楓の影
敵の不意打ちを受けて、同田貫正国が重傷となった。直後に発動した彼の真剣必殺、そして仲間達の追撃によって敵方を滅し、破壊にまで至ることはなかったが、ギリギリのところだった。
本丸に戻り、彼を手入れ部屋へ運んだ後、薬研藤四郎は同田貫の怪我について報告すべく執務室に向かっていた。戦いで受けた左腕が痛む。が、こんなものはかすり傷だ。同田貫が受けた槍傷はもっと深い。大股で歩きながら薬研は鋭く舌打ちした。夜戦、しかも建物の陰から繰り出された高速の突きを受けるも、寸でのところで急所をずらすことができたのは戦慣れしている同田貫であればこそだ。もし、あの時、気付くのが数秒でも遅かったら……。そう思うと、嫌でも背中が寒くなった。
だが、同田貫自身が気付くよりも早く、彼が攻撃を避ける機会はあった。
同田貫の背後から少し離れた場所に佇んでいた管狐――こんのすけが、ひと声かけさえすれば。
あの位置からならば見えていたはずなのだ。建物に隠れて同田貫の背後を狙う、槍の姿が。それなのに、こんのすけは沈黙していた。置物のように座り込み、じっとこちらを観察しているだけ。そうやって視覚からデータを収集して政府に報告しているのだ、と初めて本丸に来た頃に薬研は主から聞いていた。そして、変則的なこと――こんのすけが戦闘に関わるようなことがあっては、正確なデータが出せない。だから、アレはただ見ているだけなのだ、とも。これは政府の意向。そんなことはわかっている。わかっているが――。
「お前は本当に油揚げが好きだなあ」
自分の中に沸き立つ感情が苛立ちなのか焦燥なのかわからないまま、執務室の引き戸に手をかけた瞬間、呆れたような主の声が聞こえてきた。続いて、こんのすけの声も。
「審神者殿もお一ついかがです? 美味いですよ」
「いや、いい。それより、お前――俺もだが――ここに来て、もう随分経つよな」
主の声色がふいに不穏になる。
「お前もこの本丸に住み、皆と一緒に暮らしてきた。……何か思う所はねえのかい?」
「同田貫正国のことでしょうか」
「俺は目が殆ど見えねえからな。耳からの情報のみで大体のことは判断できる。あの時、薬研は確かにお前のことで戸惑っていた」
その言葉を聞いて、薬研は思わず自分の口元を塞いだ。遥か遠く、時代をいくつ越えても、部隊と主は思念で繋がっている。そうして、作戦本部と常に連絡を取り合いながら戦闘や調査を行うのだ。冷たい夜の戦場の、冷静さを欠いた一瞬の揺らぎ。主はそれを見逃さなかった。
悪いことだと知りつつも、こんのすけの返答が気になった薬研は壁に背をつけ、そっと執務室の会話に耳を澄ました。
「私が黙っていることで同田貫正国が傷つくだろうことは予測していました。ですが、何があっても手を出すわけにはいきません」
「そう命じられているからか」
「私は管狐ですから。私を使役しているのは政府であって、貴方ではありません」
「たとえ妖怪でも同じ場所で寝起きして同じ釜の飯を喰らっていれば、自ずと情が湧くもんだと思っていたが」
「貴方ならそう思うでしょう。人間である、貴方なら。付喪神である彼らもきっと。あやかしどもの一部もおそらくは。けれど、私はそうではない。……そうならないように『されて』いる」
「……どういうことだ?」
「貴方は、ここにいる全ての刀剣が貴方に対して牙を剥く可能性を考えたことがありますか?」
「無い、と言ったら、まあ嘘になるな。だが、奴らに斬られるなら俺は構わんよ。もういい歳だしな」
少し間を置いてから主は平然と答えた。
「貴方らしいお答えですね。ですが、政府は違う。――技術で消去できる疑念は、消去してしまった方がいい。政府は私を強力な術で縛り、頭の中に特殊な機械を仕掛けた。いわば、孫悟空の頭の輪、ですよ。痛みはしませんが、感情を制御される。政府の都合の良いように」
聞かなければ良かった。絶句し、薬研は盗み聞きを後悔した。冷たい汗が背中を伝う。
「妖怪を機械で制御とはね。奴らも大胆なことをする」主は喉の奥で嗤った。そして、怒りを滲ませて、「だが……、残酷だ」
「人間側からすれば、当然と言えば当然のこと。あやかしを心から信頼する人間などごく稀でしょう。ましてや、相手が付喪神とはいえ『殺されてもいい』などと言う貴方は――そう、気が違っている」
こんのすけが淡々とした口調でそう言うと、主は愉快そうに声を上げて笑った。どうやら、こんのすけの返答が気に入ったらしい。構わず、こんのすけは続ける。
「今話したことは、一切他言無用に願います」
「わかっている」
「それでは、私はこれで……」
