『A』
D
玄関の先にいたのは、ニールじゃなくて鎧の男……ゼノンだった。
「こんばんは!ニールは一緒?」
「いいや、アイツはまだ残っている。ドーバッツァの奴と喧嘩しているようだ。」
彼の後ろにニールはいない。
「今晩はアイツの代わりに俺がここに泊まる。ニールにお前達の子守を頼まれたからな。」
「子守って……僕もう子供じゃないよ!」
「まだ子供だ。背もこんなに小さいし。」
背は伸びたもん!と僕は踵を浮かせる。だけど目の前の大男には敵わない。
「じきに大きくなるさ」
ゼノンは僕の肩をぽんと叩く。うう、悔しい。
「アルバは?」
ゼノンに尋ねられ、僕は部屋の中を見渡す。さっきまでそこにいたはずなのに、どこに行ってしまったんだろう。さっきまで僕の側にいて……頭もふもふ撫でられて、またぎゅってされて……。
「ディー、どうした?顔が赤いぞ。」
「えっ!?なななんでもないよ!!」
思い出せば思い出すほど顔が熱くなってくる。
「なんでもないってば!……そうだ、ゼノン。今日は何か作ってくれる?」
アルバほどじゃないけど、ゼノンも料理ができる。ゼノンは元々は旅人で、色々な国を渡り歩いてきたらしい。そして、今まで行った国の料理をたまに僕達に振舞ってくれるのだ。味の当たり外れは激しいけれど、滅多に食べないものを楽しめるから彼の料理も大好きだ。
「ふむ、今日はどうしようか。アルバと話し合って決める事にしよう。アルバは?」
「アルバならさっきそこに……あれ?」
僕は振り返るが、そこに彼女はいなかった。
「呼んだか?」
彼女は全然違う部屋から顔を出す。ゼノンは彼女に寄り、話しかける。今日の夕飯の話をするつもりだろう。僕もその会話に加わった。
その日の夕飯はジェイドラ王国風の料理になった。
Zeno
パン、キャベツと大麦のスープ、鶏クズ肉と玉ねぎを炒めたもの。アルバ達と協力して作った今日の夕飯だ。料理上手なアルバが手伝ってくれたおかげか、今までで最高の出来だった。彼女はジェイドラ王国風の食材や味付けを好むようだ。先程、ジェイドラで人気だという飴をあげたところ、たいへん喜んでくれた。鶏肉も好むようだが、その理由を聞くと言葉を濁された。
「……」
熱い紅茶を飲んで一息つく。彼女の好みから、アルバはジェイドラ王国出身ではないか……などとくだらぬ想像を働かせる。
「……」
少しだけ彼女の事を知ることができたと安堵すると同時に、俺達はアルバという人物を何も分かっていなかったという事を思い知らされた。
俺から見ると、明らかに彼女はおかしい。昼間はどこかに出かけているようで、街で見かける事はあったが後をつけてもすぐに見失ってしまう。一体彼女は何をしているのだろうか……。調べようにもどうにもうまくいかない。ニールやディーに協力を頼もうかと思ったが、少なくともニールには良い顔をされないだろう。
ニールはこの件からアルバを遠ざけようとしている。きっと、彼女を危険な目に遭わせたくないのだ。今日の喧嘩だって、ドーバッツァがアルバを紫の森へ行かせようとしてニールが激昴したのが原因だ。だが、それで本当に良いのか?彼女はまだ何かを隠している。一体どうすれば良いのだろう。何もしない訳にもいかず、俺は立ち上がった。
その時、玄関をノックする音がした。ドアを開けるとニールが立っていた。
Alba
暗い部屋の中。蝋燭の灯を頼りに本を読む。今日、あの商人から報酬として貰ったものだ。ストレンやトカゲ病について書かれた本。今日もらった書では特にトカゲ病を重点に置いているようだ。
