恋するあなた
ジンギはそれから月に一度のペースでジョンヒョンをレンタルするようになった。時には月に二回会うこともあった。二人はすっかり打ち解けて、ジョンヒョンがジンギに似合う服を選んでくれたり、商店街を端から端まで見て歩いたり、様々な二時間を重ねていった。費用はすべてジンギ持ちのためあまり奮発することもできず、ジンギは決まって二時間しかレンタルの時間を取らなかったが、ジョンヒョンと過ごす時間はいつもジンギを癒してくれた。
この日は、初めて会った時にジョンヒョンが連れてきてくれたレストランに再び食事に来ていた。料理を待っている間にジョンヒョンが過去にステージに立っていた頃の映像を見せてくれ、ジンギはそれにすっかり見入ってはしゃいだ。見たところ学生バンドのようだが、ジョンヒョンによると、サークル活動ではなく個人的な活動として行っていたらしい。
「すごい……こんなに上手にやれるものなんだね」
「バンドとか、軽音サークルとか、あるにはあったんだけどさ。どうしても熱量とか、技量とか、方向性が違って、そんなら自分たちでやろーぜって」
「もしかしてオリジナル曲とかあるの?」
「一応、ある」
「えーっ! すごい、すごいよ!」
ジョンヒョンのスマホを覗き込んで目を輝かせるジンギは、お世辞を言っているという雰囲気はひとつもなく、ひたすらに歓声を上げている。なんだかこれではレンタルされているジョンヒョンの方が気分を良くしてもらっているような気がするが、ジンギは素で喜んでいるようだから、そのまま映像を見せた。
「こんなに上手なのに、今はもうステージはやらないの?」
「んーそうだな……今は裏方やる方が好きかな」
「そうなんだ……なんかちょっと勿体ないかも」
「ははっ、まあ今も演者やってたら、レンタル彼氏なんてやれないし」
「あっ、それはそうか」
確かにジョンヒョンの言う通りだ。ただでさえ見目のいいジョンヒョンがステージに立っていたら間違いなくファンがつくだろうし、そんな状態でレンタル彼氏の仕事はできないだろう。
その時ふと、なぜジョンヒョンはレンタル彼氏の仕事をしているのだろうと疑問に思った。今まで気にならなかった訳ではないが、それを聞いてしまうのはなんだか怖いような気がして、なんとなく隅に置いておいた疑問だった。そもそも聞いて良いものか分からなかったが、好奇心が勝って恐る恐る尋ねてみた。
「ねえジョンヒョナ」
「ん?」
「その……嫌だったら答えなくていいんだけど」
「うん?」
「僕が君とこうして話せてるのはこういうサービスのおかげだけど、どうして……レンタル彼氏をやろうと思ったの?」
「あぁ、」
嫌がられるだろうかと思ったが、存外ジョンヒョンはそれほど気にしていないようだった。ジョンヒョンは顎に手を置きながら、考え込むような顔で話し始めた。
「人間観察みたいなものかな。こういうサービスを使う人って、色んな人がいるから」
「人間観察?」
「そう。理想のデートがしたいって人もいるし、これから恋愛するための練習がしたいって人もいたな。あとは、ただ話し相手になってほしいって人もいる」
自分のことだな、と思いながらジンギはジョンヒョンの説明を聞いた。ジンギの場合は男性だが、日常の悩みや疲れをただ優しく聞いて受け止めてくれる男性が欲しい女性は少なくないのだろう。リアルに彼氏や男友達を作ることでもそういう相手が見つかるかもしれないが、実際に自分の人生に関わる相手には、なかなか話しづらいのかもしれない。具体的な助言や叱咤、励ましではなく、ただ受け止めて慰めてくれて、デトックスさせてくれることを望む人にとっては、たしかに気楽なサービスだろう。
「じゃあ、人間観察が楽しくてやってるって感じ?」
「楽しいっていうか、勉強みたいなものかな。上手くいけば音楽にも使えるかもしれないし」
「へぇ……?」
