恋するあなた
ジョンヒョンとホテルで過ごした日から二週間後の金曜の晩、ジンギは自室でひとりベッドに転がり、スマホと小さなメモを見つめていた。あの日、残業疲れで電車で寝入ってしまい、起こされて目を覚ましたら目の前にジョンヒョンが立っていた。疲れすぎて見えた幻覚かと思ったが、手を引かれるままに電車を降りても、ジョンヒョンはジンギの前に立っていた。レンタル彼氏としてのデート帰りに、たまたまジンギを見かけたのだという。
デート帰りのジョンヒョンは相変わらずキラキラしていて、昼に見るのとはまた違って夜の空気がよく似合っていた。会社員としての自分と、レンタル彼氏としてのジョンヒョンが交わるのはなんだか惨めで、どうしても嫌で、しかしジョンヒョンはジンギが帰ろうとするのを許さなかった。引っ張られるままにホテルに連れられ、バスルームに押し込まれた。何が起こっているのかよく分からなかったが、疲れきった脳はろくに働かなくて、とりあえずシャワーを浴びたらジンギの体力という電池はそこで完全に切れてしまった。
翌朝、当たり前になってしまった土曜日の出勤用アラームに飛び起きると、見慣れない内装と知らないベッドに、見知ったジョンヒョンが隣のベッドに横たわっていた。記憶が朧気で状況がいまいち思い出せないままとりあえず出勤しようとするジンギに、ジョンヒョンはスマホを取り上げて勝手に欠席連絡を入れてしまった。なぜ勝手なことをするのかを詰め寄るジンギに、ジョンヒョンは叫ぶように言い返した。
「……心配なんだよ!! ヒョンが好きだから!!」
ジョンヒョンの声も表情も、嘘をついているようには見えなかった。思わせぶりなことは今まで何度も言われてきたが、好きだと言われたのは初めてだった。それでも、ジンギはその言葉を素直に受け入れられなかった。何故ならジョンヒョンはレンタル彼氏で、ジンギは元利用者だからだ。数ヶ月前、ジンギにキスをしたジョンヒョンは、狼狽えるジンギに表情を歪めていたというのに。それなのに、どうしてジンギを好きだと言うのか、本当に分からなかった。
拒絶するジンギに、見ていて悲しいから卑屈になるのをやめろとジョンヒョンはさらに続けた。ジンギはそれに返事をしなかったが、妙にその言葉が胸に刺さった。デートしていた時、「自分なんか」とジンギが謙遜する度に、ジョンヒョンは何も言わなかったが、いつも何か言いたそうにじっと見つめていた。困らせているかもしれないとは思っていたが、悲しいと言われる予想はしていなかった。
「悲しい、か……」
元々の性格か、いつのまにか癖になったのか、ジンギはあまり自分に自信がない。完璧ではなくとも一人でそれなりに暮らしているし、仕事だってそれなりにやっているが、そういうものとは別に、仕事などの立場を抜きにして人と向き合った時に、どうしても自分の欠点が目についてしまうのだった。日々仕事に通うことはできていても、そこで何かミスを重ねる訳ではなくても、仕事漬けで現状維持が精一杯の孤独な生活は、ジンギにはなんとなく後ろめたいような気さえしていた。積み上がっていく労働時間や貯金残高なんてただ空虚なだけで、ジンギの自慢にも自信にもなりはしない。
ジョンヒョンとの時間を過ごすようになってからそれは少しずつ薄れていたように思うが、染み付いた口癖は完全に消えはしなかった。いつもスマートで格好いいジョンヒョンと一緒にいると、どうしても自信のなさが言葉になって出てしまう時があった。ジョンヒョンは、それを悲しいと思っていたらしい。
