変わり種小説
昔々、あるところに、心優しい娘御がおったそうな。
その娘の家は酷く貧しく、畑も小さかったが、決してそれを哀しむことはない、明るい子じゃった。
ある日のこと。娘御は畑で、傷付いて今にも死にそうになっている鳥を見付けたのじゃ。
哀れに思った娘御は、その見知らぬ鳥を懸命に介抱したそうな。
その日の夜。夢枕に見知らぬ若い男が立ち、語りかけたのじゃ。
私はそなたが助けた鳥であり、この辺りの山の神である。そなたがもし、目を覚ましてからも私の姿を覚えておるのなら、私に嫁いで来るがよい。
翌朝、目を覚ました娘御は、あの鳥の姿が見えないことを知ると、嫁入りの支度をしてからひとりで山に入っていった。
その後、娘御の姿を見た者はおらぬ。
じゃが、娘御の嫁入りの後に豊作が続いたことで、村の者共は鳥を一層大切にするようになった。
『鳥神様 』が、自分達をずっと見守ってくれているんじゃからの。
ずっと前にお婆ちゃんが教えてくれた、この地方に代々伝わる昔話。
少し前までは、ただのおとぎ話だと思っていたのに……。
「おい、そこのアホ面女。見たんだろ、俺の翼」
この一言から、昔話に巻き込まれることになるなんて……ちょっと前じゃ、想像だにしなかったんだろうな。
まぁ、昔話みたいなロマンチックな展開なんかじゃなかったけど……。
「おい。何やってんだ大空 」
軽くため息を吐いたと同時に、頭に軽い衝撃がくる。顔を上げると、眉間にシワを寄せた男が机に腰かけて、赤い目で見下ろしていた。びっくりして心臓が飛び跳ねる。
「なんつー顔してんだよ……ホンット間抜け面だよな、お前」
目が合うなり罵られる。「間抜け面なんてしてないっ。それより机から降りたらどう?」と言い返しても、全く堪えてる様子はない。ほんと腹立つ。
勝手に裾を縮めたらしい短ランと学校で禁止されているブーツを身に付け、耳には銀色のピアスが並んでいる。典型的な不良の装いをしたこの人の名前は、神内 飛鳥 。青空の色の髪をもつ、ものすごく態度の悪い……簡単に言うと、不良転校生。最初は、そんなイメージしか持ってなかった。同じクラスになったとはいえ、正反対の性格だから関わることもなかったし。
飛鳥にこうして絡まれるようになったのは、あるちょっとした事故があってから。
……えっと、簡単に説明すると。屋上で弁当を食べようとしたら、文字通り『羽を伸ばして』いる彼と、ばったり会っちゃった、ってところ。上半身裸で水色の翼を広げている姿は、しばらく忘れられそうにない。
とにかく、そこからは「おい、そこのアホ面女。見たんだろ、俺の翼。隠そうとすんな、全部顔に出てンだよ! ったく、面倒なことにしやがって……お前、名前は?朱ヶ崎 大空? よし分かった。大空、今後一切単独行動禁止な。何があっても俺から離れんなよ」と、強引に押し切られて。それから、何かとつきまとわれて今に至る。
「で? お前は間抜け面晒しながら、こんなところで何やってんだ。単独行動禁止っつったろ」
「私が何してたっていいでしょ」
「良くねぇから言ってンだろが。質問に答えろアホ女」
「あ、アホ女って……!」
かっと頭に血が上る。大声で言い返そうとして、ここが図書館だってことを思い出す。大きく、ゆっくりと深呼吸して、精一杯目の前のムカつくやつを睨み付けた。
「昔話について調べてただけだけど。悪い?」
見下してくる俺様男を見上げて、挑発を返す。絵本の表紙を返して見て、飛鳥はふんと鼻を鳴らした。
「鳥神様伝説……か。まだ信じてんのか? そんな捏造ばっかのでっち上げ話を」
「信じてる訳じゃないよ。あなたの秘密を知って、ちょっと思い出して……もう一度目を通そうと思っただんむぅっ」
目の色を変えた飛鳥に思いっきり口を塞がれる。そのまま図書館の外まで強引に引きずり出されて、口から手を離すことなくヘッドロックを喰らわされた。
「こんな、誰が、いるか、分かんねぇ、とこで、それを、口に、出すな。言っただろ」
「んっんー……んんんんん!」
「うるせぇ。お前が返していい返事は『はい』だけだクソ女」
低い声で流れるような罵倒を浴びせられて、ぷつ、と私の中で何かが切れる音がした。口を塞いでいる手を強引に剥がして詰め寄る。
「もう! 何なのあなた? 顔合わせる度に言いたい放題に罵って、挙げ句の果てにどこまでもついてきて! ほっといてよ、このストーカー俺様男! チビ!」
「あンだとこのクソアマ! 俺は! お前のことを思って!」
私のためを思って? それまで接触なんてなかったのに、自分の秘密を知ったお礼に、私のために、こんな暴君としか言えない仕打ちをしてるってわけ?
拳を握って鼻息荒く詰め寄ってくる飛鳥に、とうとう堪忍袋の緒が切れた。
ぎゅ、と右手の拳を固める。左足を僅かに前に出して、身体を捻り、
「余計なお世話よ、この傲慢男ッ!」
上に繰り出した拳は、飛鳥の顎に綺麗に吸い込まれた。
飛鳥の体が崩れ落ちる。我に返って、慌てて飛鳥の顔を覗き込む。軽い脳震盪を起こしたらしく、目を回して気絶してる。……せっかくだし、今のうちに逃げちゃおう。
こっそり離れて、走り出す。走って、走って、家の近くまで来てから足を止めた。ここまで来たら、もう大丈夫。もし追い付かれたとしても隠れられる場所を知ってるから。
「ったく、何なのもう……」
ハンカチで汗を拭いて、大きく息をつく。ついでに愚痴も零れたのは仕方ないと思いたい。
「あれ、大空? 珍しいね、今日は一人?」
後ろから声をかけられて、思わず肩が跳ねる。振り返ると、そこには見慣れた顔が立っていた。ポニーテールの髪に、小柄な体格。私の昔からの友達でありクラスメイトの茜 が、きょとんと首を傾げてこっちに歩み寄ってきた。
「珍しいは余計だよ……一人と言うか、逃げてきたの。あいつから。こう、顎に一発喰らわせて」
右拳を下から上へ軽く振り上げる動作をすると、茜は「うっわぁ……お疲れ様」と苦笑いした。
「変な奴に目をつけられちゃったみたいだな、とは思ってたけど。何かあったらアタシに言いなよ?」
「うう……そうする」
ため息をついたら、背中を軽く叩いて励ましてくれた。飛鳥の扱いとの差に、少しだけ涙が出そうになる。そうだよ、これが普通の扱いだったんだ……飛鳥に振り回されすぎて忘れかけてた。
「ってかさー。飛鳥、だっけ。あいつ、何でそんなに大空にまとわりつくんだろうね?」
眉間にシワを寄せて呟く茜に、どう説明しようか一瞬迷った。飛鳥の翼のことは、誰にも言うなって念を押されてるし……茜にも言わずにいた方がいいのかな、多分。
「何か、私のため、とか言ってたような……よく分かんないけど」
ほんの少しだけ濁して伝えると、茜の顔が一気に渋くなった。うんざりしたように表情を歪ませる。
「何それ? 意味わかんないね……。頭おかしいんじゃない? 関わらない方がいいよ」
まるで自分のことのようにげんなりしながら、茜はきっぱりと言い切った。関わらない方が……って、言われても。こうして逃げなければどこまでも着いてくるからね、飛鳥は。
……でも。飛鳥は確かに人の話を聞かないけど、頭がおかしいとは何となくおもえないんだよね。
「うーん……そういう人なのかな、飛鳥って」
「――ところで大空。普段単独行動禁止されてるらしいけど、具体的に何されてるんだっけ」
「休み時間には必ず一緒に過ごすよう脅されて、トイレには入り口までついてくる。家にいるときはLINEで10分おきに状況報告、私が単独行動したらすっごい罵られる」
「彼氏か! 束縛しなきゃ気がすまないタイプの彼氏かッ!」
白目を剥きそうなくらい目を見開いて、茜は叫んだ。その勢いをそのままに、私の肩を両手で掴む。いきなりのことにびっくりして、ちょっとだけ変な声が出た。
「いい? 大空。それ恋人だったとしてもヤバいやつだから。しかもあんた達、付き合ってないんでしょ?」
「う、うん。ほぼ初対面の状況で何か、えっと、色々あって、ちょっと因縁ができちゃって……」
「いや、尚更駄目でしょそれ……あんた、飛鳥のせいで感覚が麻痺しちゃってるんだよ。悪いこと言わないから逃げな。アタシも出来る限り手伝うからさ」
優しく諭されて、言われるがままに頷く。飛鳥のやり方が過激すぎるとは思っていたし……茜と一緒なら、飛鳥も多少は話を聞いてくれるかもしれない。
そう思ってのことだったけど。
「飛鳥様から逃げる? それはいけませんね」
いつの間にか前に立っていた男の人にそう言われ、私達は前に向き直った。
