はんぶんこの星
眠れない夜に厄介な奴に会った、と酔いの回りきらない頭で不動行光は思った。閉めきった部屋で一人で呑むのは気が滅入るため、障子戸を開けていたのだが、まさか消灯時間を過ぎた後に廊下を通る奴がいるとは。
目の前には、おずおずと上目で見つめてくる五虎退の姿がある。誰かに貸していた本をわざわざ部屋まで受け取りに行っていたらしい。
「あ、あの……、もう呑むのはやめて休まれた方が……。甘酒と言ってもお酒ですから、その……呑み過ぎは体に良くないです」
「さっきも言ったろぉ? 寝たくても眠れねーんだ。俺みたいなダメ刀のことなんざ、ほっとけよ」
「そんな、ダメ刀なんて」
「いいから」
遠慮がちな五虎退の言葉を無理やり遮って、不動は空になった湯呑みに甘酒を注いだ。
「これを呑んでいれば自然と眠くなる。そしたら、勝手に寝るよ。どうせここは俺の部屋の前なんだし」
「で、でも、今日は少し冷えますし……。ひょっとしたら、雪だって降るかもしれません。それに、その、確かにお酒は体を温めますけど、限度ってものがありますし……」
修行を終えて戻ってきてから、五虎退はほんの少しだけ頑固になったと思う。いや、これまでが気弱すぎたのか、と思い直して不動は小さく溜め息をつく。以前の彼ならば、あれだけ言えばすぐに引き下がったはずだ。
「んなこと言ってもよぉ、呑まなきゃ寝られないんだから仕方ねーだろ。それともなにかぁ? お前は、俺に寝るなって言いたいのかよ」
「い、いえ! そんなことは……。その、だから……」
しどろもどろに返した後、五虎退は自分の手元にある本に目を落としたまま動きを止めた。不審に思った不動が顔をしかめて尋ねる。
「おい、どうした?」
「……これを」
「あ?」
「こ、これを、僕が不動君の枕元で読みますから!」
早口でそう言うと、五虎退は持っていた本を不動に差し出した。紺色の表紙の上部には、金色の文字で『星座物語』と書かれている。
面食らう不動を本の影から覗いて、五虎退が呟くように尋ねた。
「だから、その……。本はお酒の代わりになりませんか?」
不動は本をじっと見つめた。要するに、五虎退は読み聞かせをしてやると言っているのだ。眠れぬとぐずる幼児のために。いや、そう考えるのは少々意地が悪いか、と不動は喉の奥で笑う。
「不動君?」不安そうに、五虎退。
「ばーか」
言って、不動は五虎退の真っ白な額を小突いた。
「お前、明日は近侍だろ。こんな時間に俺の世話なんか焼いてる場合かよ」
「そ、それは……」
「お前の方こそ早く寝ろ。近侍はいつも終わるの遅いんだからよ。ちゃんと寝とかねーと体がもたねーぞ」
「…………」
「その代わり、これは借りてやる」
と、不動は五虎退の手からするりと本を取った。そして、驚いた表情で見つめてくる彼から目を逸らし、
「ま、まあ、何だかんだ言っても一人で呑むのは退屈だからな。それに、これを読めば気持ち良く眠れるんだろ? ……試してやるよ」
「は、はい! あ、でも、お酒は控え目に……」
「わかってるって」
いい加減、面倒臭くなって不動はうるさげに手を振った。
五虎退が去った後、不動は改めて本の表紙に目を落とした。それから、空を見上げる。暗闇の中に散りばめられた、いくつもの星。あんなにも遠い場所に浮かんでいるものにさえ、言い伝えが存在する。そういえば……と不動は思い出す。この国にも星にまつわる昔話があったはずだ。あれは、そう……。
「彦星と織姫の話だ」
呟いて、少しだけ胸を躍らせながら不動は表紙をめくった。すると、これまで見たことのない奇妙な代物が挟まっていた。『星座早見盤』と記されたそれは円形で、二枚の厚手の紙で作られている。一枚目の外周には日付が、二枚目には時刻を表す数字とタイトルの他に緯度も記されていた。下部には穴が空いており、そこに星々が精密に描かれている。
裏に書かれた説明書によると、これは星座を調べる道具らしい。観察したい時期に円盤を合わせれば、その季節の星座が出てくるという仕組みだ。だが、何かが引っかかっているのか、この星座盤の季節は冬から動かなかった。