『……同様の病はジェイドラ王国にも見られる。ジェイドラ王国はアズメール王国から海を挟んで南にあり、グレディ王国の東に位置する。
イdriス=ベlk=デiあキil。ジェイドラ王国の■■だ。彼は■■に■■■さレた■■■かラ■■■■■■■■。dィアkeーlが撒き散らしたヤまイ。それこそが■■■■である。そノ後彼は罪に問ヮレ、民衆の前で■■■■■■……』
なんだ、これは。文字は読めているはずなのに、分からない。誰だ、ここに書かれたイド■■という■■は。私は……こいつを、知っている。
黒い鎧、鉄臭い風になびく白い髪、辺りに広がる死体……
「……ああ……ああぁぁ……」
頭が痛い。割れるようだ。頭の中で響く、男か女かも分からぬ高笑い。それがたまらないほど憎らしい。
「はーっ、はぁっ……■■■?■■■■■■■■……」
自分の声すら聞こえない。自分の体じゃないみたいだ。全身が痛い。身体中の血管に無数の針が詰まっているようだ。身体が冷えていく。寒い。落ち着かない。どこか、どこか遠くに行きたい。紫色のあの森に行こう。あそこに行けばすべてが良くなる。私は窓を開け、そこに足をかけた。
「アルバ!」
その時、腕を引っ張られた。部屋の中に引き戻され、何者かの腕に抱かれる。触るな。痛いんだよ!離せ離せ離せ!!!
「アルバ、落ち着け!オレだ……ぐぁっ!!」
すぐ後ろにいるであろう人物の腹に肘鉄を食らわせる。それでも腕は離れず、とうとう私は床に押さえつけられてしまった。
「はな、せ……はなせ……」
触れられている所が痛い。頭痛と耳鳴りも酷くなる。寒気は増し指先の感覚もなくなる。じわじわと視界が黒くなっていく。いや、だ。嫌だ嫌だ。眠りたく、な……い……
Neal
仕事から帰りアルバの部屋を通った時、そこから叫び声のようなものが聞こえた。明らかに異常であった。扉を開けると……彼女が窓から飛び降りようとしていた。
アルバを床に押し倒し、腕や脚を封じる。初めは暴れていたが、突然彼女は意識を失った。ただ気絶しているだけであることを確認してベッドに寝かせた。
「イテテ」
脇腹が痛む。まさかあんなに暴れるとは思わなかった。元騎士団長のオレでさえも彼女を押さえつけるので精一杯だった。あの細い身体のどこにそんな馬鹿力があったのか。
オレは寝ているアルバの傍に座る。
「うぅ……うぅぅぅ……」
彼女は泣いて魘されながらシーツを強く握りしめている。一体どんな夢を見ているのか。もしかして、失くした記憶が夢として蘇っているのかもしれない。彼女がこんなに重いものを背負っているのにも関わらず、オレは気楽で馬鹿だった。彼女を家にいさせておけば安全だなんて浅慮すぎた。ただでさえ記憶を失くして不安になっているのに、独りにして放っておいてしまった。どんなに心細かっただろうか。
アルバの部屋に入ってはじめて分かった。彼女はかなり無理をしている。清潔に保たれている家とは違い、生活感というものが全く感じられない部屋。ベッドには埃が積もっていた。きっと何日も眠っていないのだろう。窓には足跡。ここから抜け出してどこかへ行くつもりだったのだろうか。机には血と思われる赤いシミが広がっていた。傍らには刃物。しかも机の下に細い指の先端が転がっていた。気絶していたアルバの手と比べてみたが、左手の小指と全く同じ形をしていた。「切り落とした指がすぐに生えてきた」……などと考えたが、そんな事は普通の人間じゃ有り得ない。有り得ない筈なのだ。……そして、彼女が倒れる直前まで読んでいたと思われる本。その時開いていたページはズタズタに引き裂かれていた。破れるまでアルバが引っ掻いたのだ。彼女の指先には血が付着しており、剥がれた爪も見つかった。だが、指自体には傷痕ひとつ残っていなかった。当然、爪もすべて生え揃っている。先程見つけた指と同じ疑問を抱いた。
