだい?」
促され、三成は素直に従う。大谷の傍らに坐し、再び頭を下げた。
「よもやこのような場所でお会いできるなど、夢にも思いませんでした。なかなかお会いする機会を掴めず、気にかかっていたのです」
「今日は気分が良くてね。外の空気を吸いたくなったんだ。……それしても君って子は」
くすくすと笑っている半兵衛を不思議そうに眺めて三成は小首を傾げる。
「半兵衛様?」
「すまない。ちょうど君の噂をしていたところに現れるものだから可笑しくて」
「噂、ですか」
「“このような場所”で失礼したな、三成」
茶化すように大谷が口を挟むと、三成は彼を不満げに睨みつけ、
「刑部、半兵衛様とお会いするなら何故私に伝えなかった。そうと知っていたら馬を引いて迎えに上がったというのに」
「やれ、急なことゆえ、我とて驚きだったのよ」執り成すように言って、大谷は続ける。「して、ぬしは何用でここへ参った?」
「神屋宗湛の茶道具を見てみたいと言っていただろう」
「ああ、確かに言ったな。だが、謹慎中の身なればそれも叶わん。口惜しいことよ」
二人のやりとりを黙って聞いていた半兵衛は、秀吉が宗湛を招いて近々茶会を開くのだという話を思い出した。
「見られるぞ」と、三成。
「なに?」
「神屋宗湛の茶道具を見せてやると言っているのだ。拒否は許さん」
大谷は数回瞬きをした後、半兵衛に目をやった。それからまた三成に視線を戻すと、
「何を言いやる? 見せるも何も、我の身の上はぬしもようわかっているはずではないか」
「ああ、だから全ての段取りは私が済ませた。あとは貴様が出向くまでだ」
「いや、そうではなく……。三成よ、それは太閤殿の命令か?」
「違う。私の一存だ」
「これは妙なことよ。ぬしが太閤殿を欺くとは」
しかし、三成は動揺することなく、
「欺いてなどおらん。だが、これが秀吉様のお耳に届いたとあれば欺いたことになるだろうな」
「ほお?」
既に三成の言わんとするところを理解した半兵衛は、二人の会話を楽しんで聞いている。訝る大谷を横目で見やり、三成は鼻を鳴らして続けた。
「貴様が宗湛の茶道具を見たがっていた旨を伝えた私に、秀吉様はただ一言こう申された。『ならば、上手くやれ』と」
「太閤殿が?」
「秀吉様は人の上に立つお方。そのお立場ゆえ、心ならずも人を処罰せねばならん時もあるだろう。いいか、刑部。心ならずも、だ。――秀吉様は貴様のことをきちんと考えておられるぞ」
「…………」
「だが、今日はせっかく半兵衛様がいらっしゃっておられるのだ。また後日としよう。刑部、すまないが誰か使いの者を――」
「それには及ばないよ」
くすりと笑って三成を制し、半兵衛は立ち上がった。
「そろそろ僕は屋敷に戻ろう。皆、心配しているだろうからね」
「いえ! 宗湛は茶会が行われる日までは逗留致しております。ですから、機会ならばまだ幾らでも……」
「なに、僕の方の用件はもう済んでいるんだ。君が来たと聞いてなんだか懐かしくなってね。少し顔が見たくなって残っていたにすぎない。僕に遠慮せず、行ってくるといい」
「ですが……」
と、三成はしょんぼりとうなだれた。それを見て半兵衛は少し思案し、
「屋敷の者が本当に口煩くてね。早く戻らないと叱られてしまう。……そうだな。では、今度は君達が僕の屋敷に来てくれないか? 茶道具の土産話でも持って。ずっと部屋の中に籠っているのは退屈でね。いいかい? これは僕と君達との約束だ」
「承知致しました!」満面に笑みを湛え、三成は答えた。
「楽しみにしているよ。……ところで、三成君」
急に改まって半兵衛は問う。真剣な眼差しで、
「君の眼に、今の秀吉はどう映っている?」
沈黙がよぎった。大谷は僅かに顔を三成の方に向けている。
「秀吉様は、素晴らしいお方です」
半兵衛を真っ直ぐに見返して三成は力強い声で答えた。
「あれほどの力を持った方は日の本……いえ、世界のどこを見渡してもおりませんでしょう。あの方は私にとって神に等しい。ですが」
