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無念の行方

 口の中に錆びた味が広がっている。
 それが血の味だとわかったのは、地面に吐き出してからだった。
 口元を乱暴に拭い、薬研藤四郎は小さく舌打ちをした。大きく息を吐いて相手を睨みつける。視線の先には燃え盛る炎のような赤い光を纏った大男が立っていた。笠の向こう側から、じっと薬研を見つめている。異形というほどおぞましい姿をしているわけではない。が、男から発せられる空気そのものは、異形のそれと同等だった。歴史修正主義者――未来の世界で、男のような存在はそう呼ばれている。彼らは歴史における『もしも』を実現しようとしている、と薬研は主である審神者から聞かされていた。
 もしも、あの戦闘で主が死ななかったら。
 もしも、あの時、折れていなかったら。
 もしも、世の中が変わっていたら。
 もしも、もしも――……。
 そんな想いに取り憑かれた刀の付喪神達が顕現化し、時間を遡って暴れているのだという。埒もない。薬研は男を睨み据えたまま鼻で笑った。
 歴史修正主義者達の暴走を止めるべく編成された彼の部隊は、男達の部隊――遡行軍の奇襲に遭い、いつの間にか散り散りになっていた。混乱に次ぐ混乱で一旦退避した薬研だったが、笠をかぶった男が追いかけてきた。
 できることなら地形的に優位に立てる木立の中で戦いたかった。胸の裡で己の不運を呪いつつ、薬研は周囲に視線を走らせた。だだっ広い穀倉地。右手には小高い丘、左手には耕作前の水田が広がっている。相対する男はどうやら打刀らしい。刃こぼれした刀を八双に構えたまま身じろぎもしない。薬研もまた短刀を構えて息を整える。度重なる攻撃で衣服はあちこち斬り裂かれていた。ダメージは五分五分。とはいえ、短刀と打刀では刃の長さが違いすぎる。と、なれば――。
 薬研は仕掛けた。
 気合を発し、男に向かって真っ直ぐに駆ける。男は避ける素振りひとつ見せずに上段から刀を打ち下ろした。薬研はその刃を真っ向から受けて弾いた。が、男はすぐに太刀筋を変えて斬りかかる。激しい応酬が続いた。必死に斬り結びながらも、薬研はジリジリと後退し、とうとう水路の付近まで追い詰められてしまった。肩で大きく息をし、再び身構える。疲労が蓄積された腕は熱を帯び、微かに震えた。男の方は間合いをとって正眼に構えている。鋭い切っ先は確実に薬研を捉えていた。
 余裕を見せてやがる。
 背後から聞こえてくるせせらぎの音に耳を澄ましながら、薬研は細く息を吐き出した。すると、突然頭の中で誰かの嬉しそうな声が響いてきた。
――圧倒的に不利だな。
 顔を上げて、薬研は飛び出す。それと同時に男が踏み込んで突きを繰り出してきた。
――ならば、どうする? 己が不運を嘆いて死ぬか? それとも。
 寸でのところで刃をかわし、振り払うように下段から手元を薙いだ。弾かれた刀が男の手から離れる。しかし、反動が大きかったせいで薬研の手からも短刀がこぼれた。
「しま……っ!」
 急いで掴もうとするも、短刀は薬研の指にぶつかり、クルクルと回転して男の足元に落ちた。男の得物は既に遠くの方に消えている。誘われるように男は身を屈め、短刀に手を伸ばした。
 声が言う。
――こちらの不利は相手も承知よ。ならば、それを餌にすることも出来得る。そうだろう?
 間髪を容れずに、薬研は笑みを浮かべて思いきり男の顎先を蹴りつけた。拾われかけた短刀が男の手から飛ぶ。不意を衝かれた男はとっさに体勢を整えるも足元がおぼつかず、ふらつきながら水田へと落ちていった。それを追い、薬研も水田に飛び込んだ。泥の中でもがく男の肩を蹴って仰向けにし、胸部にまたがる。両膝が冷たい泥に埋まった。
 薬研が丸腰であることに気付いたのだろう。男は、一瞬ニヤリと笑った。
「あんた、今、自分が有利だと思ったろう」
 醒めた口調で薬研は言った。
「泥にはまり、身動きがとりづらく、得物すらない、こんな状況で。あんたは俺の腕の細さを見て、『勝てる』と思ったろう?」
 甘いな、と薬研は口元を歪め、腰から短刀の鞘を引き抜いた。呆然とした男の顔が引きつり始める。
「たしかに体格には差があるが……。悪いな。組み討ちなら、あんたより俺の方が上手のようだ」
 言って、薬研は引き絞るように目を細めた。両手で鞘をしっかりと握り締め、顔面めがけて打ちつける。それを皮切りに、薬研は何度も何度も男を殴り続けた。鈍い音と共に言葉にならない叫びが絶え間なく上がる。跳ね上がった血と泥で頬が汚れても、なんとか引き剥がそうと衣服を掴んでいた男の腕が泥の中に沈んでも、薬研は手を止めなかった。この打刀は折れていない。姿がまだここに在るというのがその証拠だった。
 鈍い光を放つ男の目が何かを訴えかけているのに気がつき、薬研は振りかぶったままピタリと動きを止めた。
 二人の間を沈黙がよぎる。
 風が鳴った。
 しばらく間を置いた後、薬研はほんの少しだけ口元をゆるめると掠れた声で囁くように言った。
「無念なら、俺が背負ってやるさ。――まあ、俺も陽炎のような身の上だが」
 男は僅かに目を見開いた。薬研の言葉に驚いたような、そんな表情だった。男はそのままじっと薬研を見つめ返していたが、やがて静かに瞼を閉じた。彼の周囲に取り巻いていた怨嗟の念が若干和らいだ気がした。
 薬研は鞘を握り直すと、大きく息を吸い、渾身の力を込めて両腕を振り下ろした。



