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青が染みる

 背後でページをめくる音が聞こえる。
 不動行光はその音を聞きながら、内心で舌打ちした。無言の広間に今は自分と薬研藤四郎しかいない。縁側に座り、ついさっきまで雨が降っていた庭を見つめながら、不動は小さく息を吐いた。
 薬研が修行という名の一人旅で安土まで行ったことは人づてで聞いた。あの場所――本能寺に向かう信長の背中を見送ったことは直接本人から聞いた。それで終いのはずだった。しかし、不動の胸にはどこか割り切れない思いが残っている。
 またページをめくる音が聞こえ、不動はちらりと背後に目をやった。薬研は襖にもたれながら膝の間に挟んだ大きな本を読んでいる。豪快な行動が目立つ反面、こうして静かに沈黙を守るところが彼にはある。そのためだろうか。彼を見ていると、どこか掴みどころのない、朧げな印象を受けてしまう。
 かさり、とページがめくられる。やはり、このまま立ち上がって自室に戻ってしまおうか、と不動は庭に向き直って思った。この迷いはこれで三度目だが、そのたびに躊躇してしまう。たとえこのまま離れてしまっても薬研は気にしないだろう。それはわかっている。だが……。
「雨が上がったな」
 ページに視線を落したまま、ふいに薬研が口を開いた。
「……そうだな」
 ばつが悪くなり、不動は小声で答える。
「予報ではこれから晴れるらしい」
「へえ」
「どこかへ遊びに行くか」
「やだよ」
 思わず即答すると、薬研はクスッと笑った。
「そうか」
「……なあ」
「なんだ?」
 聞き返されて、一瞬尻込みする。そして、
「いや、やっぱいい」
 静まり返ったこの部屋が不動の口を重くさせた。せめて雨でも降っていてくれていたら、と思う。そうしたら、この妙な気づまりも少しは軽くなっていたはずなのに。雲間から差し込む陽光を受け、キラキラと輝く庭を恨めしく睨みながら不動は溜め息をついた。
 本能寺へ向かう信長を止めなかったことは、悔しいが仕方のないことだと思う。感情のままに歴史を変えてしまっては歴史修正主義者――あの化物のような遡行軍と同類になってしまう。明智光秀が謀叛を起こし、本能寺が燃えた。それは事実だ。蘭丸は死に、彼が携えていた自分も焼けた。だが、信長は、薬研は……。不動は軽く右手を動かしてみた。そして、また肩越しに彼を見る。焼けたとしても確かに現存する自分。同じ場所にいたはずなのに主とともに幻のように消えてしまった薬研。この本丸で、こうして同じ時間を過ごしていても、彼との間には底知れないほどに深く、大きな河が横たわっているように思えた。
 しかし、だからこそ。
「なあ」
 不動は意を決して再び話しかけた。
「なんだ?」
「訊いてもいいか?」
「答えられる範囲のことならな」
 と、薬研はふざけて意地の悪い返答をする。が、不動は言い返さず、真面目な口調で、
「後悔はないのか?」
 と訊いた。
「話が見えん。何に対する後悔だ?」
 眉を顰め、薬研はパタンと本を閉じた。そして、眼鏡を外し、真っ直ぐに不動を見る。
「信長様を止めなかったことに対する、だよ。ここに来て結構経つし、俺達の使命のことは重々承知している……つもりだ。だけどよ、今の主があの人だってわかっていても、やっぱり信長様は主じゃねーか。なのに、お前はなんかすげぇさっぱりして帰ってきてよ。そういうのが、なんつーか……引っかかるというか、その……」
 適した言葉が見つからず、不動は口籠った。人間の身体というのは、意思を伝えられるだけ厄介だ、と思う。伝えられなければ諦められるのだ。想いというものは。もどかしさが募り、こうなったら思いつくまま言葉にしてみようか、と口を開きかけた瞬間、薬研が静かに笑った。
「後悔なら、あるさ」
 閉じた本に目を落とし、呟くように言う。それを聞いて、不動は衝かれたように顔を上げた。
「なら、どうして……」
「俺の後悔は本能寺の変を未然に防がなかったことじゃない。……主に切腹を許しちまったことだよ」
「…………」
「鉄の薬研は貫くのに主の腹は刺さねえ、主を守る忠義の刀、なんて言われていても、所詮は道具さ。主の意思には逆らえん」
 言葉を切って、薬研は少しの間黙り込んだ。そして、
