変わり種小説

 風が吹き抜けていく。草同士の擦れる音が耳をくすぐった。それまで曖昧だった感覚が目を覚まして、気が付いたら古い洋館の前に立っていた。周りに他の建物はない。見渡す限り草原が広がっていて、沢山の小さな花が風に揺られている。空はマーブル模様だ。一カ所を眺めているだけでも赤、青、黒、紺、オレンジと目まぐるしく色が移っていく。綺麗だが、どこか不気味にも感じる。今は一体何時なんだろうか。
 ここがどこなのか分からない、時間を知る手がかりもない。その上、周りに生き物の気配がしない。虫一匹飛んでいない。よく目をこらすと草原の向こうはひどく霞がかっていた。どうやらこの洋館に入るしかないらしい。
 唯一見える建物に近寄って、よく観察してみる。二階建てのそれは一見普通だったが、じっと見ていると奇妙な点がいくつもある。木製の白い壁はどこか煤けているが、傷んでいる様子はない。窓にはめられた幾何学模様のステンドグラスは色が褪せていた。ぱっと見た感じでは修復された跡もなかった。まるで一切痛むことなく、新築のまま時間において行かれたみたいだ。築何年くらいなのか想像することもできない。
 唾を飲み込む。拳を握ると、微かに震えているのが分かった。得体の知れない場所、得体の知れない建物。本当ならこんな怪しい場所には近寄らない方がいいんだろうが、好奇心が冷静な思考の邪魔をする。
 扉を押し開けて、入ってみたい。
 時間が経つにつれて確実に大きくなっていく感情に押しつぶされてドアノブを回した。焦げ茶の扉を開いて足を踏み入れる。
 中には本が沢山あった。ベージュのフローリングに高い本棚が規則正しく並べられて、番号が振られている。中に詰められた本は見たことのない文字で書かれているが、不思議と全部読める気がする。上から吊り下げられたシャンデリアに火が灯されていて、揺らめきながら外の空と同じように色が移り変わっていた。奥には読書スペースもあるらしい。シンプルな木の机と椅子が据えられている。
「いらっしゃいませ。図書館にようこそ」
 上から声を掛けられた。見上げて息をのむ。人が、目の前で浮いていた。床から二メートルほど高い場所で天井に頭を打たないよう前屈みにこちらをのぞき込んでいる。ラベンダーの色をした丈の長いエプロンを着け、黒いズボンと革靴を履いている。ピンクのシャツの袖は肘の手前まで折り上げて、黒の革手袋を身につけている。首筋には青いタイが結んであった。性を想起させる要素を一切除かれたかのような細身の体に黒い髪。癖のある毛質のそれは短く切られていたが、右の横髪だけは伸ばされていた。
 しかしそれよりも特徴的な物は。
「あはは。これ、やっぱり気になりますか? 初見さんには大抵二度見されるんですよ」
 性別の曖昧な掠れた声でも、勿論宙に浮いていることでもない。頭と尻に生えた白猫の耳と尻尾。そして顔全体を覆う紙のお面だ。へのへのへ、という文字が顔のように並べられている。その人が頭を掻くと、いつの間にか面の眉尻の下がった絵に変わっていた。
「お恥ずかしながら、この下は見せられる物じゃなくて。過度な詮索はしないで貰えると助かります」
 この人は人間じゃないのだろうか。話している最中にも揺らめく猫の尾と耳は偽物のようには見えない。見た目だけで言うなら怪しいことこの上ないが、何となく悪い人ではないような気がした。人懐っこい口調と照れくさそうにはにかむ様子を見ていると警戒するのも馬鹿馬鹿しく思える。
「ここは? それに、あなたは一体」
気になっていたことを率直に尋ねる。お面の人は高度を低くし、姿勢を正して恭しく頭を下げる。
「私の名前はフェレス。司書をしています。そしてここは持ち主のいない図書館。通称『微睡みの図書館』です」
「まどろみ……」
 外の景色を思い出す。雲が流れるかのように色が流れていく空、生き物が見当たらない草原。現実味がないと思っていた景色も、全部夢の中の物、という意味だろうか。
「ここはどこにもなく、どこにでもある場所です。願いを持つ人が微睡みの中でここに迷い込み、欲しい本を見つけ、すっきりして目覚める。そのシステム上貸し出しはできませんが、あなたの望む本は必ずあると保証しましょう」
 さて。あなたは何をお探しですか?
 お面に描かれた口がにっこりと微笑んでいる。何を探しているのかと言われても、そもそも自分は迷い込んできただけで……と、考えて。ふと気づいた。
 ぼくは、誰だ?