真っ黒なスーツに黒のネクタイを締めた、眼鏡の男性。前髪を真ん中で分けたその人は、穏やかな微笑みを浮かべてこっちを見つめていた。
「朱ヶ崎大空さん、ですね?」
「は、はい、そうですけど……」
茜がさりげなく私の前に立つ。一瞬すれ違ったときに横目で見たあの子の目は、恐怖と怒りで鈍く光っているように見えた。
「誰ですか? 飛鳥の知り合い?」
もしそうなら、話はアタシを通してしてください。あいつの知り合いと大空とを二人きりで話をさせたくありません。
毅然と言い放つ。私より小柄な茜が、僅かに震えながら、私のために前に立ってくれている。私は安心してもらうために、そっと茜の肩に手を添えた。
「知り合いなどと……そんな畏れ多い間柄ではありませんよ。ああ、そういえば、申し遅れましたね。失礼致しました。宮野 と申します」
少し大袈裟な動作でお辞儀する。正直、かなり胡散臭い。「飛鳥とはどういう関係なんですか?」と尋ねると、宮野さんは顎に手をおいてふと考え込んだ。
「ふむ。難しい質問ですね。非常に説明しにくいのですが、一言で申し上げますと、」
そこで言葉を切り、宮野さんはおもむろにポケットに両手を差し込んだ。真っ白なハンカチを取り出すと、目にも止まらぬ速さで前に躍り出る。一気に距離を詰めて、私達二人の顔にハンカチを押し付ける。
仄かに甘い香りがする。そう感じた途端、ぐら、と、景色が歪んだ。私の意思に関係なく、意識が遠退いていく。
「飛鳥様にお仕えし……お祀りする。そんなところでしょうか」
どこか遠くで、そんな風に語る声が聞こえた気がした。
*
物心ついたときから、俺の背中には羽が生えていた。
親父から、しょっちゅう「俺達『鳥人 』は、羽が生えている分他の人間よりも優れているんだ」「鳥神に最も近い存在なんだ」と聞かされた。
そして……鳥神を祀っている神主の宮野は、「鳥人の末裔――鳥神様に、最も近いお方。貴方様は生きた御神体なのです」と、うわ言のように繰り返すような、そんな奴だった。
そんな狂った連中しかいない故郷が、昔から大嫌いだった。
ついこの間、親父が病気で死んで、遺品を整理してたとき。机の引き出しに入っていたノートの中身を見て、心の底から震え上がった。知りたくなかったことを、知ってしまった。
『そろそろ村に連れてきた奴隷どもの人数が少なくなってきた』
『鳥人の翼を見た者は、しきたりに従って鳥神に生け贄として差し出し、鳥人の元で奴隷として扱える』
『この隠れ里で育った飛鳥を外に出せば、適当な理由をつけて奴隷を連れてこれる。近いうちに実行しよう』
山の奥にある里にしちゃ、やけに人が多いな、とは思ってたんだ。皆、どうして鳥人である俺や親父にそんなに怯えるんだろう、と。
人を生け贄として連れ去って、奴隷にするなんて。そんなしきたりがあったなんて。そんな恐ろしいことが平気で行われていたなんて……全然知らなかった。俺の血筋が、そんなことを平気でやるような一族のものだったなんて。
動揺した俺は、宮野に詰め寄った。しきたりの話は本当なのか、この里にいるのは俺とあんた以外誘拐された人ってのは本当なのか、と。宮野は……そんな俺の問いかけに、全て頷いた。
「飛鳥様は本当に優しいお方ですね。ですが、気にする必要はございません。これこそがこの里のしきたりであり、鳥神様……及び鳥人様を祀る神主としての、私の使命なのですから」
いつもと変わらない笑顔で、そうほざいた。
あいつの柔らかい微笑みが……バケモノのように歪んで見えた瞬間だった。
これ以上こんなイカれたところにいたくなかった。だから俺は、荷物をまとめてこっそり里を抜け出した。狂気に満ちた故郷を棄てて、初めて山の下に降りてきた。
親父のノートに書いてあったやり方を真似て、どうにかして身分を偽って。高校生として、いわゆる『普通』の生活を送ろうと思ったんだ。
翼のことがバレないように、人が近寄らないように不良のような見た目にして、いつもよりさらに刺のある性格を演じた。体育の授業は休んだ。友達はできなかったけど、それで良かった。鳥人とか鳥神とか、そんなしがらみがないってだけで満足だったから。
俺なりに平穏な生活を送っていた。そこにまた『鳥人』って単語が付きまとうようになったのは、体育館のスピーカーに何の気なしに近寄ったときだった。耳をつんざくような高い音がして、慌てて離れる。
「び、びっくりしたぁ。今の、ハウリングだよね」
「ハウリング? 何それ」
「マイクとスピーカーを近付けると、キーンって鳴るでしょ? アレのことだよ」
「へぇ、あれハウリングって言うんだ」
「でも変だね、今は誰もマイクなんて持ってないのに」
何があったのか混乱している俺の耳に、そんな話し声が飛び込んできた。
俺がスピーカーに近付いたら音が鳴った。勿論俺はマイクなんて持ってない。と、言うことは……考えられる可能性は、ひとつだけだった。
盗聴されてる。多分……宮野が仕掛けたんだ。
一気に血の気が引いた。盗聴されてるってことは、宮野は俺の居場所なんて簡単に特定できるってことで。もしかしたら、またあの里に連れ戻されるかもしれない。それだけは嫌だった。
トイレの個室で、調べられるところは全部調べた。頭皮、服、素肌。どこを探しても見つからない。どこかにあるのは確かなのに。……あと、考えられるところはひとつしかない。
今思い返すと、俺は大分焦ってたんだと思う。家に帰ってからいくらでも調べられたのに、全く思いつかなかった。今すぐ取り外さないと、それしか頭になかった。
だから、昼休みのときに屋上に上がって……上の服を全部脱ぎ捨てて、翼を広げるなんてことをしちまった。普段はしまっている翼……羽根と羽根の間なら盗聴器なんて簡単に仕掛けられる、そう考えたから。
俺が羽根の中から小さくて硬い機械を取り出したのと、屋上の扉が開いたのとは全く同時だった。
上半身裸で、翼を広げている俺を見て……弁当を片手に持った女は、一気に顔を赤くした。
「う、わ、あ、あの……し、しし、失礼しましたぁっ!」
「おい、そこのアホ面女」
踵を返して扉の向こうに引っ込もうとしたそいつを呼び止めて、盗聴器を地面に落とす。勢いよくそれを踏み潰すと、女はびくり、と体を強張らせた。大股で歩み寄り、話の途中で逃げられないようにしっかり腕を掴む。
「見たんだろ、俺の翼」
確認のために低く唸るような声で問いかけると、女は涙目で首を振った。顔が真っ青だ。頭に来て「隠そうとすんな、全部顔に出てンだよ!」と怒鳴り付けると、泣きそうな顔で目を反らした。
見られた。俺の翼を、見られた。
里でのしきたりを、親父のノートの内容を思い出す。鳥人の翼を見た奴は、生け贄にされて……死ぬまで奴隷として扱われる。俺の翼を見た、そのせいで……こいつが、誘拐される? そんなの嫌だ。もう、そんなしきたりに巻き込まれる奴を増やすのは嫌だ。
「ったく、面倒なことにしやがって……」
俺の中に生まれたもやもやをどこにぶつければいいのか分からずに吐き捨てる。こんなところで翼を出した俺が悪い。けどそれ以前に、盗聴器なんて仕掛ける宮野が悪い。……この女は、ただ屋上に弁当を食いに来ただけなんだ。こいつを何としても守らなきゃならない。
「お前、名前は?」
「あ、朱ヶ崎 大空……」
「朱ヶ崎 大空? よし分かった。大空、今後一切単独行動禁止な。何があっても俺から離れんなよ」
女……大空が大きく目を見開いた。俺だって、自分がとんでもないことを言ってるのは分かってる。けど、宮野からこいつを守る方法はそれしか思いつかなかった。他の人に相談したら、俺の翼が公になる。興味本意で調べられて実験台扱いされるのもごめんだ。それに、大空がもし俺に必要以上に近付いたら、宮野がそれを理由にろくでもないことをしでかすかもしれない。
だから……大空が余計なことを知らないように距離をおきつつ、徹底的に管理するしか、俺にできることはなかったんだ。
そう、確かに大空に何も伝えず、やたら束縛することになっちまったのは悪かったよ。本気で反省してる。
けどな……あいつが男の顎に綺麗に右アッパー喰らわせて逃走するような奴だなんて、誰が予想できんだよ?
「もうあいつほっといて大丈夫じゃねェかな」
小さな声でぼやいて、首を振る。いくらあいつがグーパンで俺を気絶させてくるような奴だからって、大柄な宮野には敵わない。それに……確実に安全が確保できるまでは、危なっかしくてほっとけないんだよ。一緒にいたいとか、そんなんじゃねぇから!