仕方なく、不動は甘酒を一口飲んで本のページをめくった。春から始まり、夏、秋……と、季節ごとに現れる星座の物語がイラスト付きで細かく書かれている。不動は本を膝の上に置いたまま、星座盤に目を移した。冬の星座。冷えた空気が頬を撫でる。ちょうどいい、と思った。
星座盤と見比べながら物語を読み進めていたが、円盤が動かないために半分だけ見えない星座があるのに気付いた。それは、双子座だった。
死を運命づけられていた兄のカストルと不死身の弟のポルックス。死したカストルを前に、ポルックスは自身の不死をカストルと分け合い、ともに生きてともに死ぬことを父親であるゼウスに懇願する――。
本を閉じ、不動は白い息を吐き出した。朱色に染まりつつある指先で星座盤に触れてみる。動かない。双子座は半分のままだ。不動は苦笑いを浮かべて半分の星を優しく撫でた。その時、廊下の奥の方から聞き慣れた声が飛んできた。
「よぉ、不動。そんな所で何してるんだ?」
やって来たのは、薬研藤四郎だった。装備は外しているが戦闘服のままだ。ようやく手入れが終わったらしい。
「月見酒か?」
「星見酒だ」
ため息混じりに言って、不動は星座盤を薬研に差し出した。
「星見?」
「お前の弟……五虎退から借りたんだ。星座の本だと」
「へえ。それで星を見ながら酒を呑んでるってわけか。なかなか風流なことをしやがる」
星座盤を受け取った薬研は、楽しげに笑って不動の傍らに座った。ややして、
「なんだ、これ。動かないな」
「壊れてんだよ」
「なら、直さねーとな」
「……そのままでいい」
不動がポツリと呟くと、薬研は怪訝な顔をした。
「どうしてだ?」
「その方が自然だからな。読んでみるか? 双子座の話。笑えるぜ」
薬研に本を手渡して、不動は皮肉な笑みを浮かべた。
「一人ぼっちが耐えられねーからって、神様に頼んでずっと一緒にいられるようにしたんだってよ。都合が良すぎて――反吐が出る」
「…………」
薬研は無言でページをめくった。その乾いた音が、不動の耳にはやけに大きく聞こえた。湯呑みに残った甘酒を一気に飲み干して、
「どんなに泣いたって、願ったってさ……。叶わねぇもんは叶わねぇよ。そうだろ?」
「かなり酔ってるな」静かに笑って、薬研。「その分じゃ、きっと明日はつらくなる」
「構わねぇよ。頭痛くらい」
「慣れてるもんな」
「うるせぇ」
「……まだ、呑めるか?」
「あ?」
「俺も呑む。持ってきてくれ」
言って薬研は立ち上がり、踵を返した。
「持ってこい……って、酒をかよ。なんで俺が」
「俺も用意するもんがあるからな。悪い、すぐ戻る」
「おい、薬研!」
足早に立ち去る薬研の背中に声をかけたが、彼は振り向かずに行ってしまった。わけがわからず、不動は小さく舌打ちして空になった自分の湯呑みに目を落とした。
(……俺も呑むって言ってたな)
思い返して、頭を掻く。それからすぐに湯呑みを持って立ち上がった。
温めた甘酒とつまみの煎餅を盆に乗せて戻ったが、薬研はまだ帰ってきていなかった。急いで用意して損した、と若干イラつきながら不動は盆を置いて座った。湯呑みから白い湯気が立ち、夜風に流れて消える。
「早く呑まねぇと冷めちまうだろうが。バカが」
呟くが、先に呑む気は無かった。冷めたら温め直せばいい、と開き直って空を見上げる。闇に広がる無数の光。その中でもひと際輝く三つの星がある。そこから少し離れた場所に双子は浮かんでいた。
(『反吐が出る』なんて言っちまったけど……。きっと、お前も必死だったんだよな)
不動は胸の中で星に話しかけた。
(ずっと一緒だった奴がいなくなっちまったんだもんな。お前には分け合える命があった。だから、願いを叶えることができたんだ。けど、俺には……)
「待たせたな」
声とともに、柔らかなぬくもりが降って来た。突然のことに驚いた不動は、目を見張って傍らを見る。
温かな毛布を頭から被った、笑顔の薬研がそこにいた。
「遅くなって悪かったな。冷えるから持ってきたんだ。ついでに寝間着に着替えてたら時間かかっちまった」
詫びながら、薬研は湯呑みに手を伸ばす。
「あったかいな」
「……そうだな」