 何も思い出せない。名前も、何をしていたのかも。慌てて自分の服を確認する。無地のTシャツとズボン、どちらも真っ白。持ち物は見当たらない。自分が誰だったのか全く見当もつかない。血の気が引いていく。
「どうかなさいましたか? 顔色が悪いですが」
 首をかしげるフェレスを見上げる。何も思い出せないことを告げると、顎に手を当てて考え込み始めた。
「ふむ。またですか……」
「また?」
「微睡みの、と言うだけあって、来館者の方は夢の中にいるものですから。うっかり記憶を落としてきてしまう方もいるのですよ。災難でしたね」
 災難でしたね、で済むなら苦労はしない。フェレスにとっては他人事なのだろうが、ぼくにとっては一大事だ。緊張感のない司書を睨みつけると、尻尾を下げてあわあわとろくろを回し始めた。顔の面は怯えているような物に変わっている。
「そ、そんな怖い顔しないでくださいよ! 確かに私は魔法の心得はありますが、人の記憶に干渉できるようなものではなく……どうしようもないのです」
 耳を横に倒して悲しげな表情をする。ポケットからメモと万年筆を取り出して何かを描き込んだ。描き終わった紙を破って手渡される。雑にデフォルメされた鳩の絵は見つめるうちに動き出し、本物の姿になって紙から飛び出した。数秒だけ館内を飛び回ってから薄れて消えていく。
「私にできる魔法はこの程度です。他は司書の仕事をこなすのみ。今までそういった症状を訴えた人の中には、思い入れのある本を見つけて記憶を取り戻した方もいらっしゃいます。なので改めて問いましょう。どんな本をお探しですか?」
 真摯な態度だ、嘘は言っていないらしい。必死に記憶を探ると、単行本を読んでいる記憶が濃い霧の中に浮かび上がってきた。酷く心を揺さぶられたことを思い出す。
「本を読んだ記憶はうっすらある、けど」
「タイトルは何でした?」
「わ。分からない」
「作者名は思い出せますか?」
「さぁ……」
「ジャンルは?」
「多分小説だと思う」
「……物凄くざっくりした記憶ですね」
「す、すみません」
 とはいえ、事実これしか思い出せないのだ。もう少し何かないのか、と促されても、記憶は手のひらからこぼれ落ちて消えていく。もう少しで何か掴めそうなのに、掴んだと思ったらするりと逃げられる。もどかしくてこめかみを押さえる。何か、何か思い出せそうなのに。
「冷やかしで言っているわけではなさそうですね。分かりました、私のお気に入りの本棚に案内しましょう。特別ですよ」
 着いてきてください、と促される。先を行くフェレスの尻尾はぴんと伸びていた。確か猫は尻尾を伸ばしているときは機嫌がいいんだったか。シャンデリアに頭をぶつけないように避けながら浮遊しているところを見ていると、まるで魚が泳いでいるかのようにも見えてくる。
「そういえば、ずっと宙に浮いているのに何で靴を履いているんですか?」
 質問された側は空中で振り向いた。そうこうしている間にも後ろ向きに進んでいるが、もしかして後ろも見えているんだろうか……と訝しむ。こちらの視線を気にすることなく、お面越しに見下ろして説明を始めた。
「浮いているのではなく、足が地に着かないのですよ。皆様しっかり物理法則に従っておられて、大変素晴らしい。私のように嫌でも浮いてしまう者には羨ましい限りです」
「自分の意思じゃないんですか、それ」
「勝手に浮きますね。思った方向に移動はできるので不便に思ったことはありませんが、困ったものです。高いところは凄く苦手なのに」
「は、はぁ」
 わざとらしく溜め息をつく司書。『高いところは凄く苦手』な割に平然としているように思えてならない。怖いのならもう少し低いところで浮けばいいのに。先程姿勢を正したときは低い位置に来ていたので、天井のあたりでしか居られないということではないはずだ。
「それと、靴を履いている理由ですが。こっちは単純です。……何だか、恥ずかしいじゃないですか。皆様靴を履いていらっしゃるのに、迎える立場の私は靴下だけなんて。心の柔らかい部分を丸裸で見られているみたいな気持ちになるのです、キャッ」
 頬を赤らめて手で覆う。ふざけているようにしか見えない。さっきの『嫌でも浮く』という言葉には違う意味も含まれている気がする。少し、いや大分変わった人だ。果たして発言のどこからどこまでが本心なのやら。
「さて、着きました。ここは私のお気に入りの場所です。他の方には内緒ですよ?」
 図書館の最深、壁際に並べられた本棚は、確かに他のものとは少し違っていた。中の本がきちんと装丁されていない。紙のままクリアファイルに入れられ、本棚いっぱいに詰められている。これが図書館の本だと言われてもにわかに信じられない。
「これは何だ、って顔をしていらっしゃいますね。これはね、『物語の欠片』を集めた棚です」
「ものがたりの……かけら?」
 試しにクリアファイルをひとつ引き出してみる。中のルーズリーフにはキャラクターの落書きがしてあった。ドレスを着た少女と二人の男、だろうか。ぱらぱらとめくってみると、キャラクター同士のプロフィールや人物関係、舞台となる建物の設定まで細かく記されている。手書きの字は読みづらく、下手なことをすれば消えてしまいそうだ。
「世の中には沢山の本があります。当然現実の図書館にも本は山ほど置いてあります。ですが、現実ではどうしても限度があるのですよ」
 優しい声色で語りながらファイルをひとつ取り出す。ぼくが手に取ったものとは違い、そこに紙は挟まっていなかった。代わりに綿のようなものが入っており、時折淡い光を放っては景色を写しだしていく。
「現実の図書館では取り扱えないもの。それは、ヒトの空想です。本の元となるもの、誰しも一度は描くもの。ですがそこで終わってしまうものも少なくありません。本にならなかったもの、思い描いただけで終わってしまったもの、誰にも公開されなかったもの。そういった『物語の欠片』……不運にも形をとれなかった哀れなものの唯一の行き場が、この本棚なのです」
 ぎっしりと詰め込まれたファイルを眺めて愕然とする。これ全部、かつて人に描かれたものなのか。形を得ることができなかったものなのか。
 何故だか鳥肌が立った。寒いわけではないのに身震いする。フェレスは喉の奥を鳴らすように笑った。
「言っておきますが、これが全部ではありません。ここに収められなかった欠片も、勿論無数に存在します。ここにあるものは後に見返してもらう機会を得られるかもしれない、運のいいもの達です。ここでお客様に見て帰ってもらえれば、もしかしたら形を得ることができるかもしれませんし」
 いつかは全てここに収められればいいのですが、なかなか思ったようにはいかないものですねぇ。