「……あ……ニー、ル?」
まだ朝日も登っていない時間帯。彼女は弱々しく目を開けた。赤く腫れた目。乱れた黒髪。枯れかけた声。未だ整わぬ呼吸。冷えた指先に滲む汗。眠る前よりもひどく憔悴しているように見えた。これじゃあ眠れなくなるのも当然だ。
「おはよう、アルバ」
声をかけてみるが、返事はない。彼女の顔はこの上なく暗かった。顔面蒼白で、オレと目も合わさない。この世の終わりのような表情をしている。
「具合はどうだ?」
「……」
彼女は口を開く。だが、掠れるような息の音以外は何も聞こえない。声が出ないのだろうか。
彼女は寒そうに身震いする。汗で濡れた服が彼女の肌に貼り付いている。シーツも汗やら涙やらでぐしゃぐしゃだ。
「着替えてオレの部屋で寝ようか。」
この暗くて寒い部屋じゃ治るものも治らない。オレの部屋だったらここよりは日当たりは良いはずだ。
「着替えはどこだ?取ってくるよ。」
「……そこの、たな」
彼女は向こうの棚を指さす。徐々に声が出てきたようだ。
棚を開ける。よく使う場所だからか、そこの周辺は丁寧に掃除されていた。適当に服を取って振り返ると、彼女は今まさに服を脱いでいるところだった。すぐに目を逸らすつもりだったが、逸らせなかった。
白く華奢で、それなのにどこか艶めかしさを感じる身体。その胸から腹にかけて黒い痣が浮いては消えてを繰り返していた。まるで沸騰する湯のように、ボコボコと。
「アルバ、それ」
「……?もう、知っているかと思った。何も見なかったのか?……いや、見ないでいてくれたのか。」
ありがとう、と彼女は引き攣る口角を上げる。全身に広がる、浮かんでは消える痣。トカゲ病の症状だ。しかもかなり重症で……死ぬ1歩手前だ。患者は全身の痛みに耐えられず気が狂い、最後には体が破裂して死ぬ。本当ならこうなる前からまともに動くことも喋ることも不可能の筈だが……。
「アルバ、いつからこうなってるんだ?」
「数日前からだ。心配しないでくれ。朝になれば収まる。」
「朝になればって……もしかして、毎晩こうなのか?体中に痣ができてさ。痛いんだろ?何でこうなるまで言わなかったんだ?」
「そんなに真剣にならなくてもいいじゃないか。」
「ふざけんな!死ぬかもしれないんだぞ!!」
「死なないよ」
彼女はそれが当然であるかのように言い放つ。
「私も私なりにトカゲ病の事は調べている。そのうえで言おう、私は死なない。」
その言葉に応えるかのように、彼女の身体から痣が消えていった。
「ほら、収まるって言ったろ。」
彼女は笑っているが、震えは止まっていない。まだ無理をしているのか。
その時、ノックの音が聞こえた。どうぞ、と声をかけるとゼノンが入ってきた。
「具合はどうだ。」
「何があった」ではなく「具合はどうだ」。彼には全てお見通しなのだろう。
「一晩中アルバの部屋から奇妙な声が聞こえていたからな。何かあったのだろうと思っていたが……想像以上に酷いな。……やはり、お前をここに閉じ込めておくのは良くない。心まで閉ざされては敵わん。そう思わないか、ニール。」
ゼノンの問いかけに頷く。ならば何をするべきか……オレは思考を巡らせる。オレ達と共にいられる策がひとつある。しかし、この方法は彼女を危険にさらすことになるかもしれない。だが……彼女ほどの力があれば、きっと。
オレはアルバの目を見る。
「アルバ。オレ達と共に来てくれ。」
翡翠色の目は、オレとゼノンを交互に見る。そして諦めたように目をふせた。