伏し目がちに答えて、不動も湯呑みを両手で包んだ。伝わるぬくもりと甘い香りに酔っていると、傍らでボリボリと煎餅を食べる音が盛大に響いた。情緒の欠片もない。
「不動、お前も食ってみろよ。美味いぞ」
「お前って、本当になんつーか……アレだよな」
「なんだよ」
煎餅を片手にきょとんとする薬研を見て、思わず不動は小さく吹き出した。
「なんでもねーよ」
笑いながら首を横に振り、煎餅をつまむ。そして、
「……戦場はどうだった?」
静かに尋ねた。
「なかなか歯ごたえがある、なんてもんじゃねーな。正直、修行に行っていなかったらヤバかった」
「そうか」
煎餅を噛んで星を見る。双子の星は瞬いて、どこか誇らしげだ。
「間違っても折れんじゃねーぞ。俺もいつかは修行に出るからよ。そしたら……」
言葉を探して口籠っているうちに気恥ずかしくなった不動は、喉元で渦巻いていた台詞を甘酒と一緒に飲み込んだ。
「そしたら……なんだよ?」と、薬研。
「なんでもねーよ。ただ……、俺にはあの星みてーに分け合える命っつーもんがねーからよ。折れたらそれまでだ。油断するんじゃねーぞ」
「わかってる。俺達は、そういう世界で戦っているからな」
薬研の言葉が不動の胸に重く響いた。そういう世界。都合良く星にはなれない世界。不動は俯いて乾いた笑い声を上げた。
「俺が不死だったら良かったのにな。双子の、何とかって星みたいに。そうすりゃ、お前にも分けてやれた」
「不動」
「……いや、冗談だ。冗談。酔っ払いの戯言だ。忘れてくれ」
冗談めかして不動は笑ったが、薬研は前を向いたまま黙り込んでしまった。気まずい沈黙がしばらく二人の間に流れた。薬研に言ったことは全て冗談というわけではない。もし、分けられるなら分けてやりたかった。薬研にも、蘭丸にも、そして――信長にも。だが、それはできない。『そういう世界』に自分達は生きている。
甘酒から漂う湯気が細くなってきた頃、薬研はそっと口を開いた。
「不死なんか、無くていいさ」
「だから、それは冗談だって」
「生も死も分けられない。でも、俺はお前といろんなもんを分け合えてる。今だってそうだ」
「え?」
思わず薬研の顔を見ると、彼は優しく微笑んで続けた。
「こうして話している時間、美味い煎餅、あったかい甘酒、見ている景色とか……。ああ、それと、この毛布もな。俺にはそれで十分だ」
「俺は――そこまで割り切れねぇよ」薬研から目を逸らして、不動。「ダメ刀らしいだろ? 未練ばかりだ」
「だから、良い」
「……んなわけあるか」
「俺には良く見える。そういうもんだろ? 価値ってもんは。良いも悪いも見る奴次第だ」
「…………」
「痘痕もえくぼ、とも言うか」
「それは殆ど悪口だろ」
「そうか? なら、惚れた弱みだな」
「バカが。んな恥ずかしい台詞、サラッと言うんじゃねーよ」
頬が急速に熱くなるのを感じ、不動は慌ててそっぽを向いた。熱を帯びた耳に薬研の小さな笑い声が届く。
「これ、直そうぜ」星座盤を空に翳して、薬研。「生も死も分け合ったなら、それはもう一つのもんだ。二つに分かれているのは自然じゃねぇ。だろ?」
「……そうだな」
短い沈黙の後、小声で返して不動も空を見上げた。
(一人でいるのが自然、というのは、俺の勝手な考えかもしれねぇな)
天を覆う光の粒は明滅し、夜を声なき声で満たしている。寄り添うように浮かんでいる双子の星もまた、何事かを囁き合っているのかもしれない。今の、自分達のように。
「なあ、不動」
ふいに薬研が話しかけてきた。
「いつかお前が修行に出て帰ってきたら、一番に俺と出陣しようぜ」
それは、先ほど飲み込んだはずの、不動の言葉だった。――修行から帰ってきたら、一緒に出陣しようぜ。俺がどれだけ強くなったか見せてやる。そう言いたかった。驚きを通り越して呆気にとられた不動は、顔を伏せ、込み上げてくる笑いをこらえた。肩を震わせながら、
「……考えておくよ」
「どうした、急に。俺、何か面白いことでも言ったか?」
訝しげに言って、薬研は煎餅を齧る。
「言ったかもな」
笑顔で答えて、不動は甘酒を呑んだ。
