夢を見る日
「まいったな。これじゃ、元の場所へ戻れやしねえ」
額に貼りついた濡れた前髪を指で軽く払って、薬研藤四郎はぼやいた。不動行光も濡れた髪を絞りながら外を見やる。
土砂降りである。
分散した遡行軍を追ってトドメを刺したまでは良かったが、降り出した雨が思っていた以上に激しく、偶然見つけた古い社に急いで逃げ込んだ二人である。薬研が社の扉の前で拝礼して呟く。
「すまねぇが、少し軒を借りるぜ」
ああ、そうか、と思って不動もこれに倣う。
「よく降るな」
柱にもたれ、薬研は両腕を組んだ。
「さすがにずっとこの調子ってわけでもないだろ」もう片方の柱にもたれて、気だるげに不動。「じきに止むだろうさ」
「ああ、そうだ。大将に報告しておかねぇとな」
そう言うと、薬研は目を閉じて沈黙した。本丸にいる主と交信しているのだ。遠い時空を旅する自分達と元の時代で待つ主とが思念を交わらせて情報を交換し合う。顕現したと同時に得る能力だが、不動はこれが苦手だった。あの者が今の自分の主であることは理解しているが、わだかまりは心の奥底に沈んだままだ。だが、不動が『交信』に抵抗を覚えるのは、それだけが理由ではない。
目を閉じたまま楽しげに微笑む薬研を見て、反射的に不動は顔を背けた。二人の『会話』は、聞こうと思えば聞くことができる。が、不動はあえてそれをしなかった。
濡れた地面を打つ雨音が、やけに大きく聞こえる気がした。
「――そうか。わかった。……ああ、気をつける。不動にも言っておくよ。……うん。……ああ、そうだな。雨が上がったらすぐ戻る。じゃあな、大将」
交信が終わり、薬研はゆっくりと目を開けた。そして、
「大将がな、雨宿りしている間に検非違使あたりが襲ってくるかもしれんから気をつけろってさ」
「ああ、そうかい」
「あと、みんなもそれぞれの場所で雨宿りしているようだ。集合場所を聞いておいたから雨が上がったら行くぞ」
「わかったよ」
声に棘があるのは言っている自分にもわかった。薬研もそれを感じたのだろう。妙な間が空いた。
「……何を怒っているんだ?」
「別に……怒ってねえよ」
「そうか?」
薬研はきょとんとしている。何もわかっていない。心の中でそう彼を非難しつつも、どうして自分がこんなにも苛立っているのか、不動自身も正直なところわかっていなかった。ただ、無性に寂しくなる。激しく降り続ける雨を見つめながら、不動は無意識に自分の身を抱いた。左腕を擦り、細く息を吐く。
「寒いのか?」と、薬研。
「随分濡れたからな。お前はどうなんだよ」
「どうってことはねえ……と言いたいところだが、少し冷えるな。本丸に帰ったら風呂に入るか」
「それと、あっためた甘酒な。……ああ、そういや、この前、甘酒の風呂に入った夢を見たな」
「甘ったるい風呂だな。そんなもんに入って酔い潰れなかったのか?」
「なんかフワフワしてたな。それで目を覚ましたら、寝酒で呑んでた甘酒の残りが枕元にこぼれてた」
「ああ、それでこの前へし切さんに叱られていたのか。濡れた布団を干していたから、俺はてっきり寝小便かと」
「するわけねぇだろ!」
怒鳴った後、不動は向き直って小さく舌打ちした。薬研は楽しげにくつくつと笑っている。
「お前はどうなんだよ」呟くように、不動。
「俺もしたことはねぇな。さすがに、寝小便はな」
「いい加減、そこから離れろ。夢だよ、夢。なんか見たことあるか?」
「そうだな……」
呟いて、薬研は思い出す仕草をした。ややして、
「俺の見る夢は、いつも大して変わらん。――川を見ているんだ」
「川?」
「大きな川でな、向こう岸が霧で霞んでいる。俺は一人で岸辺にしゃがみ込んで、ずっと川の流れを見つめているんだ」
「……それで?」