 間延びした口調でぼやく。いつか夢見て、そのまま忘れられてしまったもの達。それがまさか、こんなところにいたなんて。
 呆然と見上げているぼくの顔を覗き込み、微笑んだ。お面に描かれた顔が満面の笑みを浮かべている。遠くの方で女の子が司書を呼ぶ声が聞こえてきた。
「なくした記憶って、ここの欠片達に近いものがあると思うんです。かつてあなたが描いたものも、もしかしたらここにいるかもしれません。この図書館では時間は流れませんから、どうぞ心ゆくまで探してみてください。また何かありましたら呼んでくださいね」
 それだけ告げて、司書は新たな客の方へと向かっていった。本棚をぐるっと見渡し、途方に暮れる。確かにここなら過去の自分から生まれたものも見つかるかもしれない。しかし、だからといって手当たり次第に探す気にはなれなかった。
だってここに並んでいるものは、全て誰かが思い描いたものなのだ。その人の感情も記憶も全部詰まったデリケートなもの。例え本人にも忘れられてしまったものだからと、勝手にのぞき見る気にはなれない。……それに、この本棚を見ているとやたら気分が落ち着かない。できることなら関わりたくなかった。
そっと部屋を出る。初対面であっても変人だと分かる人物がどう働いているのか、仕事ぶりを遠くから見てみたくなったのだ。
こっそり本棚の陰から様子をうかがう。司書は先程自分に自己紹介をしたときのように低い位置で姿勢を正している。その向かいに、ドレスを着た少女とスーツの男性が二人。
 って、あれ? この人達、どこかで見たことがあるような。
「珍しいですね、女王陛下とトルク家の執事の三人が揃うとは。庶民である私にとっては恐悦至極でございます」
 言葉の割に深々と頭を下げる動作がなんともわざとらしい。大袈裟にも感じられる言動に、男の片割れがふんと鼻を鳴らした。右目にモノクルを着け、黒いスーツをまとっている。遠巻きに見ていても威圧されそうな鋭い目付きが印象的だ。
「全く、貴方は相変わらずですね。その胡散臭い態度は一体いつ改められるのですか。それと、私とロディには普通に接すればよいと何度も告げているはずです。我々は確かに誇り高き執事ですが、それは王家あってこそのもの。女王陛下と私共を同列に並べることは、王家の人間に対する無礼に他なりません。直ちに取り消してください」
「ま、まあまあ。いいじゃないか兄貴、そこまで邪険にしなくても。フェレスさんには何度もお世話になってんだしさ」
 敬語で流れるような罵声を浴びせる男を、もう片方の男が止めている。話の内容からすると彼の弟のようだ。鋭い目付きと黒髪、服装は確かに似ているが、性格は正反対に見える。文句の着けようがないほど完璧に着こなしている兄に対して、弟はわざと着崩しているらしい。
「大丈夫ですよ、ディーノさんにロディさん。私、罵倒されることには慣れております。あなた達のように気心知れた仲の人が相手ならむしろ嬉しくなりますから」
「うわー知りたくなかった。そういうところは隠して欲しかったな」
 フェレスの発言に苦笑する弟と、蔑んだ目をしている兄。二人の執事をよそに、女王陛下と呼ばれた女の子が前に出た。綺麗なブロンドの髪に空色の瞳、黄色を基調としたドレス。頭に乗せた王冠といい、やはり見たことがある気がする。
「今日はね、あたしが二人をつれてきたの! フェレスさんに読み聞かせをしてほしくて……」
「読み聞かせ、ですか?」
 フェレスが首をかしげる。四人の様子を見ていて、既視感の正体に思い至った。手元にあるクリアファイルの中身を見返して息をのむ。
 代々執事をしている家系に育った完璧主義の執事、ディーノ・トルク。
 執事の家系に生まれながら兄とは異なるやり方で道を歩む執事、ロディ・トルク。
そして、天真爛漫で努力家、誰からも愛されるフィラル王国第五代女王――ミルカ・フィラル。
『物語の欠片』が収められた本棚の中から無作為に取り出した落書きのような資料。ファイルの中の紙に書かれたキャラクターと設定は、今司書が話している相手と全く同じものだった。
「なるほど、フィラル王国に代々伝わる昔話ですか。ええ、確かに取り扱っていますよ。少々お待ちください」
「わざわざ恐れ入ります。私はそのような……よ。読み聞かせ、など、必要ないと申し上げたのですが」
本を取りに向かう司書にディーノが頭を下げる。その顔は少し赤くなっているように見えた。幼い女王が頬を膨らませて腰に手を当てる。
「ひつようない、じゃないの! あたしもディーノもロディも、もうパパに読み聞かせなんてしてもらえないんだから。甘えられるときは思いっきり甘えなさいってパパ言ってたもん!」
「親父からの読み聞かせかあ、して貰ったことないな。せっかくだしちょっと付き合ってくれよ、な?」
 女王と弟から挟み撃ちされ、モノクルの男は黙り込んだ。資料によれば、彼らの父はある時期から狂乱状態に陥って、執事育成教育と銘打った虐待まがいの行為を行っていたらしい。弟が生まれたときには既にスパルタ教育が始まっており、物心ついた頃から父に反発していたとも。
 今の彼らを見ているととても仲がいいように見えるが、実際はつい最近までディーノと他二人の間に確執があったそうだ。父を止められなかった、父と同じやり方に固執してしまった引け目があるのかもしれない。
 一冊の本を片手に戻ってきた司書が、三人をソファまで連れて行った。女王を挟んで両側に執事達が腰掛ける。フェレスが三人に向き合う形で膝を曲げ、宙に腰を下ろした。膝の上に本を載せ、表紙をめくる。
「では、フィラル王家物語を読み始めますね。――『これは遠い昔のこと。魔法使いは他の人達と同じように暮らし』」
 中性的なハスキーボイスが部屋の空気を震わせる。声変わりに差し掛かった少年のような、大人と子供、女性と男性の境目が曖昧な声質だ。よく通って聞きやすい声だと聞き入っていると、突然執事兄弟が立ち上がった。
「馬鹿な。そんな……な、何が起こったというのです」
「お。親父の、声――?」
 二人は耳を押さえて辺りを見回している。目を閉じて聞いていた女王は従者を見上げ、柔らかく微笑んでいる。フェレスが右手を胸元に当てて頭を下げた。表情は紙の面に阻まれて見えないが、描かれている顔は優しい笑顔に見える。
「ここは微睡みの図書館。私は随分長い間ここで司書をしてきました。この空間にいる方それぞれの親の声で読み聞かせをする程度のこと、魔法を使えば朝飯前ですとも」
「ね、だから言ったでしょ? もうパパに読み聞かせをしてもらえることなんてないから、甘えられるときに甘えようって。二人ともすごくがんばってるんだから、ごほうびよ」
 ゆめの中でくらい、幸せなゆめを見たっていいでしょう?