と、言葉を切る。逡巡しているのか間が空いた。
「いいんだよ。遠慮せずに言ってくれ」
「最近は戦続きのためか、酷くお疲れのご様子。それが気掛かりで」
「疲れ……」
「ですから、私達が尚一層尽力し、秀吉様の腕となり足とならねば……ならぬのに、呑気に謹慎などしている場合か、刑部!」
突然矛先が大谷に向いた。が、大谷は驚く風でもなく冷静に、
「無理を言うな。謹慎を命じたのはその太閤殿自身よ。我は動きたくとも動けぬわ」
「二人とも」
言って、半兵衛はその場に座り直した。そして深く息を吸うと、彼らに向かって平伏した。驚いたのは二人である。とっさに三成は腰を浮かし、
「は、半兵衛様! 突然何を……」
「そのまま黙って聞いてくれないか」
頭を下げたまま、ぴしゃりと三成の言葉を遮る。
「君達に、頼みがあるんだ」
「頼み?」と、大谷。
「豊臣を、秀吉を――決して裏切らないでくれ」
「…………」
「僕が秀吉に残せる唯一のもの。それは君達だ。……いずれ、秀吉には真の孤独に陥る日が来るだろう。その時は、どうか力になってほしい。頼む」
「半兵衛様、お顔をお上げ下さい!」
三成が悲鳴に近い叫びを上げる。
「私が秀吉様を裏切るなどと、万が一にもありはしません! 刑部も同様です! そうだろう、刑部!!」
「そうよな。太閤殿には身に余るほどの情けをかけて戴いている。それを蔑ろにするなど、我には出来ぬことよ。竹中殿、御心は充分に伝わりました。だから、どうかお顔をお上げ下さい。そのようになされては、我らの立場が……。三成も大層困っておりますゆえ」
「すまない」
ゆっくり起き上がると、そこには狼狽しきった三成とその様子をしげしげと眺めている大谷の姿があった。思わず、笑う。
そして、心を込めて言葉を重ねた。
「君達豊臣の兵は、かけがえのない僕の宝だよ」
春の日差しが心地好い。大谷屋敷を後にした半兵衛は従者に声をかけた。
「今日は本当に気分が良い。少し、寄り道をしてもいいかな」
「どこへ行かれるおつもりですか?」
もう行き先は決めているが、「そうだなあ」と嘯いて半兵衛は空を仰ぐ。すると、桜の花弁がふわりと風に乗って流れてきた。それを掌で受け止め、軽く握る。
「大坂城へ」
秀吉は気付いているだろうか。春が訪れていることを。周囲に在るのは闇ではなく、凛と咲き誇る美しい花々だということを。
伝えなければ。今の自分にできることはそれしかない。
(そして、最期の時まで――君の傍にいよう)
そう、思った。
大谷刑部が太閤に諌言し、謹慎を命じられたという。
その話は療養中の半兵衛の耳にも届いていた。大谷は思慮深く、何よりも義を重んじる武将だ。彼が諌めた、ということは秀吉の側に行き過ぎたところがあったのかもしれない。
(……彼もまた真っ直ぐな人間だからね)
戦場を離れてから随分経つ。その間に、あらゆる面で状況が変わりつつあるのを半兵衛は肌で感じ取っていた。先の大戦で念願だった本多忠勝と徳川家康を手に入れ、晴れて日の本は豊臣の世となった。――だが、半兵衛の病が進行していくにつれ、秀吉は焦燥感をあらわにするようになっていった。
(この身が、煩わしい)
喉元に触れ、半兵衛は思う。三つ子の魂百まで、とはよく言ったものだ。戦えぬ身体となった今でも頭の中では絶えず陣立て図を描いている。天下を取ったとはいえ、まだ完璧ではない。抵抗勢力との小競り合いは依然として続いていた。
(あの元就君が大人しくしているのは、少々気にかかるが……)
それよりも今は豊臣家中の結束を固めなければ。いつもより体調が良いのも手伝って気力もある。今日なら外出しても大丈夫だろう。そう考え、半兵衛は夜着を脱いだ。
身嗜みを整えて廊下に出た途端、数人の家臣に呼び止められた。城下にある大谷屋敷へ向かうと告げると、案の定彼らは全力で止めに入ったので、仕方なく半兵衛はその中の一人を供につけ屋敷を後にした。