「それだけだ。……ただ、背後にいる誰かの気配は感じていてな。振り返ろうかどうしようかと迷っているうちに、目が覚めちまう。……あれは、一体誰なんだろうな」
自問するように薬研は返した。だが、口調から察するに彼はその正体を知っているのではないか、と不動は思う。寒さに震える唇を小さく噛み、話題を変える。
「川っていえばよぉ、俺、結構水切りが上手くなったんだぜ」
「へえ、何段まで飛んだ? 向こう岸まで行ったか?」
「さすがにそこまではなあ……。最高で五段ってところだ。愛染とか上手いよなあ」
本丸の近くを流れる川は主に釣り場として使われているが、戦いに疲れた刀剣達の癒しの場にもなっている。平らな石を投げ込んで水面に跳ねた回数を競う『水切り』は定番の遊びだ。
「あいつは最初から上手かったな。俺も運の良い時は向こう岸まで行くが、大体は寸でのところで沈んじまう。そうだ、今度みんなで勝負するか」
「勝負?」
「くじ引きで組を決めてよ。普通にやったんじゃつまらねぇから障害物やら何やら作って……。面白いと思わねーか?」
「やーだよ、面倒臭ぇ。それに、んなことしている場合か? 遊ぶために顕現したわけじゃねーだろ、俺達は」
「たしかに、まあ、そうだが……」答えて、薬研は少し思案する。「じゃあ、全部終わった後だな。それならいいだろ?」
全部終わった後。その言葉に不動の胸は締めつけられた。両腕を組み、そっぽを向いて、
「宴会の方がいい。全国の美味いもんをどっさり取り寄せて、三日三晩どんちゃん騒ぎして呑み明かそうぜ」
「どんちゃん騒ぎなら普段でもしているだろ」笑って、薬研。
「そりゃそうだけどよ、いつ出陣命令が下るかわからねぇ状態で呑むのと何の問題もねぇ状態で呑むのとじゃ、気分が違うだろ」
「たしかにな。ハメを外す奴が大量に出そうだ」
「呑み比べとかしてな。ウワバミがいっぱいいるから、ちょっとした地獄絵図になるぞ」
宴会の有様が容易に想像でき、二人は小さく笑い合った。それから火が消えたような沈黙が続き、怖くなって不動は慌てて口を開いた。
「え、宴会が終わったらよ」
「まだあるのか」
「みんなの思い出の場所にでも行くか」
軒先から際限なく雨粒が滴り落ちる。雨脚は弱まる気配を見せず、地面を穿ち、細い道をいくつも作った。流れてゆく水の流れは早く、不動はそれを川のようだと思った。
「思い出の場所?」
薬研が小首を傾げる。
「ああ。……って言っても、別に歴史を改変したいってわけじゃねーぞ。ただ、なんとなく……見てみたいんだ。そりゃ、今だっていろんな時代や場所へ行ってはいるが、調査だの討伐だのでゆっくりできねーだろ。観光……っていうのか? そういうの、やってみてーなって」
「そうだな」目を伏せて、薬研は優しく微笑む。「楽しそうだ」
「時空を飛べねー主には、可哀相だから土産を買って行ってやるか。あの人、たしか甘い菓子が好きだったよな」
初老で生まれつき目が殆ど見えない主はいつも杖をついて歩いている。懐に飴やら金平糖やらを常備し、気が向けば誰彼構わずそれらを配るのだ。不動も淡い色をした金平糖を貰ったことがある。
すると、急に薬研が吹き出して笑った。
「お前、意外と大将の好きなもんを把握しているんだな」
「違……っ! こんなの、何回か近侍をしていれば大体わかるもんだろ! そんなに難しいことじゃねーし! その……、だから……!」
「お前のそういうとこ、好きだぜ」
雨音が激しく不動の耳を打つ。言葉に縛られ、身動きがとれない。薬研の瞳の奥にある陰りに気付きたくなくても気付いてしまう。振り払うように不動は頭を振って俯き、奥歯を噛み締めた。薬研が次に何を話すのか。それが怖かった。
「もし、お前なら」
震える唇でなんとか切り出す。
