君を忘れるということ
本能寺への遠征が三日後に迫った昼下がり。薬研と不動は並んで花壇の前にいた。その足元にはスコップ、剪定ばさみ、土、そして色とりどりの春の花が置いてある。花壇を整え、季節を終えた花とこれから咲く花とを植え替えるのだ。
薬研は剪定ばさみを手に、横目でちらりと不動を盗み見た。硬い表情をしたまま身動ぎもせずに花壇を注視している。
「不動、植え替えの方法は覚えているか?」
試しに訊いてみると、不動はハッと我に返ったように薬研を振り向き、
「いや……、全然」
「じゃあ、やっているうちに思い出すかもな。お前、何だかんだ言いながら、結構上手かったんだぜ」
「そう、なのか?」
信じられない、といった表情を浮かべた後、視線を再び花壇に戻し、
「なんかピンと来ねぇ。お前、俺を担ごうとしてんじゃねーだろうな」
「まさか」薬研は小さく吹き出して、「こんなことで嘘なんかつくか。さ、お喋りはここまでにして、まずは剪定と雑草取りだ」
意外にも作業は順調に進んだ。他愛もない世間話をして笑い合う。一見すると仲が良さそうに見えるかもしれない。しかし、だからといって本当に距離が縮まっているわけではなかった。不動の目は常に警戒し、自分との距離を測っている。そして、それは薬研も同様だった。
こんなことではいけない、と思えば思うほど、笑顔も話し方もぎこちなくなってゆく。枯れた花をハサミで切り落としながら、薬研は引き絞るように目を細めた。胸が、チリチリと焼けるように痛む。
「なあ、どうした?」
不動の声が薬研を現実に引き戻した。半ば呆然としている薬研を不動が怪訝な顔で覗き込み、
「大丈夫か? なんか顔色が悪いみてーだけど……」
「なんでもねぇよ。さあって、ようやく花を植えられるな」
平静でいなければ。思って、薬研は精一杯明るい声を出した。しかし、不動の目は変わらず、
「無理すんなよ。なんか……疲れてるんじゃねーか?」
「不動、お前の足元にある黄色い花を取ってくれ。早くしねーと日が暮れちまう」
「そんなに急ぐ時間でもないだろ。少し休もうぜ」
薬研は不動を見つめたまま沈黙した。自分と、彼の間に横たわる距離。以前は、この距離を過去の思い出が埋めていた。しかし、今はそれが消え去っている。一瞬、脳裏に三日月の姿がよぎった。彼は、骨喰と新しい思い出を作ることで、この距離を満たそうとしている。
「……俺には、まだ覚悟が足りねぇか」
「え?」
「不動の言う通りだな。少し疲れた。休憩しよう」
思わず口にした呟きに不動は反応したが、ちゃんと聞き取れてはいなかったらしい。きょとんとしている不動を尻目に、薬研は踵を返すと洗い場へ向かった。手を洗い、花壇の付近に生えている木の根に腰を下ろす。
そして、薬研は静かに目を閉じた。瞼の裏に燃え盛る炎が浮かぶ。不動と共に分け合っていた忌まわしい炎を、今は自分だけが見ている。
「なあ……、お前も行くんだってな。本能寺」
物思いに耽る薬研を気遣ってか、傍らの根に座っていた不動がおずおずと話しかけてきた。
「ああ。あの日のことは俺が一番詳しいからな」
「嫌じゃないのか?」
「何が?」
「何がって……。だって、本能寺だぞ。お前が……」
言いかけて、不動は言葉に詰まった。
「お前が……、その……」
「俺のことは気にしなくていい。それより、今は自分のことだけを考えていろ。これはお前のための遠征なんだからな」
「んなこと、いちいち言われなくてもわかってるよ。……俺が、頼んだんだから。でも、お前まで一緒に来るとは思わなかったから」
「俺が一緒だと気が重いか」
「そんなこと、ねーけどよ……」
そう呟いたきり、不動は黙り込んだ。彼の次の言葉を待ちながら、薬研はそっと自分の手の平を見つめた。逸話が辛うじて繋いだ、仮初めの身体。痛む心まで持ってしまったのは誤算なのか。それとも、計算のうちか。
人間の考えていることはわからん、と力無く首を振る。そして、