 金髪の少女がどこか儚い笑顔を浮かべる。彼女の父親は既に亡くなっている、と資料に記されていた。年若い執事は拳を握って俯いていたが、しばらくしてから指を解いて少女の髪を梳いた。口元は緩んでいるが、今にも泣き出しそうに眉を下げている。
「そっか。ミルカちゃんの言ってた『パパからの読み聞かせ』って、こういう意味だったんだね」
ありがとう、ミルカちゃん。最高のプレゼントだよ。
 ソファに座り直し、背もたれに体重を掛けて目を閉じる。モノクルの執事が当てもなく視線を彷徨わせていたが、司書と目が合うと観念して座り直した。手を組んで膝の上に置く。
「続きを読んでも構いませんか?」
「ええ。お願いします」
 執事の目が閉じられた。猫耳の司書が本を持ち直し、読み聞かせを再開する。
 それは昔話と言うよりも、王国の歴史を子供向けにまとめたものだった。万能の力を持った魔法使い達が戦争に利用されたこと。その後生き残った者は迫害され、魔女狩りが起こったこと。ただ一人生き残った最後の魔法使いが国を作り、虐げられてきた人々のための国を作ったこと。決して綺麗とはいえないけれど、忘れてはならない過去だった。
 目を閉じて聞き入っていた三人は、いつの間にかすっかりねむってしまったらしい。頬が緩んだ穏やかな顔つきで、中央の女王に寄り添うように。その姿は読み聞かせの最中に眠ってしまった年の離れた兄弟にも、何も恐れることのない場所で昼寝をしている家族のようにも見えた。
 ふと気が付くと、眠っている三人の体が少しずつ透けてきていた。物陰から覗き見していることも忘れて小さく声を上げる。フェレスはほんの少し顔をこちらに向けたけれど、何事もなかったかのように読み聞かせを続けた。
「――『そして、王様は言いました。これからは自分の持つ魔法の力を、この国を守るために使おう。これからは人を幸せにするために魔法を使おう。大丈夫、私はもう一人じゃない。一人でも多くの人が幸せになることを祈り、誰かの不幸を共に悲しむことができれば、皆が助けてくれるのだから……と。こうして、とても優しい魔法使いの王様は、王様のことが大好きな人達に囲まれて幸せに暮らしたのでした』」
 おしまい、と締めくくる。読み終わる頃には聴衆の体はほとんど消えかかっていた。司書が本を閉じると同時に、薄く姿が残っていた三人は色を失うように消えていった。
 仕事を終えた従業員がこちらに向き直る。風に流された風船のようにふわふわと距離を縮め、見下ろしてきた。
「聞いていらっしゃったのですね。言ってくださればあなたの席もご用意しましたのに、残念」
 盗み聞きしていたことを咎める様子もなく、普通に話しかけられた。腕に少し鳥肌が立つ。
読み聞かせを聞いていて分かったことがある。この人の話し方には感情が見当たらない。まるで用意された原稿を読んでいるかのようだ。身振りで感情を表すことはあるし、抑揚のない話し方というわけでもない。ただひたすらに何を考えているのか分からないのだ。言動が胡散臭く見えるのはそのせいだろうか。
「あ、あの。あの人達はどこへ?」
「無事に自分の世界へお帰りになりましたよ。願いが叶って満足したら自然とそうなるんです」
「えっと……み、ミルカ様? って人、もしかして」
 言葉が詰まる。クリアファイルを軽く握りしめた。資料に載っているのがあの三人のことだとしたら、彼女達は、物語の欠片から。
「なんて顔してるんですか。別に聞いちゃいけないことでも、暗い事情もありませんよ? お察しの通り、その資料に載っているのは彼女達の情報です。ここは微睡みの図書館、夢を見る人が集まる場所。本人が作られた世界にいるかどうか、作られた存在かどうかは関係ありません。条件さえ満たせば誰でも訪れることができる場所なのですから」
 両腕を広げて語るフェレスがどうしようもなく不気味に見えた。面の下の顔が見えないせいで余計に何を考えているのか分からない。
 誰かに生み出された、作られた存在。彼女達はどう見ても生きた人間だったのに、実際は物語の中の存在で。ここにいる人が現実に居る人なのか、それとも作られた人なのか。言動で区別がつかないということは、僕だって誰かの創作物なのかもしれない。
もしそれに気付かないまま作者の思うように操られていたら、それは自分の意思によるものと言えるのだろうか? この思考が自分のものだとどうやって示せばいい?
僕のこの考えすら、作者による策略だとしたら。
僕とは、一体何だ?