こんのすけが言い終わらないうちに、薬研は急いでその場から離れた。早足で廊下を抜け、囲炉裏端を通って土間に降りる。そして、裏庭に出た瞬間、一斉に全身から汗が吹き出した。軽い眩暈を感じ、壁にもたれかかる。
嫌な話を聞いた。
「くそっ!」
腹の底から湧き上がる嫌悪感を抑えきれず、薬研は拳を背後の壁に叩きつけた。肩で大きく息をし、気持ちを整える。落ち着かなくては。報告がまだ済んでいない。早く執務室に戻らないと、大将が心配する――。
「どうかしたのかい? 薬研」
不意に降り注いだ優しい声に頭を上げる。目の前に柔らかな微笑みを湛える一期一振が立っていた。
「いち、兄……」
「顔色が優れないようだけれど」
「これは、いつもだ」
力無く言いながら顔を伏せる。
「そうかい? なら、いいんだが」
「……いち兄、俺達の大将は、俺達に無理を強いたことは一度だって無ぇよな」
声の震えを悟られぬよう、慎重に問いかける。
「うん? ああ、そうだね。たしかに」
「今回みたいに重傷者が出れば、作戦の途中でもすぐに帰還を命じるし、折れねぇように特別なお守りだって全員分渡してくれる。でも……」
「薬研?」
「もし……もしもの話だぜ。もしも、大将が俺達の全てを支配して、本当に道具として、使い捨てのただの物として俺達のことを扱うような人間だったら――。いち兄はどうする? 大将に対して、主に対して、どんなことを考える?」
薬研は一期の顔を見ずに呻くように尋ねた。本来の、短刀である自分の立場から言えば聞くまでもないことだった。道具として生まれたのだから、道具として扱われるのは当然のことだ。しかし、あの管狐の扱われ方は到底納得のいくものではなかった。この思いがどこへ行き着くのか。その先を知るのが怖い。下を向いたまま、薬研は微かに震える両手を必死に押さえていた。
薬研の息が整うのを待っていたのか、しばらくして一期はゆっくりと口を開いた。
「何があって、そのようなことを思ったのかは訊かないが……。そうだね、たしかに私達が道具であることに変わりはない。が、だからといって粗末に扱われることを許していいわけではない」
「…………」
「もし、主が私達を粗末に扱い、使い捨てるような人間だったら、その時は……」
俯いている薬研の頭に、ポンと優しく手を置いて一期は続ける。
「皆で百鬼夜行でもして本丸から出ていくだろうな。取り残された主は一人で何もできず、遡行軍を前にして泣き出してしまうかもしれない」
お伽噺の一場面ような一期の返答を聞いて、薬研は呆気にとられていたが、ややして小さく吹き出した。
「いいね、それ。面白そうだ」
「まあ、戯言はここまでとして。起きる可能性の無いことを考えて、あれこれと気に病むのは無意味だよ、薬研。主は今までも私達を大切に扱ってくれた。そして、きっとこれからも。だから、お前はお前のすべきことをすればいい」
自分のすべきこと。たしかにそうだ。さしあたっては、主への報告がそれだろう。薬研は息をひとつ吐いて、
「ああ、そうだな。……ありがとう、いち兄。別に大将のことを信頼していなかったわけじゃないが――どうやら取り乱していたらしい」
「戦場から帰ってきたばかりで気が昂っているんだろう。気にしなくていい」
一期と別れ、執務室へ向かった薬研は戸の前で大きく深呼吸をした後、中にいるだろう主に声をかけた。
「大将、俺だ。入るぞ」
「おう、遅かったな」
主はいつものように文机で書きものをしながら答えた。背後にある開け放たれた窓からは茜色の木々が覗いている。室内に足を踏み入れた薬研は静かに膝を折って座った。
「同田貫の容体はどうだ?」
「左腕の付け根付近を貫かれた。その他にも細かい傷がいくつも。けど、まあ、心配無い。貫かれた傷は急所から外れているし、意識もある。流石というか何というか……、手入れ部屋に運び込むのを手伝ってくれた蜻蛉切さんに手合わせを申し出ていたよ」
「あいつらしいな」
口元に笑みを浮かべて主は呟いた。
「笑いごとじゃねえよ。『今すぐ』なんて言われて、蜻蛉切さん随分困っていたんだからな。『傷が癒えたら必ず』って何度も約束したりして宥めてようやく……さ。よほど悔しかったんだろう」
「そう言うお前も悔しそうだな、薬研」
「当たり前だ。仲間を傷つけられたんだからな。……悔しくないわけがない」
冷たい風が窓から吹き込んできた。ハラハラと数枚、黄金色の葉が落ちる。沈黙が続いた。薬研は外に目を向け、次の言葉を探す。主が聞きたがっていることはわかっている。が、動揺を隠したまま話すことができるだろうか。ほんの少しの声の揺れさえ気付いてしまう、この主に対して?