「みんなをどこに案内する? 俺はやっぱり安土城だな! あんなにも絢爛豪華な城はどこを探したって――」
「ありがとうな、不動」
静かで柔らかな声が不動の言葉を遮った。
「……何がだよ」顔を上げずに、不動。
「楽しい夢を見させてくれて」
不動は俯いたまま、無言で拳を固く握り締めた。薬研の声が雨音とともに耳に響く。
「全てが終わるまで、俺は大将を守るつもりだ。あの人が俺にとっての最後の主だからな。終わりまで見届けたいんだ。そして、本当に全て終わったら……その時は」
「…………」
「また、お前を置いていくことになっちまうな」
「…………」
「すまない」
不動は雨水の流れる泥を見つめながら、じっと黙って薬研の言葉を聞いていた。大きく息を吸って、ゆっくりと吐き出す。怒りか焦燥かわからない、正体不明の熱が胸の底から込み上げてくる。耐えきれず、不動は声が涙に濡れるのも構わず口を開いた。
「……知ってるさ。さっき話したことは全部夢だって。夢でしかねぇってことくらい」
「…………」
「別にいい。別にいいんだ、そんなこと。だけどよ……!」
言って、不動は乱暴に薬研の胸倉を掴んで詰め寄った。薬研の静かな瞳が不動を捉える。一瞬の沈黙。不動は強く彼を睨みつけて激昂した。
「どうして、お前はいつもそうなんだよ!」
「不動」
「全部……全部わかったみてーなツラしやがってよぉ! 辛くねぇのかよ! 怖くねぇのかよ! ……嫌じゃ、ねぇのかよ」
薬研を掴む腕の力はみるみるうちに弱くなり、やがて縋るようにして不動は薬研にもたれた。こんなことを責めるのは間違っている。頭の中ではわかっているのに、薬研の割り切った態度を見るたびにどうしても耐えられなくなる。
――寂しいのは、俺の方だ。
だから、薬研にも寂しがってほしいのだ。自分の傍から離れることを。
しょうもない。本当に、しょうもない理由だ。
ふいに目の奥が熱くなり、不動の頬に涙がこぼれた。悔しいのか、情けないのか、もう自分でもわからない。
雨音が遠くの方で鳴っている気がした。
「何言ってんだ」
その時、薬研が優しく不動の手を掴んだ。俯いて、呟くように返す。
「辛くねぇわけねーだろ。怖くねぇわけねーだろ。嫌に決まってる。ここに居たい。大将と、お前と……みんなと一緒に居たい。離れたくなんかねぇよ!」
「薬研……」
「……だが、そうはいかねぇ。俺が持って行けるのは、思い出だけだ」
僅かな沈黙の後、顔を上げて薬研は微笑んだ。その穏やかで透明な笑みに不動は思わず息を呑む。
「だから……。今日の、この日のことも……いつかきっと思い出す」
真っ直ぐな薬研の瞳が眩しすぎて、不動は顔を背けた。洟を啜りながら、涙に濡れる頬を拭う。すると、薬研が小さく笑った。
「お前が泣いてどうする」
「うっせーな。お前に言われたかねーよ。ここは、お前が泣く場面だろうが」
「不動が泣くから、泣くに泣けなくてな」
「俺のせいにすんな」
言い返す不動の耳に細い雨の音が届いた。重く垂れ込めていた雲がようやく風に流れ、雨が止み始めている。不動は空を見上げた。
「……俺も思い出してやるよ」
「うん?」
ちらりと不動は自分の腕を掴んでいる薬研の手を見やり、すぐに目を戻した。手袋越しに、彼のぬくもりが確かに伝わってくる。忘れたくない、と思った。が、直後に思い直す。
――忘れるわけがねぇ。
瞼の裏に懐かしい二人の姿が甦る。この二人のように、薬研もまた痛みとして自分の身に残るのかもしれない。けれど、それでも――。
不動の口元に自然と笑みが浮かんだ。
「忘れてやらねぇからな。今日のこと。話したことも全部。夢を見たことも……きっと」
「…………」
「敵は強ぇよな」
「ああ」
「じゃあ、俺達はまだ夢を見ていてもいいってことだよな」
「……ああ、そうだな」