「だが、まあ、俺が使われて良かったとも思っているけどな」
「え……」
「だってよ、考えてもみろ。あの信長さんだぜ? 敵方の刀に斬られて死なれちゃ、それこそ俺の立つ瀬がねえだろ」
 あっけらかんとした薬研の言葉に、不動は思わず吹き出した。笑いをこらえながら、
「たしかにな」
 それから自身の後悔も口にする。
「……俺は蘭丸様を守れなかった」
「戦だからな、仕様がねえ。だが、お前が残ってくれて良かった」
「…………」
 押し黙って不動は俯いた。
「主がいなくなって、俺だけ残ってもよ……」
「みんながいなくなっちまったら、誰があの戦いを証明する?」と穏やかな口調で、薬研。「信長さんが愛し、蘭丸さんに授け、本能寺で焼け身となったお前が在ることで、あの戦が本当に、現実にあったのだと証明できる。伝えるものが無くなっちまったら――歴史は死ぬんだ」
「歴史が、死ぬ?」
 不動がそっと目を上げて聞き返す。後ろで風の鳴る音がした。
「大将がな、言ってたんだ。人間は二度死ぬと。一度目は肉体の死。そして、二度目の死は……」
 と、薬研は視線を外へ投げた。眩しげに目を眇め、舞い散る楓の葉を追いながら、
「自分を覚えている人間、語る人間がいなくなることで迎える。だから、たとえ本体が失われたのだとしても、様々な逸話を持つ俺達に二度目の死が訪れることはない、と……。旅から戻った日にな、大将とそんな話をした」
 不動は無言で目を見開いた。忘れられることで訪れる死。ならば、そうであるならば――。
「信長様と蘭丸様も同じ……?」
 小刻みに震える唇で呟くように尋ねると、薬研は目を細めて微笑んだ。
「死のうは一定(いちじょう)、しのび草には何をしよぞ。一定、語りおこすよの――ってな。信長さんも蘭丸さんも歴史の中でちゃんと生きている」
 薬研が口にしたそれは、信長が好んで歌った小唄だった。人は生まれた以上、死ぬは定め。ならば、自分はこの世で何を成そうか。もし、何かを残すことができたのなら、後世の人間は自分のことを思い出し、語り継いでゆくだろう、という意味だ。
 ふいに不動の目の奥が熱くなった。ゴミが入ったように見せかけて体ごと庭の方を向き、涙に滲む目元を急いで拭う。
「な、懐かしい唄じゃねえか。『雅なことはよくわからん』とか言っていたくせに、お前、ちゃんと覚えていたんだな」
「まあな」
 足音と声が近くなり、突然、不動の背中にぬくもりと重さが加わった。薬研が背中合わせに座り、もたれかかってきたのだ。
「お……前、いきなり何だよ!」
「いいじゃねーか。あー、なんか久し振りだな」不動の肩に頭をもたれて、薬研。
「何がだよ」
「信長さんのことを話すのが、さ。ここには、へし切さんや宗三さんもいるが、あの二人にとっての信長さんは棘のようなものだから、話題にするのは少し憚れてな」
「……俺となら」
 小声で呟く。
「うん?」
「俺となら、いいだろ。いくらでも話そうぜ。信長様のことも蘭丸様のことも。俺の知らねー信長様の話、聞きてーし」
「ああ、そうだな。俺も、信長さんと一緒じゃねー時の蘭丸さんの話を聞きてーなあ」
 心底嬉しそうな声とともに、より一層背中を押される。
「おい! 薬研! これ以上寄りかかんな!」
 前のめりになりながら不動が抗議すると、薬研は声を上げて笑い出した。それから、少しして黙り込む。
「……おい? どうしたよ。急に黙りやがって」
「あの日も、こんな空だったな。いやに明るくて潤んでいてよ」
「あー……、そうだったかもな」
 顔を僅かに傾けて空の色を確認し、不動が返す。薬研は不動の肩に頭をもたれたまま、静かに呟いた。
「まいったな。青が目に染みやがる」
 不動の脳裏に『あの日』が甦る。空も雲も煙も、悲しいほどに鮮やかな色をしていた。これもまた、覚えていなくてはならないことなのだろう。胸の痛みとともに。
 ややして、不動は目を伏せて言った。
「目薬でも差せよ。スーッてするやつ、あるだろ?」
「ああ、そうするか」
 柔らかく笑って、薬研は答えた。
 背中から確かに伝わる彼の重みとぬくもりを感じながら、不動も笑う。そして、いつものように悪態をついた。
「いいから、早くどけよ。重いんだよ、バーカ」

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