薬研は力無く頭を振った。
「こんのすけが、もう少し俺達に協力的なら――今回のことは無かっただろうさ。けれど、あいつにもあいつの任務がある。そうなんだろう?」
「ああ。あいつの主は俺じゃねぇから、詳しいことはよくわからんが。政府からの連絡係ってだけじゃなさそうだ」
「監視か」
「観察か。その両方かもしれん。まあ、その辺りのことは詮索した所で何がどうなるってわけでもなし。好きにやらせておくさ。……ああ、そうだ。なんなら、油揚げで買収でもしてみるか?」
ふざけた口調で主が軽口を叩く。薬研は小さく息を吐き出すと、おもむろに立ち上がった。踵を返して、
「本当にそれができるならな。じゃあ、大将。報告はとりあえずこれで終わりだ。詳しい戦況や作戦の進行状況については、後でまとめて報告する」
「ああ、了解した。だが、お前も疲れているだろ。少し休め。戦況のまとめも明日でいい」
「いいのか? そんなにのんびりで」
「第二部隊を回して警戒に当たらせているから心配するな。何か起きた時はお前達第一部隊に行ってもらうことになるが、とりあえず明日は京都市中の地図をもう一度洗い出してみよう。同田貫以外の第一部隊の連中と一緒にな。敵が潜んでいそうな場所を予測しておくんだ。こんなことが何度も起きたらたまらんからな」
「わかった」
頷いて、引き戸に手をかけた瞬間、背後で主の密やかに笑う声を聞いた。
「――迷うことは、悪いことじゃねぇさ」
本丸に戻り、彼を手入れ部屋へ運んだ後、薬研藤四郎は同田貫の怪我について報告すべく執務室に向かっていた。戦いで受けた左腕が痛む。が、こんなものはかすり傷だ。同田貫が受けた槍傷はもっと深い。大股で歩きながら薬研は鋭く舌打ちした。夜戦、しかも建物の陰から繰り出された高速の突きを受けるも、寸でのところで急所をずらすことができたのは戦慣れしている同田貫であればこそだ。もし、あの時、気付くのが数秒でも遅かったら……。そう思うと、嫌でも背中が寒くなった。
だが、同田貫自身が気付くよりも早く、彼が攻撃を避ける機会はあった。
同田貫の背後から少し離れた場所に佇んでいた管狐――こんのすけが、ひと声かけさえすれば。
あの位置からならば見えていたはずなのだ。建物に隠れて同田貫の背後を狙う、槍の姿が。それなのに、こんのすけは沈黙していた。置物のように座り込み、じっとこちらを観察しているだけ。そうやって視覚からデータを収集して政府に報告しているのだ、と初めて本丸に来た頃に薬研は主から聞いていた。そして、変則的なこと――こんのすけが戦闘に関わるようなことがあっては、正確なデータが出せない。だから、アレはただ見ているだけなのだ、とも。これは政府の意向。そんなことはわかっている。わかっているが――。
「お前は本当に油揚げが好きだなあ」
自分の中に沸き立つ感情が苛立ちなのか焦燥なのかわからないまま、執務室の引き戸に手をかけた瞬間、呆れたような主の声が聞こえてきた。続いて、こんのすけの声も。
「審神者殿もお一ついかがです? 美味いですよ」
「いや、いい。それより、お前――俺もだが――ここに来て、もう随分経つよな」
主の声色がふいに不穏になる。
「お前もこの本丸に住み、皆と一緒に暮らしてきた。……何か思う所はねえのかい?」
「同田貫正国のことでしょうか」
「俺は目が殆ど見えねえからな。耳からの情報のみで大体のことは判断できる。あの時、薬研は確かにお前のことで戸惑っていた」
その言葉を聞いて、薬研は思わず自分の口元を塞いだ。遥か遠く、時代をいくつ越えても、部隊と主は思念で繋がっている。そうして、作戦本部と常に連絡を取り合いながら戦闘や調査を行うのだ。冷たい夜の戦場の、冷静さを欠いた一瞬の揺らぎ。主はそれを見逃さなかった。
悪いことだと知りつつも、こんのすけの返答が気になった薬研は壁に背をつけ、そっと執務室の会話に耳を澄ました。
「私が黙っていることで同田貫正国が傷つくだろうことは予測していました。ですが、何があっても手を出すわけにはいきません」