「人の心に届く音楽を知るために、まず人の心を知ってみたくなった。理由としてはそんなところかな。何か切羽詰まった理由がある訳じゃないんだけど」
ジョンヒョンが今、裏方として音楽のどういうところに携わっているのかはまだ聞いていない。しかし、どういうポジションであっても、彼が音楽に対して真摯に向き合っているのだということが彼の真面目な表情から分かった。ジンギにはそんなジョンヒョンが羨ましく、眩しかった。
「あ、でもこれは他の人に言わないで。俺とヒョンの秘密にしておいて」
「っ、! わ、分かった」
ジョンヒョンは少し声を落とすと、小さく首を傾げてジンギを見つめた。その仕草は芝居地味ているようで、しかしジョンヒョンがやると嫌な感じは少しもしなかった。ジンギは頬が熱くなるのを感じながら、慌てて首をぶんぶん縦に振った。
ジンギがジョンヒョンをレンタルする時の関係性は、最初から今も、一貫して「友人」だった。回を重ねる事に、ジンギはジョンヒョンとの距離感がもうほとんど本当の友人と変わらないようなものになっていると感じていた。それどころか、ジンギとしては、ジョンヒョンに対し友人以上の感情を覚えるようになっていた。
最初は、ジョンヒョンが時折挟んでくる「彼氏」のような振る舞いが珍しくて、感心したり、驚いたりしているだけだった。ジョンヒョンのそれは戯れであり、レンタル彼氏としての癖のようなものなのだろうと察された。しかし、そうは分かっていても、そんな彼の振る舞いにジンギはいつまで経っても慣れなかった。またやっているなぁと半ば呆れながら思うようになる訳でもなく、むしろ、ジョンヒョンがジンギを時折恋人のように扱う度に心臓が跳ねたし、またそういう言動が不意に飛び出してくれやしないかと期待してしまった。
しかし、ジンギがジョンヒョンに注文している関係性はずっと「友人」なのだ。それならば、ジョンヒョンも「友人」の範囲内のコミュニケーションとして二時間を演出しているに違いない。二人の関係はジンギがジョンヒョンを予約することで成り立っているし、ジョンヒョンにとっては本業でないにしてもお金を稼ぐ手段なのだから、ジンギのような常連のリピーターは逃したくないだろう。ジョンヒョンにとって、ジンギはあくまでサービスを提供する客なのだ。その中で、「仲の良い友人」を演出するために、少々のリップサービスを交えているだけのこと。
ジンギの方から関係性を「恋人」に変えて予約することは容易だ。申し込みフォームに入力する文字を変えれば良いだけだ。先月まで友人として会って築いてきた関係性を、ジョンヒョンなら上手く恋人にスライドさせてくれるだろう。しかし、それはあくまで仕事としてだ。ジンギの方からジョンヒョンを恋人役に指名して、二時間のデートをサービスしてもらうのは、システムとしては簡単なことであっても、ジンギにとって最も傷つくやり方に違いなかった。好きな人にお金を払って「恋人として二時間デートしてくれ」だなんて、そんな虚しい選択はできなかった。
それならば、「友人」の関係性のままで、ジンギがひとり片想いを続ける方がよっぽど気が楽だった。幸い、ジョンヒョンがレンタル彼氏を辞めない限り、そしてジョンヒョンがジンギの恋心を察して拒絶しない限りは、この関係を続けることができる。金を払う立場のジンギには、その権利があるのだ。
「俺さ、ジンギヒョンと会えて良かったって本気で思ってるよ」
「今月もヒョンが俺に会ってくれるかなって、実はいつもちょっと不安なんだ。俺の方がヒョンに会いたくなっちゃうから」
「ヒョンと一緒にいる時間って、ほんとに他の時間と同じ速度で進んでるのかなって思う。あっという間に過ぎるんだよ」