頷いて、薬研は不動の腕を掴んだまま歩き出した。社の階段を下り、ぬかるんだ地面に足を踏み入れる。そして、
「これから何をしようか。みんなと落ち合って、本丸に帰って……」
「とりあえず風呂だな。身体が冷えて仕方ねぇ」
「それから酒だろ?」からかうように、薬研。
「当然! ……ところでよ、なんでずっと手を掴んでんだよ」
「これか? さっきの土砂降りでこの辺りは酷くぬかるんでいるし……。それに、手を離したらお前泣くだろ」
「泣・か・ね・え・よ!」
決まりの悪さと恥ずかしさから、不動は怒鳴り声を上げた。その反応が面白かったのか、薬研は楽しげに笑う。
「まあ、いいじゃねぇか。たまにはよ」
「……しょうがねぇな。たしかに足下が滑るし、危ねぇからな。付き合ってやるよ。ただし、みんなと合流するまでだからな!」
「へいへい」
「返事は一回でいいっつー……」
言いかけて、不動は自分の足下に気がついた。立ち止まり、後ろを振り返る。社からここまで続いている自分と薬研の足跡が、雲間から差し込む光に照らされて輝いている。それを目にし、不動はそっと微笑んだ。
「どうかしたのか?」
と、薬研が覗き込む。
「なんでもねぇよ」
と、返して不動は再び歩き出した。
あの足跡はいずれ消えるだろう。けれど、確かに残っているものがある。心に、残したものがある。歩こう。いずれ来るだろう『その日』まで。
くだらないことで笑おう。しょうもないことで怒ろう。つまらないことで泣こう。
たくさんの足跡を、二人で、みんなで、残していこう。
歩きながら、不動は薬研に話しかけた。
「やっぱよぉ、水切り大会やろうぜ。俺、腕磨いておくからな。覚悟しろよ」
「おお、俺も負けてられねぇな。同じ組になったら宜しく頼むわ」
寂しさが入り込めなくなるくらいに。
――たくさんの、夢を見よう。
額に貼りついた濡れた前髪を指で軽く払って、薬研藤四郎はぼやいた。不動行光も濡れた髪を絞りながら外を見やる。
土砂降りである。
分散した遡行軍を追ってトドメを刺したまでは良かったが、降り出した雨が思っていた以上に激しく、偶然見つけた古い社に急いで逃げ込んだ二人である。薬研が社の扉の前で拝礼して呟く。
「すまねぇが、少し軒を借りるぜ」
ああ、そうか、と思って不動もこれに倣う。
「よく降るな」
柱にもたれ、薬研は両腕を組んだ。
「さすがにずっとこの調子ってわけでもないだろ」もう片方の柱にもたれて、気だるげに不動。「じきに止むだろうさ」
「ああ、そうだ。大将に報告しておかねぇとな」
そう言うと、薬研は目を閉じて沈黙した。本丸にいる主と交信しているのだ。遠い時空を旅する自分達と元の時代で待つ主とが思念を交わらせて情報を交換し合う。顕現したと同時に得る能力だが、不動はこれが苦手だった。あの者が今の自分の主であることは理解しているが、わだかまりは心の奥底に沈んだままだ。だが、不動が『交信』に抵抗を覚えるのは、それだけが理由ではない。
目を閉じたまま楽しげに微笑む薬研を見て、反射的に不動は顔を背けた。二人の『会話』は、聞こうと思えば聞くことができる。が、不動はあえてそれをしなかった。
濡れた地面を打つ雨音が、やけに大きく聞こえる気がした。
「――そうか。わかった。……ああ、気をつける。不動にも言っておくよ。……うん。……ああ、そうだな。雨が上がったらすぐ戻る。じゃあな、大将」
交信が終わり、薬研はゆっくりと目を開けた。そして、
「大将がな、雨宿りしている間に検非違使あたりが襲ってくるかもしれんから気をつけろってさ」
「ああ、そうかい」
「あと、みんなもそれぞれの場所で雨宿りしているようだ。集合場所を聞いておいたから雨が上がったら行くぞ」
「わかったよ」