久し振りの外の景色に若干の目眩を覚える。目深に被った笠を押し上げ、半兵衛は空を仰いだ。突き抜けるような青い空に白い雲がゆっくりと流れている。
「やはり、屋敷の中に籠ってばかりはいけないな」
そう呟くと、即座に従者が「ですが、くれぐれもご無理だけはなさらぬよう」と釘を刺す。半兵衛は苦笑いで返し、ここからさほど遠くもない大谷屋敷を目指した。
賑やかな城下町を抜けてしばらく歩いたところに、ひっそりと佇む大谷屋敷がある。業病を患ってしまった彼が城の内外でどのような目で見られているのかを半兵衛は知っていた。
「中に入るのが厭なら、先ほど通りかかった茶屋で待つといい」
と従者に言ったが、彼は神妙な面持ちで「いいえ」と首を横に振った。彼もまた病に苦しむ主君を持つ家臣。やはり他家の者とは違うな、と半兵衛はそっと笑んでみせた。
門の前を掃除していた下男に従者が訪問の旨を伝えると、彼は大慌てで屋敷に戻り、ややして主自らが出迎えた。白い頭巾に白い着流し。その上に袖の無い臙脂色の羽織を着た彼は一礼して、
「お久しゅうございます、竹中殿」
「久し振りだね、紀之介君」
「このような姿で申し訳ありませぬ。まさか竹中殿がいらっしゃるとは思いもよらず、急ぎ迎えに上がった次第で……」
と、大谷は袴も着けずに現れた非礼を詫びた。
「構わないよ。それよりも元気そうで安心した」
「……春とはいえ外の風は身体に障りますゆえ、どうぞ中に」
目元から下は白い布で覆われているため、表情はわからない。だが、歓迎してくれているのだろうと、半兵衛は笠の下で柔和な笑みを浮かべた。
大谷が着替えてくると言うので、半兵衛は通された部屋で一人待った。障子戸を少しだけ開け、庭で遊ぶ小鳥を眺める。そうしているうちに大谷がやってきた。半兵衛は障子戸をそのままにしておき、背筋を伸ばして大谷と向かい合った。
「わざわざすまないね。この陽気に誘われたのか、今日は殊更に気分が良い。そうしたら君に会いたくなってね」
大谷ほどの聡い男なら、既にこの突然の来訪の理由を察していることだろう。だが、彼は真っ直ぐに半兵衛の目を見、しっかりとした口調で返した。
「それは恐悦至極に存じますな」そして庭先に目をやり、「まことに、陽光の心地好い季節となりました」
「体調はどうだい? 僕の方は相変わらずだが」
「今のところは落ち着いております。――ですが、おそらくこの病はもう治らんでしょう」
包帯の巻かれた腕をさすりながら大谷は呟くようにそう言った。
「諦めてはいけないよ」低い声で、半兵衛。
「諦めてなどおりませぬ。ただ、全て天運なれば……。我が命もまた、そのようにあるのだと悟ったまでのこと」
「だからこそ、命懸けで豊臣に尽くしている?」
大谷は答えない。代わりに半兵衛の目をじっと見据えている。
「君は秀吉を諌めたらしいね」
「やはりお耳に届いておりましたか」
「怒りを買うのを承知で進言したのだろう? なかなかできることではない」
「…………」
「秀吉の揺らぎに――君は気付いているんだね」
半兵衛の言葉に、大谷は目を上げた。
「三成君の方はどうだい? 彼もまた勘の鋭い人間だ」
「申される通り、あれは人の本心を見抜く。が、残念なことにその使い方を知りませぬ。ゆえに、鋭き洞察にて太閤殿の本質を見抜き、またその御心に深く心酔しているがため、竹中殿の申される“揺らぎ”には気付けずにいる。……我は病ゆえの弱視であるが、どうやらあれの病も相当に深いらしい」
「流石は紀之介君だね。三成君のことをよくわかっている」
「長く共におりますゆえ」
「そうだね。君達は幼い頃から豊臣に仕えてきてくれた。そして、これからも」
「…………」
「命を賭してまで秀吉を諌めたのは豊臣のためかい? それとも……」
間が空いた。半兵衛はじっと大谷を見つめ、彼の返答を待っている。しばらくして、大谷はおもむろに口を開いた。