「そう命じられているからか」
「私は管狐ですから。私を使役しているのは政府であって、貴方ではありません」
「たとえ妖怪でも同じ場所で寝起きして同じ釜の飯を喰らっていれば、自ずと情が湧くもんだと思っていたが」
「貴方ならそう思うでしょう。人間である、貴方なら。付喪神である彼らもきっと。あやかしどもの一部もおそらくは。けれど、私はそうではない。……そうならないように『されて』いる」
「……どういうことだ?」
「貴方は、ここにいる全ての刀剣が貴方に対して牙を剥く可能性を考えたことがありますか?」
「無い、と言ったら、まあ嘘になるな。だが、奴らに斬られるなら俺は構わんよ。もういい歳だしな」
少し間を置いてから主は平然と答えた。
「貴方らしいお答えですね。ですが、政府は違う。――技術で消去できる疑念は、消去してしまった方がいい。政府は私を強力な術で縛り、頭の中に特殊な機械を仕掛けた。いわば、孫悟空の頭の輪、ですよ。痛みはしませんが、感情を制御される。政府の都合の良いように」
聞かなければ良かった。絶句し、薬研は盗み聞きを後悔した。冷たい汗が背中を伝う。
「妖怪を機械で制御とはね。奴らも大胆なことをする」主は喉の奥で嗤った。そして、怒りを滲ませて、「だが……、残酷だ」
「人間側からすれば、当然と言えば当然のこと。あやかしを心から信頼する人間などごく稀でしょう。ましてや、相手が付喪神とはいえ『殺されてもいい』などと言う貴方は――そう、気が違っている」
こんのすけが淡々とした口調でそう言うと、主は愉快そうに声を上げて笑った。どうやら、こんのすけの返答が気に入ったらしい。構わず、こんのすけは続ける。
「今話したことは、一切他言無用に願います」
「わかっている」
「それでは、私はこれで……」
こんのすけが言い終わらないうちに、薬研は急いでその場から離れた。早足で廊下を抜け、囲炉裏端を通って土間に降りる。そして、裏庭に出た瞬間、一斉に全身から汗が吹き出した。軽い眩暈を感じ、壁にもたれかかる。
嫌な話を聞いた。
「くそっ!」
腹の底から湧き上がる嫌悪感を抑えきれず、薬研は拳を背後の壁に叩きつけた。肩で大きく息をし、気持ちを整える。落ち着かなくては。報告がまだ済んでいない。早く執務室に戻らないと、大将が心配する――。
「どうかしたのかい? 薬研」
不意に降り注いだ優しい声に頭を上げる。目の前に柔らかな微笑みを湛える一期一振が立っていた。
「いち、兄……」
「顔色が優れないようだけれど」
「これは、いつもだ」
力無く言いながら顔を伏せる。
「そうかい? なら、いいんだが」
「……いち兄、俺達の大将は、俺達に無理を強いたことは一度だって無ぇよな」
声の震えを悟られぬよう、慎重に問いかける。
「うん? ああ、そうだね。たしかに」
「今回みたいに重傷者が出れば、作戦の途中でもすぐに帰還を命じるし、折れねぇように特別なお守りだって全員分渡してくれる。でも……」
「薬研?」
「もし……もしもの話だぜ。もしも、大将が俺達の全てを支配して、本当に道具として、使い捨てのただの物として俺達のことを扱うような人間だったら――。いち兄はどうする? 大将に対して、主に対して、どんなことを考える?」
薬研は一期の顔を見ずに呻くように尋ねた。本来の、短刀である自分の立場から言えば聞くまでもないことだった。道具として生まれたのだから、道具として扱われるのは当然のことだ。しかし、あの管狐の扱われ方は到底納得のいくものではなかった。この思いがどこへ行き着くのか。その先を知るのが怖い。下を向いたまま、薬研は微かに震える両手を必死に押さえていた。
薬研の息が整うのを待っていたのか、しばらくして一期はゆっくりと口を開いた。
「何があって、そのようなことを思ったのかは訊かないが……。そうだね、たしかに私達が道具であることに変わりはない。が、だからといって粗末に扱われることを許していいわけではない」
「…………」
「もし、主が私達を粗末に扱い、使い捨てるような人間だったら、その時は……」