悲しいと言われてから、ジンギもひとりで考えてみた。ホテルで言い争ったあの日、強引にジンギを休ませようとするジョンヒョンにカッとなって、「君には分からない」と言ってしまった。やり方は強引だったが、わざわざ電車を逃してまでジンギを案じてくれたジョンヒョンに、言い返せないような意地悪な言い方で責めてしまった。音楽に真剣に向き合っているジョンヒョンを好きになったはずなのに、会社勤めをしたことがないから分からないだろうなんて言葉は、選ぶべきではなかった。そんな言い方をしてジョンヒョンを傷つけようとしてしまうほどに仕事に頭を支配され、余裕がなくなっている自分が憎くて、ショックだった。
「……酷いこと言っちゃった」
先週末、気になっていつものレンタル彼氏のサイトを覗いたら、キャスト一覧からジョンヒョンのプロフィールが消えていた。レンタル彼氏としてのジョンヒョンのチャットアカウントも消えてしまっていたから、恐らくもう辞めてしまったのだろう。どうしてジョンヒョンがレンタル彼氏を辞めたのか、ジンギには分からない。ジンギのせいかもしれないし、そうではないかもしれない。ジョンヒョンの中でジンギがどういう存在だったのは分からないが、仕事疲れで顔色の悪いジンギを心配してプライベートでも世話を焼いてくれるくらいには気にかけてくれていた。
ジョンヒョンはホテルの鍵とともに、私用らしき連絡先を書き記したメモを置いていった。そのメモは今ジンギの手の中にある。ジンギはチャットアプリを立ち上げると、画面を操作して、メモに書かれているIDを入力した。
『ジンギです。この前はごめんね。話したい事があるので、一度会えませんか』
ジンギが送ったメッセージに、ジョンヒョンはすぐに既読をつけた。思っていたよりも反応が早く、スマホを握る手のひらに汗が滲む。
謝りたかった。思い返せば、ジョンヒョンはジンギが彼をレンタルしている時からずっと、ジンギに対して誠実だったと思う。自分を下げるジンギに、初対面の時から下手に茶化したり慰めたりせず、真剣に、その時のジョンヒョンの見え方を伝えてくれた。ジンギの心を揺らすようなセリフも、ジンギを弄ぶために嘯いていたのではなく、全て彼の素直な想いなのだとしたら。ジンギを好きだと言う彼の気持ちが本当で、あの日のキスも、ジンギを遠ざけるためにしたことではないのだとしたら。そう思ったら、謝って、確かめて、伝えたいことがあった。
ジョンヒョンはすぐにメッセージを読んだ割には、なかなか返事をしなかった。馬鹿正直に貰った連絡先に縋ったのが良くなかったかと後悔しかけた時、短いメッセージが返ってきた。
『わかった。いつがいい?』
端的なテキストから温度は感じ取れないが、ジョンヒョンがまた会ってくれるというだけでも、ジンギには嬉しかった。
『急だけど……明日、どうかな』
『いいよ。じゃあ、場所は……』
翌日、ジンギとジョンヒョンは初めて会った時に訪れたレストランに来ていた。この店は基本的にはランチ営業だが、夕方まではカフェ利用もできるようになっている。色々と整理するならここが良いと、ジンギが指定した。
レンタル彼氏としてではなくキムジョンヒョン個人としてやってきた彼は、レンタルしていた時よりも気取らない格好をしていた。キャップを被ったラフなスタイルは、それでもやはりよく似合っていて、ジンギは久しぶりにそわそわした。
あんなことがあった後だからジョンヒョンは笑顔ではなかったが、ジンギの顔色をちらりと気にしているようだった。席に通されると、ジョンヒョンの方から口を開いた。
「土曜日だけど、良かったの」
「うん。休みにした」
二週間前にあんなに揉めたのに、あっさり土曜の今日を休みにしたというジンギに、ジョンヒョンは目を丸くした。
「仕事は……」
「それなんだけどね。僕、仕事変えようかと思って」
これが、今日ジンギがジョンヒョンに伝えたかったことの一つ目だった。涼しい顔のジンギに対して、あまりに突然の展開にジョンヒョンは分かりやすく狼狽えている。
「……そうなの?」