声に棘があるのは言っている自分にもわかった。薬研もそれを感じたのだろう。妙な間が空いた。
「……何を怒っているんだ?」
「別に……怒ってねえよ」
「そうか?」
薬研はきょとんとしている。何もわかっていない。心の中でそう彼を非難しつつも、どうして自分がこんなにも苛立っているのか、不動自身も正直なところわかっていなかった。ただ、無性に寂しくなる。激しく降り続ける雨を見つめながら、不動は無意識に自分の身を抱いた。左腕を擦り、細く息を吐く。
「寒いのか?」と、薬研。
「随分濡れたからな。お前はどうなんだよ」
「どうってことはねえ……と言いたいところだが、少し冷えるな。本丸に帰ったら風呂に入るか」
「それと、あっためた甘酒な。……ああ、そういや、この前、甘酒の風呂に入った夢を見たな」
「甘ったるい風呂だな。そんなもんに入って酔い潰れなかったのか?」
「なんかフワフワしてたな。それで目を覚ましたら、寝酒で呑んでた甘酒の残りが枕元にこぼれてた」
「ああ、それでこの前へし切さんに叱られていたのか。濡れた布団を干していたから、俺はてっきり寝小便かと」
「するわけねぇだろ!」
怒鳴った後、不動は向き直って小さく舌打ちした。薬研は楽しげにくつくつと笑っている。
「お前はどうなんだよ」呟くように、不動。
「俺もしたことはねぇな。さすがに、寝小便はな」
「いい加減、そこから離れろ。夢だよ、夢。なんか見たことあるか?」
「そうだな……」
呟いて、薬研は思い出す仕草をした。ややして、
「俺の見る夢は、いつも大して変わらん。――川を見ているんだ」
「川?」
「大きな川でな、向こう岸が霧で霞んでいる。俺は一人で岸辺にしゃがみ込んで、ずっと川の流れを見つめているんだ」
「……それで?」
「それだけだ。……ただ、背後にいる誰かの気配は感じていてな。振り返ろうかどうしようかと迷っているうちに、目が覚めちまう。……あれは、一体誰なんだろうな」
自問するように薬研は返した。だが、口調から察するに彼はその正体を知っているのではないか、と不動は思う。寒さに震える唇を小さく噛み、話題を変える。
「川っていえばよぉ、俺、結構水切りが上手くなったんだぜ」
「へえ、何段まで飛んだ? 向こう岸まで行ったか?」
「さすがにそこまではなあ……。最高で五段ってところだ。愛染とか上手いよなあ」
本丸の近くを流れる川は主に釣り場として使われているが、戦いに疲れた刀剣達の癒しの場にもなっている。平らな石を投げ込んで水面に跳ねた回数を競う『水切り』は定番の遊びだ。
「あいつは最初から上手かったな。俺も運の良い時は向こう岸まで行くが、大体は寸でのところで沈んじまう。そうだ、今度みんなで勝負するか」
「勝負?」
「くじ引きで組を決めてよ。普通にやったんじゃつまらねぇから障害物やら何やら作って……。面白いと思わねーか?」
「やーだよ、面倒臭ぇ。それに、んなことしている場合か? 遊ぶために顕現したわけじゃねーだろ、俺達は」
「たしかに、まあ、そうだが……」答えて、薬研は少し思案する。「じゃあ、全部終わった後だな。それならいいだろ?」
全部終わった後。その言葉に不動の胸は締めつけられた。両腕を組み、そっぽを向いて、
「宴会の方がいい。全国の美味いもんをどっさり取り寄せて、三日三晩どんちゃん騒ぎして呑み明かそうぜ」
「どんちゃん騒ぎなら普段でもしているだろ」笑って、薬研。
「そりゃそうだけどよ、いつ出陣命令が下るかわからねぇ状態で呑むのと何の問題もねぇ状態で呑むのとじゃ、気分が違うだろ」
「たしかにな。ハメを外す奴が大量に出そうだ」
「呑み比べとかしてな。ウワバミがいっぱいいるから、ちょっとした地獄絵図になるぞ」