ジョンヒョンはジンギにいつもこんなことを言った。そう言われる度に、ジンギの胸はきゅうと締め付けられた。そんなセリフを言われて嬉しい反面、それらが全てこの二時間だけ有効な魔法なのだと思うと、まともに受け取ってしまうのが苦しかった。この気持ちがバレてしまったら、普段は女性とデートをしているはずのジョンヒョンに気持ち悪がられて、利用を断られるかもしれない。ジョンヒョンがレンタル彼氏として男性と恋愛デートをすることはシステム上可能だとしても、ジョンヒョンがジンギを名指しで拒絶することは十分に有り得る。そうなれば、ジンギとジョンヒョンを繋ぐものはもう何一つ無くなってしまうのだ。自分とジョンヒョンは「友人」なのだと、毎度そう強く自分に言い聞かせ、ジンギはジョンヒョンのレンタル予約を入れるのだった。
最初の日と同じハンバーグランチを食べた二人は、ソフトクリームを味違いでひとつずつ買って、食べながら残り時間まで散歩した。食べ物を持っているせいで服や雑貨が売っている店には入れなかったから、ショーウィンドウの外から二人で中を眺めた。
「ヒョンのそれ、何味だっけ」
「ピスタチオ」
「期間限定の?」
「そうだったと思う。そっちはバニラだよね」
「ん。バニラがいちばん、ソフトクリーム食べてるって感じするし」
「たしかに。ソフトクリームのバニラとカップアイスのバニラって違うよね」
ジンギがそう言うと、ジョンヒョンが手に持ったソフトクリームを差し出してきた。言葉はないが、目と眉が少し上がって、「いる?」と聞いてきている。
「あ……」
ジンギは一瞬躊躇ったが、結局差し出されたバニラのソフトクリームをひと口貰った。なるべくジョンヒョンが口をつけていないところを選んでそっと顔を寄せ、優しく食んだ。形を保っていた冷たいクリームが熱で溶けて、ゆるくべたつく液体が唇を汚す。ソフトクリーム独特のすっきりしたバニラ味が、ジンギの口の中で溶けて広がっていった。
「俺も」
ジンギが返事をする前にジョンヒョンの手が伸びてきて、黄緑色のソフトクリームを持っている右手が包まれた。ジョンヒョンは温かい手でジンギの右手ごとコーンを支えると、顔を寄せ、ピスタチオのソフトクリームを唇でひと口食んで離れていった。
「んー……ピスタチオ味って正直よく分からん」
「……そうだね」
「俺はやっぱバニラだな〜」
「……僕も、バニラがいい、かな」
言葉を返すのに精一杯で、平坦になった声色を取り繕うことができない。喉の奥が詰まったようになって、まともに息を吸って吐くことすら、意識を向けないと上手くできそうにない。ジョンヒョンは再び自分のバニラ味を食べ進めながら、首を伸ばして向こう側の通りを覗き込んでいる。今は多分、ジョンヒョンの口の中で、バニラの白とピスタチオの黄緑が混ざっている。
たったこれだけのことで、こんなにも動揺している。食べ物や飲み物のシェアなんて、ジンギだってこれまで色々な人と何度もしてきたのに。ジンギもジョンヒョンも、もういい大人だというのに。
さっきジンギが食べたところに、ジョンヒョンはなんでもないように口をつけ、舌を伸ばしている。ジンギの手を握って、黄緑色のクリームを食んでいたジョンヒョンの唇が、ジンギの目の奥に焼き付いて消えない。早く食べないとクリームがどろどろに溶けてしまうのに、どうしても次のひと口が恥ずかしくて、ジンギはそっとコーンの端っこに歯を立てた。
「ヒョン、ジンギヒョン!」
「ん……うん?」
「どうしたの、ぼーっとして」
「な、なんでもない」
ジョンヒョンはいつのまにか自分の分を食べ終わっていたようで、ぼんやりとコーンを咥えているジンギを不思議そうにじっと見ている。ジンギは慌てて笑顔を作って、ゆるゆるの液体になりつつあるソフトクリームを急いで胃に収めた。
「そう? 俺あっちの路地の奥の店がちょっと気になるんだけど、行ってみてもいい?」
「あ、うん」
ジョンヒョンが指を向けている路地は、一見すると何も無いただの細い路地でしかないのだが、よく見てみると奥の方に小さな看板が出ているようだった。人の多い広い通りを離れて、少し細くなった道を進む。二人並んで歩くには少し狭くて、ジンギはジョンヒョンの斜め後ろを着いて歩いた。歩きながら、ジョンヒョンが前を向いたままジンギを呼んだ。