「なあ、不動。本能寺へ行くのは、もうしばらく待ってみたらどうだ?」
「なんだよ、それ」
突然の薬研の言葉に、不動は衝かれたように顔を上げた。
「時期尚早だって言ってんだ。本能寺行きは荒療治で、危険がつきまとう。しばらく様子を見て……」
「しばらくって、どれくらい待てばいいんだよ」
鋭い声が、薬研の言葉を遮った。が、薬研は怯まずに切り返す。
「せめて、あと一ヵ月。お前みたいな形の記憶喪失は前例が無いからな。慎重にいかねーと」
「そんなに待てるわけねーだろ。それでなくても、みんなに迷惑かけてんだ。早くこんな状態から抜け出したいんだよ、俺は」
「だから焦るなって。迷惑だなんて誰も思ってねーよ。時間がかかったっていいじゃねーか。ゆっくりやろうぜ」
「断る」
俯きながら、不動は即答した。
「ゆっくりやる? 何言ってんだよ。こんな中途半端な状態で――いつ、何を思い出すかわからねー状態で、任務なんか果たせるか。それとも、みんなが戦って傷ついて戻って来るのを、本丸でのほほんと待っていろって言うのか?」
「致し方ないことだろ。みんなの足を引っ張りたくねー気持ちはわかるが……」
「お前もそう思うのか?」
「なに?」
「自分が傷ついても仕方がねぇって、本当にそう思うのかよ」
責められている気がした。薬研はじっと不動を見つめて気持ちを探ろうとした。が、彼の瞳に浮かぶ怒りの色が、その真意を完全に隠してしまっている。薬研は視線を移して溜め息をついた。
「怪我をするのは俺が未熟だからだ。お前に責は無い」
「……そうかよ」小さく舌打ちをして、「だが、ここが襲われたらどうする」
低い声で言って、不動は立ち上がった。固く握られた拳が小刻みに震えている。
「俺のせいで誰かを失うかもしれない。もし、そうなったら、俺は……!」
「敵にみすみす奇襲を許すなんて、そんなヘマ、大将がすると思うのか?」
静かに返して、薬研は不動をねめつけた。瞬間、不動が頬を上気させて激昂した。
「思いたくなんかねぇよ。だけど、絶対じゃない! 『あの人』だってそうだった! 先のことなんて誰にも――……」
「不動、お前、今……」
薬研は目を見開いた。にわかに心臓が早鐘のように鳴る。だが、不動は戸惑いの表情で口元を押さえ、目を左右に泳がせていた。
「不動、『あの人』って誰のことを……」
「知らねぇ」
声を震わせながら、不動は背中を向けた。
「だが」
「知らねぇって! お前、本当に何なんだよ! お前といるといつもこうだ。調子狂うんだよ!」
束の間、沈黙が流れた。不動の肩が荒く上下しているのを見つめながら、薬研は呟くように言った。
「……確かに、そうらしい」
「お前と一緒に本能寺なんて御免だ」
「…………」
「顔も見たくない。今すぐ俺の前から消えてくれ」
「俺はなぁ、薬研。少しは仲良くしておけよって、そう言ったはずなんだがなぁ……」
深い溜め息を漏らして、主はポンと煙管の灰を落とした。
「俺もそうするつもりだったんだが……。どうも上手く歯車が合わなくてな」
山積みの資料のせいで若干狭くなった執務室で、二人は膝をつき合わせて肩を落としていた。隣りの近侍部屋からはペンを走らせる音が微かに聞こえてくる。今日の近侍は骨喰だ。
「あの人だってそうだった、か」
不動が口走った言葉を主が呟く。
「どうやら、不動の中では、いろんなもんがせめぎ合っているようだな。それを吉ととるか、凶ととるか」
「大将。やはり本能寺へ行くのは、もうしばらく待った方がいいんじゃねーか?」
「そうもいくまい。もう触れは出してしまっているし、不動もその気でいる。今更取り止めたら、もの凄い形相で乗り込んでくるぞ」
主の返答に、薬研は溜め息で返し、
「そうだな。すげぇ想像がつく。そういや、護衛は誰にするか決まったのか?」
「年長者を二人ほどな」
「というと、小烏丸さんと……」
「いや、親父さんは遠征の当番が回ってくるから同行できない。三日月と髭切だよ。二人とも、記憶に関して大らかなようだからな」
