恋するあなた

 ある晩、ジョンヒョンはレンタル利用者とのディナーデートの後、自宅へと戻るために電車に乗った。交通費は貰っていたからタクシーに乗っても良かったのだが、金曜の夜だからかなかなか捕まってくれず、諦めて電車を選んだのだ。終電にはまだ数本早いが十分遅い時間帯だったから、酷く混んでいるというようなことはない。適当な座席に座って、今日の「彼女」にフォローのメッセージを送った。
 普段乗らない路線だったため、駅をすぎる度になんとなく電光掲示板を見ていたら、何回目かに顔を上げたタイミングでとある乗客が目に入った。その男性は、仕事終わりだろうか、黒いリュックを抱えた上に顔を伏せるようにして目を閉じている。
(え、ジンギヒョン……?)
 目が留まったのは、その男性がジンギによく似ていたからだった。思わず席を立ち、天井近くの路線図を確認しに行くふりをしながら彼に近づく。そっと顔を見れば、やはりその男性はジンギに間違いなさそうだった。
(もしかして、残業の帰りとか?)
 眠っているように見えるが、眉間にシワがよって疲れが全身から滲んでおり、とても遊びの帰りのようには見えなかった。彼と出会ったばかりの頃、常に仕事が忙しいと言って目の下を薄い黒に染めていたジンギを思い出す。会社員をやったことのないジョンヒョンにはいまいちはっきりとした想像がついていなかったが、まさかこんな時間の電車に乗って帰っているとは思わなかった。
 そのまま黙って見守っていたが、ジンギは電車の揺れやドアの開閉アナウンスにも目を閉じたまま、一向に起きなかった。ジョンヒョンはジンギの最寄り駅を知らない。まだ先なのか、それとももう過ぎてしまっているのかも分からない。
(起こした方がいいか? いや、でも……)
 ジョンヒョンはジンギに声をかけるのをどうしても躊躇った。もし彼の最寄りがもう少し先ならば自分で起きるかもしれないし、せっかくの睡眠時間を邪魔するのは悪い気がした。それに、「友人」を演じさせていたのに急にキスしてきた男が仕事帰りに再び声をかけてきたら、怖がられるだろうと思った。ジンギがジョンヒョンを拒絶する顔は、網膜にこびり付いたあの日の光景だけで十分だった。
『次は──』
「……っ」
 どうすることもできずただ眠るジンギを見つめていたら、ジョンヒョンが乗り換えに降りる予定だった駅まで来てしまった。時間的に、ここで降りなかったら確実に終電は無くなるだろう。
(ジンギヒョン……)
『──行き、ドアが閉まります』
 結局、ジョンヒョンは降りられなかった。ジンギがどこまで乗るのか気になったし、偶然また会うことができた奇跡のようなこの時間から、黙って去るのがどうしても惜しかった。
 ジョンヒョンはジンギの真向かいに座り直すと、リュックに沈むように眠っているジンギをひたすら見つめていた。そうしている間に駅をいくつも通り過ぎ、乗客はどんどん減っていった。もうそろそろ起こしてあげないといけないのではないかと焦りながら、前のめりに腰掛けた体勢で声をかけられないまま、電車はどんどん進んだ。
『次は終点、──』
「……」
 ジョンヒョンがジンギを見つけてから三十分ほど乗り続けた電車は、ついに終点にたどり着いてしまった。車内に残っている乗客はまばらで、こうなったらもう、ジョンヒョンがジンギを起こすほか無かった。
 ジョンヒョンは深呼吸すると、立ち上がって、リュックを抱えているジンギの腕を軽く叩いた。
「……ん、……」
 起こされたジンギは眠そうに眉間のシワを深くする。ずっと前にデートしていた時よりもいっそう疲れきった様子に心が痛んだ。
「……終点ですよ」
「しゅう、てん……」
「うん。……起きて、ジンギヒョン」
「うん……えっ?」
 ジョンヒョンが名前を呼ぶと、ジンギはパチリと目を開けた。まだ眠気の残る顔が、ジョンヒョンを見上げる。
「ジョンヒョナ……? え、なんで……えっ?」
「ヒョン、とにかく降りないと」
「え、あぁ……」
 ジョンヒョンは寝起きで若干ふらついているジンギの手を引いて、共に電車から降りた。まだリュックを前に抱えたままのジンギが、混乱した様子で、ジョンヒョンに掴まれていた手を離した。
「あの、どうして君がここにいるの」
「……デートの帰りに、たまたま見かけた」
「デートって、……っ」
 誰とデートしたとは言わなくても、それがレンタル彼氏としての仕事のデートだと、ジンギはすぐに分かったらしい。二人の間に気まずい沈黙が訪れた。ジョンヒョンはいたたまれなくなって、とりあえずスマホを取り出し、乗り換え検索アプリを開いた。
「ヒョンって、ここから最寄り近いの? 仕事帰りだよな?」
「いや、……だいぶ過ぎてる」
「……」
「君は? ここで降りるの?」
「えっ、と……」
 ジョンヒョンが降りるはずだった駅ももうとっくの昔に過ぎている。ジンギもジョンヒョンも、この終着駅には全く馴染みがなかった。
「……っていうか、ヒョンここから帰れるの? 時間やばくない?」
「え? ……あ! ど、どうしよう」
 ジョンヒョンに言われたジンギは自分もスマホを取り出し、時計表示を見て焦り始めた。ジョンヒョンの方はさっき調べてもう無理そうなことがわかっていたが、ジンギもスマホを操作しながら、どんどん顔から血の気が引いていく。