「我は思ったことを太閤殿に申し上げたまで。ただ、それだけにございます」
その言葉は半兵衛の胸に心地好く響いた。
ややして、廊下から声がかけられた。どうやら三成が来ているらしい。噂をすれば影とはこういうことか、と二人は顔を見合わせて笑う。大谷は取次の者に三成をここへ通すよう伝え、半兵衛とともに彼を待った。
「三成君と約束があるのなら、僕は挨拶だけして屋敷に戻ろう」
「いや、約束を交わした覚えはありませぬな。どうも今日は陽光に誘われる者が多いようで。竹中殿がいらっしゃることを知れば、三成もきっと喜びましょう」
にっこりと微笑んで大谷は嬉しそうに言った。表情が見えずとも声の調子でわかる。つられて半兵衛も口元に笑みを浮かべた。すると、早速遠くの方から慌ただしい足音が聞こえてきた。早足で歩く彼に何とか追いついたのだろう。取次が息を弾ませながら声をかけた。
「よ、吉継様、石田殿にございます」
「うむ」
障子戸が開くと、着物と袴を身につけた三成が深々と一礼した。
「半兵衛様、お久し振りにございます」
「ああ。会えて嬉しいよ、三成君。さ、そんな所に座っていないで中に入ったらどうだい?」
促され、三成は素直に従う。大谷の傍らに坐し、再び頭を下げた。
「よもやこのような場所でお会いできるなど、夢にも思いませんでした。なかなかお会いする機会を掴めず、気にかかっていたのです」
「今日は気分が良くてね。外の空気を吸いたくなったんだ。……それしても君って子は」
くすくすと笑っている半兵衛を不思議そうに眺めて三成は小首を傾げる。
「半兵衛様?」
「すまない。ちょうど君の噂をしていたところに現れるものだから可笑しくて」
「噂、ですか」
「“このような場所”で失礼したな、三成」
茶化すように大谷が口を挟むと、三成は彼を不満げに睨みつけ、
「刑部、半兵衛様とお会いするなら何故私に伝えなかった。そうと知っていたら馬を引いて迎えに上がったというのに」
「やれ、急なことゆえ、我とて驚きだったのよ」執り成すように言って、大谷は続ける。「して、ぬしは何用でここへ参った?」
「神屋宗湛の茶道具を見てみたいと言っていただろう」
「ああ、確かに言ったな。だが、謹慎中の身なればそれも叶わん。口惜しいことよ」
二人のやりとりを黙って聞いていた半兵衛は、秀吉が宗湛を招いて近々茶会を開くのだという話を思い出した。
「見られるぞ」と、三成。
「なに?」
「神屋宗湛の茶道具を見せてやると言っているのだ。拒否は許さん」
大谷は数回瞬きをした後、半兵衛に目をやった。それからまた三成に視線を戻すと、
「何を言いやる? 見せるも何も、我の身の上はぬしもようわかっているはずではないか」
「ああ、だから全ての段取りは私が済ませた。あとは貴様が出向くまでだ」
「いや、そうではなく……。三成よ、それは太閤殿の命令か?」
「違う。私の一存だ」
「これは妙なことよ。ぬしが太閤殿を欺くとは」
しかし、三成は動揺することなく、
「欺いてなどおらん。だが、これが秀吉様のお耳に届いたとあれば欺いたことになるだろうな」
「ほお?」
既に三成の言わんとするところを理解した半兵衛は、二人の会話を楽しんで聞いている。訝る大谷を横目で見やり、三成は鼻を鳴らして続けた。
「貴様が宗湛の茶道具を見たがっていた旨を伝えた私に、秀吉様はただ一言こう申された。『ならば、上手くやれ』と」
「太閤殿が?」
「秀吉様は人の上に立つお方。そのお立場ゆえ、心ならずも人を処罰せねばならん時もあるだろう。いいか、刑部。心ならずも、だ。――秀吉様は貴様のことをきちんと考えておられるぞ」
「…………」
「だが、今日はせっかく半兵衛様がいらっしゃっておられるのだ。また後日としよう。刑部、すまないが誰か使いの者を――」
「それには及ばないよ」
くすりと笑って三成を制し、半兵衛は立ち上がった。