宴会の有様が容易に想像でき、二人は小さく笑い合った。それから火が消えたような沈黙が続き、怖くなって不動は慌てて口を開いた。
「え、宴会が終わったらよ」
「まだあるのか」
「みんなの思い出の場所にでも行くか」
軒先から際限なく雨粒が滴り落ちる。雨脚は弱まる気配を見せず、地面を穿ち、細い道をいくつも作った。流れてゆく水の流れは早く、不動はそれを川のようだと思った。
「思い出の場所?」
薬研が小首を傾げる。
「ああ。……って言っても、別に歴史を改変したいってわけじゃねーぞ。ただ、なんとなく……見てみたいんだ。そりゃ、今だっていろんな時代や場所へ行ってはいるが、調査だの討伐だのでゆっくりできねーだろ。観光……っていうのか? そういうの、やってみてーなって」
「そうだな」目を伏せて、薬研は優しく微笑む。「楽しそうだ」
「時空を飛べねー主には、可哀相だから土産を買って行ってやるか。あの人、たしか甘い菓子が好きだったよな」
初老で生まれつき目が殆ど見えない主はいつも杖をついて歩いている。懐に飴やら金平糖やらを常備し、気が向けば誰彼構わずそれらを配るのだ。不動も淡い色をした金平糖を貰ったことがある。
すると、急に薬研が吹き出して笑った。
「お前、意外と大将の好きなもんを把握しているんだな」
「違……っ! こんなの、何回か近侍をしていれば大体わかるもんだろ! そんなに難しいことじゃねーし! その……、だから……!」
「お前のそういうとこ、好きだぜ」
雨音が激しく不動の耳を打つ。言葉に縛られ、身動きがとれない。薬研の瞳の奥にある陰りに気付きたくなくても気付いてしまう。振り払うように不動は頭を振って俯き、奥歯を噛み締めた。薬研が次に何を話すのか。それが怖かった。
「もし、お前なら」
震える唇でなんとか切り出す。
「みんなをどこに案内する? 俺はやっぱり安土城だな! あんなにも絢爛豪華な城はどこを探したって――」
「ありがとうな、不動」
静かで柔らかな声が不動の言葉を遮った。
「……何がだよ」顔を上げずに、不動。
「楽しい夢を見させてくれて」
不動は俯いたまま、無言で拳を固く握り締めた。薬研の声が雨音とともに耳に響く。
「全てが終わるまで、俺は大将を守るつもりだ。あの人が俺にとっての最後の主だからな。終わりまで見届けたいんだ。そして、本当に全て終わったら……その時は」
「…………」
「また、お前を置いていくことになっちまうな」
「…………」
「すまない」
不動は雨水の流れる泥を見つめながら、じっと黙って薬研の言葉を聞いていた。大きく息を吸って、ゆっくりと吐き出す。怒りか焦燥かわからない、正体不明の熱が胸の底から込み上げてくる。耐えきれず、不動は声が涙に濡れるのも構わず口を開いた。
「……知ってるさ。さっき話したことは全部夢だって。夢でしかねぇってことくらい」
「…………」
「別にいい。別にいいんだ、そんなこと。だけどよ……!」
言って、不動は乱暴に薬研の胸倉を掴んで詰め寄った。薬研の静かな瞳が不動を捉える。一瞬の沈黙。不動は強く彼を睨みつけて激昂した。
「どうして、お前はいつもそうなんだよ!」
「不動」
「全部……全部わかったみてーなツラしやがってよぉ! 辛くねぇのかよ! 怖くねぇのかよ! ……嫌じゃ、ねぇのかよ」
薬研を掴む腕の力はみるみるうちに弱くなり、やがて縋るようにして不動は薬研にもたれた。こんなことを責めるのは間違っている。頭の中ではわかっているのに、薬研の割り切った態度を見るたびにどうしても耐えられなくなる。
――寂しいのは、俺の方だ。
だから、薬研にも寂しがってほしいのだ。自分の傍から離れることを。
しょうもない。本当に、しょうもない理由だ。
ふいに目の奥が熱くなり、不動の頬に涙がこぼれた。悔しいのか、情けないのか、もう自分でもわからない。