「うん。今のところでこのまま続けられないなって」
「もしかして、俺のせい?」
「え?」
「俺が、前に無理やり休ませたせい? それで今のところに居られなくなったとか? ごめん、俺、そこまで考えてなくて、」
帽子で見えにくかったが、ジョンヒョンはどんどん血の気が引いていくようだった。早口で謝り始める彼にジンギは慌てて訂正する。
「違う、違うよ。君のせいじゃない。むしろ、君のおかげ……かな?」
「俺の?」
「うん。ホテルで君と喧嘩してから思ったんだ。あんなふうに余裕を無くして、僕を心配してくれる人の厚意を受け取れないどころか、傷つけるようなことを言ってしまうなら、そんな仕事を続けたって仕方ないなって」
「ヒョン……」
ジョンヒョンと定期的に会っていた時は、ジョンヒョン相手に仕事の話をすることはなかった。仕事のこととなると、そればかりに気を取られてしまう自分を知られたくなかったのだ。ジョンヒョンと会っている時の自分と、仕事をしている時の自分が、混ざらないようにしていた。
しかしこの間は、それが偶然混ざってしまった。その時、好意を抱いているジョンヒョンに対して嫌な自分ばかりを見せてぶつけてしまった。その時に思ったのだ。今後、ジョンヒョンでなかったとしても、大切なはずの誰かに対して同じように振舞ってしまうかもしれない。仕事も確かに大切だが、それのために他のものを失ってしまうくらいなら、向き合い方を変えなければならない、と。
「ジョンヒョナ。この間はごめんね。それに、ありがとう。僕に考える機会をくれて」
「いや……うん。俺も、無理やり言うこと聞かせたりして、ごめん」
「休みはたっぷり余ってるし、それを消化しながら次を探そうと思う。働き詰めだったおかげで貯金はあるしね」
「そっか」
想像したよりも前向きに転職しようとしているらしいジンギに、ジョンヒョンはほっとため息をついた。あの晩に出会ったのは偶然だが、ジンギが良い方向に進めるきっかけになったのなら、あのやり取りもある意味必要だったのかもしれない。
「じゃあ、俺からも」
「うん?」
「気づいてるかもしれないけど、俺、もうレンタル彼氏辞めたんだよね」
「……うん」
ジョンヒョンがどうしているのか気になって調べていたから、そのことはジンギも知っていた。気まずそうなジンギを気にせず、ジョンヒョンは続ける。
「ヒョンと会わなくなってから、他の人とのデートが全然上手くいかないんだよ。他の人のこと考えてるってバレたこともあった」
「他の人……」
「そ。ヒョンのこと」
「う、うん」
こういう会話に、幾度となくどきどきさせられてきたことを思い出す。まるでジンギが特別だというような、ジョンヒョンが紡ぐ魔法の言葉たち。
「ヒョンは俺のお客さんで、『友人』なのに、俺から手出しちゃったからさ。もうだめだなと思って」
手を出したというのは、キスのことだろう。ジョンヒョンがどういう意図であんなことをしたのか、ジンギはまだ不安で、思わず身構えた。
「ところでさ」
「うん」
「俺はまだヒョンのこと好きなんだけど」
さらりとした口調とは裏腹に、ジョンヒョンは酷く真剣な眼差しを向けていた。意志の強そうな瞳に心を鷲掴まれて、動けない。黙っているジンギに、ジョンヒョンはさらに言葉を重ねた。
「ヒョンは、俺のこと好きだったんだよな? それとも、全部俺の勘違い?」
「勘違いじゃ、ない……」
「やっぱそうだよな? じゃあなんで、俺のことずっと『友人』にしたの? 『恋人』で予約してくれたら、俺の方は、いつだって……」
あんなにしっかり見つめてきていたジョンヒョンが、小さくなっていく語尾とともに視線を少し下げた。ジョンヒョンを好きでいながら「友人」の線を引き続けてきたジンギに、さすがのジョンヒョンも自信がなくなりそうだった。