玄関の先にいたのは、ニールじゃなくて鎧の男……ゼノンだった。
「こんばんは!ニールは一緒?」
「いいや、アイツはまだ残っている。ドーバッツァの奴と喧嘩しているようだ。」
彼の後ろにニールはいない。
「今晩はアイツの代わりに俺がここに泊まる。ニールにお前達の子守を頼まれたからな。」
「子守って……僕もう子供じゃないよ!」
「まだ子供だ。背もこんなに小さいし。」
背は伸びたもん!と僕は踵を浮かせる。だけど目の前の大男には敵わない。
「じきに大きくなるさ」
ゼノンは僕の肩をぽんと叩く。うう、悔しい。
「アルバは?」
ゼノンに尋ねられ、僕は部屋の中を見渡す。さっきまでそこにいたはずなのに、どこに行ってしまったんだろう。さっきまで僕の側にいて……頭もふもふ撫でられて、またぎゅってされて……。
「ディー、どうした?顔が赤いぞ。」
「えっ!?なななんでもないよ!!」
思い出せば思い出すほど顔が熱くなってくる。
「なんでもないってば!……そうだ、ゼノン。今日は何か作ってくれる?」
アルバほどじゃないけど、ゼノンも料理ができる。ゼノンは元々は旅人で、色々な国を渡り歩いてきたらしい。そして、今まで行った国の料理をたまに僕達に振舞ってくれるのだ。味の当たり外れは激しいけれど、滅多に食べないものを楽しめるから彼の料理も大好きだ。
「ふむ、今日はどうしようか。アルバと話し合って決める事にしよう。アルバは?」
「アルバならさっきそこに……あれ?」
僕は振り返るが、そこに彼女はいなかった。
「呼んだか?」
彼女は全然違う部屋から顔を出す。ゼノンは彼女に寄り、話しかける。今日の夕飯の話をするつもりだろう。僕もその会話に加わった。
その日の夕飯はジェイドラ王国風の料理になった。
Zeno
パン、キャベツと大麦のスープ、鶏クズ肉と玉ねぎを炒めたもの。アルバ達と協力して作った今日の夕飯だ。料理上手なアルバが手伝ってくれたおかげか、今までで最高の出来だった。彼女はジェイドラ王国風の食材や味付けを好むようだ。先程、ジェイドラで人気だという飴をあげたところ、たいへん喜んでくれた。鶏肉も好むようだが、その理由を聞くと言葉を濁された。
「……」
熱い紅茶を飲んで一息つく。彼女の好みから、アルバはジェイドラ王国出身ではないか……などとくだらぬ想像を働かせる。
「……」
少しだけ彼女の事を知ることができたと安堵すると同時に、俺達はアルバという人物を何も分かっていなかったという事を思い知らされた。
俺から見ると、明らかに彼女はおかしい。昼間はどこかに出かけているようで、街で見かける事はあったが後をつけてもすぐに見失ってしまう。一体彼女は何をしているのだろうか……。調べようにもどうにもうまくいかない。ニールやディーに協力を頼もうかと思ったが、少なくともニールには良い顔をされないだろう。
ニールはこの件からアルバを遠ざけようとしている。きっと、彼女を危険な目に遭わせたくないのだ。今日の喧嘩だって、ドーバッツァがアルバを紫の森へ行かせようとしてニールが激昴したのが原因だ。だが、それで本当に良いのか?彼女はまだ何かを隠している。一体どうすれば良いのだろう。何もしない訳にもいかず、俺は立ち上がった。
その時、玄関をノックする音がした。ドアを開けるとニールが立っていた。
Alba
暗い部屋の中。蝋燭の灯を頼りに本を読む。今日、あの商人から報酬として貰ったものだ。ストレンやトカゲ病について書かれた本。今日もらった書では特にトカゲ病を重点に置いているようだ。
『……同様の病はジェイドラ王国にも見られる。ジェイドラ王国はアズメール王国から海を挟んで南にあり、グレディ王国の東に位置する。