繰り返し吹く冬の風が雪の気配を連れてきたが、笑い合う二人はそれに気付くことなく杯と囁きを重ねていった。
目の前には、おずおずと上目で見つめてくる五虎退の姿がある。誰かに貸していた本をわざわざ部屋まで受け取りに行っていたらしい。
「あ、あの……、もう呑むのはやめて休まれた方が……。甘酒と言ってもお酒ですから、その……呑み過ぎは体に良くないです」
「さっきも言ったろぉ? 寝たくても眠れねーんだ。俺みたいなダメ刀のことなんざ、ほっとけよ」
「そんな、ダメ刀なんて」
「いいから」
遠慮がちな五虎退の言葉を無理やり遮って、不動は空になった湯呑みに甘酒を注いだ。
「これを呑んでいれば自然と眠くなる。そしたら、勝手に寝るよ。どうせここは俺の部屋の前なんだし」
「で、でも、今日は少し冷えますし……。ひょっとしたら、雪だって降るかもしれません。それに、その、確かにお酒は体を温めますけど、限度ってものがありますし……」
修行を終えて戻ってきてから、五虎退はほんの少しだけ頑固になったと思う。いや、これまでが気弱すぎたのか、と思い直して不動は小さく溜め息をつく。以前の彼ならば、あれだけ言えばすぐに引き下がったはずだ。
「んなこと言ってもよぉ、呑まなきゃ寝られないんだから仕方ねーだろ。それともなにかぁ? お前は、俺に寝るなって言いたいのかよ」
「い、いえ! そんなことは……。その、だから……」
しどろもどろに返した後、五虎退は自分の手元にある本に目を落としたまま動きを止めた。不審に思った不動が顔をしかめて尋ねる。
「おい、どうした?」
「……これを」
「あ?」
「こ、これを、僕が不動君の枕元で読みますから!」
早口でそう言うと、五虎退は持っていた本を不動に差し出した。紺色の表紙の上部には、金色の文字で『星座物語』と書かれている。
面食らう不動を本の影から覗いて、五虎退が呟くように尋ねた。
「だから、その……。本はお酒の代わりになりませんか?」
不動は本をじっと見つめた。要するに、五虎退は読み聞かせをしてやると言っているのだ。眠れぬとぐずる幼児のために。いや、そう考えるのは少々意地が悪いか、と不動は喉の奥で笑う。
「不動君?」不安そうに、五虎退。
「ばーか」
言って、不動は五虎退の真っ白な額を小突いた。
「お前、明日は近侍だろ。こんな時間に俺の世話なんか焼いてる場合かよ」
「そ、それは……」
「お前の方こそ早く寝ろ。近侍はいつも終わるの遅いんだからよ。ちゃんと寝とかねーと体がもたねーぞ」
「…………」
「その代わり、これは借りてやる」
と、不動は五虎退の手からするりと本を取った。そして、驚いた表情で見つめてくる彼から目を逸らし、
「ま、まあ、何だかんだ言っても一人で呑むのは退屈だからな。それに、これを読めば気持ち良く眠れるんだろ? ……試してやるよ」
「は、はい! あ、でも、お酒は控え目に……」
「わかってるって」
いい加減、面倒臭くなって不動はうるさげに手を振った。
五虎退が去った後、不動は改めて本の表紙に目を落とした。それから、空を見上げる。暗闇の中に散りばめられた、いくつもの星。あんなにも遠い場所に浮かんでいるものにさえ、言い伝えが存在する。そういえば……と不動は思い出す。この国にも星にまつわる昔話があったはずだ。あれは、そう……。
「彦星と織姫の話だ」
呟いて、少しだけ胸を躍らせながら不動は表紙をめくった。すると、これまで見たことのない奇妙な代物が挟まっていた。『星座早見盤』と記されたそれは円形で、二枚の厚手の紙で作られている。一枚目の外周には日付が、二枚目には時刻を表す数字とタイトルの他に緯度も記されていた。下部には穴が空いており、そこに星々が精密に描かれている。
裏に書かれた説明書によると、これは星座を調べる道具らしい。観察したい時期に円盤を合わせれば、その季節の星座が出てくるという仕組みだ。だが、何かが引っかかっているのか、この星座盤の季節は冬から動かなかった。
仕方なく、不動は甘酒を一口飲んで本のページをめくった。春から始まり、夏、秋……と、季節ごとに現れる星座の物語がイラスト付きで細かく書かれている。不動は本を膝の上に置いたまま、星座盤に目を移した。冬の星座。冷えた空気が頬を撫でる。ちょうどいい、と思った。