 寒気がした。両腕で肩をさすり、司書から一歩後ずさる。人の出自や自我の有無を一切気にせず、演技くさい動作を続けるこの人に近寄りたくなかった。
「……あの、そんな化け物を見るような目をしないでくれます? 地味に堪えますからそれ。凹んじゃいます」
 お面の顔が悲しげなものになった。これも魔法によるものなのだろうか。取り出したメモに丸を描き、その中に家のイラストを添えた。円の外に棒人間を書き足す。片方の棒人間の頭の中に願、という漢字を書き込んで手渡された。
「これまでもあなたと似た状況の方がいらっしゃったので、何を不安に思っているかは大体分かっています。安心してください、あなたはきちんと自我を持った存在です。ここに来る道は『願いを持つ者』しか通れません。少なくともここに来ることができた時点で、あなたは願いを持っていたのです。誰かに操られているような自我のない人形は、そもそもこの図書館を訪れることができないのですから」
 司書の言葉に反応して棒人間が円の方に歩いて行った。顔の中に願いと書かれた方は円を超えて家の中に入っていったが、何も書かれていない方は円に触れるたびに弾き返されていた。
 原理は何となく分かったが、色々とややこしくて頭がこんがらがりそうだ。創作で生まれた世界の住民もここに来るということは、僕がどんな世界から来たのかも分からないってことじゃないか。本棚に収められた膨大な欠片を思い出す。物語の欠片から生まれた人がさっきまで近い場所にいたと思うと複雑な気分になる。あの本棚に収められた欠片達にも自我があったりするんだろうか。形を得られなかったからという理由で全部まとめて詰め込まれるのはどんな気分なんだろう。
 考えたいことが多すぎて頭を抱えた。自分の出自を知りたいだけなのに、目の前の選択肢はあまりに多すぎる。どこから手を着けていいか分からずに途方に暮れる僕に、フェレスは右手を差し伸べた。
「まだまだ時間が欲しい、ということでしたら……せっかくですし、しばらくここで過ごしてはいかがですか? 司書の仕事というのもなかなか奥が深いですよ、退屈しのぎには丁度いいかと。人間観察もできますしね」
 ここで流れる時間は他の世界と全く関わりがなく、無限大の時間を過ごしたとしても元の世界に帰る分には何も問題ありません。焦ることはありませんよ。
 革手袋に覆われた手を見つめ、顔を見上げる。紙の面が僅かになびき、口元がチラリと見えた。薄い唇が綿の柄と同じく緩やかな弧を描いていて、肩の力が抜ける。素顔をほんの少しだけでも見られたこと、顔を覆い隠すものと下の顔が同じ表情をしていたこと。それから思いのほか優しい表情をしていたことを知って、何だか少しだけ安心できた。
 その手を取って微笑む。司書の面に描かれているのはいつもと変わらない笑った顔文字だったけれど、心なしか本当に嬉しそうに見えた。



 この図書館に訪れる人はそう多くはない。常連はいるようだが、体感で一ヶ月に一度来れば多いくらいといったところか。昼も夜もないこの世界で、頼れるのは一つだけ壁に掛けられた柱時計のみだった。曰く、フェレスが過ごしやすいように置いたものらしい。この針が何周したのか、今ではもう覚えていない。
 司書見習いのようなことを始めてから色々なお客さんが微睡みの図書館を訪れていた。吸血鬼についての文献を調べに来た高校生の男の子に、顔を真っ赤にしながら恋人が解決した事件の記録を読みに来た白衣の女性。自分が死んでから大好きな幼馴染みが辛そうにしているから、何とか自分を見て欲しいと息巻く小さな男の子の幽霊。育ての親である鬼に何か贈り物をしたいからとプレゼントを考える少年。皆自分の目的を明るい顔で語っていた。それに対応するフェレスも心から楽しそうだった。
 ただ、気のせいだろうか。来館者が光と共に帰っていくのを見届けてすぐ、ほんの一瞬だけ……司書の顔が翳っているような気がした。拳を堅く握り、震えているように見えるのだ。
「フェレスさんって、いつから司書をしているんですか?」
 何の気なしに質問を投げかけると、本棚の整理をしていた司書が珍しく固まった。いつもならテンポ良く調子のいい返事をしているだけに、こういった態度は見たことがない。地雷を踏んだと悟った僕が質問を撤回するより早く、向こうが口を開いた。
「いつから、ですか。月日という概念のない世界にいる者には難しい質問ですね」
 口調はいつもと変わらず軽いものだった。ただ、常日頃のふざけているような胡散臭さは感じなかった。
「ずっと、ずっと前から……としか答えられません。遠い昔、居場所のなかった私はここに辿り着き、無人の図書館に惹かれて住み着いたのです」
「辿り着いた? 元は違う世界にいたんですか」
「ええ、まぁ……この話、長くなりますけど。どうします?」
 こちらに向き直ったフェレスに続きを促す。いつでもふわふわ浮いていて掴み所のないこの人は、滅多に自分の話をしなかった。好奇心といえば聞こえは悪いが、長い時間を共に過ごした相手のことを知りたいと思うのは普通のことだと思う。
「私の元いた世界は……そうですね。特徴のない、ある意味つまらないところでした。魔法はとっくの昔に滅び、発展した科学もない。そんな中に生まれた私は、生まれながらに魔法の力を持っていました。猫が好きだからと耳と尻尾を生やして元に戻せなくなる程度の半端な実力でしたけどね」
 耳を動かしながら語る。指を鳴らすと、手に持っていた数冊の本が宙を舞って本棚に収められていく。飛び交う本を軽く目で追って、視線を元に戻す。フェレスは尻尾を振り回して肩をすくめた。笑った顔が描かれているが、どことなく機嫌が悪そうだ。
