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楓の影

 迷うことは悪いことではない、と主は言っていた。その言葉の意味を考えながら、薬研は一人で庭を歩いた。少し休め、と言われても様々な考えが頭の中を埋め尽くし、とても部屋でゆっくり休むという気分にはなれなかった。近侍の仕事でもしていた方がずっと気が紛れるだろうに。そんなことを考えながら池の方へ足を向けると、黄金色の小さな背中を見つけた。こんのすけだ。フワフワの大きな尻尾をペタリと草地につけ、池の中を覗き込んだまま微動だにしない。薬研は大きめの木に身を隠し、しばらく息を潜めてこんのすけの様子を窺っていたが、小さな管狐は眠っているのか身じろぎもしなかった。
 ふいに強い風が吹き、赤や黄色の葉が舞い散った。一枚の葉が頭の上に落ちてもこんのすけは動かない。仕方なく、薬研はその場から離れ、こんのすけに歩み寄った。背後からこんのすけの頭に載った赤い葉を取り、
「落ち葉がついてるぞ」
「薬研殿」
 ようやく気付いて、こんのすけは顔を上げる。
「池の中に何かいるのか?」
 言いながら、薬研はさりげなくこんのすけの傍らにしゃがみ込んだ。池に落ちた黄色い葉が水面を滑って流れてくる。中を覗いてみるものの、風に揺れる自分の像があるだけで他は何も見えなかった。
「いいえ、何も」
「じゃあ、考え事か」
 こんのすけは答えなかった。薬研も返答を期待してはいなかった。風が鳴り、木の葉を揺らす。沈黙が続いた。
「薬研殿」
 ややして、こんのすけが呟くように言った。
「同田貫正国の件、申し訳ありませんでした」
 意外な言葉に驚いて、薬研は思わずこんのすけの方を向いた。こんのすけは、じっと池を見つめている。
「……お前も色々あるんだろ。気にすんな。それに、今回の部隊の隊長は俺だ。俺がもっと気を配っていたら良かったんだ」
 自戒を込めて答える。
「この本丸の者達は、皆、お優しい」
「…………」
「神に捧げられるため、人を守るため、生まれた故でしょうか」
「…………」
「私にも主があり、役目があります。けれど……」
 そのまま、こんのすけは口を噤んだ。考え込むように再び俯く。
「薬研殿」
「なんだ?」
「薬研殿は、役目を放棄したいとお思いになったことがありますか?」
「……どういうことだ?」訝しく思って、薬研。
「同田貫殿が刺されたのを目の当たりにした時、一瞬だけ気味の悪い感覚がよぎったのです」
「どんな?」
 問われて、こんのすけは頭を振った。
「よく、わかりません。喉の奥が詰まるような、胸が軋むような……吐き気すら覚える気持ちの悪い感覚です。一瞬のことですが、もう二度とあんな感覚は味わいたくない。そう強く思ったのを覚えています」
 話し方が遠回しで曖昧なのは、仕掛けられた機械によって制御されているせいだろう。政府にとって都合の悪い感情は全て記憶の奥底に閉じ込められるのかもしれない。思いつつ、薬研は話を促す。
「それで……役目を放棄したいと?」
「わかりません。私は管狐です。主から与えられた役目は全うしなければなりません。けれど、そうしたい自分と、そうではない自分がいます。どちらの感情が自分のものなのか――ずっと考えているのですが、答えが出ないのです」
「もし、役目を放棄したらどうなる?」
 愚問だということはわかっていた。
「私は消され、また別の管狐がこの本丸に送られることでしょう。貴方達との思い出ひとつ無い、私と同じ姿をした狐が……」
 淡々とした口調でこんのすけは答えた。黒い、大きな瞳には、水面を流れてゆく黄金色の楓の葉が映っている。
「それでも、役目に対して不誠実な私を、私は抑えることができない。薬研殿、私は――。私は、狂ってしまったのかもしれません」
「お前は管狐だろう。あやかしも狂うことがあるのか」
「…………」
「何故、俺にそんな話をする」
 重い沈黙が辺りを包んだ。秋の色をした楓の葉が風に吹かれて散ってゆく。その様子を眺めながら、薬研はふと楓に込められたある言葉を思い出していた。
 しばらくして、こんのすけが小さく呟いた。
「私はとても長い時間、貴方達と一緒に過ごしてきました。……長過ぎると思うほどに」
 悔恨のような言葉を静かに吐いた後、こんのすけはその場から立ち去った。
 一人残された薬研は少しの間池の側に留まり、舞い落ちる木の葉を見つめ続けていた。
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