星座盤と見比べながら物語を読み進めていたが、円盤が動かないために半分だけ見えない星座があるのに気付いた。それは、双子座だった。
死を運命づけられていた兄のカストルと不死身の弟のポルックス。死したカストルを前に、ポルックスは自身の不死をカストルと分け合い、ともに生きてともに死ぬことを父親であるゼウスに懇願する――。
本を閉じ、不動は白い息を吐き出した。朱色に染まりつつある指先で星座盤に触れてみる。動かない。双子座は半分のままだ。不動は苦笑いを浮かべて半分の星を優しく撫でた。その時、廊下の奥の方から聞き慣れた声が飛んできた。
「よぉ、不動。そんな所で何してるんだ?」
やって来たのは、薬研藤四郎だった。装備は外しているが戦闘服のままだ。ようやく手入れが終わったらしい。
「月見酒か?」
「星見酒だ」
ため息混じりに言って、不動は星座盤を薬研に差し出した。
「星見?」
「お前の弟……五虎退から借りたんだ。星座の本だと」
「へえ。それで星を見ながら酒を呑んでるってわけか。なかなか風流なことをしやがる」
星座盤を受け取った薬研は、楽しげに笑って不動の傍らに座った。ややして、
「なんだ、これ。動かないな」
「壊れてんだよ」
「なら、直さねーとな」
「……そのままでいい」
不動がポツリと呟くと、薬研は怪訝な顔をした。
「どうしてだ?」
「その方が自然だからな。読んでみるか? 双子座の話。笑えるぜ」
薬研に本を手渡して、不動は皮肉な笑みを浮かべた。
「一人ぼっちが耐えられねーからって、神様に頼んでずっと一緒にいられるようにしたんだってよ。都合が良すぎて――反吐が出る」
「…………」
薬研は無言でページをめくった。その乾いた音が、不動の耳にはやけに大きく聞こえた。湯呑みに残った甘酒を一気に飲み干して、
「どんなに泣いたって、願ったってさ……。叶わねぇもんは叶わねぇよ。そうだろ?」
「かなり酔ってるな」静かに笑って、薬研。「その分じゃ、きっと明日はつらくなる」
「構わねぇよ。頭痛くらい」
「慣れてるもんな」
「うるせぇ」
「……まだ、呑めるか?」
「あ?」
「俺も呑む。持ってきてくれ」
言って薬研は立ち上がり、踵を返した。
「持ってこい……って、酒をかよ。なんで俺が」
「俺も用意するもんがあるからな。悪い、すぐ戻る」
「おい、薬研!」
足早に立ち去る薬研の背中に声をかけたが、彼は振り向かずに行ってしまった。わけがわからず、不動は小さく舌打ちして空になった自分の湯呑みに目を落とした。
(……俺も呑むって言ってたな)
思い返して、頭を掻く。それからすぐに湯呑みを持って立ち上がった。
温めた甘酒とつまみの煎餅を盆に乗せて戻ったが、薬研はまだ帰ってきていなかった。急いで用意して損した、と若干イラつきながら不動は盆を置いて座った。湯呑みから白い湯気が立ち、夜風に流れて消える。
「早く呑まねぇと冷めちまうだろうが。バカが」
呟くが、先に呑む気は無かった。冷めたら温め直せばいい、と開き直って空を見上げる。闇に広がる無数の光。その中でもひと際輝く三つの星がある。そこから少し離れた場所に双子は浮かんでいた。
(『反吐が出る』なんて言っちまったけど……。きっと、お前も必死だったんだよな)
不動は胸の中で星に話しかけた。
(ずっと一緒だった奴がいなくなっちまったんだもんな。お前には分け合える命があった。だから、願いを叶えることができたんだ。けど、俺には……)
「待たせたな」
声とともに、柔らかなぬくもりが降って来た。突然のことに驚いた不動は、目を見張って傍らを見る。
温かな毛布を頭から被った、笑顔の薬研がそこにいた。
「遅くなって悪かったな。冷えるから持ってきたんだ。ついでに寝間着に着替えてたら時間かかっちまった」
詫びながら、薬研は湯呑みに手を伸ばす。
「あったかいな」
「……そうだな」
伏し目がちに答えて、不動も湯呑みを両手で包んだ。伝わるぬくもりと甘い香りに酔っていると、傍らでボリボリと煎餅を食べる音が盛大に響いた。情緒の欠片もない。
「不動、お前も食ってみろよ。美味いぞ」