「大らか、ねぇ」
醸し出す雰囲気がゆるい二人である。ゆったりとした道行きになるのは確実だ。不動との間に流れる不穏な空気も、ほどよく中和するに違いない。薬研は僅かに安堵して微笑んだ。
「確かに、俺と不動が衝突しても余裕でとりなしてくれそうだな。安心したぜ」
「俺は胃が痛いがな」
苦笑いを浮かべながら煙を吐き出した後、主は煙管を置いた。
「ところで、それから花壇はどうした。『消えろ』と言われて素直に消えたか?」
「どうも俺はまだまだ未熟らしくてな。『この内番は大将の命令だから』って突っぱねたら、不動の方がどっか行っちまってよ」
「それじゃあ、残りはお前一人で?」
「いや、それがなあ……」
言い淀みながら薬研は迷っていた。これを話してしまったら不動の沽券に関わるのではないか、と思った。しかし――。
「どうした?」
「……しょうがねぇか」薬研は口の中で呟いて、「しばらくは俺一人で植え替えの続きをしていたんだが、途中で不動が仏頂面で戻ってきてよ」
「…………。ほお」
「結局、花壇が完成するまで二人で作業したよ。終始無言でな」
「マジか」
「マジだ」
薬研が真剣な声で返すと、案の定、主は吹き出して大声で笑った。
「戻ってきた時に、あいつ決まり悪そうに言ってたよ。『どういう理由にしろ、受けた命令を反故にするわけにはいかねぇからな』って。そういう所は昔から何も変わっていない」
「嬉しそうだな」
「そういう風に聴こえたかい?」
この初老の男は生まれつき目が殆ど見えない。そのため、視覚以外の全ての感覚が研ぎ澄まされている。おそらく、声で感情を読んだのだろう。主は微笑んで、
「ああ。きっと、俺もお前と同じように嬉しいからかもしれねぇな」
と、答えた。
薬研が執務室を出るのを見計らったように隣室から骨喰が出てきた。目で促され、二人は連れ立って外に出た。そのまま畑に向かい、春の日差しを浴びて輝く畦道を無言で歩く。やがて、骨喰が静かに口を開いた。
「不動と本能寺へ行くそうだな」
「ああ。……不動の記憶は戻ると思うか?」
「わからない。だが、竈の火を見て動揺したのなら、思い出す可能性は高いと思う」
「そうか」
薬研は素直に喜べなかった。主の言う通り、不動の中では様々な想いがせめぎ合っている。焦燥感に駆られるのは、そのせいかもしれない。しかし、だからこそ、慎重に記憶の回復を待つべきではないのか。
「俺は、もっとゆっくりでいいと思うんだがな」
「それはお前の言い分だ。不動には不動の言い分があるだろう」
「さっき聞いたよ」
言って、薬研はそっと息を吐き出した。
「任務を果たしたいから、ここを守りたいから、誰も失いたくないから……。だから、早く過去を取り戻して万全の状態になりてーって。その気持ちはわかるが、だからって焦りすぎだ。普通の記憶ならまだしも、あいつが思い出そうとしている記憶は、そんなもんじゃねぇ」
「諸刃だろうな」
囁くような声で骨喰は薬研の話を受けた。
「…………」
「自分を取り戻すと同時に深く傷つく。けれど、それを知っていても尚、思い出そうと必死になっている理由を薬研は考えたことがあるか?」
「今、話したと思うが」
「ああ、そうだな。どれも大事なことだ」
ふいに強く風が吹いた。髪がなびき、骨喰の横顔を隠す。薬研は無言の中に、含むような匂いを嗅いだ。記憶を失った者同士なら理解できる感情、というものがあるのかもしれない。薬研は立ち止まり、
「何が言いたいんだ?」
「俺には他にも理由があるように思える」
「例えば、どんな?」
「……薬研、お前はもう少し自分のことを考えた方がいい」
謎解きのような言葉に薬研は思わず顔をしかめた。
「俺のことなんざ、今はどうだっていいだろ」
「そうか?」
さらりと返して、骨喰は再び歩き出した。
「俺にはそう思えない」
「骨喰」
「不動がお前を避ける理由も、きっとそこにある」
「あいつを追い込んでいるのは、俺だって言いたいのか? 信長さんの影が重なるから……」