「なかなか、えげつない戦い方をする」
 背後から声をかけられて振り返ると、三日月宗近が短刀を差し出して立っていた。
「俺には、とてもじゃないができん戦闘だ」
 非難しているわけではないことは、共犯者めいた笑みと声色でわかる。薬研は立ち上がって短刀を受け取り、
「いつからここに?」
「薬研がとどめを刺したあたりかな。まさか鞘を使うとは」
「戦場じゃ、よくあることさ」
 三日月の手を借りて道端に上がった薬研は、振り向いて誰もいなくなった水田を見つめた。
「昨日は雨が降っていたんだな」
「どうしてわかる」
「水路の水かさが多いのと、水を入れていないはずの田圃がぬかるんでいた。一見すると湿っているだけの土だが、その奥は随分と水気を含んでいる。助かったよ、おかげで俺は勝てた」
 深く息を吐き出して薬研は鞘に目を落とした。底の方から大きな亀裂がいくつも走っている。
「みんなは?」
「無事だ。まあ、少々傷は負ったがな。鶴丸は奇襲をし返したらしい。どうやったのかはよくわからんが、あの男もなかなか面白い」
「鶴丸さんらしい」
 短刀をなんとか鞘に納めて、薬研はくすりと笑った。。
「戦い方なんぞ、それぞれ違って当たり前だ。俺は、流れるように斬り結ぶ三日月さんの戦い方、好きだぜ」
「そうか? ……面と向かってそう言われると、なんだかむず痒いな」
 照れ笑いする三日月に微笑み返し、薬研は再び短刀に目を落とした。
 戦闘中に聞こえていたあの声は一体誰のものだったのか。聞き覚えのある声だった。
 畠山か、織田か。あるいは――……。
「さあ、薬研。そろそろ戻ろうか。皆が心配している」
 優美な笑みを湛えて三日月は言った。
 泥の匂いのしない、美しい刀剣。
 けれど、歴史を遡れば。
――なあ、三日月さん。あんただって、随分な地獄を見てきているじゃねえか。
 畳の上に突き立てられた刃。
 押し寄せる怒号。
 口にはしない想いを呑み込んで薬研は「そうだな」と頷く。そして、泥で汚れ、斬り裂かれた服の裾を軽く引っ張り、
「こんな格好で戻るのは少し気が引けるが」
「本丸に帰ったら、我らが主は一体どんな顔で出迎えるのだろうな。それはそれで見ものだが……度が過ぎると『すとれす』とかいうので禿げるかもしれん」
「あー……、たしかにな」
「あれは髪に良くないらしいからな。主の今後のためにも、自ら危険に飛び込むような真似は慎んだ方がいい、とは思う」
「……なあ、俺の被害は軽めに報告できないかな」
「それは難しい相談だな」
 くつくつと笑って、楽しそうに三日月は返した。子の様子ではどうも無理らしい。薬研は肩を落として小さく溜め息をついた。主の慌てふためく様を想像すると気が重くなる。自分達は刀剣なのだから、武器なのだから傷ついても仕方がない。気にするな、と何度も言っているのに、主は自身の責任だと言って聞かない。
 無茶は極力避けよう。……できるだけ。もし、可能ならば。
 自分へのハードルをどんどん下げながら、薬研は三日月と共に仲間のもとへ向かった。
 その時、背後で吹いた一陣の風が哀しげな声で鳴いた。
 薬研は肩越しにそっと振り返ったが、すぐに向き直って前を見据えた。

 遠くで仲間達が手を振っている。
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