俯いている薬研の頭に、ポンと優しく手を置いて一期は続ける。
「皆で百鬼夜行でもして本丸から出ていくだろうな。取り残された主は一人で何もできず、遡行軍を前にして泣き出してしまうかもしれない」
お伽噺の一場面ような一期の返答を聞いて、薬研は呆気にとられていたが、ややして小さく吹き出した。
「いいね、それ。面白そうだ」
「まあ、戯言はここまでとして。起きる可能性の無いことを考えて、あれこれと気に病むのは無意味だよ、薬研。主は今までも私達を大切に扱ってくれた。そして、きっとこれからも。だから、お前はお前のすべきことをすればいい」
自分のすべきこと。たしかにそうだ。さしあたっては、主への報告がそれだろう。薬研は息をひとつ吐いて、
「ああ、そうだな。……ありがとう、いち兄。別に大将のことを信頼していなかったわけじゃないが――どうやら取り乱していたらしい」
「戦場から帰ってきたばかりで気が昂っているんだろう。気にしなくていい」
一期と別れ、執務室へ向かった薬研は戸の前で大きく深呼吸をした後、中にいるだろう主に声をかけた。
「大将、俺だ。入るぞ」
「おう、遅かったな」
主はいつものように文机で書きものをしながら答えた。背後にある開け放たれた窓からは茜色の木々が覗いている。室内に足を踏み入れた薬研は静かに膝を折って座った。
「同田貫の容体はどうだ?」
「左腕の付け根付近を貫かれた。その他にも細かい傷がいくつも。けど、まあ、心配無い。貫かれた傷は急所から外れているし、意識もある。流石というか何というか……、手入れ部屋に運び込むのを手伝ってくれた蜻蛉切さんに手合わせを申し出ていたよ」
「あいつらしいな」
口元に笑みを浮かべて主は呟いた。
「笑いごとじゃねえよ。『今すぐ』なんて言われて、蜻蛉切さん随分困っていたんだからな。『傷が癒えたら必ず』って何度も約束したりして宥めてようやく……さ。よほど悔しかったんだろう」
「そう言うお前も悔しそうだな、薬研」
「当たり前だ。仲間を傷つけられたんだからな。……悔しくないわけがない」
冷たい風が窓から吹き込んできた。ハラハラと数枚、黄金色の葉が落ちる。沈黙が続いた。薬研は外に目を向け、次の言葉を探す。主が聞きたがっていることはわかっている。が、動揺を隠したまま話すことができるだろうか。ほんの少しの声の揺れさえ気付いてしまう、この主に対して?
薬研は力無く頭を振った。
「こんのすけが、もう少し俺達に協力的なら――今回のことは無かっただろうさ。けれど、あいつにもあいつの任務がある。そうなんだろう?」
「ああ。あいつの主は俺じゃねぇから、詳しいことはよくわからんが。政府からの連絡係ってだけじゃなさそうだ」
「監視か」
「観察か。その両方かもしれん。まあ、その辺りのことは詮索した所で何がどうなるってわけでもなし。好きにやらせておくさ。……ああ、そうだ。なんなら、油揚げで買収でもしてみるか?」
ふざけた口調で主が軽口を叩く。薬研は小さく息を吐き出すと、おもむろに立ち上がった。踵を返して、
「本当にそれができるならな。じゃあ、大将。報告はとりあえずこれで終わりだ。詳しい戦況や作戦の進行状況については、後でまとめて報告する」
「ああ、了解した。だが、お前も疲れているだろ。少し休め。戦況のまとめも明日でいい」
「いいのか? そんなにのんびりで」
「第二部隊を回して警戒に当たらせているから心配するな。何か起きた時はお前達第一部隊に行ってもらうことになるが、とりあえず明日は京都市中の地図をもう一度洗い出してみよう。同田貫以外の第一部隊の連中と一緒にな。敵が潜んでいそうな場所を予測しておくんだ。こんなことが何度も起きたらたまらんからな」
「わかった」
頷いて、引き戸に手をかけた瞬間、背後で主の密やかに笑う声を聞いた。
「――迷うことは、悪いことじゃねぇさ」
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