「どうしよう、帰れな、でも、どうしよう、あした、」
「もしかして、明日も仕事なの?」
「うん、だから帰らないと……っ!」
「……まじか」
 どこかの安いホテルか漫画喫茶で朝まで時間を潰す方向で検索を進めていたジョンヒョンは、ジンギの焦りように罪悪感が増した。こんなに取り乱すのなら、もっと早く声をかけていればよかった。
「タクシー、? とにかく、帰らないと、……ここどこ? 家までどれくらい……」
「ヒョン……」
 ジンギは単に焦っているというよりは、どことなく怯えているような、脅迫めいた何かに急き立てられているような雰囲気でスマホを操作している。ジョンヒョンが起こすのが遅かったのは事実だが、そもそもジンギを見つめた時点で時刻は既に深夜に入りかけていた。どこで降りる予定だったのか知らないが、あんな時間から家に帰って、また明日仕事に行こうとしているのだ。それもおそらく、毎日。
 そんなジンギを見ているとなんだかとてつもなく悲しくなってきた。ジンギが話したがらなかった会社員としてのジンギの日常が、こんなふうにジンギを追い込んでいるのだと、目の当たりにして今知った。ジョンヒョンとのデートで見せていたような明るくて可愛らしい表情が、どうしてこんなに暗く陰鬱な顔をする人から生まれただろうと思うほどだった。勝手なことを言っていると分かりながらも、ジョンヒョンはジンギを引き止めずにいられなかった。
「……日曜は休みなんでしょ? 明日一日くらい、休んじゃいなよ」
「だめだよ」
 ジンギはジョンヒョンの言葉を即座に却下した。あまりの即答に少し面食らう。しかし、負けじとジョンヒョンも続けた。
「どうせ今からそんなふらふらで帰ったって、ちょっと寝たらすぐ行かないといけないんだろ」
「でも、行かなきゃ」
「明日どうしても休めない予定が入ってるの?」
「そういうわけじゃないけど、でも、仕事だから」
「もう、いいから休めって」
「あっ」
 ジョンヒョンの提案を聞き入れないジンギにだんだん苛立ってきて、思わずジンギの手からスマホを取り上げた。スマホを取り返そうとするジンギを躱しながら、そのままもう片方の手に持っていた自分のスマホでビジネスホテルの予約を入れた。
「俺も今日はここで泊まってくから。二人分でホテル取ったし、ヒョンも明日は休んで」
「あっ、ちょっと! ジョンヒョナ……ッ」
 ジンギの腕を掴み、引っ張って改札の方へ歩く。ロータリーに停まっていたタクシーにジンギを押し込み、運転手に近くのビジネスホテルの名前を告げた。
「ジョンヒョナ、だめだよ、今からでも家の方に行ってもらうから、」
「いい加減諦めろって」
 ホテルまでの短い道のりの中でなんとか運転手に行き先の変更を試みるジンギをどうにかおさえつつ、ホテルに着くと手早くチェックインしてエレベーターに引きずり込んだ。客室に着く頃にはジンギも大人しくなっていたが、納得したというよりは放心しているという様子だった。
「……もしかして一緒の部屋なの」
「そうしないと逃げられそうだったから」
「……」
 二つ並んだベッドの片方にボディバッグを投げたジョンヒョンに、ジンギの表情が引きつった。その顔を見て、下心は一切なかったとはいえ、最悪の別れ方をした後にホテルで同室を用意したのは良くなかったことに気づく。ジョンヒョンの方も必死だったから、あまり気を回せていなかった。
「……別に、何もしないって。ほんとだよ」
「うん……」
「ヒョン先にシャワー浴びなよ。そんでもう寝た方がいい」
 ぼんやり突っ立っているジンギをバスルームに押し込むと、要りそうなものを買ってくると声をかけて部屋を出た。まさかジョンヒョンが部屋を空けている間に逃げるようなことはないだろうが、近くのコンビニまでダッシュした。
 コンビニから帰ると、ジンギは大人しくシャワーを浴びてくれたようで、扉の向こうから聞こえる水音に内心ほっとする。ジョンヒョンも交代でシャワーを浴びてベッドに戻る頃には、ジンギはマットレスに沈んで寝息を立てていた。ジンギが目を覚ました時にすぐ手に取れるように未開封の水をベッドのそばに置くと、ジョンヒョンは自分のベッドの縁に座った。
 「友人」なのに勝手にキスしてきた男が仕事帰りに急に現れ、あろうことかホテルの部屋に連れ込まれるなど恐ろしくて仕方ないはずなのに、ジンギはまるで気絶しているかのように眠っている。それほど疲れているのだろう。ジンギの寝顔は穏やかとは言い難く、やはり少し眉間が険しいまま静かに呼吸している。
 ジョンヒョンはそっと手を伸ばすと、指の背でジンギの目の下の黒を撫でた。隈の部分だけでなく、全体的に肌の色が暗い。日焼けや元の肌色というより、やつれてくすんでいるように見える。触ると起こしてしまうだろうかと思ったが、深く眠っているのか、ジンギの呼吸は一定のままだった。眠っているのをいいことに優しく撫でていたら、心做しかジンギの表情がふっと和らいだ。そんなジンギの様子に、頻繁に会っていた頃の柔らかい彼の笑顔を思い出して、なんだか涙が出そうになる。
「……おやすみ、ヒョン」
 ジョンヒョンは電気を消すと、自分もベッドに潜り込んで目を閉じた。
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