変わり種小説

 息が出来ない。傾きそうになる体のバランスを取りながら、下を向いて足を前に踏み出す。目に入ってくる景色は全部灰色だった。すれ違う人や車が遠くで蠢いている。耳障りな雑音は、私の一番聞きたくないものだけは消してくれなかった。
「あははははっ、サイコー! やっぱ昂暉ってイイ趣味してんね、こないだのとかさ」
「それ褒めてないだろ? アレはお前の意見も採用した結果だからな」
 見ろよ、彩乃の顔。かわいそーに、ぼろぼろになっちまってさ。
 名前を呼ばれて、身動きが取れなくなる。顔が勝手に前を向いた。見たくもない二人の目が、つり上がった口の端が、私の心臓を抉っていく。
「ぁ、」
 喉が干からびて、まともに声も出せない。汗が吹き出す。目を逸らせない、自分の中から温度が消えていく感覚。体が震えているのは嫌でも分かった。
 菜月が私の肩に手を置いた。首筋まで指を這わせてから、喉に爪を立てる。痛みで呻こうにも声が出ない。大人しくて控えめで、小動物のような可愛い子。私のたった一人の親友ーーそう思ってた。
 ついこの間までは。
「こないだはありがとね、彩乃。まさかあんなに上手く行くと思わなかった、マジウケたよ」
「おい菜月、やめろって。仮にも大事なオトモダチだったんだろ?」
 気味の悪いにやにや笑いを貼り付けて、昂暉が喉から手を外させた。膝から崩れ落ちて咳き込む私を見下ろす目は、どっちもどす黒く淀んで見えた。
「はっ、誰がこんな奴。昂暉こそ、何でコイツを庇うわけ?」
「えー、だって可愛いじゃん。親友を裏切った浮気男のために自分のキャラ全部捨てて復讐しようとするとことかさ、一途で良くない?」
「私がタイプで一番可愛いんじゃなかったの?」
「うんうんそーだよ、お前が一番。彩乃を良いって言ってんのは弄り役としてって意味だから」
 ふぅん、と目を細める。かつての私のように人を値踏みする目。私の親友だった女の子は、もうどこにもいない。
「まぁいいや。じゃーね、また遊ぼ」
「はいはい」
 雑に手を振り、私の手首を掴む。骨が軋む音が聞こえた気がした。
「しっかり着いてこいよ。復讐するんだろ、俺に」
 歪んだ笑みを浮かべて引きずっていく。振りほどこうにも力が強すぎる、下手なことをしたら腕を脱臼しそう。
 この男は私を欲しいと言っていた。面白いから、って。だから菜月と手を組んで、私を手のひらの上で転がしていた。今だってコイツが憎くて仕方ないのに、それすらも仕組まれていて……気付いたら、自分じゃ止まれなくなっていた。
 ねぇ、どうして? 何で私がこんな目に遭わなきゃいけないの? 浮気されて悲しむ菜月の代わりに復讐しようと思って、昂暉の奴を嵌めるためにイメチェンまでして。たった一人の友達のためだったのに、それが全部無駄だったなんて。
 涙がこぼれて、頬を伝っていく。もうこれが何の涙なのかも分からなかった。
 親友に裏切られた悲しみ?
 憎む相手の思い通りになるしかない屈辱?
 それとも、操られて踊らされて、全てをかけた復讐の意味すらなくなって。中身のない空っぽの自分を哀れんでる?
 もしかしたら、心のどこかでこの状況を望んでいるのかもしれない。けど、どうして?
 何も分からない、分かる必要もない。私に出来ることは、このまま操られることだけなんだから。
 ぼんやりとそんなことを考えていたら、掴まれていた手を離された。見渡した景色には馴染みがある、いつも使う駅のホームだ。昂暉はスマホを見て笑っている。LINEのトーク画面を飛び交う吹き出しの中に赤いハートマークが表示されていた。
 私をこんな目に遭わせて、当の本人は何も知らない彼女と幸せそうにして。何もかも自分が中心に回ってるみたいな間抜けヅラを晒してる。
 服の上から自分の体をそっと撫でた。あの日に左頬を引っぱたかれてから、鏡に写る私の肌はだんだんアザだらけになっていった。逃げようとしてると言い掛かりをつけられて叩かれて、復讐を強制されては避けられて、また蹴られて。いつだってそれの繰り返し。私はただ怯えたまま、思い通りに動くだけ。ぐちゃぐちゃになった頭ではどうしようもなかった。
 そう。今までは混乱したまま、どうしても止まれずにいた。
 それが、どうしてだろう。今は昂暉の背中から目が離せない。頭の中で直接流れているかのように、列車接近の音楽が反響している。
 あの目で見られたら体がすくむ。恐怖に縫い付けられて、何もできなくなる。
 けど、今なら。
 この背中を押せば、私は、楽になる?
 唾を飲み込む。喉が乾いて仕方がない。ゆっくり上げた両手は今まで見たことがないほど震えていた。迷いと恐れを振りきるため、全体重をかけて前に手を突き出す。
 私、アタシは、楽になりたいだけ。わるいのはそう、あいつ。なにもかもあいつが、あいつがわるい。すべてをうばってわらってるあいつがわるいあいつがあいつがわるいのはあいつあたしはわるくないわるくないわるくな
「おっ、と」
 目の前から、昂暉は消えて。
 私の右側から手をこっちに伸ばしていた。
 斜め前に突き飛ばされて、体の支えがなくなって。
 悲鳴と金属の擦れる大きな音に包まれた。
 そんな騒ぎの中、あいつは目を細めて、不気味に笑っていて。
 ざ、ん、ね、ん、で、し、た。
 そう口が動いたのを見ると同時に
 わたしは、