「あのクソ女、どこ行きやがった……」
舌打ちして、あいつの行きそうなところを探してみる。LINEにメッセージを送っても、電話をしても繋がらない。胸騒ぎがする。この嫌な予感が当たらなければ、嫌がられて無視されてるだけならいいんだけどな……。
もしかしたら、もう家に帰ってるのかもしれない。そんな淡い期待を込めて大空の家の近所に行ってみた。遠目からでもうちの学校のだと分かるセーラー服に身を包んだ奴が倒れているのを見つけ、肝が冷えた。近寄って顔を覗き込む。ポニーテールの女――こいつは確か、大空の友達、だっけか。よくあいつに話しかけたり、俺を睨み付けたりしてた女だ。
「おい、起きろ。おい!」
肩を叩いて声をかける。何回か揺さぶったら、女はうめき声をあげながらゆっくり目を開いた。しばらくぼんやりと俺を見ていたが、数十秒してから思い切り嫌そうな顔をされた。
「うわ出た、DV男!」
「でぃーぶい……? よく分かんねェけどろくな意味じゃないだろ。悪口はどうでもいいから、質問に答えろ。大空はどこだ?」
早々に本題を切り出すと、何故か生ゴミを見るような目で睨まれた。……俺、こいつに何かしたか? 直接話すのも初めてのはずなんだけどな。
「よく聞けるね、そんなこと。あんたの知り合いなんでしょ? 眼鏡をかけた、背の高い男の人。宮野……って名前の」
聞き覚えしかない名前が出てきて、一瞬思考が停止する。関わりなんて全くないはずのこいつから宮野の名前が出て、しかも大空はいなくなっている。嫌な予感が、現実味を増していく。
「まぁ……元知り合い、だな。縁を切ったはずの」
生唾を飲み込んで、何とか動揺を隠す。なるべく冷静に見えるように「宮野が何をしでかしたんだ?」と尋ねると、憎しみのこもった鋭い視線を投げられた。直後にふい、と俯く。
「アタシと大空にハンカチを押し付けて眠らせたの。ここに大空がいないってことは……」
そこで言葉を切った。やっぱりそうだったか、早く助け出しに行かないと。そう考えて立ち上がろうとしたら、腕を掴まれて邪魔された。女の目の中で、怒りの炎が燃えているみたいに見えた。
「ねぇ、大空はどこ?」
「俺に聞くなよ」
「知り合いなんでしょ、あの誘拐犯の」
「だから縁を切ったっつーの」
「でもあいつはあんたの名前を出してて……ああもう、あんたとじゃ話になんない! 早く警察に、」
「待て、落ち着け。通報はすンな、余計厄介なことになる。とりあえず俺の話を聞け!」
見た目ほど冷静ではなかったのか、スマホを取り出して110を押し始める。冗談じゃない、宮野の仲間だと誤解されてる今通報されたら、俺までしょっぴかれそうだ。画面をタップする手を掴んで視線を合わせる。
「まずひとつ。ものすごい勘違いされてるっぽいから言うけどな、俺と宮野はグルでも何でもない。あいつはざっくり言えばそうだな、人を勝手に神様扱いしてくるイカれ野郎だ。ふたつ、大空をやたら管理しようとしたのはあいつを宮野から守るためだ。信じてもらえないかもしれないけどな、宮野とグルならまず大空の居場所なんぞ聞かねェ。ここまでで質問は?」
「……通報を止めたのは何で?」
「宮野は――目的のためなら手段を選ばない奴だ。警察が絡んだら、通報されたって事実すらももみ消して来かねない。そうなったとき……次に狙われる可能性が高いのは、通報者だ」
思ったことをそのまま伝えると、女が青ざめた。宮野は何をやらかすか分からない奴だ。この女が狙われることだって充分ありえる。
「宮野のいそうな場所は分かってる。今から大空を連れ出してくる。だから……通報は、一日だけ待ってくれ。一日経って大空が戻って来なかったら、何でもしていいから。頼む」
まっすぐ女を見つめる。俺の顔が真剣なのが分かったのか、疑っているような嫌な目付きから真剣な顔つきに変わる。
「――信じていいんだよね? その言葉」
さっきまでとはまるで違う、落ち着いた口調。ゆっくりと発せられた確認の言葉に、俺は頷いて「ああ」と応えた。
「分かった、信じる。大空のこと、頼んだよ」
はっきりとした口調で頼まれて、何て答えれば良いのか分からずにただ頷いた。ゆっくり立ち上がって、駆け出す。
大空。いつも俺に突っかかってきて、喧嘩して。初めは面倒臭い奴としか思ってなかったけどな? 宮野の犠牲者を増やさないためにお前をずっと見てたら……だんだんそのアホ面に愛着が湧いてきたみたいなんだ。
やたら束縛しちまったのは悪かった。態度が悪かった自覚もある。お前を巻き込んじまったこととか、全部謝るから。だから、
「無事でいろよ、アホ女」
*
あれからどれぐらい時間が経ったんだろう。寒くて暗い部屋にずっと押し込められてるから、指先や爪先が冷たい。足と手が縛られてるせいで身動きが取れないのも辛い。猿ぐつわを噛まされてるせいで声も出せない。自分に出来ることを全部奪われたみたいな気分になる。
家の近くで気を失って……気が付いたらこの部屋にいた。一度宮野さんがここに来たときに、何だか色々言ってたっけ。しきたりがどうとか鳥人がどうとか……早口でまくし立てられたけど、みっつだけ分かったことがある。
この人は自分の考えが絶対に正しいと思い込んでるってこと。
私が飛鳥の翼を見ちゃったから、こんなことになってるんだってこと。
それから……飛鳥は私を束縛しようとしてたんじゃなくて、この人から守ろうとしてくれてたのかな、ってこと。
殴ったりして、悪いことしちゃったな。謝らないと……謝れるかな。
飛鳥の生意気な顔がまぶたの裏に浮かぶ。
嫌な奴だと思っててごめんね。勝手に離れちゃってごめん。散々酷いこと言ってごめん。翼を見ちゃってごめん。謝りたいことは沢山あるけど、どれもこれも飛鳥に会えなきゃ意味がない。
今度はちゃんと話を聞くから。ちゃんと向き合うから。だから……助けて。助けて、飛鳥。
ごそごそ動いて、うめき声を上げる。けど、口に布を押し込められてるせいでまともに声も出せない。
私のせいだ。こんなことになったのは、全部私が悪かったせいだ。目頭が熱くなって、ぽろ、と涙が零れる。
木で出来た古い建物。畳も敷いてないそこに寝かされてるせいで、だんだん感覚がなくなっていく。すきま風が容赦なく体温を奪う。強い風でも吹いてるのか、遠くからばたばたと激しい音がする。
だんだん、頭の中にもやがかかっていく。体が冷えきってるせいか、やけに眠くなってきた。
飛鳥、ごめんね。
何度目かの謝罪を、心の中で溢す。
この状況に疲れて、眠りに、ついた――。
「大空! 無事かッ?」
遠退きかけた意識が、強引に引きずり戻される。目を開けると、あの赤色の瞳がこっちをまっすぐ見つめていた。
飛鳥、来てくれたんだ……!
また、大粒の涙が零れた。
「くっそ宮野の奴、固結びにしやがって――よし、解けた!」
手足を縛っていた縄と猿ぐつわが外される。少しずつ、手足に血が巡っていく。
「おい、しっかりしろ! 俺の顔は分かるか? 怪我はしてないよな?」
ゆっくり体を起こして、私の顔を覗き込む。心配そうに話しかけてくる飛鳥を見ていたら……抑えられていた感情が、弾け出た。
飛鳥の肩にそっと手を乗せて、今自分に出せる力を全て使って抱き締めた。
「そ、大空ッ?」
飛鳥の声が裏返る。涙が止まらずに、抱きついたまましゃくり上げた
「あすかぁ、ごめんね。ごめん……!」
私の声を聞いて、飛鳥は一瞬固まった。それから私を強引に引き剥がして、少し乱暴で不器用な手つきで涙をぬぐってくれた。
「な、泣いてる場合かアホ女。そういうのは後回しだ、逃げるぞ。立て!」
腕を引っ張られて、足に力を込める。でも、体が冷えたせいかまともに力が入らなかった。
「たてない……」
「んじゃ肩貸してやる。ほら、歩くぞ」
飛鳥が肩に私の右腕を乗せて、立ち上がった。ゆっくり、ゆっくりと歩いていく。
階段を上がって外に出たら真っ暗だった。ふくろうの声が聴こえる。風が吹いて、ざわざわと木の葉の揺れる音がする。周りを照らすのは、月と星の明かりだけ。満月のせいか、電気がなくても意外と明るいんだ、ということを初めて知った。
私の監禁されてたところが神社だったらしい、っていうのが、鳥居を見てやっと分かった。大きな鳥居をくぐったあたりで、「足の感覚が戻ってきたからもういいよ」と言おうと口を開く。
「おや、飛鳥様。おかえりなさいませ。生け贄を連れてどこにお出かけになるのですか?」
後ろから、低くて落ち着いた声が聞こえて……飛鳥は足を止めた。「出やがったなイカれ神主」と舌打ちしてゆっくり振り返る。
私をさらった張本人、宮野さんが、こっちを見てにこにこと笑っていた。白と紫の狩衣を身に付けて、神社をバックに立つその姿は、どことなく神秘的に見えた。思わず息を飲む。
「決まってンだろ。帰るんだよ」
「どこにですか? 鳥人である貴方の居場所は、ここしかないというのに」
眼鏡の奥の目を細めて、宮野さんが続けた。
「昔話でもあったでしょう。鳥神様はこの里に娘を連れ帰り、お二人で幸せに過ごされたのです」
「ハッ、よく言うぜ。あんなの、人さらいを正当化するためのでっち上げだろが。それに俺は、鳥神様じゃない。翼があるだけの、ただの人間だ」
「ただの人間? そんなはずはありません。飛鳥様は鳥神様に最も近い存在、神聖なお方なのですから」
「神聖神聖って……テメェの目は節穴か? 宮野、あんた俺を通して何を見てんだよ。俺を、陣内 飛鳥を見ろ! 話を聞け!」
「ええ、畏れ多くも、しかと拝見させて頂いておりますよ。そのお声を聞けることは、私にとっては至極光栄なことでございます。飛鳥様の幸福のために、私は完璧にしきたりを守り抜く所存です」
「あーもう、お前は昔ッからそうだよな! 俺のため俺のためって言いながら押し付けるんだ、いつだって!」
声を荒らげる飛鳥の顔は、かなり辛そうに見えた。宮野さんの不気味なほど穏やかな笑顔とは正反対。
飛鳥は、ずっとこんなところにいたのかな。ずっとこうして声を張り上げて、その度にこんな風に傷付いてきたのかな。
「あ、あの!」
そう思うと、いてもたってもいられなくなった。
飛鳥の肩から腕を外して、自分で地面を踏みしめて。宮野さんを、しっかりと見据える。
「飛鳥は……そんな出来た奴じゃありません。生意気だし口は悪いし素直じゃないし、性格だけ見たら最低の部類だと思います」
「何だ、喧嘩売ってンのかクソ女?」
「けど!」
飛鳥に睨み付けられても、宮野さんに怪訝な顔をされても。それでも私は、自分の思ったことを正直に言うんだ。
「飛鳥は、何だかんだで私を守ろうとしてくれました。こうして助けに来てくれました。飛鳥は飛鳥なりの考えがあるんです。私はそれに気付くまでに随分かかっちゃったけど……」
こうすることがきっと、飛鳥への礼儀だと思うから。
きちんと向き合う、ってことだと思うから。
「宮野さん。あなたは、飛鳥の昔からの知り合いなんでしょう? だったら、話を聞いてあげてください。飛鳥のことを認めてあげてください。お願いします!」
しっかり自分の言葉で言い切って、深々と頭を下げる。ゆっくり頭を上げると、宮野さんはうつむいてぶつぶつと何かを呟いていた。
「――成る程。飛鳥様が心変わりなさったのは、その女の仕業ですね?」
「はァ? なに言って、」
低く、噛み締めるように呟いて……宮野さんは顔を上げた。ずっと絶やさなかった笑顔が消し飛んだ、鬼のような表情で私を睨みつける。
「飛鳥様は、鳥神様はこの里のものだ! こんなアバズレにほだされて出ていかれてたまるかァッ!」
懐から何かを取り出して、走ってくる。月の光が反射した――ナイフだ!
