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不動君が本丸に来まして、薬研さんが極になって帰って来ました。な小話

 旅から帰ってきて二日が経った。夕食の片付けを終えた薬研は、秋の匂いと冴えた月に誘われて庭園に足を踏み入れた。
 たった数日の一人旅だったが、本丸がひどく懐かしく思える。
 しばらく星を眺めながら庭を歩いていると、突然背後から呼び止められた。
「おい」
 月を背にした影は不動行光だった。あいかわらず酔っ払っているのか、甘酒を手に、とろんとした目を薬研に向けている。彼は、つい一週間前に本丸に来たばかりだった。
「不動。こんな所でどうした。酔い覚ましに散歩でもしているのか?」
「……お前、安土に行ってきたんだってな」
 唸るような声で不動は言った。
「ああ。色々、自分の考えをまとめに、な」
「信長様に、会ってきたのか?」
 問いかけに、薬研はそっと目を逸らして答える。
「いや……。京へ上る、その背中を見送った。ただそれだけだ」
 瞬間、揺さぶられるほどの強い力で胸倉を掴まれた。カラン、と地面に落ちた甘酒の缶が乾いた音を響かせる。
「見送っただけ、だと?」不動の手は震えていた。「京へ向かえばどうなるかわかっていたはずだ。それなのに、お前は……! 信長様を見捨てたのか!?」
「歴史を覆すことはできない。……まあ、俺が行く末を語ったところで、どこの馬の骨ともわからない小僧の戯言など聞く耳持たぬだろうがな」
 胸倉を掴む手に力がこもり、不動の目が引き絞るように細くなった。
「ふざけんなよ……。生きていたんだろう? 信長様も、蘭丸様も、お前も! それを、みすみす……。刀であった頃ならまだしも、この身を得た、今なら何とかできたはずだろうが!」
「この身は――」
 不動の激昂が落ち着くのを待って、薬研は静かに口を開いた。不動の頭上を真白く染める冷えた月の光をぼんやりと見つめながら、
「過去を変えるためにあるんじゃない。それじゃあ、ヤツらと同じになっちまう」
「……けど、けどよぉ」
 俯き、苦しげに不動は呻いた。
「何とかしたいって思うじゃねぇか。これまで愛されてきた分を返したいって思うじゃねぇか。お前には、それが無ぇのかよ」
「あるから、見送ったんだ」
 その言葉に、不動は顔を上げた。大きく見開かれた目に涙が溜まっているのは、酔っているせいだけではないのだろう。薬研は口元に薄く笑みを浮かべ、
「あの人は、いつだって先を見据えていたじゃねぇか。あらゆる過去を呑み込んで、前だけを見て、野心に燃え、夢を見ていた。だから、俺も前を見る。前の主達にはできなかったことを、今の主にしてやるんだ」
「…………」
「安土に行って、信長さんの背中を見て、改めてそう思った」
「……光秀のことは、許せるのか?」
 呟くように不動は低い声で尋ねた。両手の力は、とうに緩んでいる。
「お主殺しがどのような結果を生むのか知っていての所業だ。そして、その通りになったろう。誰も彼もが死んじまった」
「…………」
 不動は何も言わずに俯いていた。にわかに風が吹き、葉を鳴らす。カラカラと甘酒の缶が遠くへ転がっていく。その音が、どこかでプツリと途絶えた。
 ややして、不動は小さく口籠った。
「俺は――」
「なぁんだ、あんた達、こんなとこにいたの!」
 突然降ってきた場違いな明るい声に、薬研と不動は同時に振り向いた。
 そこには長い黒髪を揺らして微笑む次郎太刀の姿があった。手には、先ほど転がっていった甘酒の缶がある。
「暇ならさぁ、一緒に呑まないかい? 陸奥守も兄貴も出払っちゃって、アタシ退屈でさぁ!」
「俺達は甘酒になるが……」と、薬研。
「酒は酒。構いやしないよ。あ、こら、新入り! どこへ行くつもりなのさ!」
 そっと薬研から離れようとしていた不動を捕まえ、次郎は力強くガシッと肩を抱いた。
「どこって、部屋に戻るんだよ。……て、おい、離せって!」
「あんた、ここに来てまだ日が浅いんだろ? なら、親睦を深めなきゃねぇ!」
「おい、待てって! 拒否権無しかよ! なあ、薬研からも何か言ってくれよ!」
 堪らず、不動が薬研に助けを求めるが――。
「心配するな。酔い潰れたら俺が介抱してやる」
 カラカラと笑って薬研はそう返した。
「んな心配なんざしてねぇよ!」
「ほらほら、さっさと歩く! 夜はまだまだこれからだよ!」
 不動の悲鳴と次郎の威勢の良い声が夜空にこだました。

 酒宴は深夜まで及び、不動は酔い潰れて寝入ってしまった。その横顔を眺めながら、薬研は甘酒の入った盃を舐めた。
「いろいろとスマンな」
 次郎の顔を見ずに独り言のようにそう言った。
「構わないよ。……信長公は怖いお人だと聞いていたけれど、きっとそれだけじゃなかったんだろうね。あんた達を見ているとそう思えるよ」
「――ああ。ごく普通の人だったさ」
 次郎はゆっくりと盃を傾けると、じっと薬研を見た。そして、しみじみと、
「あんた、以前よりなんだか少し大きく見えるよ。良い旅をしてきたんだね」
 その言葉に薬研は目を伏せて照れたように微笑んだ。再び盃を舐め、短く答える。
「ああ、良い旅だった」
 窓の外では依然として月が冴えた光を放ち、夜の空気を洗っていた。赤い山は黒い影となり、星々の囁きに耳を傾けている。
 本丸は静かで、穏やかで、優しかった。
 ふいに、傍らで横たわっている不動がもぞもぞと身じろぎ、口の中で寝言を呟いた。
「信長様……、蘭丸……様。俺も……薬研も、皆も、大丈夫れすから……心配しないで、ください……」
 夢の中で二人に会っているのだろう、と薬研と次郎は互いに目配せし合って微笑んだ。
 この夜が、もう少しだけ長く続いてほしい。そう願いながら、薬研は盃に残った甘酒を呑み干した。
 秋の小さな宴は、月の光に守られて、たおやかに過ぎていった。
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