「いいや」
骨喰は薬研を振り返り、そっと微笑んだ。そして、はっきりと告げる。
「お前のことを大切に思うが故、だ」
薬研は剪定ばさみを手に、横目でちらりと不動を盗み見た。硬い表情をしたまま身動ぎもせずに花壇を注視している。
「不動、植え替えの方法は覚えているか?」
試しに訊いてみると、不動はハッと我に返ったように薬研を振り向き、
「いや……、全然」
「じゃあ、やっているうちに思い出すかもな。お前、何だかんだ言いながら、結構上手かったんだぜ」
「そう、なのか?」
信じられない、といった表情を浮かべた後、視線を再び花壇に戻し、
「なんかピンと来ねぇ。お前、俺を担ごうとしてんじゃねーだろうな」
「まさか」薬研は小さく吹き出して、「こんなことで嘘なんかつくか。さ、お喋りはここまでにして、まずは剪定と雑草取りだ」
意外にも作業は順調に進んだ。他愛もない世間話をして笑い合う。一見すると仲が良さそうに見えるかもしれない。しかし、だからといって本当に距離が縮まっているわけではなかった。不動の目は常に警戒し、自分との距離を測っている。そして、それは薬研も同様だった。
こんなことではいけない、と思えば思うほど、笑顔も話し方もぎこちなくなってゆく。枯れた花をハサミで切り落としながら、薬研は引き絞るように目を細めた。胸が、チリチリと焼けるように痛む。
「なあ、どうした?」
不動の声が薬研を現実に引き戻した。半ば呆然としている薬研を不動が怪訝な顔で覗き込み、
「大丈夫か? なんか顔色が悪いみてーだけど……」
「なんでもねぇよ。さあって、ようやく花を植えられるな」
平静でいなければ。思って、薬研は精一杯明るい声を出した。しかし、不動の目は変わらず、
「無理すんなよ。なんか……疲れてるんじゃねーか?」
「不動、お前の足元にある黄色い花を取ってくれ。早くしねーと日が暮れちまう」
「そんなに急ぐ時間でもないだろ。少し休もうぜ」
薬研は不動を見つめたまま沈黙した。自分と、彼の間に横たわる距離。以前は、この距離を過去の思い出が埋めていた。しかし、今はそれが消え去っている。一瞬、脳裏に三日月の姿がよぎった。彼は、骨喰と新しい思い出を作ることで、この距離を満たそうとしている。
「……俺には、まだ覚悟が足りねぇか」
「え?」
「不動の言う通りだな。少し疲れた。休憩しよう」
思わず口にした呟きに不動は反応したが、ちゃんと聞き取れてはいなかったらしい。きょとんとしている不動を尻目に、薬研は踵を返すと洗い場へ向かった。手を洗い、花壇の付近に生えている木の根に腰を下ろす。
そして、薬研は静かに目を閉じた。瞼の裏に燃え盛る炎が浮かぶ。不動と共に分け合っていた忌まわしい炎を、今は自分だけが見ている。
「なあ……、お前も行くんだってな。本能寺」
物思いに耽る薬研を気遣ってか、傍らの根に座っていた不動がおずおずと話しかけてきた。
「ああ。あの日のことは俺が一番詳しいからな」
「嫌じゃないのか?」
「何が?」
「何がって……。だって、本能寺だぞ。お前が……」
言いかけて、不動は言葉に詰まった。
「お前が……、その……」
「俺のことは気にしなくていい。それより、今は自分のことだけを考えていろ。これはお前のための遠征なんだからな」
「んなこと、いちいち言われなくてもわかってるよ。……俺が、頼んだんだから。でも、お前まで一緒に来るとは思わなかったから」
「俺が一緒だと気が重いか」
「そんなこと、ねーけどよ……」
そう呟いたきり、不動は黙り込んだ。彼の次の言葉を待ちながら、薬研はそっと自分の手の平を見つめた。逸話が辛うじて繋いだ、仮初めの身体。痛む心まで持ってしまったのは誤算なのか。それとも、計算のうちか。
人間の考えていることはわからん、と力無く首を振る。そして、
「なあ、不動。本能寺へ行くのは、もうしばらく待ってみたらどうだ?」
「なんだよ、それ」
突然の薬研の言葉に、不動は衝かれたように顔を上げた。
