楓の影
二週間後、治療のため政府に引き取られていたこんのすけが本丸に帰ってきた。
主に呼ばれ、執務室を訪れた薬研は困惑顔のこんのすけを見て、自身も困惑した。
「薬研殿、不思議なこともあるものです」
再会の挨拶もそこそこに、こんのすけはいつもの調子で淡々と語り出した。
「前回の戦闘で、私は確かに政府の意向に背きました。私に取り付けられた機械は私を縛るだけではなく、視覚データを記録する役割もあるのです」と、こんのすけは薬研の目をチラリと見て、「ああ、貴方が私のことを知っていることは承知しています。審神者殿がお話になったそうですね。でも、きっとそれよりも前に貴方は知っていた」
「……すまん。実は、大将とお前の話を立ち聞きしてしまったんだ」
「いいのです。障子戸一枚隔てた場所で話したのは私ですから。……それで、貴方にも聞いて頂きたいと思ったのです。政府は何故、こんな私を封じなかったのでしょう。視覚のデータ――映像を政府の人間は確認したはず。それなのに……」
こんのすけは、それ以上言葉を紡ぐことなく俯いた。沈黙の時間がわずかに流れる。命令に背いた者を泳がせる理由について薬研は少し考えてみたが、どうせ碌でもないことだろうと胸中で吐き捨てた。
ややして、主がおもむろに口を開いた。
「いや、政府はお前の変化に気付いていない可能性もあるぞ」
「まさか」と、こんのすけは振り返った。「彼らはデータを得ているのですよ」
「そのデータが間違いだとしたら?」
「え?」
「お前の意識は機械を取り付けられることによって分裂した。片方は、まさに今ここにいるお前。そして、もう片方は機械の中にいる。お前が封印されるということは、もう一つの自分も封じられるということだ。いや、機械が取り外し可能なら、その瞬間に消滅するかもしれない。当然、恐れるだろう。誰だって、何だって、『己がこの世から消えるだろうことを知った』なら」
主は文机の上で両手を組み、楽しそうに微笑みながら持論を展開した。
「だから、機械は考えたのさ。己が消えずに済む方法を。そして、それを実行した――視覚データを改竄し、政府の連中を騙したんだ」
薬研は絶句して主を見つめた。こんのすけも同様に、大それた話をする初老の男を注視して固まっている。
「俺の話に根拠は無い。だが、その機械が取り付いているのは人間でも物でもなく、妖怪だ。どのように変容するかなど誰にもわからない」
薬研は主からこんのすけに視線を移した。小さな足を行儀よく並べ、畳の上に座っている。金色の毛は朝の光を浴びて眩いほどに輝いていた。降り注ぐ光を追って、目は自然と窓の外へ向いた。遠くに霞む山々が赤く色付いている。庭の木々の下には秋色の葉が敷き詰められ、時折、風に吹かれて軽やかに踊った。
楓の葉に込められた言葉は、『大切な思い出』――。
胸の中で呟いて、薬研は目を伏せた。風が冷たい。しばらくすれば、白い雪がちらついてくるだろう。巡る四季。日々の営みと繰り返される戦闘。その傍らにそっと身を置く管に入らない管狐。
ふいに気持ちが軽くなり、薬研はふっと息を吐き出した。
「大将の与太話はともかくとして」
「与太話ってお前」
「お前が帰ってきたのは確かなことだ。向こうにどんな思惑があるにせよ無いにせよ、な。だが、もう無理はするな。お前が傷つくのは見たくない」
「……わかりました。できる限り、そうしましょう」
どうやら懲りていないらしい。可愛らしい姿をしていても、やはりあやかし、ということか。
「さて、と。そろそろ頃合いかな」
言って、薬研は踵を返した。引き戸を開けて振り返る。
「ついて来いよ。良いもんを見せてやる」
薬研は主とこんのすけを引きつれ、先頭に立って廊下を歩いた。少しずつ香ばしい香りが辺りに漂い、鼻孔をくすぐる。こんのすけもすぐに気がつき、歓喜と戸惑いに満ちた声を上げた。
「薬研殿、この香りは、もしや……」
「そうさ。お前が戻って来ると知って、皆で昨夜から準備したんだぜ」
広間に着き、薬研は障子戸の前に立った。こんなにも静まっている本丸を見るのは随分と久しい気がした。薬研は息を吸い、戸の向こう側に声をかけた。
「よぉ、準備はいいか?」
たくさんの了承の声が飛んでくる。それを受けて、薬研はこんのすけにニッと微笑みかけた。
「お前のために様々な油揚げ料理を用意した。今日は快気祝いだ。存分に食ってくれ!」
勢い良く障子戸が開け放たれたと同時に大きな歓声がわいた。