「ヒョン」
「なに」
「……」
「ジョンヒョナ?」
ジョンヒョンはジンギの名を呼ぶだけ呼んで、ぴたりと足を止めてしまった。看板の出ているところまではまだ少し距離がある。思っていた店と違ったのだろうかと不思議に思っていると、ジョンヒョンはくるりと向きを変えてジンギを振り返った。
「ジョンヒョナ……?」
ジョンヒョンは妙に真剣な顔つきをしていた。しかしそれは、自分を卑下するジンギを窘める時の顔とも、音楽について話している時の顔とも少し違っていた。どことなく切なそうな、苦しそうな顔。さっきまで機嫌よくソフトクリームを食べていたのに、急にどうしてそんな顔をするのか分からなかった。
「ヒョン」
「うん」
「……ジンギヒョンはさ、……」
「僕が、何……?」
「……いや、ヒョンがっていうか、俺が……」
「ジョンヒョナ、急にどうしたの……」
急に神妙な顔になって歯切れも悪くなるジョンヒョンが何を言いたいのか全く分からない。いや、分からないというよりも、怖かった。何を言われるのか、どうしてそんな顔をするのか、心当たりがありすぎるようで恐ろしい。
口を閉じて眉間に皺を寄せていたジョンヒョンだったが、ついに伏せていたまぶたを上げて、口を開いた。ジンギは覚悟してぎゅっと拳を握りしめた。ようやくジョンヒョンが口を開いた瞬間、ジョンヒョンのスマホのアラームが狭い路地に鳴り響いた。
「……!」
「あ、時間……」
結局ジョンヒョンが何を言いたかったのか分からないまま、約束の二時間が終わってしまった。向こうに見えている看板のお店にも、今日はもう行けないだろう。
「ジョンヒョナ、今日もありがとう。それじゃあまた……っん、!?」
「ジンギヒョン……ッ」
ジョンヒョンは突然ジンギの手首を掴むと、ぐっと強く引っ張り、よろけたジンギを抱き留めるようにして口付けた。
あまりに突然のことにジンギは酷く驚き、全身が一気に固まった。慌ててソフトクリームを食べたばかりの唇に、ジョンヒョンの唇は少し温かかった。されるがままになっていたら吸い付かれるように唇が動いたから、ジョンヒョンの胸を押して突き飛ばした。
「は、はぁっ、なに、なんで、?」
突き飛ばされたジョンヒョンは、苦しそうに顔をくしゃりと歪めている。なぜ、ジョンヒョンがそんな辛そうな顔をするのだろうか。どうしてジョンヒョンの方が泣き出しそうなのだろうか。
「……ごめん、俺、」
「………ッ!!」
ジンギはジョンヒョンに背を向けて一目散にそこから逃げた。走って、とにかく走って、めちゃくちゃな道のりで駅の方へと向かった。走りながら、目の端から涙が飛んだ。運動不足がたたってすぐにスピードが落ちてしまい、激しく息切れしながら、それでも駅を目指して足を進めた。
全部バレていた。「友人」と指定しておきながら、時折触れる指先にいちいち反応していたことも、思わせぶりなリップサービスに切なく胸をときめかせていたことも。レンタル彼氏と利用者の間に許されている接触はせいぜい軽いハグ程度までだ。キスは完全にルール違反になってしまう。いや、それ以前に、ジョンヒョンがジンギを拒絶するだろう。もしかしたらもう、二度と会えない。
ジョンヒョンは、ジンギの恋心を確かめたのかもしれない。ジンギが向ける気持ちに気づいていて、「友人」という予防線を張ってジョンヒョンとの時間を持ち続けるジンギを遠ざけるために、あえてジョンヒョンからキスしたのかもしれない。突き飛ばした後にジョンヒョンの表情が歪んでいたのは、きっと、ジンギが彼に向ける気持ちが恋で間違いないと確信して、不愉快だったせいだ。
駅に着くと、ちょうどホームに停まっていた電車に飛び乗り、そのまま真っ直ぐ帰った。日曜日の夕方、涙を我慢して電車に乗っているのはジンギただ一人だった。なるべく他の乗客に顔を見られないように、車両の隅っこで下を向いて乗った。口の中はもうバニラもピスタチオも消えてしまって、涙と飲み込んだ鼻水の味しかしなくなっていた。