「それが……あんたの本音か、宮野」
静かに、感情を排除したような声で、飛鳥はぽつりと呟いた。私の前に出て、宮野さんの腕を蹴りあげる。ナイフは宮野さんの手をすり抜けて、どこかに飛んでいった。
飛鳥が二十センチぐらい身長差がある相手の胸ぐらを掴んで、ぐい、と引き寄せる。
「俺はなァ! 苔の生えたしきたりに従わされるのも、神様なんぞに仕立てあげられるのも。この里の何もかもが嫌なんだよ!」
吐き捨てて、頭突きを食らわせる。
宮野さんの喉から潰れたような声が漏れる。おでこから血が出ている相手を突き飛ばして、飛鳥が私に駆け寄った。
「俺の首に手を回せ!」
「えっ?」
唐突な指示に、思わず聞き返す。「早くしろ!」と怒鳴られて、慌てて言われたようにした。指示に従う間もなく、屈んで私の膝裏に手を入れて抱えあげられた。いきなりのことに悲鳴が漏れる。
「よっ……とと。よし、行くぞ!」
飛鳥がふらつきながらも走り出す。ある程度まで速度が出たところで翼を出して、強く地面を蹴った。
ふわ、と身体が浮く。
一度力強く羽ばたく毎に、地面が離れていく。風が私の頬を撫でていく。木々を抜けて上空を飛ぶと、目の前いっぱいに星空が広がった。初めての体験に、大きく息を飲んだ。
ただ。
「……ねぇ、飛鳥。何か、ふらついてない?」
少しの風に流されて、時々落ちそうにがくんと下がって。今にも墜落しそうな飛びかたに、興奮とは別の意味で心臓の鼓動が早くなる。
「しょ、うがねェだろ! お前、お、もッ……」
「なッ……平均よ、失礼な! 飛鳥がちっちゃいせいでしょ?」
「俺の体格は血筋だ!」
いつもみたいに言い合っていたら、強い風が吹いた。普通なら傘がちょっと持っていかれそうになるぐらいの風だけど、ふらふら飛んでた飛鳥には強すぎた。がくっと高度が落ちる。
「う、わ、やべ、」
「ちょ、ちょっと、まっすぐ飛んでよ!」
「無茶言うな、う、わ、あぁああッ!」
くるくる回って急降下する。二人分の悲鳴が山にこだました。
「あー、下手な絶叫マシンより怖かった……」
「仕方ねェだろ、人抱えて飛んだのなんか初めてなんだから……」
仰向けに寝転んで、深呼吸する。思ったことをそのまま呟いたら、左隣から疲れはてて掠れた声が飛んできた。
落ちかけたり風に流されたり、深夜のフライトは散々だった。けど、苦戦しながらも何とか山は抜け出せた。山のふもと、私達が住む町の建物の屋上に降りてから顔を見合わせ、二人同時に倒れ込んだ。
視界が、だんだん明るくなっていく。夜明けが近付いてくる。
私、帰って来れたんだ。飛鳥が助けてくれたお陰で戻ってこれたんだ。
やっと、実感できた。
「ねぇ」
「あ?」
「えっと、その。今までごめんね、飛鳥」
飛鳥の方に顔を向けて、今までの諸々を謝った。飛鳥の顔が複雑に歪む。
「あー、っと。もういいだろ、その話は。翼を大っぴらに見せたり、やたらしつこく付きまとったりした俺も悪いし」
「でも」
「もっと言えば、宮野が色々とやらかしたのが悪い! だからこの話は終わりだ!」
この機会にちゃんと謝っておこうと思ったのに、強引に切り上げられた。
「えっと、じゃあ、助けてくれてありがとう」
「それもなし!」
「何で?」
助けてくれたお礼くらいさせてよ。
そう食い下がったら、飛鳥はふい、と顔を背けた。耳が真っ赤になってる。
「何か……き、気恥ずかしいだろ。そういうの」
声が上ずっている。そんな恥ずかしいことをしたつもりはないのに、何だか私まで恥ずかしくなって。結局「う、うん」と返すしかできなかった。
気まずいような恥ずかしいような、何となくこそばゆい空気。何か言わなきゃ、そんな焦りばっかりが先回りして言葉が出てこない。
「……飛鳥、これからどうするの?」
やっとのことで、それだけ尋ねた。飛鳥が一瞬無言になって、体を起こす。
「宮野をどうにかして説得してくる」
どこか遠くを見ながら、飛鳥はぽつりとそう溢した。どこか悲しげな顔。何を考えているのか……何となく分かるからこそ、何も言葉をかけられない。
「あいつは……俺じゃなくて、俺の翼の方に魅入られてるんだ。この翼が神の証だって本気で思い込んでる。――だから、あいつの目の前でこの翼をもいで、俺が神なんかじゃないって証明してやる」
「でもそれだと、飛鳥の翼が」
違う、痛いんじゃないかって言いたかったのに。いい言葉が、全く思い浮かばない。
「翼があったって、自由に飛べる訳じゃない。自由になれない翼なんか、あっても意味がない。そうだろ?」
訂正しようとしたのに、飛鳥が思ったよりあっけらかんと笑うものだから……また、何も言えなくなった。
深呼吸をして、自分に問いかける。
今、飛鳥に一番聞きたいことは何だろう。
「また、会えるよね?」
素直な自分が知りたがっていることが、口をついて出た。こっちを向いていた飛鳥が、大きく目を見開いて……にやりと笑う。
「へぇ、物好きだなお前も。チビで俺様な最低男にまた会いたがるなんて」
「そ、そこまで言ってない!」
「――約束は、できない」
からかってきた後、少し間を置いてから、真顔でそう告げた。立ち上がって、転落防止用の手すりに手をかける。
「宮野が簡単に諦めるとは思えないし、帰ってこられるとも限らないからな。だから……ここでさよならだ」
どこか寂しそうな顔。無理やり笑顔を作ったようなその表情を見て、私も体を起こす。
「待っててもいい?」
するりと、そんな一言が口から飛び出した。飛鳥が目を丸くする。しばらく呆然としてから、ふい、と目を反らした。
「――勝手にしろ」
手すりを乗り越えて、飛び降りる。立ち上がって手すりに掴まると、山の方へ飛んでいく飛鳥の影が見えた。
夜明けが来て、山が、空が真っ赤に染まっている。飛鳥が飛び立ったときに散らばったらしい水色の羽根が、朝日に照らされながら舞っていて、きらきら輝いて見えた。
あれから一週間後。
茜に泣き付かれたり、誘拐を知らなかったらしいお母さんとお父さんにこっ酷く叱られたり、そんな出来事を乗り越えたら、何事もなかったかのようにいつもの生活に戻っていた。
……違った。いつもの生活じゃない。
それまで私に散々付きまとってきていた飛鳥の存在だけは、私の生活から抜けたままだった。
今頃、どうしてるんだろう。宮野さんとの話し合いはうまくいってるのかな。そんな心配を茜に打ち明けたら、呆れられた。
今日もそんな張り合いのない一日を過ごして、帰ってくると……私の部屋のベランダに、人がいた。ずっと私の頭の中を埋め尽くして、離れてくれなかった人が。慌てて窓を開ける。
短ランも、体も、酷く汚れていて、生傷が痛々しかったけれど。綺麗だった翼が、ぐちゃぐちゃになっていたけれど……。
確かに、飛鳥がそこに立っていた。
「えっと……その。手当て、してくれないか? どこぞの伝説みたいにさ」
耳まで真っ赤にして、目を反らす飛鳥に。
私は、勢いよく抱きついた。
了
その娘の家は酷く貧しく、畑も小さかったが、決してそれを哀しむことはない、明るい子じゃった。
ある日のこと。娘御は畑で、傷付いて今にも死にそうになっている鳥を見付けたのじゃ。
哀れに思った娘御は、その見知らぬ鳥を懸命に介抱したそうな。
その日の夜。夢枕に見知らぬ若い男が立ち、語りかけたのじゃ。
私はそなたが助けた鳥であり、この辺りの山の神である。そなたがもし、目を覚ましてからも私の姿を覚えておるのなら、私に嫁いで来るがよい。
翌朝、目を覚ました娘御は、あの鳥の姿が見えないことを知ると、嫁入りの支度をしてからひとりで山に入っていった。
その後、娘御の姿を見た者はおらぬ。
じゃが、娘御の嫁入りの後に豊作が続いたことで、村の者共は鳥を一層大切にするようになった。