「だって、そんなの……」
弱々しくなるジョンヒョンの言葉に、ジンギも小さな声で話し始める。お互いに好き合っているはずの二人が拗れてしまったすれ違いを、ようやく紐解いていく。
「そんなの、虚しいでしょう。好きな人にお金を払って、二時間だけ僕の恋人にしたいだなんて、僕には割り切れなかった」
「……俺は、ヒョンが『友人』って言い続ける以上は、俺の方からは何も出来ないからさ。だから結構、必死だったんだよ」
「ごめん。でも、君に嫌われたくなくて……怖かったんだ。君がくれるものは全部、君の仕事の範囲内だって言い聞かせてた」
「もしかして、俺がキスしたのも仕事だと思ってたのか?」
「それは……」
あの日、突然唇を奪ったジョンヒョンをジンギは強く突き飛ばし、泣いて走り去った。ソフトクリームを食べる唇に我慢ができなくなって衝動的にしたことだったが、喜ばれるという期待は変だとしても、あんなふうに嫌がられるつもりもしていなかったから、ジョンヒョンとてショックだったのだ。
「仕事っていうよりは、僕を切るためにしたんだと思ってた。僕の気持ち全部バレてたんだなって……僕がもう二度と君をレンタルできないように、キスして僕の反応を確かめてから、ルール違反の事実を作ろうとしたのかと」
「えぇ……俺をなんだと思って……。っていうか、考えが飛びすぎじゃないか……?」
「ごめん……」
思い返せば突飛すぎたジンギの思考回路に、二人はだんだん笑いが込み上げてきた。ジンギの説明するジョンヒョンは、ずいぶん悪くて酷い男に仕上がっている。自信のなさもここまで来ると感心するほどだ。
目元を手で覆うようにして呆れていたジョンヒョンだったが、すっとその手を外すと、テーブルの上に置かれているジンギの手の上に重ねた。逃げないで、というようなその仕草に、ジンギは覚悟を決める。
「じゃあさ、もう俺はレンタル彼氏じゃないんだし、全部そのまま受け取ってくれる?」
もう、ここまでの会話で答えは見えている。あとはお互いに口に出して、素直な気持ちを交換して、確かめるだけだった。
「好きだよ、ジンギヒョン。俺をヒョンの彼氏にして」
「……うん。ジョンヒョナ、僕の恋人になって」
「もちろん。よろしくお願いします」
「よ、よろしくお願いします」
テーブルを挟んでお辞儀をするとまるで初対面のようで、ひと呼吸おいて二人は一緒にくすくす笑った。
「なんだこれ」
「んふふっ、なんか、変な感じ」
レンタル彼氏と利用者としてではなく、ただの個人のキムジョンヒョンとイジンギとしての新しい関係が、今から始まる。正真正銘、二人は恋人同士となったのだった。
レンタルデートではないことを証明したいと言い出したジョンヒョンによって二人分の支払いが済んだあと、二人は店を出て足の向くままに歩いた。この通りは前にも二人で歩いたな、とジンギが記憶をたどっていると、ジョンヒョンが急にジンギの手を握り、くるりと方向を変えて歩き出した。
「ちょっと、ジョンヒョナッ……!」
簡単に繋がれてしまった手が恥ずかしくて思わず離そうとするジンギに、離すまいとジョンヒョンが強く握り直す。ジョンヒョンがジンギを連れ込んだのは、数ヶ月前に小さな看板を見つけた細い路地だった。
「大丈夫。こんな狭い路地じゃ、誰も見てないよ」
「でも、」
「彼氏なんだから、デートの最中に手繋ぐくらい、普通だろ」
周りをきょろきょろと気にしているジンギに、ジョンヒョンが悪戯っぽく笑いかける。ジンギの反応をからかっているような彼の笑顔はそれでもどことなく優しくて、きゅっと下がる目尻が懐かしくて、ジンギも思わず微笑んだ。
「そう……だね。うん……」