それから先、ジンギがジョンヒョンのレンタルを予約することは無くなった。
この日は、初めて会った時にジョンヒョンが連れてきてくれたレストランに再び食事に来ていた。料理を待っている間にジョンヒョンが過去にステージに立っていた頃の映像を見せてくれ、ジンギはそれにすっかり見入ってはしゃいだ。見たところ学生バンドのようだが、ジョンヒョンによると、サークル活動ではなく個人的な活動として行っていたらしい。
「すごい……こんなに上手にやれるものなんだね」
「バンドとか、軽音サークルとか、あるにはあったんだけどさ。どうしても熱量とか、技量とか、方向性が違って、そんなら自分たちでやろーぜって」
「もしかしてオリジナル曲とかあるの?」
「一応、ある」
「えーっ! すごい、すごいよ!」
ジョンヒョンのスマホを覗き込んで目を輝かせるジンギは、お世辞を言っているという雰囲気はひとつもなく、ひたすらに歓声を上げている。なんだかこれではレンタルされているジョンヒョンの方が気分を良くしてもらっているような気がするが、ジンギは素で喜んでいるようだから、そのまま映像を見せた。
「こんなに上手なのに、今はもうステージはやらないの?」
「んーそうだな……今は裏方やる方が好きかな」
「そうなんだ……なんかちょっと勿体ないかも」
「ははっ、まあ今も演者やってたら、レンタル彼氏なんてやれないし」
「あっ、それはそうか」
確かにジョンヒョンの言う通りだ。ただでさえ見目のいいジョンヒョンがステージに立っていたら間違いなくファンがつくだろうし、そんな状態でレンタル彼氏の仕事はできないだろう。
その時ふと、なぜジョンヒョンはレンタル彼氏の仕事をしているのだろうと疑問に思った。今まで気にならなかった訳ではないが、それを聞いてしまうのはなんだか怖いような気がして、なんとなく隅に置いておいた疑問だった。そもそも聞いて良いものか分からなかったが、好奇心が勝って恐る恐る尋ねてみた。
「ねえジョンヒョナ」
「ん?」
「その……嫌だったら答えなくていいんだけど」
「うん?」
「僕が君とこうして話せてるのはこういうサービスのおかげだけど、どうして……レンタル彼氏をやろうと思ったの?」
「あぁ、」
嫌がられるだろうかと思ったが、存外ジョンヒョンはそれほど気にしていないようだった。ジョンヒョンは顎に手を置きながら、考え込むような顔で話し始めた。
「人間観察みたいなものかな。こういうサービスを使う人って、色んな人がいるから」
「人間観察?」
「そう。理想のデートがしたいって人もいるし、これから恋愛するための練習がしたいって人もいたな。あとは、ただ話し相手になってほしいって人もいる」
自分のことだな、と思いながらジンギはジョンヒョンの説明を聞いた。ジンギの場合は男性だが、日常の悩みや疲れをただ優しく聞いて受け止めてくれる男性が欲しい女性は少なくないのだろう。リアルに彼氏や男友達を作ることでもそういう相手が見つかるかもしれないが、実際に自分の人生に関わる相手には、なかなか話しづらいのかもしれない。具体的な助言や叱咤、励ましではなく、ただ受け止めて慰めてくれて、デトックスさせてくれることを望む人にとっては、たしかに気楽なサービスだろう。
「じゃあ、人間観察が楽しくてやってるって感じ?」
「楽しいっていうか、勉強みたいなものかな。上手くいけば音楽にも使えるかもしれないし」
「へぇ……?」
「人の心に届く音楽を知るために、まず人の心を知ってみたくなった。理由としてはそんなところかな。何か切羽詰まった理由がある訳じゃないんだけど」