『
ずっと前にお婆ちゃんが教えてくれた、この地方に代々伝わる昔話。
少し前までは、ただのおとぎ話だと思っていたのに……。
「おい、そこのアホ面女。見たんだろ、俺の翼」
この一言から、昔話に巻き込まれることになるなんて……ちょっと前じゃ、想像だにしなかったんだろうな。
まぁ、昔話みたいなロマンチックな展開なんかじゃなかったけど……。
「おい。何やってんだ
軽くため息を吐いたと同時に、頭に軽い衝撃がくる。顔を上げると、眉間にシワを寄せた男が机に腰かけて、赤い目で見下ろしていた。びっくりして心臓が飛び跳ねる。
「なんつー顔してんだよ……ホンット間抜け面だよな、お前」
目が合うなり罵られる。「間抜け面なんてしてないっ。それより机から降りたらどう?」と言い返しても、全く堪えてる様子はない。ほんと腹立つ。
勝手に裾を縮めたらしい短ランと学校で禁止されているブーツを身に付け、耳には銀色のピアスが並んでいる。典型的な不良の装いをしたこの人の名前は、
飛鳥にこうして絡まれるようになったのは、あるちょっとした事故があってから。
……えっと、簡単に説明すると。屋上で弁当を食べようとしたら、文字通り『羽を伸ばして』いる彼と、ばったり会っちゃった、ってところ。上半身裸で水色の翼を広げている姿は、しばらく忘れられそうにない。
とにかく、そこからは「おい、そこのアホ面女。見たんだろ、俺の翼。隠そうとすんな、全部顔に出てンだよ! ったく、面倒なことにしやがって……お前、名前は?
「で? お前は間抜け面晒しながら、こんなところで何やってんだ。単独行動禁止っつったろ」
「私が何してたっていいでしょ」
「良くねぇから言ってンだろが。質問に答えろアホ女」
「あ、アホ女って……!」
かっと頭に血が上る。大声で言い返そうとして、ここが図書館だってことを思い出す。大きく、ゆっくりと深呼吸して、精一杯目の前のムカつくやつを睨み付けた。
「昔話について調べてただけだけど。悪い?」
見下してくる俺様男を見上げて、挑発を返す。絵本の表紙を返して見て、飛鳥はふんと鼻を鳴らした。
「鳥神様伝説……か。まだ信じてんのか? そんな捏造ばっかのでっち上げ話を」
「信じてる訳じゃないよ。あなたの秘密を知って、ちょっと思い出して……もう一度目を通そうと思っただんむぅっ」
目の色を変えた飛鳥に思いっきり口を塞がれる。そのまま図書館の外まで強引に引きずり出されて、口から手を離すことなくヘッドロックを喰らわされた。
「こんな、誰が、いるか、分かんねぇ、とこで、それを、口に、出すな。言っただろ」
「んっんー……んんんんん!」
「うるせぇ。お前が返していい返事は『はい』だけだクソ女」
低い声で流れるような罵倒を浴びせられて、ぷつ、と私の中で何かが切れる音がした。口を塞いでいる手を強引に剥がして詰め寄る。
「もう! 何なのあなた? 顔合わせる度に言いたい放題に罵って、挙げ句の果てにどこまでもついてきて! ほっといてよ、このストーカー俺様男! チビ!」
「あンだとこのクソアマ! 俺は! お前のことを思って!」
私のためを思って? それまで接触なんてなかったのに、自分の秘密を知ったお礼に、私のために、こんな暴君としか言えない仕打ちをしてるってわけ?
拳を握って鼻息荒く詰め寄ってくる飛鳥に、とうとう堪忍袋の緒が切れた。
ぎゅ、と右手の拳を固める。左足を僅かに前に出して、身体を捻り、
「余計なお世話よ、この傲慢男ッ!」
上に繰り出した拳は、飛鳥の顎に綺麗に吸い込まれた。
飛鳥の体が崩れ落ちる。我に返って、慌てて飛鳥の顔を覗き込む。軽い脳震盪を起こしたらしく、目を回して気絶してる。……せっかくだし、今のうちに逃げちゃおう。
こっそり離れて、走り出す。走って、走って、家の近くまで来てから足を止めた。ここまで来たら、もう大丈夫。もし追い付かれたとしても隠れられる場所を知ってるから。
「ったく、何なのもう……」
ハンカチで汗を拭いて、大きく息をつく。ついでに愚痴も零れたのは仕方ないと思いたい。
「あれ、大空? 珍しいね、今日は一人?」
後ろから声をかけられて、思わず肩が跳ねる。振り返ると、そこには見慣れた顔が立っていた。ポニーテールの髪に、小柄な体格。私の昔からの友達でありクラスメイトの
「珍しいは余計だよ……一人と言うか、逃げてきたの。あいつから。こう、顎に一発喰らわせて」
右拳を下から上へ軽く振り上げる動作をすると、茜は「うっわぁ……お疲れ様」と苦笑いした。
「変な奴に目をつけられちゃったみたいだな、とは思ってたけど。何かあったらアタシに言いなよ?」
「うう……そうする」
ため息をついたら、背中を軽く叩いて励ましてくれた。飛鳥の扱いとの差に、少しだけ涙が出そうになる。そうだよ、これが普通の扱いだったんだ……飛鳥に振り回されすぎて忘れかけてた。
「ってかさー。飛鳥、だっけ。あいつ、何でそんなに大空にまとわりつくんだろうね?」
眉間にシワを寄せて呟く茜に、どう説明しようか一瞬迷った。飛鳥の翼のことは、誰にも言うなって念を押されてるし……茜にも言わずにいた方がいいのかな、多分。
「何か、私のため、とか言ってたような……よく分かんないけど」
ほんの少しだけ濁して伝えると、茜の顔が一気に渋くなった。うんざりしたように表情を歪ませる。
「何それ? 意味わかんないね……。頭おかしいんじゃない? 関わらない方がいいよ」
まるで自分のことのようにげんなりしながら、茜はきっぱりと言い切った。関わらない方が……って、言われても。こうして逃げなければどこまでも着いてくるからね、飛鳥は。
……でも。飛鳥は確かに人の話を聞かないけど、頭がおかしいとは何となくおもえないんだよね。
「うーん……そういう人なのかな、飛鳥って」
「――ところで大空。普段単独行動禁止されてるらしいけど、具体的に何されてるんだっけ」
「休み時間には必ず一緒に過ごすよう脅されて、トイレには入り口までついてくる。家にいるときはLINEで10分おきに状況報告、私が単独行動したらすっごい罵られる」
「彼氏か! 束縛しなきゃ気がすまないタイプの彼氏かッ!」
白目を剥きそうなくらい目を見開いて、茜は叫んだ。その勢いをそのままに、私の肩を両手で掴む。いきなりのことにびっくりして、ちょっとだけ変な声が出た。
「いい? 大空。それ恋人だったとしてもヤバいやつだから。しかもあんた達、付き合ってないんでしょ?」
「う、うん。ほぼ初対面の状況で何か、えっと、色々あって、ちょっと因縁ができちゃって……」
「いや、尚更駄目でしょそれ……あんた、飛鳥のせいで感覚が麻痺しちゃってるんだよ。悪いこと言わないから逃げな。アタシも出来る限り手伝うからさ」
優しく諭されて、言われるがままに頷く。飛鳥のやり方が過激すぎるとは思っていたし……茜と一緒なら、飛鳥も多少は話を聞いてくれるかもしれない。
そう思ってのことだったけど。
「飛鳥様から逃げる? それはいけませんね」
いつの間にか前に立っていた男の人にそう言われ、私達は前に向き直った。
真っ黒なスーツに黒のネクタイを締めた、眼鏡の男性。前髪を真ん中で分けたその人は、穏やかな微笑みを浮かべてこっちを見つめていた。
「朱ヶ崎大空さん、ですね?」
「は、はい、そうですけど……」
茜がさりげなく私の前に立つ。一瞬すれ違ったときに横目で見たあの子の目は、恐怖と怒りで鈍く光っているように見えた。
「誰ですか? 飛鳥の知り合い?」
もしそうなら、話はアタシを通してしてください。あいつの知り合いと大空とを二人きりで話をさせたくありません。
毅然と言い放つ。私より小柄な茜が、僅かに震えながら、私のために前に立ってくれている。私は安心してもらうために、そっと茜の肩に手を添えた。