「お前って、本当になんつーか……アレだよな」
「なんだよ」
煎餅を片手にきょとんとする薬研を見て、思わず不動は小さく吹き出した。
「なんでもねーよ」
笑いながら首を横に振り、煎餅をつまむ。そして、
「……戦場はどうだった?」
静かに尋ねた。
「なかなか歯ごたえがある、なんてもんじゃねーな。正直、修行に行っていなかったらヤバかった」
「そうか」
煎餅を噛んで星を見る。双子の星は瞬いて、どこか誇らしげだ。
「間違っても折れんじゃねーぞ。俺もいつかは修行に出るからよ。そしたら……」
言葉を探して口籠っているうちに気恥ずかしくなった不動は、喉元で渦巻いていた台詞を甘酒と一緒に飲み込んだ。
「そしたら……なんだよ?」と、薬研。
「なんでもねーよ。ただ……、俺にはあの星みてーに分け合える命っつーもんがねーからよ。折れたらそれまでだ。油断するんじゃねーぞ」
「わかってる。俺達は、そういう世界で戦っているからな」
薬研の言葉が不動の胸に重く響いた。そういう世界。都合良く星にはなれない世界。不動は俯いて乾いた笑い声を上げた。
「俺が不死だったら良かったのにな。双子の、何とかって星みたいに。そうすりゃ、お前にも分けてやれた」
「不動」
「……いや、冗談だ。冗談。酔っ払いの戯言だ。忘れてくれ」
冗談めかして不動は笑ったが、薬研は前を向いたまま黙り込んでしまった。気まずい沈黙がしばらく二人の間に流れた。薬研に言ったことは全て冗談というわけではない。もし、分けられるなら分けてやりたかった。薬研にも、蘭丸にも、そして――信長にも。だが、それはできない。『そういう世界』に自分達は生きている。
甘酒から漂う湯気が細くなってきた頃、薬研はそっと口を開いた。
「不死なんか、無くていいさ」
「だから、それは冗談だって」
「生も死も分けられない。でも、俺はお前といろんなもんを分け合えてる。今だってそうだ」
「え?」
思わず薬研の顔を見ると、彼は優しく微笑んで続けた。
「こうして話している時間、美味い煎餅、あったかい甘酒、見ている景色とか……。ああ、それと、この毛布もな。俺にはそれで十分だ」
「俺は――そこまで割り切れねぇよ」薬研から目を逸らして、不動。「ダメ刀らしいだろ? 未練ばかりだ」
「だから、良い」
「……んなわけあるか」
「俺には良く見える。そういうもんだろ? 価値ってもんは。良いも悪いも見る奴次第だ」
「…………」
「痘痕もえくぼ、とも言うか」
「それは殆ど悪口だろ」
「そうか? なら、惚れた弱みだな」
「バカが。んな恥ずかしい台詞、サラッと言うんじゃねーよ」
頬が急速に熱くなるのを感じ、不動は慌ててそっぽを向いた。熱を帯びた耳に薬研の小さな笑い声が届く。
「これ、直そうぜ」星座盤を空に翳して、薬研。「生も死も分け合ったなら、それはもう一つのもんだ。二つに分かれているのは自然じゃねぇ。だろ?」
「……そうだな」
短い沈黙の後、小声で返して不動も空を見上げた。
(一人でいるのが自然、というのは、俺の勝手な考えかもしれねぇな)
天を覆う光の粒は明滅し、夜を声なき声で満たしている。寄り添うように浮かんでいる双子の星もまた、何事かを囁き合っているのかもしれない。今の、自分達のように。
「なあ、不動」
ふいに薬研が話しかけてきた。
「いつかお前が修行に出て帰ってきたら、一番に俺と出陣しようぜ」
それは、先ほど飲み込んだはずの、不動の言葉だった。――修行から帰ってきたら、一緒に出陣しようぜ。俺がどれだけ強くなったか見せてやる。そう言いたかった。驚きを通り越して呆気にとられた不動は、顔を伏せ、込み上げてくる笑いをこらえた。肩を震わせながら、
「……考えておくよ」
「どうした、急に。俺、何か面白いことでも言ったか?」
訝しげに言って、薬研は煎餅を齧る。
「言ったかもな」
笑顔で答えて、不動は甘酒を呑んだ。
繰り返し吹く冬の風が雪の気配を連れてきたが、笑い合う二人はそれに気付くことなく杯と囁きを重ねていった。
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