ジョンヒョンが今、裏方として音楽のどういうところに携わっているのかはまだ聞いていない。しかし、どういうポジションであっても、彼が音楽に対して真摯に向き合っているのだということが彼の真面目な表情から分かった。ジンギにはそんなジョンヒョンが羨ましく、眩しかった。
「あ、でもこれは他の人に言わないで。俺とヒョンの秘密にしておいて」
「っ、! わ、分かった」
ジョンヒョンは少し声を落とすと、小さく首を傾げてジンギを見つめた。その仕草は芝居地味ているようで、しかしジョンヒョンがやると嫌な感じは少しもしなかった。ジンギは頬が熱くなるのを感じながら、慌てて首をぶんぶん縦に振った。
ジンギがジョンヒョンをレンタルする時の関係性は、最初から今も、一貫して「友人」だった。回を重ねる事に、ジンギはジョンヒョンとの距離感がもうほとんど本当の友人と変わらないようなものになっていると感じていた。それどころか、ジンギとしては、ジョンヒョンに対し友人以上の感情を覚えるようになっていた。
最初は、ジョンヒョンが時折挟んでくる「彼氏」のような振る舞いが珍しくて、感心したり、驚いたりしているだけだった。ジョンヒョンのそれは戯れであり、レンタル彼氏としての癖のようなものなのだろうと察された。しかし、そうは分かっていても、そんな彼の振る舞いにジンギはいつまで経っても慣れなかった。またやっているなぁと半ば呆れながら思うようになる訳でもなく、むしろ、ジョンヒョンがジンギを時折恋人のように扱う度に心臓が跳ねたし、またそういう言動が不意に飛び出してくれやしないかと期待してしまった。
しかし、ジンギがジョンヒョンに注文している関係性はずっと「友人」なのだ。それならば、ジョンヒョンも「友人」の範囲内のコミュニケーションとして二時間を演出しているに違いない。二人の関係はジンギがジョンヒョンを予約することで成り立っているし、ジョンヒョンにとっては本業でないにしてもお金を稼ぐ手段なのだから、ジンギのような常連のリピーターは逃したくないだろう。ジョンヒョンにとって、ジンギはあくまでサービスを提供する客なのだ。その中で、「仲の良い友人」を演出するために、少々のリップサービスを交えているだけのこと。
ジンギの方から関係性を「恋人」に変えて予約することは容易だ。申し込みフォームに入力する文字を変えれば良いだけだ。先月まで友人として会って築いてきた関係性を、ジョンヒョンなら上手く恋人にスライドさせてくれるだろう。しかし、それはあくまで仕事としてだ。ジンギの方からジョンヒョンを恋人役に指名して、二時間のデートをサービスしてもらうのは、システムとしては簡単なことであっても、ジンギにとって最も傷つくやり方に違いなかった。好きな人にお金を払って「恋人として二時間デートしてくれ」だなんて、そんな虚しい選択はできなかった。
それならば、「友人」の関係性のままで、ジンギがひとり片想いを続ける方がよっぽど気が楽だった。幸い、ジョンヒョンがレンタル彼氏を辞めない限り、そしてジョンヒョンがジンギの恋心を察して拒絶しない限りは、この関係を続けることができる。金を払う立場のジンギには、その権利があるのだ。
「俺さ、ジンギヒョンと会えて良かったって本気で思ってるよ」
「今月もヒョンが俺に会ってくれるかなって、実はいつもちょっと不安なんだ。俺の方がヒョンに会いたくなっちゃうから」
「ヒョンと一緒にいる時間って、ほんとに他の時間と同じ速度で進んでるのかなって思う。あっという間に過ぎるんだよ」
ジョンヒョンはジンギにいつもこんなことを言った。そう言われる度に、ジンギの胸はきゅうと締め付けられた。そんなセリフを言われて嬉しい反面、それらが全てこの二時間だけ有効な魔法なのだと思うと、まともに受け取ってしまうのが苦しかった。この気持ちがバレてしまったら、普段は女性とデートをしているはずのジョンヒョンに気持ち悪がられて、利用を断られるかもしれない。ジョンヒョンがレンタル彼氏として男性と恋愛デートをすることはシステム上可能だとしても、ジョンヒョンがジンギを名指しで拒絶することは十分に有り得る。そうなれば、ジンギとジョンヒョンを繋ぐものはもう何一つ無くなってしまうのだ。自分とジョンヒョンは「友人」なのだと、毎度そう強く自分に言い聞かせ、ジンギはジョンヒョンのレンタル予約を入れるのだった。