彼氏という響きに照れているジンギは、恥ずかしそうに、しかし嬉しそうに少し俯いた。その顔がいじらしくて、ジョンヒョンは思わず握った手を引き寄せ、唇にキスをした。突然のキスに驚いたジンギだったが、ゆっくりと自ら体の力を抜いて、ジョンヒョンの手をそっと握り返した。
デート帰りのジョンヒョンは相変わらずキラキラしていて、昼に見るのとはまた違って夜の空気がよく似合っていた。会社員としての自分と、レンタル彼氏としてのジョンヒョンが交わるのはなんだか惨めで、どうしても嫌で、しかしジョンヒョンはジンギが帰ろうとするのを許さなかった。引っ張られるままにホテルに連れられ、バスルームに押し込まれた。何が起こっているのかよく分からなかったが、疲れきった脳はろくに働かなくて、とりあえずシャワーを浴びたらジンギの体力という電池はそこで完全に切れてしまった。
翌朝、当たり前になってしまった土曜日の出勤用アラームに飛び起きると、見慣れない内装と知らないベッドに、見知ったジョンヒョンが隣のベッドに横たわっていた。記憶が朧気で状況がいまいち思い出せないままとりあえず出勤しようとするジンギに、ジョンヒョンはスマホを取り上げて勝手に欠席連絡を入れてしまった。なぜ勝手なことをするのかを詰め寄るジンギに、ジョンヒョンは叫ぶように言い返した。
「……心配なんだよ!! ヒョンが好きだから!!」
ジョンヒョンの声も表情も、嘘をついているようには見えなかった。思わせぶりなことは今まで何度も言われてきたが、好きだと言われたのは初めてだった。それでも、ジンギはその言葉を素直に受け入れられなかった。何故ならジョンヒョンはレンタル彼氏で、ジンギは元利用者だからだ。数ヶ月前、ジンギにキスをしたジョンヒョンは、狼狽えるジンギに表情を歪めていたというのに。それなのに、どうしてジンギを好きだと言うのか、本当に分からなかった。
拒絶するジンギに、見ていて悲しいから卑屈になるのをやめろとジョンヒョンはさらに続けた。ジンギはそれに返事をしなかったが、妙にその言葉が胸に刺さった。デートしていた時、「自分なんか」とジンギが謙遜する度に、ジョンヒョンは何も言わなかったが、いつも何か言いたそうにじっと見つめていた。困らせているかもしれないとは思っていたが、悲しいと言われる予想はしていなかった。
「悲しい、か……」
元々の性格か、いつのまにか癖になったのか、ジンギはあまり自分に自信がない。完璧ではなくとも一人でそれなりに暮らしているし、仕事だってそれなりにやっているが、そういうものとは別に、仕事などの立場を抜きにして人と向き合った時に、どうしても自分の欠点が目についてしまうのだった。日々仕事に通うことはできていても、そこで何かミスを重ねる訳ではなくても、仕事漬けで現状維持が精一杯の孤独な生活は、ジンギにはなんとなく後ろめたいような気さえしていた。積み上がっていく労働時間や貯金残高なんてただ空虚なだけで、ジンギの自慢にも自信にもなりはしない。
ジョンヒョンとの時間を過ごすようになってからそれは少しずつ薄れていたように思うが、染み付いた口癖は完全に消えはしなかった。いつもスマートで格好いいジョンヒョンと一緒にいると、どうしても自信のなさが言葉になって出てしまう時があった。ジョンヒョンは、それを悲しいと思っていたらしい。
悲しいと言われてから、ジンギもひとりで考えてみた。ホテルで言い争ったあの日、強引にジンギを休ませようとするジョンヒョンにカッとなって、「君には分からない」と言ってしまった。やり方は強引だったが、わざわざ電車を逃してまでジンギを案じてくれたジョンヒョンに、言い返せないような意地悪な言い方で責めてしまった。音楽に真剣に向き合っているジョンヒョンを好きになったはずなのに、会社勤めをしたことがないから分からないだろうなんて言葉は、選ぶべきではなかった。そんな言い方をしてジョンヒョンを傷つけようとしてしまうほどに仕事に頭を支配され、余裕がなくなっている自分が憎くて、ショックだった。