雨音が遠くの方で鳴っている気がした。
「何言ってんだ」
その時、薬研が優しく不動の手を掴んだ。俯いて、呟くように返す。
「辛くねぇわけねーだろ。怖くねぇわけねーだろ。嫌に決まってる。ここに居たい。大将と、お前と……みんなと一緒に居たい。離れたくなんかねぇよ!」
「薬研……」
「……だが、そうはいかねぇ。俺が持って行けるのは、思い出だけだ」
僅かな沈黙の後、顔を上げて薬研は微笑んだ。その穏やかで透明な笑みに不動は思わず息を呑む。
「だから……。今日の、この日のことも……いつかきっと思い出す」
真っ直ぐな薬研の瞳が眩しすぎて、不動は顔を背けた。洟を啜りながら、涙に濡れる頬を拭う。すると、薬研が小さく笑った。
「お前が泣いてどうする」
「うっせーな。お前に言われたかねーよ。ここは、お前が泣く場面だろうが」
「不動が泣くから、泣くに泣けなくてな」
「俺のせいにすんな」
言い返す不動の耳に細い雨の音が届いた。重く垂れ込めていた雲がようやく風に流れ、雨が止み始めている。不動は空を見上げた。
「……俺も思い出してやるよ」
「うん?」
ちらりと不動は自分の腕を掴んでいる薬研の手を見やり、すぐに目を戻した。手袋越しに、彼のぬくもりが確かに伝わってくる。忘れたくない、と思った。が、直後に思い直す。
――忘れるわけがねぇ。
瞼の裏に懐かしい二人の姿が甦る。この二人のように、薬研もまた痛みとして自分の身に残るのかもしれない。けれど、それでも――。
不動の口元に自然と笑みが浮かんだ。
「忘れてやらねぇからな。今日のこと。話したことも全部。夢を見たことも……きっと」
「…………」
「敵は強ぇよな」
「ああ」
「じゃあ、俺達はまだ夢を見ていてもいいってことだよな」
「……ああ、そうだな」
頷いて、薬研は不動の腕を掴んだまま歩き出した。社の階段を下り、ぬかるんだ地面に足を踏み入れる。そして、
「これから何をしようか。みんなと落ち合って、本丸に帰って……」
「とりあえず風呂だな。身体が冷えて仕方ねぇ」
「それから酒だろ?」からかうように、薬研。
「当然! ……ところでよ、なんでずっと手を掴んでんだよ」
「これか? さっきの土砂降りでこの辺りは酷くぬかるんでいるし……。それに、手を離したらお前泣くだろ」
「泣・か・ね・え・よ!」
決まりの悪さと恥ずかしさから、不動は怒鳴り声を上げた。その反応が面白かったのか、薬研は楽しげに笑う。
「まあ、いいじゃねぇか。たまにはよ」
「……しょうがねぇな。たしかに足下が滑るし、危ねぇからな。付き合ってやるよ。ただし、みんなと合流するまでだからな!」
「へいへい」
「返事は一回でいいっつー……」
言いかけて、不動は自分の足下に気がついた。立ち止まり、後ろを振り返る。社からここまで続いている自分と薬研の足跡が、雲間から差し込む光に照らされて輝いている。それを目にし、不動はそっと微笑んだ。
「どうかしたのか?」
と、薬研が覗き込む。
「なんでもねぇよ」
と、返して不動は再び歩き出した。
あの足跡はいずれ消えるだろう。けれど、確かに残っているものがある。心に、残したものがある。歩こう。いずれ来るだろう『その日』まで。
くだらないことで笑おう。しょうもないことで怒ろう。つまらないことで泣こう。
たくさんの足跡を、二人で、みんなで、残していこう。
歩きながら、不動は薬研に話しかけた。
「やっぱよぉ、水切り大会やろうぜ。俺、腕磨いておくからな。覚悟しろよ」
「おお、俺も負けてられねぇな。同じ組になったら宜しく頼むわ」
寂しさが入り込めなくなるくらいに。
――たくさんの、夢を見よう。
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