最初の日と同じハンバーグランチを食べた二人は、ソフトクリームを味違いでひとつずつ買って、食べながら残り時間まで散歩した。食べ物を持っているせいで服や雑貨が売っている店には入れなかったから、ショーウィンドウの外から二人で中を眺めた。
「ヒョンのそれ、何味だっけ」
「ピスタチオ」
「期間限定の?」
「そうだったと思う。そっちはバニラだよね」
「ん。バニラがいちばん、ソフトクリーム食べてるって感じするし」
「たしかに。ソフトクリームのバニラとカップアイスのバニラって違うよね」
ジンギがそう言うと、ジョンヒョンが手に持ったソフトクリームを差し出してきた。言葉はないが、目と眉が少し上がって、「いる?」と聞いてきている。
「あ……」
ジンギは一瞬躊躇ったが、結局差し出されたバニラのソフトクリームをひと口貰った。なるべくジョンヒョンが口をつけていないところを選んでそっと顔を寄せ、優しく食んだ。形を保っていた冷たいクリームが熱で溶けて、ゆるくべたつく液体が唇を汚す。ソフトクリーム独特のすっきりしたバニラ味が、ジンギの口の中で溶けて広がっていった。
「俺も」
ジンギが返事をする前にジョンヒョンの手が伸びてきて、黄緑色のソフトクリームを持っている右手が包まれた。ジョンヒョンは温かい手でジンギの右手ごとコーンを支えると、顔を寄せ、ピスタチオのソフトクリームを唇でひと口食んで離れていった。
「んー……ピスタチオ味って正直よく分からん」
「……そうだね」
「俺はやっぱバニラだな〜」
「……僕も、バニラがいい、かな」
言葉を返すのに精一杯で、平坦になった声色を取り繕うことができない。喉の奥が詰まったようになって、まともに息を吸って吐くことすら、意識を向けないと上手くできそうにない。ジョンヒョンは再び自分のバニラ味を食べ進めながら、首を伸ばして向こう側の通りを覗き込んでいる。今は多分、ジョンヒョンの口の中で、バニラの白とピスタチオの黄緑が混ざっている。
たったこれだけのことで、こんなにも動揺している。食べ物や飲み物のシェアなんて、ジンギだってこれまで色々な人と何度もしてきたのに。ジンギもジョンヒョンも、もういい大人だというのに。
さっきジンギが食べたところに、ジョンヒョンはなんでもないように口をつけ、舌を伸ばしている。ジンギの手を握って、黄緑色のクリームを食んでいたジョンヒョンの唇が、ジンギの目の奥に焼き付いて消えない。早く食べないとクリームがどろどろに溶けてしまうのに、どうしても次のひと口が恥ずかしくて、ジンギはそっとコーンの端っこに歯を立てた。
「ヒョン、ジンギヒョン!」
「ん……うん?」
「どうしたの、ぼーっとして」
「な、なんでもない」
ジョンヒョンはいつのまにか自分の分を食べ終わっていたようで、ぼんやりとコーンを咥えているジンギを不思議そうにじっと見ている。ジンギは慌てて笑顔を作って、ゆるゆるの液体になりつつあるソフトクリームを急いで胃に収めた。
「そう? 俺あっちの路地の奥の店がちょっと気になるんだけど、行ってみてもいい?」
「あ、うん」
ジョンヒョンが指を向けている路地は、一見すると何も無いただの細い路地でしかないのだが、よく見てみると奥の方に小さな看板が出ているようだった。人の多い広い通りを離れて、少し細くなった道を進む。二人並んで歩くには少し狭くて、ジンギはジョンヒョンの斜め後ろを着いて歩いた。歩きながら、ジョンヒョンが前を向いたままジンギを呼んだ。
「ヒョン」
「なに」
「……」
「ジョンヒョナ?」