「……酷いこと言っちゃった」
先週末、気になっていつものレンタル彼氏のサイトを覗いたら、キャスト一覧からジョンヒョンのプロフィールが消えていた。レンタル彼氏としてのジョンヒョンのチャットアカウントも消えてしまっていたから、恐らくもう辞めてしまったのだろう。どうしてジョンヒョンがレンタル彼氏を辞めたのか、ジンギには分からない。ジンギのせいかもしれないし、そうではないかもしれない。ジョンヒョンの中でジンギがどういう存在だったのは分からないが、仕事疲れで顔色の悪いジンギを心配してプライベートでも世話を焼いてくれるくらいには気にかけてくれていた。
ジョンヒョンはホテルの鍵とともに、私用らしき連絡先を書き記したメモを置いていった。そのメモは今ジンギの手の中にある。ジンギはチャットアプリを立ち上げると、画面を操作して、メモに書かれているIDを入力した。
『ジンギです。この前はごめんね。話したい事があるので、一度会えませんか』
ジンギが送ったメッセージに、ジョンヒョンはすぐに既読をつけた。思っていたよりも反応が早く、スマホを握る手のひらに汗が滲む。
謝りたかった。思い返せば、ジョンヒョンはジンギが彼をレンタルしている時からずっと、ジンギに対して誠実だったと思う。自分を下げるジンギに、初対面の時から下手に茶化したり慰めたりせず、真剣に、その時のジョンヒョンの見え方を伝えてくれた。ジンギの心を揺らすようなセリフも、ジンギを弄ぶために嘯いていたのではなく、全て彼の素直な想いなのだとしたら。ジンギを好きだと言う彼の気持ちが本当で、あの日のキスも、ジンギを遠ざけるためにしたことではないのだとしたら。そう思ったら、謝って、確かめて、伝えたいことがあった。
ジョンヒョンはすぐにメッセージを読んだ割には、なかなか返事をしなかった。馬鹿正直に貰った連絡先に縋ったのが良くなかったかと後悔しかけた時、短いメッセージが返ってきた。
『わかった。いつがいい?』
端的なテキストから温度は感じ取れないが、ジョンヒョンがまた会ってくれるというだけでも、ジンギには嬉しかった。
『急だけど……明日、どうかな』
『いいよ。じゃあ、場所は……』
翌日、ジンギとジョンヒョンは初めて会った時に訪れたレストランに来ていた。この店は基本的にはランチ営業だが、夕方まではカフェ利用もできるようになっている。色々と整理するならここが良いと、ジンギが指定した。
レンタル彼氏としてではなくキムジョンヒョン個人としてやってきた彼は、レンタルしていた時よりも気取らない格好をしていた。キャップを被ったラフなスタイルは、それでもやはりよく似合っていて、ジンギは久しぶりにそわそわした。
あんなことがあった後だからジョンヒョンは笑顔ではなかったが、ジンギの顔色をちらりと気にしているようだった。席に通されると、ジョンヒョンの方から口を開いた。
「土曜日だけど、良かったの」
「うん。休みにした」
二週間前にあんなに揉めたのに、あっさり土曜の今日を休みにしたというジンギに、ジョンヒョンは目を丸くした。
「仕事は……」
「それなんだけどね。僕、仕事変えようかと思って」
これが、今日ジンギがジョンヒョンに伝えたかったことの一つ目だった。涼しい顔のジンギに対して、あまりに突然の展開にジョンヒョンは分かりやすく狼狽えている。
「……そうなの?」
「うん。今のところでこのまま続けられないなって」
「もしかして、俺のせい?」
「え?」
「俺が、前に無理やり休ませたせい? それで今のところに居られなくなったとか? ごめん、俺、そこまで考えてなくて、」
