恋するあなた

 翌朝、二人はジンギのスマホのアラームで飛び起きた。もう随分前から土曜日にもアラームの繰り返し設定をしているジンギが、今日もそれを切らずにそのままにしていたのだ。ジョンヒョンが体を起こすと、ジンギは記憶が曖昧なのか、それとも動揺して頭が働かないのか、目の前のベッドにいるジョンヒョンと自分のスマホを交互に見ている。
「えっ、あれ、僕なんでここに、あっそうか昨日……って、仕事!」
 顔を洗おうとしたのか慌ててベッドから降りるジンギの手を、ジョンヒョンがぐっと掴んで引き止めた。昨日のうちに諦めたかと思ったが、まだ休む気はないらしい。
「こっからじゃどうせ遅刻だろ。諦めて休めよ」
「そうだけど、でもとにかく行かないと」
「貸して」
「あっ! 返して!」
 ジョンヒョンは昨晩のようにジンギの手からスマホを奪うと、バスルームに立てこもって勝手に欠席連絡を入れた。会社員がどういう形式で休みを取るのかジョンヒョンにはよく分からなかったが、適当にチャットアプリやメールを覗いてみたら過去の履歴にそれらしいものを見つけたから、見よう見まねで当欠で連絡した。
「ジョンヒョナ! スマホ返して! 開けてよ!」
 さっきからバスルームのドアを叩いているジンギの声はこれまで聞いたことがないくらい鋭かったが、そんなものに負けていられなかった。どうせあの調子じゃ有給休暇だってほとんど使っていないだろうし、この機会に無理にでも休ませてしまいたかった。それくらい、仕事にとらわれているジンギの様子は、ジョンヒョンには見ていられないものだった。
 ひと仕事終えたジョンヒョンはようやくバスルームの扉を開けた。勢いのまま倒れ込むようにしてジンギが入ってくる。ジョンヒョンの手からスマホをひったくると、勝手に入れられた欠席連絡にひゅっと喉から変な音を出した。
「なっ……」
「昨日ふらふらであんなに顔色悪いんだし、大人しくこのまま休んだらいいじゃん」
「そういう訳には、」
「明日は休みなんだろ? チェックアウトまでまだ時間あるし、もうちょいゆっくりしてきなよ」
 ジョンヒョンがそう言うと、ジンギはスマホを両手で握りしめたままその場に座り込んでしまった。虚空を見つめて、ぶつぶつと何か呟いている。
「どうしよう……休んじゃった……どうしよう」
 さっきまであんなに荒っぽくドアを叩いていたのに、ジンギは一気に勢いを無くして、ズル休みの事実に怯えているようだった。ジョンヒョンとしてはズル休みさせたというより必要な休息を取らせたつもりなのだが、ジンギはそう思わないらしい。
「行かないとやばい何かがある訳じゃないんだろ? 今日一日休むくらいで、なんでそんな……」
 ジンギを宥めるつもりでジョンヒョンが言葉をかけると、ジンギはゆらりと顔を上げ、ジョンヒョンをまっすぐ見つめた。怒っていた。
「君には分からないかもしれないけど、そんなに簡単じゃないんだよ」
「っ、」
 そう言われてしまうと、何も言い返せない。ジンギの言う通り、ジョンヒョンは会社勤めの経験がないから、休めないというジンギの言葉がどういう背景や心境で発されているのかもきちんとは理解できていない。ジンギはきっとジョンヒョンを睨むと、彼に似つかわしくない鋭い声でジョンヒョンを詰った。
「どうして勝手なことするの!?」
「……心配なんだよ!! ヒョンが好きだから!!」
 ジンギの勢いにつられるようにして、ジョンヒョンも荒い声を出した。こんな声色で言うようなことじゃなかったのに。好きだというジョンヒョンの言葉を聞いたジンギの目の色が、燃えるような赤から、濁った黒に変わる。
「レンタル彼氏って、他の人達にも同じようにしてるの? ……そうやって色んな人に好きだって言うの?」