 司書が胸元に手を当て、大きく腕を開く。強い風が吹いてきて目を閉じた。恐る恐る目を開いて愕然とする。
 目の前の景色は見慣れてきた図書館から一変していた。机が縦横揃えて綺麗に並べられており、部屋の前面に大きな黒板がある。沢山の子供達が楽しく話して笑う中、猫耳の生えた子供だけは一人で椅子に座ったままだった。その体は何故か酷く濡れており、近くにバケツが転がっている。教科書だったらしいものはページが破られている。無残な姿になった本を握りしめて、子供は何も言わずに俯いていた。
「獣の耳と尾が生えている異形、魔法が使える『バケモノ』。そういった目に見える違いは、ヒト一人をコミュニティから追い出す理由としては充分でした。家も例外ではありませんでした。力が暴走することを恐れた両親は、常に私から距離を置きました。学校以外で外に出されることはなく、ずっと軟禁状態でした」
 瞬きと同時に景色が変わる。猫耳の子供は成長し、体が大きくなっていた。真夜中の暗い家の廊下に立って、ドアの隙間から部屋を覗き込んでいる。光の漏れ出る先の部屋には大人の男性と女性がいた。
話している内容は自分達の子供のこと。何をするか分からないから外にも出せない、怖くて近寄りたくもない。仕事なんてさせられない、タダ飯を食らうだけの厄介者。
こんな奴、捨ててくれば良かったのに。
そんな言葉が出た途端、猫耳の青年の顔が歪んだ。パジャマのまま靴も履かずに家を飛び出し、夜道を駆けていく。
 気が付いたときには元の図書館に戻っていた。心臓が早鐘を打つ。まるで嫌な夢の中で全力疾走したかのように、汗が背筋を伝っていく。猫耳の生えた司書は一見平然としているが、尻尾は通常の二倍ほどに膨らんで足の間に入っていた。
「この姿を受け入れられる場所を夢見て彷徨い歩く旅の途中、疲れて昼寝をして……気が付いたら見知らぬ草原に立っていました。一軒だけ佇む洋館には誰もいなくて……元々本が好きな私は、夢中になって読み漁ったのです」
時間の流れなど関係ない世界で、思う存分本の世界に浸れる。ここはまさに私の探していた楽園そのものでした。恐らく、この世界と私は相性が良すぎたのです。皮肉なことにね。
 そこまで語り、フェレスは溜め息をついた。先程までの陰鬱な過去の話から救われているはずなのに、どこか顔色が悪い。本棚の上に腰掛けて足を揺らす。どこか遠くを見つめる司書に何も言えず見つめていると、小さく呟く声が聞こえた。
「心のどこかで『帰りたくない』と思い始めた頃でしょうか――この屋敷から、出られなくなりました」
 息をのんで上を見上げる。司書の座っている位置が高すぎて面も口元も見えなかった。どんな表情をしているかは分からないが、どこまでも静かな声だった。微かに震えが混じっていた気がするのは気のせいだろうか。
「たまには外の空気を吸おうと思っただけなのです。それなのに、ドアは全く開きませんでした。窓ガラスに椅子を叩き付けてもびくともしませんでした。やけになって魔法で本を燃やしましたが、我に返ると全て元に戻っていました。その頃から足が地に着かなくなりました。顔でも洗って気分を変えようと洗面台に立って、恐怖に凍り付きました」
 こっちを見下ろす。真顔の面に見つめられた。両手を後頭部にやって、本棚から飛び降りる。反射で受け止めようとした僕を制し、宙に浮かんで目の高さを合わせて。
 お面を、外した。
 息をのむ。
 そこには、口以外何もなかった。パーツも、凹凸も。福笑いで取り除いてしまったかのように綺麗さっぱりなくなっていた。薄い唇が引き結ばれる。眉毛もないので表情は分からなかったが、泣きそうな顔に見えた。
「怖いですよね、申し訳ありません。私も嫌いなんです、この顔。まるで誰でもなくなってしまったみたいで……だから普段は失礼を承知でお面を着けさせていただいています。奇異の視線に晒されることには慣れています、怯えられるよりずっとマシですから」
「っいえ、こわいなんて」
「嘘なんて吐かなくていいですよ。怯えた顔でフォローされたくありませんので」
 面の紐を縛り直す。落書きのような顔は真顔で、何だか目の奥が熱くなった。フェレスが背筋を伸ばして目を逸らす。
「これはきっと罰なのです。願いを持つ者が夢を叶えるためにある図書館。そこに住むことで安住の地を見つけるという自らの願いを捨ててしまった。ズルをした。だからバケモノだった私は、とうとうバケモノにすらなれなくなってしまったのでしょう。顔も体重も失った私は……最早、実体すら失ってしまったのかもしれません」
 悲しいことを言っているのに、口調はどこまでも軽かった。それがどうしようもなく悲しくて苦しくて、勝手に涙がこぼれていく。こっちを見たフェレスが肩をふるわせた。驚いた表情で手を上下させる。
「えっちょ、何で泣いてるんです。ここ笑うとこですよ? 全ては私の自業自得なのです、今はもう落ち込んだりしてませんって! 司書としての仕事を楽しんで、笑顔になる皆様を見られるだけで満足なんですから! って違う? もしかして顔? 顔が怖かったんですかっ? わぁああそんなつもりじゃなかったのにぃ!」
 どうしていいか分からずにおろおろしているフェレスの口調も、態度も、いつも通りに戻っていた。それがどうしようもなく切ない。