帽子で見えにくかったが、ジョンヒョンはどんどん血の気が引いていくようだった。早口で謝り始める彼にジンギは慌てて訂正する。
「違う、違うよ。君のせいじゃない。むしろ、君のおかげ……かな?」
「俺の?」
「うん。ホテルで君と喧嘩してから思ったんだ。あんなふうに余裕を無くして、僕を心配してくれる人の厚意を受け取れないどころか、傷つけるようなことを言ってしまうなら、そんな仕事を続けたって仕方ないなって」
「ヒョン……」
ジョンヒョンと定期的に会っていた時は、ジョンヒョン相手に仕事の話をすることはなかった。仕事のこととなると、そればかりに気を取られてしまう自分を知られたくなかったのだ。ジョンヒョンと会っている時の自分と、仕事をしている時の自分が、混ざらないようにしていた。
しかしこの間は、それが偶然混ざってしまった。その時、好意を抱いているジョンヒョンに対して嫌な自分ばかりを見せてぶつけてしまった。その時に思ったのだ。今後、ジョンヒョンでなかったとしても、大切なはずの誰かに対して同じように振舞ってしまうかもしれない。仕事も確かに大切だが、それのために他のものを失ってしまうくらいなら、向き合い方を変えなければならない、と。
「ジョンヒョナ。この間はごめんね。それに、ありがとう。僕に考える機会をくれて」
「いや……うん。俺も、無理やり言うこと聞かせたりして、ごめん」
「休みはたっぷり余ってるし、それを消化しながら次を探そうと思う。働き詰めだったおかげで貯金はあるしね」
「そっか」
想像したよりも前向きに転職しようとしているらしいジンギに、ジョンヒョンはほっとため息をついた。あの晩に出会ったのは偶然だが、ジンギが良い方向に進めるきっかけになったのなら、あのやり取りもある意味必要だったのかもしれない。
「じゃあ、俺からも」
「うん?」
「気づいてるかもしれないけど、俺、もうレンタル彼氏辞めたんだよね」
「……うん」
ジョンヒョンがどうしているのか気になって調べていたから、そのことはジンギも知っていた。気まずそうなジンギを気にせず、ジョンヒョンは続ける。
「ヒョンと会わなくなってから、他の人とのデートが全然上手くいかないんだよ。他の人のこと考えてるってバレたこともあった」
「他の人……」
「そ。ヒョンのこと」
「う、うん」
こういう会話に、幾度となくどきどきさせられてきたことを思い出す。まるでジンギが特別だというような、ジョンヒョンが紡ぐ魔法の言葉たち。
「ヒョンは俺のお客さんで、『友人』なのに、俺から手出しちゃったからさ。もうだめだなと思って」
手を出したというのは、キスのことだろう。ジョンヒョンがどういう意図であんなことをしたのか、ジンギはまだ不安で、思わず身構えた。
「ところでさ」
「うん」
「俺はまだヒョンのこと好きなんだけど」
さらりとした口調とは裏腹に、ジョンヒョンは酷く真剣な眼差しを向けていた。意志の強そうな瞳に心を鷲掴まれて、動けない。黙っているジンギに、ジョンヒョンはさらに言葉を重ねた。
「ヒョンは、俺のこと好きだったんだよな? それとも、全部俺の勘違い?」
「勘違いじゃ、ない……」
「やっぱそうだよな? じゃあなんで、俺のことずっと『友人』にしたの? 『恋人』で予約してくれたら、俺の方は、いつだって……」
あんなにしっかり見つめてきていたジョンヒョンが、小さくなっていく語尾とともに視線を少し下げた。ジョンヒョンを好きでいながら「友人」の線を引き続けてきたジンギに、さすがのジョンヒョンも自信がなくなりそうだった。
「だって、そんなの……」
弱々しくなるジョンヒョンの言葉に、ジンギも小さな声で話し始める。お互いに好き合っているはずの二人が拗れてしまったすれ違いを、ようやく紐解いていく。
「そんなの、虚しいでしょう。好きな人にお金を払って、二時間だけ僕の恋人にしたいだなんて、僕には割り切れなかった」