 あまりに暗い瞳と声色に、ジョンヒョンは絶句しかけた。目の前のジンギが、ジョンヒョンをそっと見つめて頬を染めていた時のジンギと同じ人だというのが怖いほどだった。
「ちが、本気だって、」
「もういいよ、プライベートでまでそんなこと言わなくていい」
「そうやって卑屈になるのやめろよ! 見てて悲しくなる」
 プライベートの状態で本気で好きだと言っていても、ジンギは信じようとはしない。ジョンヒョンがいくら本心をそのまま伝えているつもりでも、ジンギの耳にはその通りに届いてくれない。何がそこまでジンギを躊躇わせ、疑わせるのだろう。
「せっかく僕が引いた線を、どうして君は越えようとするの? ……もう、いい加減苦しいよ」
「ヒョンの方こそ、なんでそんなに我慢するんだよ。なんで楽な方を選ばないの? どうしてわざわざ苦しいままでいようとするの?」
 ジンギとジョンヒョンの関係性を変える権利は、ジンギにあるはずなのに。どうして「友人」にこだわって、切なそうに見つめられるばかりなのだろうか。ジョンヒョンの方からも好意を示しているのだから、ジンギから言ってくれれば、本当の彼氏にだってすぐにでもなれるというのに。ジョンヒョンが何度手を伸ばしたつもりでも、ジンギは掴もうとしないどころか、後ずさるのだ。
「僕たち、『友人』だったよね……?」
「……ヒョンが俺をそう決めるんだろ」
 二人はしばらく黙って対峙していたが、ジンギが先に目を逸らした。ジョンヒョンの隣をすり抜けて、バスルームに入っていく。ジョンヒョンが自分のベッドに戻ると、ぱたりと静かにしまった扉の向こうから、水を使う音に混じって鼻をすする音が聞こえた。泣きたいのはジョンヒョンだって同じだ。ジンギは明らかにジョンヒョンを好きだったのに、好きになってもいいとジョンヒョンから示していたのに、なぜかジンギは身を引いてしまう。酷い顔色になるまで働いているのに、ジンギを心配するジョンヒョンを拒絶する。ジンギもジョンヒョンを好きなはずで、ジョンヒョンもジンギを好きだと言っているのに、どうしてこんなことになるのだろうか。
 しばらくするとジンギがバスルームから出てきた。顔を強く擦ったのか、目元を含めところどころが赤い。出勤するのはさすがに諦めたのか、緩慢な手つきで荷物を漁っている。
「……チェックアウトは何時? お金はいくら?」
「十時。金はもう二人分払ってある」
「だから、いくらなの」
「俺が勝手にヒョンを連れ込んだんだから、俺が払う」
「……そう」
 ジンギの声はもう怒っていなかったが、痛々しいくらいに静かだった。まだ荷物を整理しているらしいジンギをそのままに、ジョンヒョンも手早く身支度を整えた。着替えてバスルームを出ると、ジンギはベッドに腰掛けてぼんやりと窓の外を見ていた。もうすっかり明るくなった街に走る車や電車を、ジンギは無表情で見つめていた。
 ジョンヒョンはそんなジンギの横顔を見ていられなくて、自分もボディバッグにスマホや財布を黙って詰めた。備え付けのメモにボールペンを走らせてちぎり、部屋の鍵とともにテーブルに置いた。
「俺もう出るけど、ヒョンは好きな時間に出たらいいよ。鍵はここに置いてくから、チェックアウトしといて」
「……」
「勝手なことばっかりして、ごめん」
 ジンギは窓の外を見つめたままこちらを向かなかった。無視されるのは初めてだなとどこか冷静に思いながら、ジョンヒョンはひとりでホテルを出た。朝食を何も食べていないが、食欲は全く湧かなかったから、コーヒーだけ道中のコンビニで購入した。すきっ腹に良くないと思いつつ、今のジョンヒョンにはブラックコーヒーの苦味がちょうど良かった。
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