 話を聞いてやっと分かった。この人の動作が演技くさいのも、何を考えているか分からなかったのも、過去の経験のせいだった。受け入れられたいのに幾度となく拒絶されて、自分の姿形すら変わってしまって。今の自分の顔を嫌いだと、現在の状況を自業自得だと切り捨てたこの人は、ありのままの自分を愛してもらうことをすっかり諦めてしまったんだ。だからせめて戯けたふりをして、ピエロのようにお調子者の役を演じて。そのせいで何を考えているのか分からなかった。
 物語の欠片の詰まった棚を『お気に入り』と呼んでいたことを思い出す。そのときは人の空想を勝手に覗き見るなんて悪趣味だと思ったが、違った。この人はここに閉じ込められているんだ。永遠に近い時間を、たった一人で。来客なんてごくごく稀に来るもので、僕がいなかったときは大半の時間を一人で過ごしていた。誰よりも人との関わり合いに飢えているフェレスが、唯一ヒトの痕跡に直に触れられるものが物語の欠片だったのだ。
「もう、泣かないでくださいよぉ。そんな顔させたくて語ったんじゃないんですから」
 ハンカチを取り出してそっと僕の頬を拭うフェレス。その手を握ると、首をかしげてこっちを見つめてきた。涙で歪んだ視界の中で、僕の顔と握られた手を交互に眺めているのが見えた。
「あなたの代わりですから」
「はい?」
「あんなに悲しい話をしたのに、苦しいとか辛いとか何も言わないフェレスさんの代わりに泣いてるんです。涙を流せないあなたの分まで、僕が泣きますから」
 涙でぐしゃぐしゃのみっともない顔で宣言する。落書きの目を丸くして、俯いた。握った手が微かに震えている。
「泣いたって、何も変わらないんですよ?」
「知ってます」
「こんなバケモノに同情したフリなんて」
「バケモノじゃありません。フェレスさんは立派な司書さんです」
「はは、泣かせに来るのやめてくださいよ。今更泣いたって意味ないのに」
「辛かったことを辛かったというのは、何も悪いことじゃありません」
俯いたまま震えている。肩に触れると一瞬大きく震えたが、振りほどかれたりはしなかった。縋り付くように袖を掴まれる。
「何だよ……おかしいって、こんなの。今までずっと、ずっと、こんな風に言われたことなかったのに……」
 声が震えて、嗚咽が混ざり始めた。涙は流していなかったが、確かにすすり泣いていた。声を上げず静かにしゃくり上げるフェレスさんの背中を叩く。自分をバケモノと呼ぶ司書の体は温かかった。抱き合って泣くなんて初めてだけど、何故か心地よくも感じた。
 しばらく言葉も交わさずに二人で泣いていた。落ち着いた頃に腕で押されて、手を離す。面の隙間から覗く皮膚はほんのりと赤く、手の甲で頬をこする仕草は照れ隠しのように見えた。手で涙を拭おうとしたらハンカチを手渡される。受け取って濡れた顔を拭くと、フェレスは咳払いをした。
「あー、その、すみません。お見苦しい真似を……」
 目を逸らされている。人前で泣くということに慣れていないのかもしれない。使い終わったハンカチを返しながら微笑む。
「それより、気分は晴れましたか?」
「えっと、はい、お陰様で。ありがとうございます」
「それなら良かった」
 本心からそう口にすると、フェレスは何やら腕を組んで考え込み始めた。顔をあちこちに向けて、何だか落ち着かない。名前を呼んでも返事もせず、あーとかうーとか唸っていた。しばらく百面相してから、深呼吸してこっちに目を向ける。
「あ、あのー。記憶、少しは戻りました?」
 何を悩んでいたかと思えば、いきなり何を言い出すのだろうこの人は。疑問に思いつつも返事をする。普段ふざけた態度のこの司書は、意味のない冗談は言わないタイプだと知っている。
「全く手がかりも掴めてないです」
「えっと、その。あなたの記憶の模範解答、ずっと私が持ってました……って言ったら、怒りますか?」
「……怒るよりも先に心底驚きますね」
 いくら何でも予想の斜め上過ぎる。記憶を取り戻すまでここにいろとまで言ったフェレスが、ずっと前から手掛かり、否、答えを掴んでいた? 確かに今までフェレスに直に『何か知りませんか?』などと尋ねたことはなかったが、まさかそんなところからひょっこり出てくると思わないだろう。
 司書が指を鳴らすと、二冊の本が宙を飛んで手の中に吸い込まれていった。一冊は分厚い単行本、二冊目はメモ用紙を紐で綴ったような小さな本だ。単行本の方の表紙を見て、あっと声を上げる。そこには、幼い僕と二人の子供が描かれていた。
「一人の子が二人の友達と協力して旅をして、出会った人達の抱える問題を解決する話です。シリーズ化していて、世界を救ってから安寧の日々を過ごす……ってところで終わってたんですけど」
 勿論その話なら知っている。まだやんちゃだった頃の僕が、穏やかな友達と頭のいい友達との三人で冒険する話だ。僕はその話を『わくわくしながら読んでいた』。
――って、あれ?
おかしい。だってその話は、僕の話なのに。この本を読んだ記憶なんてあるはずがないのに。
「あなたは正確には、この本の主人公ではありません。そこから派生した存在です」
「は、派生?」
「はい。ある人物がとある屋敷に閉じ込められてすぐ、感傷に浸っていたときにこの本を読んで。幼い頃の自分にもこんな友達がいたら、なんて妄想しちゃったりして。挙げ句の果てに、もし子供の頃の自分が困っていたときに、全ての冒険を終えて穏やかに過ごし、ちょっと成長した主人公が助けに来たら――なんて突拍子もないこと考えて、その勢いで本まで作っちゃったりして?」
 そんな経緯で生まれた、若気の至りでしかない夢見がちな二次創作がこちらですこん畜生!