「知り合いなどと……そんな畏れ多い間柄ではありませんよ。ああ、そういえば、申し遅れましたね。失礼致しました。
少し大袈裟な動作でお辞儀する。正直、かなり胡散臭い。「飛鳥とはどういう関係なんですか?」と尋ねると、宮野さんは顎に手をおいてふと考え込んだ。
「ふむ。難しい質問ですね。非常に説明しにくいのですが、一言で申し上げますと、」
そこで言葉を切り、宮野さんはおもむろにポケットに両手を差し込んだ。真っ白なハンカチを取り出すと、目にも止まらぬ速さで前に躍り出る。一気に距離を詰めて、私達二人の顔にハンカチを押し付ける。
仄かに甘い香りがする。そう感じた途端、ぐら、と、景色が歪んだ。私の意思に関係なく、意識が遠退いていく。
「飛鳥様にお仕えし……お祀りする。そんなところでしょうか」
どこか遠くで、そんな風に語る声が聞こえた気がした。
*
物心ついたときから、俺の背中には羽が生えていた。
親父から、しょっちゅう「俺達『
そして……鳥神を祀っている神主の宮野は、「鳥人の末裔――鳥神様に、最も近いお方。貴方様は生きた御神体なのです」と、うわ言のように繰り返すような、そんな奴だった。
そんな狂った連中しかいない故郷が、昔から大嫌いだった。
ついこの間、親父が病気で死んで、遺品を整理してたとき。机の引き出しに入っていたノートの中身を見て、心の底から震え上がった。知りたくなかったことを、知ってしまった。
『そろそろ村に連れてきた奴隷どもの人数が少なくなってきた』
『鳥人の翼を見た者は、しきたりに従って鳥神に生け贄として差し出し、鳥人の元で奴隷として扱える』
『この隠れ里で育った飛鳥を外に出せば、適当な理由をつけて奴隷を連れてこれる。近いうちに実行しよう』
山の奥にある里にしちゃ、やけに人が多いな、とは思ってたんだ。皆、どうして鳥人である俺や親父にそんなに怯えるんだろう、と。
人を生け贄として連れ去って、奴隷にするなんて。そんなしきたりがあったなんて。そんな恐ろしいことが平気で行われていたなんて……全然知らなかった。俺の血筋が、そんなことを平気でやるような一族のものだったなんて。
動揺した俺は、宮野に詰め寄った。しきたりの話は本当なのか、この里にいるのは俺とあんた以外誘拐された人ってのは本当なのか、と。宮野は……そんな俺の問いかけに、全て頷いた。
「飛鳥様は本当に優しいお方ですね。ですが、気にする必要はございません。これこそがこの里のしきたりであり、鳥神様……及び鳥人様を祀る神主としての、私の使命なのですから」
いつもと変わらない笑顔で、そうほざいた。
あいつの柔らかい微笑みが……バケモノのように歪んで見えた瞬間だった。
これ以上こんなイカれたところにいたくなかった。だから俺は、荷物をまとめてこっそり里を抜け出した。狂気に満ちた故郷を棄てて、初めて山の下に降りてきた。
親父のノートに書いてあったやり方を真似て、どうにかして身分を偽って。高校生として、いわゆる『普通』の生活を送ろうと思ったんだ。
翼のことがバレないように、人が近寄らないように不良のような見た目にして、いつもよりさらに刺のある性格を演じた。体育の授業は休んだ。友達はできなかったけど、それで良かった。鳥人とか鳥神とか、そんなしがらみがないってだけで満足だったから。
俺なりに平穏な生活を送っていた。そこにまた『鳥人』って単語が付きまとうようになったのは、体育館のスピーカーに何の気なしに近寄ったときだった。耳をつんざくような高い音がして、慌てて離れる。
「び、びっくりしたぁ。今の、ハウリングだよね」
「ハウリング? 何それ」
「マイクとスピーカーを近付けると、キーンって鳴るでしょ? アレのことだよ」
「へぇ、あれハウリングって言うんだ」
「でも変だね、今は誰もマイクなんて持ってないのに」
何があったのか混乱している俺の耳に、そんな話し声が飛び込んできた。
俺がスピーカーに近付いたら音が鳴った。勿論俺はマイクなんて持ってない。と、言うことは……考えられる可能性は、ひとつだけだった。
盗聴されてる。多分……宮野が仕掛けたんだ。
一気に血の気が引いた。盗聴されてるってことは、宮野は俺の居場所なんて簡単に特定できるってことで。もしかしたら、またあの里に連れ戻されるかもしれない。それだけは嫌だった。
トイレの個室で、調べられるところは全部調べた。頭皮、服、素肌。どこを探しても見つからない。どこかにあるのは確かなのに。……あと、考えられるところはひとつしかない。
今思い返すと、俺は大分焦ってたんだと思う。家に帰ってからいくらでも調べられたのに、全く思いつかなかった。今すぐ取り外さないと、それしか頭になかった。
だから、昼休みのときに屋上に上がって……上の服を全部脱ぎ捨てて、翼を広げるなんてことをしちまった。普段はしまっている翼……羽根と羽根の間なら盗聴器なんて簡単に仕掛けられる、そう考えたから。
俺が羽根の中から小さくて硬い機械を取り出したのと、屋上の扉が開いたのとは全く同時だった。
上半身裸で、翼を広げている俺を見て……弁当を片手に持った女は、一気に顔を赤くした。
「う、わ、あ、あの……し、しし、失礼しましたぁっ!」
「おい、そこのアホ面女」
踵を返して扉の向こうに引っ込もうとしたそいつを呼び止めて、盗聴器を地面に落とす。勢いよくそれを踏み潰すと、女はびくり、と体を強張らせた。大股で歩み寄り、話の途中で逃げられないようにしっかり腕を掴む。
「見たんだろ、俺の翼」
確認のために低く唸るような声で問いかけると、女は涙目で首を振った。顔が真っ青だ。頭に来て「隠そうとすんな、全部顔に出てンだよ!」と怒鳴り付けると、泣きそうな顔で目を反らした。
見られた。俺の翼を、見られた。
里でのしきたりを、親父のノートの内容を思い出す。鳥人の翼を見た奴は、生け贄にされて……死ぬまで奴隷として扱われる。俺の翼を見た、そのせいで……こいつが、誘拐される? そんなの嫌だ。もう、そんなしきたりに巻き込まれる奴を増やすのは嫌だ。
「ったく、面倒なことにしやがって……」
俺の中に生まれたもやもやをどこにぶつければいいのか分からずに吐き捨てる。こんなところで翼を出した俺が悪い。けどそれ以前に、盗聴器なんて仕掛ける宮野が悪い。……この女は、ただ屋上に弁当を食いに来ただけなんだ。こいつを何としても守らなきゃならない。
「お前、名前は?」
「あ、朱ヶ崎 大空……」
「朱ヶ崎 大空? よし分かった。大空、今後一切単独行動禁止な。何があっても俺から離れんなよ」
女……大空が大きく目を見開いた。俺だって、自分がとんでもないことを言ってるのは分かってる。けど、宮野からこいつを守る方法はそれしか思いつかなかった。他の人に相談したら、俺の翼が公になる。興味本意で調べられて実験台扱いされるのもごめんだ。それに、大空がもし俺に必要以上に近付いたら、宮野がそれを理由にろくでもないことをしでかすかもしれない。
だから……大空が余計なことを知らないように距離をおきつつ、徹底的に管理するしか、俺にできることはなかったんだ。
そう、確かに大空に何も伝えず、やたら束縛することになっちまったのは悪かったよ。本気で反省してる。
けどな……あいつが男の顎に綺麗に右アッパー喰らわせて逃走するような奴だなんて、誰が予想できんだよ?
「もうあいつほっといて大丈夫じゃねェかな」
小さな声でぼやいて、首を振る。いくらあいつがグーパンで俺を気絶させてくるような奴だからって、大柄な宮野には敵わない。それに……確実に安全が確保できるまでは、危なっかしくてほっとけないんだよ。一緒にいたいとか、そんなんじゃねぇから!