「時期尚早だって言ってんだ。本能寺行きは荒療治で、危険がつきまとう。しばらく様子を見て……」
「しばらくって、どれくらい待てばいいんだよ」
鋭い声が、薬研の言葉を遮った。が、薬研は怯まずに切り返す。
「せめて、あと一ヵ月。お前みたいな形の記憶喪失は前例が無いからな。慎重にいかねーと」
「そんなに待てるわけねーだろ。それでなくても、みんなに迷惑かけてんだ。早くこんな状態から抜け出したいんだよ、俺は」
「だから焦るなって。迷惑だなんて誰も思ってねーよ。時間がかかったっていいじゃねーか。ゆっくりやろうぜ」
「断る」
俯きながら、不動は即答した。
「ゆっくりやる? 何言ってんだよ。こんな中途半端な状態で――いつ、何を思い出すかわからねー状態で、任務なんか果たせるか。それとも、みんなが戦って傷ついて戻って来るのを、本丸でのほほんと待っていろって言うのか?」
「致し方ないことだろ。みんなの足を引っ張りたくねー気持ちはわかるが……」
「お前もそう思うのか?」
「なに?」
「自分が傷ついても仕方がねぇって、本当にそう思うのかよ」
責められている気がした。薬研はじっと不動を見つめて気持ちを探ろうとした。が、彼の瞳に浮かぶ怒りの色が、その真意を完全に隠してしまっている。薬研は視線を移して溜め息をついた。
「怪我をするのは俺が未熟だからだ。お前に責は無い」
「……そうかよ」小さく舌打ちをして、「だが、ここが襲われたらどうする」
低い声で言って、不動は立ち上がった。固く握られた拳が小刻みに震えている。
「俺のせいで誰かを失うかもしれない。もし、そうなったら、俺は……!」
「敵にみすみす奇襲を許すなんて、そんなヘマ、大将がすると思うのか?」
静かに返して、薬研は不動をねめつけた。瞬間、不動が頬を上気させて激昂した。
「思いたくなんかねぇよ。だけど、絶対じゃない! 『あの人』だってそうだった! 先のことなんて誰にも――……」
「不動、お前、今……」
薬研は目を見開いた。にわかに心臓が早鐘のように鳴る。だが、不動は戸惑いの表情で口元を押さえ、目を左右に泳がせていた。
「不動、『あの人』って誰のことを……」
「知らねぇ」
声を震わせながら、不動は背中を向けた。
「だが」
「知らねぇって! お前、本当に何なんだよ! お前といるといつもこうだ。調子狂うんだよ!」
束の間、沈黙が流れた。不動の肩が荒く上下しているのを見つめながら、薬研は呟くように言った。
「……確かに、そうらしい」
「お前と一緒に本能寺なんて御免だ」
「…………」
「顔も見たくない。今すぐ俺の前から消えてくれ」
「俺はなぁ、薬研。少しは仲良くしておけよって、そう言ったはずなんだがなぁ……」
深い溜め息を漏らして、主はポンと煙管の灰を落とした。
「俺もそうするつもりだったんだが……。どうも上手く歯車が合わなくてな」
山積みの資料のせいで若干狭くなった執務室で、二人は膝をつき合わせて肩を落としていた。隣りの近侍部屋からはペンを走らせる音が微かに聞こえてくる。今日の近侍は骨喰だ。
「あの人だってそうだった、か」
不動が口走った言葉を主が呟く。
「どうやら、不動の中では、いろんなもんがせめぎ合っているようだな。それを吉ととるか、凶ととるか」
「大将。やはり本能寺へ行くのは、もうしばらく待った方がいいんじゃねーか?」
「そうもいくまい。もう触れは出してしまっているし、不動もその気でいる。今更取り止めたら、もの凄い形相で乗り込んでくるぞ」
主の返答に、薬研は溜め息で返し、
「そうだな。すげぇ想像がつく。そういや、護衛は誰にするか決まったのか?」
「年長者を二人ほどな」
「というと、小烏丸さんと……」
「いや、親父さんは遠征の当番が回ってくるから同行できない。三日月と髭切だよ。二人とも、記憶に関して大らかなようだからな」
「大らか、ねぇ」
醸し出す雰囲気がゆるい二人である。ゆったりとした道行きになるのは確実だ。不動との間に流れる不穏な空気も、ほどよく中和するに違いない。薬研は僅かに安堵して微笑んだ。