*


「お、おれ……俺、転んだ彩乃を止めようって手を伸ばして、ま……間に、あわなくて」
 頭をかきむしる。体が震えて止まらない。全身から血の気が引いていく。線路に落ちていく女の顔を頭から追い出して、目の前の警察にすがり付いた。
「刑事さん。お、俺、どうなるんですか。彩乃の服を掴もうとしたんです、本当なんです。けど……それでも突き飛ばしたって疑われるんですか。捕まるんですか? おれ、おれが、あやのを」
「大丈夫、そうはならないよ」
 肩を優しく叩かれた。泣きそうになっている俺にティッシュの箱を差し出して、刑事が続ける。
「目撃者もいた、彼女は自分から倒れたという証言も取れてる」
 辛いことを思い出させて申し訳ない。今日は早く帰って、もう休みなさい。
 宥められながら警察署を出る。人身事故で電車が止まってるから、帰りは遅くなるだろう。
 まさかあんなことになると思わなかった。あんなにすんなり死んじゃうなんてさ。お陰で俺まで捕まるところだっただろうが、余計なことしやがって。演技に騙されるバカな刑事で助かった。
 死ぬ寸前の彩乃の顔を思い出す度ににやついてしまう。あの真っ青で、何が起こってるか分かってない顔! あんな面白いもん見て悲しむ演技するの大変だったんだからな?
 スマホを取り出して時間を見る。あいつが落ちてから二時間も経ってるのか。パニックになった構内を駅員が落ち着かせて、事情聴取されて。無駄な時間を使っちまった。反応は面白かったけど、次から俺の目の前で死なねーようにしないと後がめんどくさいな。
 LINEには二件のメッセージが届いてた。ひとつは俺の目の前で人が死んだと聞いて、純粋に心配している俺の彼女。もうひとつは。
「……うっざ」
 彩乃が死んだって情報をどこからか掴んで、バカみたいに喜ぶ菜月から。
 確かにこいつの見た目は好みだった。けど中身は俺の嫌いなタイプだ。相手との距離を考えず勝手にずかずか上がり込んで、お茶を出せと文句を言う迷惑な奴。俺が菜月と組んだのは彩乃を手に入れるためだったってのに、その辺分かってねーんだろうな。
 無言でブロックしてため息をつく。ああ、せっかく欲しかったものを手に入れたとこだったのに。
 彩乃は教室で浮いた存在だった。ずっと一人ぼっちのギャルに近寄る変わった奴なんかいなかったし、その顔はいつだって暗いままだった。けど、目は休まずに周りを観察していた。人を値踏みするような視線が、自分は一人で何でもできると思ってそうな態度が最高だった。
 あの子の感情を全部俺に向けられたら。憎しみも怒りも悲しみも愛情も、全てこっちに向かったらーー一体どんな目を、どんな顔をするんだろう?
 それからずっと気になってた。俺から逃げられないように手を回して、やっと欲しかった玩具が手に入ったところだったのに。
 つまんねーの、と吐き捨てる。また次の玩具を探してくるか。
 次はうっかり早死にさせたりなんかしない。俺が飽きるまで遊んで、遊んで、遊んでから。
 飽きた頃に、一思いに殺してやるよ。

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