イdriス=ベlk=デiあキil。ジェイドラ王国の■■だ。彼は■■に■■■さレた■■■かラ■■■■■■■■。dィアkeーlが撒き散らしたヤまイ。それこそが■■■■である。そノ後彼は罪に問ヮレ、民衆の前で■■■■■■……』
なんだ、これは。文字は読めているはずなのに、分からない。誰だ、ここに書かれたイド■■という■■は。私は……こいつを、知っている。
黒い鎧、鉄臭い風になびく白い髪、辺りに広がる死体……
「……ああ……ああぁぁ……」
頭が痛い。割れるようだ。頭の中で響く、男か女かも分からぬ高笑い。それがたまらないほど憎らしい。
「はーっ、はぁっ……■■■?■■■■■■■■……」
自分の声すら聞こえない。自分の体じゃないみたいだ。全身が痛い。身体中の血管に無数の針が詰まっているようだ。身体が冷えていく。寒い。落ち着かない。どこか、どこか遠くに行きたい。紫色のあの森に行こう。あそこに行けばすべてが良くなる。私は窓を開け、そこに足をかけた。
「アルバ!」
その時、腕を引っ張られた。部屋の中に引き戻され、何者かの腕に抱かれる。触るな。痛いんだよ!離せ離せ離せ!!!
「アルバ、落ち着け!オレだ……ぐぁっ!!」
すぐ後ろにいるであろう人物の腹に肘鉄を食らわせる。それでも腕は離れず、とうとう私は床に押さえつけられてしまった。
「はな、せ……はなせ……」
触れられている所が痛い。頭痛と耳鳴りも酷くなる。寒気は増し指先の感覚もなくなる。じわじわと視界が黒くなっていく。いや、だ。嫌だ嫌だ。眠りたく、な……い……
Neal
仕事から帰りアルバの部屋を通った時、そこから叫び声のようなものが聞こえた。明らかに異常であった。扉を開けると……彼女が窓から飛び降りようとしていた。
アルバを床に押し倒し、腕や脚を封じる。初めは暴れていたが、突然彼女は意識を失った。ただ気絶しているだけであることを確認してベッドに寝かせた。
「イテテ」
脇腹が痛む。まさかあんなに暴れるとは思わなかった。元騎士団長のオレでさえも彼女を押さえつけるので精一杯だった。あの細い身体のどこにそんな馬鹿力があったのか。
オレは寝ているアルバの傍に座る。
「うぅ……うぅぅぅ……」
彼女は泣いて魘されながらシーツを強く握りしめている。一体どんな夢を見ているのか。もしかして、失くした記憶が夢として蘇っているのかもしれない。彼女がこんなに重いものを背負っているのにも関わらず、オレは気楽で馬鹿だった。彼女を家にいさせておけば安全だなんて浅慮すぎた。ただでさえ記憶を失くして不安になっているのに、独りにして放っておいてしまった。どんなに心細かっただろうか。
アルバの部屋に入ってはじめて分かった。彼女はかなり無理をしている。清潔に保たれている家とは違い、生活感というものが全く感じられない部屋。ベッドには埃が積もっていた。きっと何日も眠っていないのだろう。窓には足跡。ここから抜け出してどこかへ行くつもりだったのだろうか。机には血と思われる赤いシミが広がっていた。傍らには刃物。しかも机の下に細い指の先端が転がっていた。気絶していたアルバの手と比べてみたが、左手の小指と全く同じ形をしていた。「切り落とした指がすぐに生えてきた」……などと考えたが、そんな事は普通の人間じゃ有り得ない。有り得ない筈なのだ。……そして、彼女が倒れる直前まで読んでいたと思われる本。その時開いていたページはズタズタに引き裂かれていた。破れるまでアルバが引っ掻いたのだ。彼女の指先には血が付着しており、剥がれた爪も見つかった。だが、指自体には傷痕ひとつ残っていなかった。当然、爪もすべて生え揃っている。先程見つけた指と同じ疑問を抱いた。