「確かに、俺と不動が衝突しても余裕でとりなしてくれそうだな。安心したぜ」
「俺は胃が痛いがな」
苦笑いを浮かべながら煙を吐き出した後、主は煙管を置いた。
「ところで、それから花壇はどうした。『消えろ』と言われて素直に消えたか?」
「どうも俺はまだまだ未熟らしくてな。『この内番は大将の命令だから』って突っぱねたら、不動の方がどっか行っちまってよ」
「それじゃあ、残りはお前一人で?」
「いや、それがなあ……」
言い淀みながら薬研は迷っていた。これを話してしまったら不動の沽券に関わるのではないか、と思った。しかし――。
「どうした?」
「……しょうがねぇか」薬研は口の中で呟いて、「しばらくは俺一人で植え替えの続きをしていたんだが、途中で不動が仏頂面で戻ってきてよ」
「…………。ほお」
「結局、花壇が完成するまで二人で作業したよ。終始無言でな」
「マジか」
「マジだ」
薬研が真剣な声で返すと、案の定、主は吹き出して大声で笑った。
「戻ってきた時に、あいつ決まり悪そうに言ってたよ。『どういう理由にしろ、受けた命令を反故にするわけにはいかねぇからな』って。そういう所は昔から何も変わっていない」
「嬉しそうだな」
「そういう風に聴こえたかい?」
この初老の男は生まれつき目が殆ど見えない。そのため、視覚以外の全ての感覚が研ぎ澄まされている。おそらく、声で感情を読んだのだろう。主は微笑んで、
「ああ。きっと、俺もお前と同じように嬉しいからかもしれねぇな」
と、答えた。
薬研が執務室を出るのを見計らったように隣室から骨喰が出てきた。目で促され、二人は連れ立って外に出た。そのまま畑に向かい、春の日差しを浴びて輝く畦道を無言で歩く。やがて、骨喰が静かに口を開いた。
「不動と本能寺へ行くそうだな」
「ああ。……不動の記憶は戻ると思うか?」
「わからない。だが、竈の火を見て動揺したのなら、思い出す可能性は高いと思う」
「そうか」
薬研は素直に喜べなかった。主の言う通り、不動の中では様々な想いがせめぎ合っている。焦燥感に駆られるのは、そのせいかもしれない。しかし、だからこそ、慎重に記憶の回復を待つべきではないのか。
「俺は、もっとゆっくりでいいと思うんだがな」
「それはお前の言い分だ。不動には不動の言い分があるだろう」
「さっき聞いたよ」
言って、薬研はそっと息を吐き出した。
「任務を果たしたいから、ここを守りたいから、誰も失いたくないから……。だから、早く過去を取り戻して万全の状態になりてーって。その気持ちはわかるが、だからって焦りすぎだ。普通の記憶ならまだしも、あいつが思い出そうとしている記憶は、そんなもんじゃねぇ」
「諸刃だろうな」
囁くような声で骨喰は薬研の話を受けた。
「…………」
「自分を取り戻すと同時に深く傷つく。けれど、それを知っていても尚、思い出そうと必死になっている理由を薬研は考えたことがあるか?」
「今、話したと思うが」
「ああ、そうだな。どれも大事なことだ」
ふいに強く風が吹いた。髪がなびき、骨喰の横顔を隠す。薬研は無言の中に、含むような匂いを嗅いだ。記憶を失った者同士なら理解できる感情、というものがあるのかもしれない。薬研は立ち止まり、
「何が言いたいんだ?」
「俺には他にも理由があるように思える」
「例えば、どんな?」
「……薬研、お前はもう少し自分のことを考えた方がいい」
謎解きのような言葉に薬研は思わず顔をしかめた。
「俺のことなんざ、今はどうだっていいだろ」
「そうか?」
さらりと返して、骨喰は再び歩き出した。
「俺にはそう思えない」
「骨喰」
「不動がお前を避ける理由も、きっとそこにある」
「あいつを追い込んでいるのは、俺だって言いたいのか? 信長さんの影が重なるから……」
「いいや」
骨喰は薬研を振り返り、そっと微笑んだ。そして、はっきりと告げる。
「お前のことを大切に思うが故、だ」