「……俺は、ヒョンが『友人』って言い続ける以上は、俺の方からは何も出来ないからさ。だから結構、必死だったんだよ」
「ごめん。でも、君に嫌われたくなくて……怖かったんだ。君がくれるものは全部、君の仕事の範囲内だって言い聞かせてた」
「もしかして、俺がキスしたのも仕事だと思ってたのか?」
「それは……」
あの日、突然唇を奪ったジョンヒョンをジンギは強く突き飛ばし、泣いて走り去った。ソフトクリームを食べる唇に我慢ができなくなって衝動的にしたことだったが、喜ばれるという期待は変だとしても、あんなふうに嫌がられるつもりもしていなかったから、ジョンヒョンとてショックだったのだ。
「仕事っていうよりは、僕を切るためにしたんだと思ってた。僕の気持ち全部バレてたんだなって……僕がもう二度と君をレンタルできないように、キスして僕の反応を確かめてから、ルール違反の事実を作ろうとしたのかと」
「えぇ……俺をなんだと思って……。っていうか、考えが飛びすぎじゃないか……?」
「ごめん……」
思い返せば突飛すぎたジンギの思考回路に、二人はだんだん笑いが込み上げてきた。ジンギの説明するジョンヒョンは、ずいぶん悪くて酷い男に仕上がっている。自信のなさもここまで来ると感心するほどだ。
目元を手で覆うようにして呆れていたジョンヒョンだったが、すっとその手を外すと、テーブルの上に置かれているジンギの手の上に重ねた。逃げないで、というようなその仕草に、ジンギは覚悟を決める。
「じゃあさ、もう俺はレンタル彼氏じゃないんだし、全部そのまま受け取ってくれる?」
もう、ここまでの会話で答えは見えている。あとはお互いに口に出して、素直な気持ちを交換して、確かめるだけだった。
「好きだよ、ジンギヒョン。俺をヒョンの彼氏にして」
「……うん。ジョンヒョナ、僕の恋人になって」
「もちろん。よろしくお願いします」
「よ、よろしくお願いします」
テーブルを挟んでお辞儀をするとまるで初対面のようで、ひと呼吸おいて二人は一緒にくすくす笑った。
「なんだこれ」
「んふふっ、なんか、変な感じ」
レンタル彼氏と利用者としてではなく、ただの個人のキムジョンヒョンとイジンギとしての新しい関係が、今から始まる。正真正銘、二人は恋人同士となったのだった。
レンタルデートではないことを証明したいと言い出したジョンヒョンによって二人分の支払いが済んだあと、二人は店を出て足の向くままに歩いた。この通りは前にも二人で歩いたな、とジンギが記憶をたどっていると、ジョンヒョンが急にジンギの手を握り、くるりと方向を変えて歩き出した。
「ちょっと、ジョンヒョナッ……!」
簡単に繋がれてしまった手が恥ずかしくて思わず離そうとするジンギに、離すまいとジョンヒョンが強く握り直す。ジョンヒョンがジンギを連れ込んだのは、数ヶ月前に小さな看板を見つけた細い路地だった。
「大丈夫。こんな狭い路地じゃ、誰も見てないよ」
「でも、」
「彼氏なんだから、デートの最中に手繋ぐくらい、普通だろ」
周りをきょろきょろと気にしているジンギに、ジョンヒョンが悪戯っぽく笑いかける。ジンギの反応をからかっているような彼の笑顔はそれでもどことなく優しくて、きゅっと下がる目尻が懐かしくて、ジンギも思わず微笑んだ。
「そう……だね。うん……」
彼氏という響きに照れているジンギは、恥ずかしそうに、しかし嬉しそうに少し俯いた。その顔がいじらしくて、ジョンヒョンは思わず握った手を引き寄せ、唇にキスをした。突然のキスに驚いたジンギだったが、ゆっくりと自ら体の力を抜いて、ジョンヒョンの手をそっと握り返した。
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