ジョンヒョンはジンギの名を呼ぶだけ呼んで、ぴたりと足を止めてしまった。看板の出ているところまではまだ少し距離がある。思っていた店と違ったのだろうかと不思議に思っていると、ジョンヒョンはくるりと向きを変えてジンギを振り返った。
「ジョンヒョナ……?」
ジョンヒョンは妙に真剣な顔つきをしていた。しかしそれは、自分を卑下するジンギを窘める時の顔とも、音楽について話している時の顔とも少し違っていた。どことなく切なそうな、苦しそうな顔。さっきまで機嫌よくソフトクリームを食べていたのに、急にどうしてそんな顔をするのか分からなかった。
「ヒョン」
「うん」
「……ジンギヒョンはさ、……」
「僕が、何……?」
「……いや、ヒョンがっていうか、俺が……」
「ジョンヒョナ、急にどうしたの……」
急に神妙な顔になって歯切れも悪くなるジョンヒョンが何を言いたいのか全く分からない。いや、分からないというよりも、怖かった。何を言われるのか、どうしてそんな顔をするのか、心当たりがありすぎるようで恐ろしい。
口を閉じて眉間に皺を寄せていたジョンヒョンだったが、ついに伏せていたまぶたを上げて、口を開いた。ジンギは覚悟してぎゅっと拳を握りしめた。ようやくジョンヒョンが口を開いた瞬間、ジョンヒョンのスマホのアラームが狭い路地に鳴り響いた。
「……!」
「あ、時間……」
結局ジョンヒョンが何を言いたかったのか分からないまま、約束の二時間が終わってしまった。向こうに見えている看板のお店にも、今日はもう行けないだろう。
「ジョンヒョナ、今日もありがとう。それじゃあまた……っん、!?」
「ジンギヒョン……ッ」
ジョンヒョンは突然ジンギの手首を掴むと、ぐっと強く引っ張り、よろけたジンギを抱き留めるようにして口付けた。
あまりに突然のことにジンギは酷く驚き、全身が一気に固まった。慌ててソフトクリームを食べたばかりの唇に、ジョンヒョンの唇は少し温かかった。されるがままになっていたら吸い付かれるように唇が動いたから、ジョンヒョンの胸を押して突き飛ばした。
「は、はぁっ、なに、なんで、?」
突き飛ばされたジョンヒョンは、苦しそうに顔をくしゃりと歪めている。なぜ、ジョンヒョンがそんな辛そうな顔をするのだろうか。どうしてジョンヒョンの方が泣き出しそうなのだろうか。
「……ごめん、俺、」
「………ッ!!」
ジンギはジョンヒョンに背を向けて一目散にそこから逃げた。走って、とにかく走って、めちゃくちゃな道のりで駅の方へと向かった。走りながら、目の端から涙が飛んだ。運動不足がたたってすぐにスピードが落ちてしまい、激しく息切れしながら、それでも駅を目指して足を進めた。
全部バレていた。「友人」と指定しておきながら、時折触れる指先にいちいち反応していたことも、思わせぶりなリップサービスに切なく胸をときめかせていたことも。レンタル彼氏と利用者の間に許されている接触はせいぜい軽いハグ程度までだ。キスは完全にルール違反になってしまう。いや、それ以前に、ジョンヒョンがジンギを拒絶するだろう。もしかしたらもう、二度と会えない。
ジョンヒョンは、ジンギの恋心を確かめたのかもしれない。ジンギが向ける気持ちに気づいていて、「友人」という予防線を張ってジョンヒョンとの時間を持ち続けるジンギを遠ざけるために、あえてジョンヒョンからキスしたのかもしれない。突き飛ばした後にジョンヒョンの表情が歪んでいたのは、きっと、ジンギが彼に向ける気持ちが恋で間違いないと確信して、不愉快だったせいだ。
駅に着くと、ちょうどホームに停まっていた電車に飛び乗り、そのまま真っ直ぐ帰った。日曜日の夕方、涙を我慢して電車に乗っているのはジンギただ一人だった。なるべく他の乗客に顔を見られないように、車両の隅っこで下を向いて乗った。口の中はもうバニラもピスタチオも消えてしまって、涙と飲み込んだ鼻水の味しかしなくなっていた。
それから先、ジンギがジョンヒョンのレンタルを予約することは無くなった。