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楓の影

 月の光が皓々と降り注ぐ明るい夜だった。薬研は第一部隊長として部隊を率い、再度、京都市中に入った。
 第二部隊から、京都市中での遡行軍の動きが活発化し始めたとの連絡を受け、主はすぐさま部隊を編成した。遡行軍を市中から退けよ。単純極まりない指令だが、それを遂行する難しさは本丸の誰もが知っている。
 ひと通り周囲の安全を確かめると、部隊を止め、薬研はおもむろに懐から地図を取り出して広げた。頭の中で、市中での戦闘の様子を思い描く。深い闇の中で、敵は気配を消して蠢き、近付いてくる。怖気を覚えるほどの冷ややかな瘴気。亡者のように呻き声を上げ、列を成す刀装ども。しかし、夜戦ならば、夜目がきき、機動に優れ、闇に紛れられる短刀の方が比較的優位に立てる。予測した場所を利用して、こちらから不意を衝くことも――。
 思考を中断して薬研はチラリと視線を投げた。寄り集まり、地図を指差しながら敵の居所について再確認する仲間達の後方で、こんのすけが前足を揃えてちょこんと座っている。
――私は、狂ってしまったのかもしれません。
 薬研の脳裏に、いつかの声が響いた。
 役目を果たしたい自分と、放棄したい自分。そんなせめぎ合いで苦しんでいるのは、おそらく、あの管狐だけではないはずだ。その時、少し離れた場所で楓の葉がカサリと小さな音を立てて落ちた。
 冷えた夜気の中、町はひっそりとしていた。いくつかの灯火が障子戸の向こうで揺らいでいる。耳を澄ますと囁き声が聞こえてくるようだった。あの、ひとつひとつに人間が、生活が、歴史がある。薬研は歩をゆるめ、深く息を吐き出して空を仰いだ。明滅して囁き合う星々を背に、月が戸惑うようにゆっくりと黒い薄雲の中に隠れてゆく。それが何かの予兆のような気がした。
 市中を照らしていた光が弱まると、代わって、生臭い臭気が風にのってやってきた。邪悪な気配に一同が足を止め、それぞれの刀装兵を呼び出して身構える。気配から察するに、そう遠くはない。薬研は刀装兵の一部に命じて周囲の偵察に当たらせた。ややして、戻ってきた兵が西の方角を指差した。家々が落とす朱色の影や淡い光を放つ月から逃れるように、澱んだ深い闇が家の軒や木々の間に吹き溜まっている。兵達が伝える情報を基に敵部隊の位置を特定した後、部隊は息を潜めて夜の中を駆け出した。
 敵影を認めるや否や、薬研と小夜左文字が鉄砲隊に発砲を命じた。繰り出される弾丸に敵陣営の刀装兵が吹き飛ぶ。途端に市中は戦場と化した。
 どんなに激しい戦闘をしても、戸口は静まったままだ。窓を薄く開けて外の様子を窺う者もいない。この時代の者達の目に、この戦いは映らない。しかし、闇に濡れた刃は人を捉えるだろう。予想外の、不可思議な、不可解な死。なんとも理不尽な話だ。消滅する敵の叫び声を背後に聞きながら、薬研は声を発して短刀を振るった。切っ先が急所を穿ち、敵の動きが止まる。断末魔の叫び。その時、ふと薬研はこんのすけの姿が見えないことに気付いて瞳を巡らせた。
「まだだ! 薬研!」
 鯰尾藤四郎の鋭い叫びが薬研を振り向かせた。砂のように崩れ去る敵の向こう側から、月光を受けて煌めく刃が覗いた。
――やられる!
 とっさに身構えた瞬間、視界の端に小さな黒い塊が飛んでくるのが見えた。それは敵の刃を直撃し、吹き飛ばされ、そのまま民家の壁に叩きつけられた。金色の背中がぐったりと地に横たえられている。こんのすけだった。
「てめぇ! 俺の仲間に何しやがる!」
 火花の散るような激しい怒りに身を任せ、薬研は飛び上がった。そして、その勢いのまま気合と共に刃を敵の額に突き立てる。直後、五つの刃が敵の身体を貫いた。
 静けさを取り戻した市中から、灯りがひとつ、またひとつと消えていった。しばらくすれば、この町は眠りに沈むだろう。
 薬研はこんのすけを静かに抱きかかえた。柔らかく、小さな管狐は微かなぬくもりを持っていた。
「……薬研殿、無事でしたか」
 薄眼を開けてこんのすけは呟くように言った。
「お前のお陰でな。よし、意識はあるな。すぐに帰ろう」
「私のことを、仲間、と仰っていましたね」
「――もう喋んな」
「嬉しかった」
「…………」
「このようなことをしでかした私を、政府は許したりなどしないでしょう。……ですが、これでいいのだと、思います」
「勝手に諦めんなよ。道はきっとある」
 薬研の言葉に、こんのすけは弱々しく笑った。
「帰るぞ」
 話を打ち切るように短く言って、薬研は立ち上がった。
 冷たい光に照らされた狐は小さく震えながら、それでも口元には笑みを浮かべていた。
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