「そろそろ僕は屋敷に戻ろう。皆、心配しているだろうからね」
「いえ! 宗湛は茶会が行われる日までは逗留致しております。ですから、機会ならばまだ幾らでも……」
「なに、僕の方の用件はもう済んでいるんだ。君が来たと聞いてなんだか懐かしくなってね。少し顔が見たくなって残っていたにすぎない。僕に遠慮せず、行ってくるといい」
「ですが……」
と、三成はしょんぼりとうなだれた。それを見て半兵衛は少し思案し、
「屋敷の者が本当に口煩くてね。早く戻らないと叱られてしまう。……そうだな。では、今度は君達が僕の屋敷に来てくれないか? 茶道具の土産話でも持って。ずっと部屋の中に籠っているのは退屈でね。いいかい? これは僕と君達との約束だ」
「承知致しました!」満面に笑みを湛え、三成は答えた。
「楽しみにしているよ。……ところで、三成君」
急に改まって半兵衛は問う。真剣な眼差しで、
「君の眼に、今の秀吉はどう映っている?」
沈黙がよぎった。大谷は僅かに顔を三成の方に向けている。
「秀吉様は、素晴らしいお方です」
半兵衛を真っ直ぐに見返して三成は力強い声で答えた。
「あれほどの力を持った方は日の本……いえ、世界のどこを見渡してもおりませんでしょう。あの方は私にとって神に等しい。ですが」
と、言葉を切る。逡巡しているのか間が空いた。
「いいんだよ。遠慮せずに言ってくれ」
「最近は戦続きのためか、酷くお疲れのご様子。それが気掛かりで」
「疲れ……」
「ですから、私達が尚一層尽力し、秀吉様の腕となり足とならねば……ならぬのに、呑気に謹慎などしている場合か、刑部!」
突然矛先が大谷に向いた。が、大谷は驚く風でもなく冷静に、
「無理を言うな。謹慎を命じたのはその太閤殿自身よ。我は動きたくとも動けぬわ」
「二人とも」
言って、半兵衛はその場に座り直した。そして深く息を吸うと、彼らに向かって平伏した。驚いたのは二人である。とっさに三成は腰を浮かし、
「は、半兵衛様! 突然何を……」
「そのまま黙って聞いてくれないか」
頭を下げたまま、ぴしゃりと三成の言葉を遮る。
「君達に、頼みがあるんだ」
「頼み?」と、大谷。
「豊臣を、秀吉を――決して裏切らないでくれ」
「…………」
「僕が秀吉に残せる唯一のもの。それは君達だ。……いずれ、秀吉には真の孤独に陥る日が来るだろう。その時は、どうか力になってほしい。頼む」
「半兵衛様、お顔をお上げ下さい!」
三成が悲鳴に近い叫びを上げる。
「私が秀吉様を裏切るなどと、万が一にもありはしません! 刑部も同様です! そうだろう、刑部!!」
「そうよな。太閤殿には身に余るほどの情けをかけて戴いている。それを蔑ろにするなど、我には出来ぬことよ。竹中殿、御心は充分に伝わりました。だから、どうかお顔をお上げ下さい。そのようになされては、我らの立場が……。三成も大層困っておりますゆえ」
「すまない」
ゆっくり起き上がると、そこには狼狽しきった三成とその様子をしげしげと眺めている大谷の姿があった。思わず、笑う。
そして、心を込めて言葉を重ねた。
「君達豊臣の兵は、かけがえのない僕の宝だよ」
春の日差しが心地好い。大谷屋敷を後にした半兵衛は従者に声をかけた。
「今日は本当に気分が良い。少し、寄り道をしてもいいかな」
「どこへ行かれるおつもりですか?」
もう行き先は決めているが、「そうだなあ」と嘯いて半兵衛は空を仰ぐ。すると、桜の花弁がふわりと風に乗って流れてきた。それを掌で受け止め、軽く握る。
「大坂城へ」
秀吉は気付いているだろうか。春が訪れていることを。周囲に在るのは闇ではなく、凛と咲き誇る美しい花々だということを。
伝えなければ。今の自分にできることはそれしかない。
(そして、最期の時まで――君の傍にいよう)
そう、思った。
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