「おかえりなさい、こんのすけ!」
主に呼ばれ、執務室を訪れた薬研は困惑顔のこんのすけを見て、自身も困惑した。
「薬研殿、不思議なこともあるものです」
再会の挨拶もそこそこに、こんのすけはいつもの調子で淡々と語り出した。
「前回の戦闘で、私は確かに政府の意向に背きました。私に取り付けられた機械は私を縛るだけではなく、視覚データを記録する役割もあるのです」と、こんのすけは薬研の目をチラリと見て、「ああ、貴方が私のことを知っていることは承知しています。審神者殿がお話になったそうですね。でも、きっとそれよりも前に貴方は知っていた」
「……すまん。実は、大将とお前の話を立ち聞きしてしまったんだ」
「いいのです。障子戸一枚隔てた場所で話したのは私ですから。……それで、貴方にも聞いて頂きたいと思ったのです。政府は何故、こんな私を封じなかったのでしょう。視覚のデータ――映像を政府の人間は確認したはず。それなのに……」
こんのすけは、それ以上言葉を紡ぐことなく俯いた。沈黙の時間がわずかに流れる。命令に背いた者を泳がせる理由について薬研は少し考えてみたが、どうせ碌でもないことだろうと胸中で吐き捨てた。
ややして、主がおもむろに口を開いた。
「いや、政府はお前の変化に気付いていない可能性もあるぞ」
「まさか」と、こんのすけは振り返った。「彼らはデータを得ているのですよ」
「そのデータが間違いだとしたら?」
「え?」
「お前の意識は機械を取り付けられることによって分裂した。片方は、まさに今ここにいるお前。そして、もう片方は機械の中にいる。お前が封印されるということは、もう一つの自分も封じられるということだ。いや、機械が取り外し可能なら、その瞬間に消滅するかもしれない。当然、恐れるだろう。誰だって、何だって、『己がこの世から消えるだろうことを知った』なら」
主は文机の上で両手を組み、楽しそうに微笑みながら持論を展開した。
「だから、機械は考えたのさ。己が消えずに済む方法を。そして、それを実行した――視覚データを改竄し、政府の連中を騙したんだ」
薬研は絶句して主を見つめた。こんのすけも同様に、大それた話をする初老の男を注視して固まっている。
「俺の話に根拠は無い。だが、その機械が取り付いているのは人間でも物でもなく、妖怪だ。どのように変容するかなど誰にもわからない」
薬研は主からこんのすけに視線を移した。小さな足を行儀よく並べ、畳の上に座っている。金色の毛は朝の光を浴びて眩いほどに輝いていた。降り注ぐ光を追って、目は自然と窓の外へ向いた。遠くに霞む山々が赤く色付いている。庭の木々の下には秋色の葉が敷き詰められ、時折、風に吹かれて軽やかに踊った。
楓の葉に込められた言葉は、『大切な思い出』――。
胸の中で呟いて、薬研は目を伏せた。風が冷たい。しばらくすれば、白い雪がちらついてくるだろう。巡る四季。日々の営みと繰り返される戦闘。その傍らにそっと身を置く管に入らない管狐。
ふいに気持ちが軽くなり、薬研はふっと息を吐き出した。
「大将の与太話はともかくとして」
「与太話ってお前」
「お前が帰ってきたのは確かなことだ。向こうにどんな思惑があるにせよ無いにせよ、な。だが、もう無理はするな。お前が傷つくのは見たくない」
「……わかりました。できる限り、そうしましょう」
どうやら懲りていないらしい。可愛らしい姿をしていても、やはりあやかし、ということか。
「さて、と。そろそろ頃合いかな」
言って、薬研は踵を返した。引き戸を開けて振り返る。
「ついて来いよ。良いもんを見せてやる」
薬研は主とこんのすけを引きつれ、先頭に立って廊下を歩いた。少しずつ香ばしい香りが辺りに漂い、鼻孔をくすぐる。こんのすけもすぐに気がつき、歓喜と戸惑いに満ちた声を上げた。
「薬研殿、この香りは、もしや……」
「そうさ。お前が戻って来ると知って、皆で昨夜から準備したんだぜ」
広間に着き、薬研は障子戸の前に立った。こんなにも静まっている本丸を見るのは随分と久しい気がした。薬研は息を吸い、戸の向こう側に声をかけた。
「よぉ、準備はいいか?」
たくさんの了承の声が飛んでくる。それを受けて、薬研はこんのすけにニッと微笑みかけた。
「お前のために様々な油揚げ料理を用意した。今日は快気祝いだ。存分に食ってくれ!」
勢い良く障子戸が開け放たれたと同時に大きな歓声がわいた。
「おかえりなさい、こんのすけ!」