「あのクソ女、どこ行きやがった……」
舌打ちして、あいつの行きそうなところを探してみる。LINEにメッセージを送っても、電話をしても繋がらない。胸騒ぎがする。この嫌な予感が当たらなければ、嫌がられて無視されてるだけならいいんだけどな……。
もしかしたら、もう家に帰ってるのかもしれない。そんな淡い期待を込めて大空の家の近所に行ってみた。遠目からでもうちの学校のだと分かるセーラー服に身を包んだ奴が倒れているのを見つけ、肝が冷えた。近寄って顔を覗き込む。ポニーテールの女――こいつは確か、大空の友達、だっけか。よくあいつに話しかけたり、俺を睨み付けたりしてた女だ。
「おい、起きろ。おい!」
肩を叩いて声をかける。何回か揺さぶったら、女はうめき声をあげながらゆっくり目を開いた。しばらくぼんやりと俺を見ていたが、数十秒してから思い切り嫌そうな顔をされた。
「うわ出た、DV男!」
「でぃーぶい……? よく分かんねェけどろくな意味じゃないだろ。悪口はどうでもいいから、質問に答えろ。大空はどこだ?」
早々に本題を切り出すと、何故か生ゴミを見るような目で睨まれた。……俺、こいつに何かしたか? 直接話すのも初めてのはずなんだけどな。
「よく聞けるね、そんなこと。あんたの知り合いなんでしょ? 眼鏡をかけた、背の高い男の人。宮野……って名前の」
聞き覚えしかない名前が出てきて、一瞬思考が停止する。関わりなんて全くないはずのこいつから宮野の名前が出て、しかも大空はいなくなっている。嫌な予感が、現実味を増していく。
「まぁ……元知り合い、だな。縁を切ったはずの」
生唾を飲み込んで、何とか動揺を隠す。なるべく冷静に見えるように「宮野が何をしでかしたんだ?」と尋ねると、憎しみのこもった鋭い視線を投げられた。直後にふい、と俯く。
「アタシと大空にハンカチを押し付けて眠らせたの。ここに大空がいないってことは……」
そこで言葉を切った。やっぱりそうだったか、早く助け出しに行かないと。そう考えて立ち上がろうとしたら、腕を掴まれて邪魔された。女の目の中で、怒りの炎が燃えているみたいに見えた。
「ねぇ、大空はどこ?」
「俺に聞くなよ」
「知り合いなんでしょ、あの誘拐犯の」
「だから縁を切ったっつーの」
「でもあいつはあんたの名前を出してて……ああもう、あんたとじゃ話になんない! 早く警察に、」
「待て、落ち着け。通報はすンな、余計厄介なことになる。とりあえず俺の話を聞け!」
見た目ほど冷静ではなかったのか、スマホを取り出して110を押し始める。冗談じゃない、宮野の仲間だと誤解されてる今通報されたら、俺までしょっぴかれそうだ。画面をタップする手を掴んで視線を合わせる。
「まずひとつ。ものすごい勘違いされてるっぽいから言うけどな、俺と宮野はグルでも何でもない。あいつはざっくり言えばそうだな、人を勝手に神様扱いしてくるイカれ野郎だ。ふたつ、大空をやたら管理しようとしたのはあいつを宮野から守るためだ。信じてもらえないかもしれないけどな、宮野とグルならまず大空の居場所なんぞ聞かねェ。ここまでで質問は?」
「……通報を止めたのは何で?」
「宮野は――目的のためなら手段を選ばない奴だ。警察が絡んだら、通報されたって事実すらももみ消して来かねない。そうなったとき……次に狙われる可能性が高いのは、通報者だ」
思ったことをそのまま伝えると、女が青ざめた。宮野は何をやらかすか分からない奴だ。この女が狙われることだって充分ありえる。
「宮野のいそうな場所は分かってる。今から大空を連れ出してくる。だから……通報は、一日だけ待ってくれ。一日経って大空が戻って来なかったら、何でもしていいから。頼む」
まっすぐ女を見つめる。俺の顔が真剣なのが分かったのか、疑っているような嫌な目付きから真剣な顔つきに変わる。
「――信じていいんだよね? その言葉」
さっきまでとはまるで違う、落ち着いた口調。ゆっくりと発せられた確認の言葉に、俺は頷いて「ああ」と応えた。
「分かった、信じる。大空のこと、頼んだよ」
はっきりとした口調で頼まれて、何て答えれば良いのか分からずにただ頷いた。ゆっくり立ち上がって、駆け出す。
大空。いつも俺に突っかかってきて、喧嘩して。初めは面倒臭い奴としか思ってなかったけどな? 宮野の犠牲者を増やさないためにお前をずっと見てたら……だんだんそのアホ面に愛着が湧いてきたみたいなんだ。
やたら束縛しちまったのは悪かった。態度が悪かった自覚もある。お前を巻き込んじまったこととか、全部謝るから。だから、
「無事でいろよ、アホ女」
*
あれからどれぐらい時間が経ったんだろう。寒くて暗い部屋にずっと押し込められてるから、指先や爪先が冷たい。足と手が縛られてるせいで身動きが取れないのも辛い。猿ぐつわを噛まされてるせいで声も出せない。自分に出来ることを全部奪われたみたいな気分になる。
家の近くで気を失って……気が付いたらこの部屋にいた。一度宮野さんがここに来たときに、何だか色々言ってたっけ。しきたりがどうとか鳥人がどうとか……早口でまくし立てられたけど、みっつだけ分かったことがある。
この人は自分の考えが絶対に正しいと思い込んでるってこと。
私が飛鳥の翼を見ちゃったから、こんなことになってるんだってこと。
それから……飛鳥は私を束縛しようとしてたんじゃなくて、この人から守ろうとしてくれてたのかな、ってこと。
殴ったりして、悪いことしちゃったな。謝らないと……謝れるかな。
飛鳥の生意気な顔がまぶたの裏に浮かぶ。
嫌な奴だと思っててごめんね。勝手に離れちゃってごめん。散々酷いこと言ってごめん。翼を見ちゃってごめん。謝りたいことは沢山あるけど、どれもこれも飛鳥に会えなきゃ意味がない。
今度はちゃんと話を聞くから。ちゃんと向き合うから。だから……助けて。助けて、飛鳥。
ごそごそ動いて、うめき声を上げる。けど、口に布を押し込められてるせいでまともに声も出せない。
私のせいだ。こんなことになったのは、全部私が悪かったせいだ。目頭が熱くなって、ぽろ、と涙が零れる。
木で出来た古い建物。畳も敷いてないそこに寝かされてるせいで、だんだん感覚がなくなっていく。すきま風が容赦なく体温を奪う。強い風でも吹いてるのか、遠くからばたばたと激しい音がする。
だんだん、頭の中にもやがかかっていく。体が冷えきってるせいか、やけに眠くなってきた。
飛鳥、ごめんね。
何度目かの謝罪を、心の中で溢す。
この状況に疲れて、眠りに、ついた――。
「大空! 無事かッ?」
遠退きかけた意識が、強引に引きずり戻される。目を開けると、あの赤色の瞳がこっちをまっすぐ見つめていた。
飛鳥、来てくれたんだ……!
また、大粒の涙が零れた。
「くっそ宮野の奴、固結びにしやがって――よし、解けた!」
手足を縛っていた縄と猿ぐつわが外される。少しずつ、手足に血が巡っていく。
「おい、しっかりしろ! 俺の顔は分かるか? 怪我はしてないよな?」
ゆっくり体を起こして、私の顔を覗き込む。心配そうに話しかけてくる飛鳥を見ていたら……抑えられていた感情が、弾け出た。
飛鳥の肩にそっと手を乗せて、今自分に出せる力を全て使って抱き締めた。
「そ、大空ッ?」
飛鳥の声が裏返る。涙が止まらずに、抱きついたまましゃくり上げた
「あすかぁ、ごめんね。ごめん……!」
私の声を聞いて、飛鳥は一瞬固まった。それから私を強引に引き剥がして、少し乱暴で不器用な手つきで涙をぬぐってくれた。
「な、泣いてる場合かアホ女。そういうのは後回しだ、逃げるぞ。立て!」
腕を引っ張られて、足に力を込める。でも、体が冷えたせいかまともに力が入らなかった。
「たてない……」
「んじゃ肩貸してやる。ほら、歩くぞ」
飛鳥が肩に私の右腕を乗せて、立ち上がった。ゆっくり、ゆっくりと歩いていく。
階段を上がって外に出たら真っ暗だった。ふくろうの声が聴こえる。風が吹いて、ざわざわと木の葉の揺れる音がする。周りを照らすのは、月と星の明かりだけ。満月のせいか、電気がなくても意外と明るいんだ、ということを初めて知った。
私の監禁されてたところが神社だったらしい、っていうのが、鳥居を見てやっと分かった。大きな鳥居をくぐったあたりで、「足の感覚が戻ってきたからもういいよ」と言おうと口を開く。
「おや、飛鳥様。おかえりなさいませ。生け贄を連れてどこにお出かけになるのですか?」
後ろから、低くて落ち着いた声が聞こえて……飛鳥は足を止めた。「出やがったなイカれ神主」と舌打ちしてゆっくり振り返る。
私をさらった張本人、宮野さんが、こっちを見てにこにこと笑っていた。白と紫の狩衣を身に付けて、神社をバックに立つその姿は、どことなく神秘的に見えた。思わず息を飲む。
「決まってンだろ。帰るんだよ」
「どこにですか? 鳥人である貴方の居場所は、ここしかないというのに」
眼鏡の奥の目を細めて、宮野さんが続けた。
「昔話でもあったでしょう。鳥神様はこの里に娘を連れ帰り、お二人で幸せに過ごされたのです」
「ハッ、よく言うぜ。あんなの、人さらいを正当化するためのでっち上げだろが。それに俺は、鳥神様じゃない。翼があるだけの、ただの人間だ」
「ただの人間? そんなはずはありません。飛鳥様は鳥神様に最も近い存在、神聖なお方なのですから」
「神聖神聖って……テメェの目は節穴か? 宮野、あんた俺を通して何を見てんだよ。俺を、陣内 飛鳥を見ろ! 話を聞け!」
「ええ、畏れ多くも、しかと拝見させて頂いておりますよ。そのお声を聞けることは、私にとっては至極光栄なことでございます。飛鳥様の幸福のために、私は完璧にしきたりを守り抜く所存です」
「あーもう、お前は昔ッからそうだよな! 俺のため俺のためって言いながら押し付けるんだ、いつだって!」
声を荒らげる飛鳥の顔は、かなり辛そうに見えた。宮野さんの不気味なほど穏やかな笑顔とは正反対。
飛鳥は、ずっとこんなところにいたのかな。ずっとこうして声を張り上げて、その度にこんな風に傷付いてきたのかな。
「あ、あの!」
そう思うと、いてもたってもいられなくなった。
飛鳥の肩から腕を外して、自分で地面を踏みしめて。宮野さんを、しっかりと見据える。
「飛鳥は……そんな出来た奴じゃありません。生意気だし口は悪いし素直じゃないし、性格だけ見たら最低の部類だと思います」
「何だ、喧嘩売ってンのかクソ女?」
「けど!」
飛鳥に睨み付けられても、宮野さんに怪訝な顔をされても。それでも私は、自分の思ったことを正直に言うんだ。
「飛鳥は、何だかんだで私を守ろうとしてくれました。こうして助けに来てくれました。飛鳥は飛鳥なりの考えがあるんです。私はそれに気付くまでに随分かかっちゃったけど……」
こうすることがきっと、飛鳥への礼儀だと思うから。
きちんと向き合う、ってことだと思うから。
「宮野さん。あなたは、飛鳥の昔からの知り合いなんでしょう? だったら、話を聞いてあげてください。飛鳥のことを認めてあげてください。お願いします!」
しっかり自分の言葉で言い切って、深々と頭を下げる。ゆっくり頭を上げると、宮野さんはうつむいてぶつぶつと何かを呟いていた。
「――成る程。飛鳥様が心変わりなさったのは、その女の仕業ですね?」
「はァ? なに言って、」
低く、噛み締めるように呟いて……宮野さんは顔を上げた。ずっと絶やさなかった笑顔が消し飛んだ、鬼のような表情で私を睨みつける。
「飛鳥様は、鳥神様はこの里のものだ! こんなアバズレにほだされて出ていかれてたまるかァッ!」
懐から何かを取り出して、走ってくる。月の光が反射した――ナイフだ!