 目の前に突きつけられたメモの束の先頭に、確かに僕が描かれていた。無地のTシャツとズボンを身につけた、やたらシンプルな姿。
それを見た途端、どこかでカチリと音がした。
そうだ。僕は異形だと避けられていた子供を助けて、友達になって。そこで物語は終わっていた。
けれど、そこに込められた思いが余りに悲しかったから。僕の小説を読んで感動してくれた思いも、苦しい気持ちも伝わったから。どうしても本人を助けに行きたくなって、それで。
「うう、恥ずかしい……。確かにうちの図書館は薄い本も取り扱ってますけど、よりによって自分をモデルにした夢小説の薄い本とかいう黒歴史が目の前に現れると思わないじゃないですか! 記憶なくしてるし、こっちが本出さないと思い出しそうにないし、あれこれ何て羞恥プレイ? ってなって今まで言い出せなかったんですごめんなさい!」
 顔を真っ赤にして叫ぶフェレスに、つい噴き出してしまった。両手で顔を覆う姿を見ていると笑ってしまう。
 流石にもう分かっている。自分の作った本を人に見せるのが恥ずかしいというのも勿論あっただろうが、それ以前に寂しかったのだろう。長い時を一人で暮らし続けるよりも、かつて縋った存在が近くにいる方を選んだのだ。そのためにずっと罪悪感を抱いていただろうことも察しがつく。
「謝らないでください。自分が何者か分かってすっきりしました。それに、あなたと友達にもなれたし」
「うわーそのクサい台詞! 昔書いた奴そのまんま! やめて古傷を抉らないで、原作ではそんなこという奴じゃなかったでしょう!」
「そう言われても、僕の作者はあなたなんですから。生み出してくれてありがとうございます」
 深々と頭を下げる。自分の足下を見て目を見開いた。慌てて体を起こして手をかざすと、向こうにいる生みの親が透けて見えた。息をのんだ音はどっちから聞こえたんだろう。
「……どうやら、あなたの望みが叶ったみたいですね」
 静かな、事務的な声で告げるフェレス。確かに最初は、辛い気持ちを吐き出してくれればそれでいいと思ってここに来た。けど今となってはそれじゃ足りない、置いていけない。
「そ、そんな。まだ、まだです! だって今僕が消えたら、」
 そんなことになったら。
 この人はまた、無限の時間を一人で。
 本に囲まれた静かな牢獄で囚われたまま永久に生きることになる。
 そんなの、残酷すぎるじゃないか。
「僕はまだここにいます! 友達なんだから、」
「駄目です。友達なら尚更帰ってください。お願いですから」
 フェレスの声は震えていた。僕の両肩を掴んで、しっかり視線を合わせる。
「ここに閉じ込められる犠牲者はこれ以上増やしちゃいけません。マナー違反の囚人なんて一人で充分なんですよ」
「けど、二人なら孤独に苦しむことも」
「私は苦しみます。あなたを巻き込むことになったら苦しいです。友達をこんな息苦しいところに永遠に閉じ込めることになったら、確実に一生後悔します」
 口を閉じるしかなかった。その声が、態度が、余りに真剣だったから。普段の戯けた態度は綺麗さっぱり消え失せて、まっすぐこっちを見つめている。
「それにね。私は、友達と冒険して広い世界を駆け回るあなた達に憧れたんです。親友二人から主人公を取り上げるなんて本意じゃありません。あなた達が揃っているからあの物語が生まれたんです。例え私に都合のいい二次創作であっても、その前提は譲れません」
 ああ。笑顔でそんなことを言われちゃ、嫌だなんて言えないじゃないか。
 面で隠れているはずなのに、その下の口がにっこりと笑っていることまで分かってしまう。どこまでも純粋で寂しがり屋なこの作者は、こんな時でも自分より僕や仲間のことを気遣ってくれる。そういう人だから助けに行きたいと思ったんだ。
 周りの景色が光の粒と共に少しずつ崩れていく。解けた粒は白い世界の中に溶けて見えなくなっていく。気が付いたら半径数メートルのところまで崩れていた。
「ずっと友達だから」
消えゆく景色の中で告げる。フェレスが何度も頷いて、僕の肩をしっかり握っていた。
「ありがとう、ございます。そう言ってくれて、一緒に過ごしてくれて……本当に、」
 声に湿気が混じる。この人は本当は泣き虫なのかもしれない。僕がいなくなったらまた泣けなくなるのだろうか。心配でおちおち帰っていられない。
「楽しかったから、また来ていいですか?」
 問い掛けると同時にフェレスが光の粒になって溶けていった。真っ白な世界に囲まれて、少しずつ意識が遠のいていく。日だまりの中で微睡んでいるような感覚で、悪い気分じゃない。眠気に身を任せていると、体も意識も少しずつ溶けて流されていくような気がした。

 勿論、気が向いたらいつでもいらしてください。『微睡みの図書館』専属司書ことフェレスがお待ちしております。

 ずっと遠くの方で微かにそんな声が聞こえた気がした。






クレジット:出演者
フェレス:過去に作ったキャラクター。元は作者代理

『僕』:処女作の主人公がモデル。成長させたIFであるため性格や姿は元々の作品とは異なる

ディーノ・トルク:賢君忠臣にて初登場、悩み懺悔にて再登場。

ロディ・トルク:賢君忠臣にて初登場、悩み懺悔にて再登場。

ミルカ・フィラル:賢君忠臣にて初登場、悩み懺悔にて再登場。

吸血鬼についての文献を調べに来た高校生の男の子:人ならざるモノにて初登場、残念さんだよ! 空也くんにて再登場。本名 坂東康生ばんどうこうき

顔を真っ赤にしながら恋人が解決した事件の記録を読みに来た白衣の女性:残念さんだよ! 空也くんにて初登場、月の裏にて再登場。本名 西原真樹にしはらまき

自分が死んでから大好きな幼馴染みが辛そうにしているから、何とか自分を見て欲しいと息巻く小さな男の子の幽霊:なおくんにて初登場。本名 なお

育ての親である鬼に何か贈り物をしたいからとプレゼントを考える少年:とおりゃんせにて初登場。本名 はやて
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