「……あ……ニー、ル?」
まだ朝日も登っていない時間帯。彼女は弱々しく目を開けた。赤く腫れた目。乱れた黒髪。枯れかけた声。未だ整わぬ呼吸。冷えた指先に滲む汗。眠る前よりもひどく憔悴しているように見えた。これじゃあ眠れなくなるのも当然だ。
「おはよう、アルバ」
声をかけてみるが、返事はない。彼女の顔はこの上なく暗かった。顔面蒼白で、オレと目も合わさない。この世の終わりのような表情をしている。
「具合はどうだ?」
「……」
彼女は口を開く。だが、掠れるような息の音以外は何も聞こえない。声が出ないのだろうか。
彼女は寒そうに身震いする。汗で濡れた服が彼女の肌に貼り付いている。シーツも汗やら涙やらでぐしゃぐしゃだ。
「着替えてオレの部屋で寝ようか。」
この暗くて寒い部屋じゃ治るものも治らない。オレの部屋だったらここよりは日当たりは良いはずだ。
「着替えはどこだ?取ってくるよ。」
「……そこの、たな」
彼女は向こうの棚を指さす。徐々に声が出てきたようだ。
棚を開ける。よく使う場所だからか、そこの周辺は丁寧に掃除されていた。適当に服を取って振り返ると、彼女は今まさに服を脱いでいるところだった。すぐに目を逸らすつもりだったが、逸らせなかった。
白く華奢で、それなのにどこか艶めかしさを感じる身体。その胸から腹にかけて黒い痣が浮いては消えてを繰り返していた。まるで沸騰する湯のように、ボコボコと。
「アルバ、それ」
「……?もう、知っているかと思った。何も見なかったのか?……いや、見ないでいてくれたのか。」
ありがとう、と彼女は引き攣る口角を上げる。全身に広がる、浮かんでは消える痣。トカゲ病の症状だ。しかもかなり重症で……死ぬ1歩手前だ。患者は全身の痛みに耐えられず気が狂い、最後には体が破裂して死ぬ。本当ならこうなる前からまともに動くことも喋ることも不可能の筈だが……。
「アルバ、いつからこうなってるんだ?」
「数日前からだ。心配しないでくれ。朝になれば収まる。」
「朝になればって……もしかして、毎晩こうなのか?体中に痣ができてさ。痛いんだろ?何でこうなるまで言わなかったんだ?」
「そんなに真剣にならなくてもいいじゃないか。」
「ふざけんな!死ぬかもしれないんだぞ!!」
「死なないよ」
彼女はそれが当然であるかのように言い放つ。
「私も私なりにトカゲ病の事は調べている。そのうえで言おう、私は死なない。」
その言葉に応えるかのように、彼女の身体から痣が消えていった。
「ほら、収まるって言ったろ。」
彼女は笑っているが、震えは止まっていない。まだ無理をしているのか。
その時、ノックの音が聞こえた。どうぞ、と声をかけるとゼノンが入ってきた。
「具合はどうだ。」
「何があった」ではなく「具合はどうだ」。彼には全てお見通しなのだろう。
「一晩中アルバの部屋から奇妙な声が聞こえていたからな。何かあったのだろうと思っていたが……想像以上に酷いな。……やはり、お前をここに閉じ込めておくのは良くない。心まで閉ざされては敵わん。そう思わないか、ニール。」
ゼノンの問いかけに頷く。ならば何をするべきか……オレは思考を巡らせる。オレ達と共にいられる策がひとつある。しかし、この方法は彼女を危険にさらすことになるかもしれない。だが……彼女ほどの力があれば、きっと。
オレはアルバの目を見る。
「アルバ。オレ達と共に来てくれ。」
翡翠色の目は、オレとゼノンを交互に見る。そして諦めたように目をふせた。