「それが……あんたの本音か、宮野」
静かに、感情を排除したような声で、飛鳥はぽつりと呟いた。私の前に出て、宮野さんの腕を蹴りあげる。ナイフは宮野さんの手をすり抜けて、どこかに飛んでいった。
飛鳥が二十センチぐらい身長差がある相手の胸ぐらを掴んで、ぐい、と引き寄せる。
「俺はなァ! 苔の生えたしきたりに従わされるのも、神様なんぞに仕立てあげられるのも。この里の何もかもが嫌なんだよ!」
吐き捨てて、頭突きを食らわせる。
宮野さんの喉から潰れたような声が漏れる。おでこから血が出ている相手を突き飛ばして、飛鳥が私に駆け寄った。
「俺の首に手を回せ!」
「えっ?」
唐突な指示に、思わず聞き返す。「早くしろ!」と怒鳴られて、慌てて言われたようにした。指示に従う間もなく、屈んで私の膝裏に手を入れて抱えあげられた。いきなりのことに悲鳴が漏れる。
「よっ……とと。よし、行くぞ!」
飛鳥がふらつきながらも走り出す。ある程度まで速度が出たところで翼を出して、強く地面を蹴った。
ふわ、と身体が浮く。
一度力強く羽ばたく毎に、地面が離れていく。風が私の頬を撫でていく。木々を抜けて上空を飛ぶと、目の前いっぱいに星空が広がった。初めての体験に、大きく息を飲んだ。
ただ。
「……ねぇ、飛鳥。何か、ふらついてない?」
少しの風に流されて、時々落ちそうにがくんと下がって。今にも墜落しそうな飛びかたに、興奮とは別の意味で心臓の鼓動が早くなる。
「しょ、うがねェだろ! お前、お、もッ……」
「なッ……平均よ、失礼な! 飛鳥がちっちゃいせいでしょ?」
「俺の体格は血筋だ!」
いつもみたいに言い合っていたら、強い風が吹いた。普通なら傘がちょっと持っていかれそうになるぐらいの風だけど、ふらふら飛んでた飛鳥には強すぎた。がくっと高度が落ちる。
「う、わ、やべ、」
「ちょ、ちょっと、まっすぐ飛んでよ!」
「無茶言うな、う、わ、あぁああッ!」
くるくる回って急降下する。二人分の悲鳴が山にこだました。
「あー、下手な絶叫マシンより怖かった……」
「仕方ねェだろ、人抱えて飛んだのなんか初めてなんだから……」
仰向けに寝転んで、深呼吸する。思ったことをそのまま呟いたら、左隣から疲れはてて掠れた声が飛んできた。
落ちかけたり風に流されたり、深夜のフライトは散々だった。けど、苦戦しながらも何とか山は抜け出せた。山のふもと、私達が住む町の建物の屋上に降りてから顔を見合わせ、二人同時に倒れ込んだ。
視界が、だんだん明るくなっていく。夜明けが近付いてくる。
私、帰って来れたんだ。飛鳥が助けてくれたお陰で戻ってこれたんだ。
やっと、実感できた。
「ねぇ」
「あ?」
「えっと、その。今までごめんね、飛鳥」
飛鳥の方に顔を向けて、今までの諸々を謝った。飛鳥の顔が複雑に歪む。
「あー、っと。もういいだろ、その話は。翼を大っぴらに見せたり、やたらしつこく付きまとったりした俺も悪いし」
「でも」
「もっと言えば、宮野が色々とやらかしたのが悪い! だからこの話は終わりだ!」
この機会にちゃんと謝っておこうと思ったのに、強引に切り上げられた。
「えっと、じゃあ、助けてくれてありがとう」
「それもなし!」
「何で?」
助けてくれたお礼くらいさせてよ。
そう食い下がったら、飛鳥はふい、と顔を背けた。耳が真っ赤になってる。
「何か……き、気恥ずかしいだろ。そういうの」
声が上ずっている。そんな恥ずかしいことをしたつもりはないのに、何だか私まで恥ずかしくなって。結局「う、うん」と返すしかできなかった。
気まずいような恥ずかしいような、何となくこそばゆい空気。何か言わなきゃ、そんな焦りばっかりが先回りして言葉が出てこない。
「……飛鳥、これからどうするの?」
やっとのことで、それだけ尋ねた。飛鳥が一瞬無言になって、体を起こす。
「宮野をどうにかして説得してくる」
どこか遠くを見ながら、飛鳥はぽつりとそう溢した。どこか悲しげな顔。何を考えているのか……何となく分かるからこそ、何も言葉をかけられない。
「あいつは……俺じゃなくて、俺の翼の方に魅入られてるんだ。この翼が神の証だって本気で思い込んでる。――だから、あいつの目の前でこの翼をもいで、俺が神なんかじゃないって証明してやる」
「でもそれだと、飛鳥の翼が」
違う、痛いんじゃないかって言いたかったのに。いい言葉が、全く思い浮かばない。
「翼があったって、自由に飛べる訳じゃない。自由になれない翼なんか、あっても意味がない。そうだろ?」
訂正しようとしたのに、飛鳥が思ったよりあっけらかんと笑うものだから……また、何も言えなくなった。
深呼吸をして、自分に問いかける。
今、飛鳥に一番聞きたいことは何だろう。
「また、会えるよね?」
素直な自分が知りたがっていることが、口をついて出た。こっちを向いていた飛鳥が、大きく目を見開いて……にやりと笑う。
「へぇ、物好きだなお前も。チビで俺様な最低男にまた会いたがるなんて」
「そ、そこまで言ってない!」
「――約束は、できない」
からかってきた後、少し間を置いてから、真顔でそう告げた。立ち上がって、転落防止用の手すりに手をかける。
「宮野が簡単に諦めるとは思えないし、帰ってこられるとも限らないからな。だから……ここでさよならだ」
どこか寂しそうな顔。無理やり笑顔を作ったようなその表情を見て、私も体を起こす。
「待っててもいい?」
するりと、そんな一言が口から飛び出した。飛鳥が目を丸くする。しばらく呆然としてから、ふい、と目を反らした。
「――勝手にしろ」
手すりを乗り越えて、飛び降りる。立ち上がって手すりに掴まると、山の方へ飛んでいく飛鳥の影が見えた。
夜明けが来て、山が、空が真っ赤に染まっている。飛鳥が飛び立ったときに散らばったらしい水色の羽根が、朝日に照らされながら舞っていて、きらきら輝いて見えた。
あれから一週間後。
茜に泣き付かれたり、誘拐を知らなかったらしいお母さんとお父さんにこっ酷く叱られたり、そんな出来事を乗り越えたら、何事もなかったかのようにいつもの生活に戻っていた。
……違った。いつもの生活じゃない。
それまで私に散々付きまとってきていた飛鳥の存在だけは、私の生活から抜けたままだった。
今頃、どうしてるんだろう。宮野さんとの話し合いはうまくいってるのかな。そんな心配を茜に打ち明けたら、呆れられた。
今日もそんな張り合いのない一日を過ごして、帰ってくると……私の部屋のベランダに、人がいた。ずっと私の頭の中を埋め尽くして、離れてくれなかった人が。慌てて窓を開ける。
短ランも、体も、酷く汚れていて、生傷が痛々しかったけれど。綺麗だった翼が、ぐちゃぐちゃになっていたけれど……。
確かに、飛鳥がそこに立っていた。
「えっと……その。手当て、してくれないか? どこぞの伝説みたいにさ」
耳まで真っ赤にして、目を反らす飛鳥に。
私は、勢いよく抱きついた。
了