変わり種小説

 今日はとてもよい日だった。
 ……と、言いたいところではあるけれど、そもそも『とてもよい日』とは何だろう。普遍的な定義の決まっていない事柄を断言するには材料が足りない気もする。主観では普段と違う日だったことに変わりはない。それでも、全体として見ればやっぱり普段とそう変わらない日だと言うべきなのかもしれない。
「シンデレラ。舞踏会に行ってくるから、あなたは留守番していなさい」
 継母やお姉さん達にそう言われたとき、彼女たちがどうしてそんなに嬉しそうなのかよく分からなかった。王子様といえどただの人間で、華やかな場所の裏ではお腹がすいて動けない人もいる。そういう人達を放置するような王族に媚びを売ったところで、その人達が飢えから解放されるわけでもないのに。
「勿論そうします。そういう催し物には興味がないので」
「そう。やっぱり変わった子ね、あなた。本当に可愛げがない」
 素直に思ったことを告げると、彼女たちはいつも怪訝な顔をする。どうしてなのか尋ねてもまともな答えは返ってこない。私はただ、聞かれたことに答えているだけなのに。
 三人が出かけていくのを見送ってからゆっくり本を読んでいたら、ふと手元が暗くなった。顔を上げたらお婆さんと目が合う。彼女は私が一人きりのときに現れて、色々なことを教えてくれる魔法使いだった。こちらの考え方を決して否定せず、世の中の仕組みや色んな人の考え方を教えてくれる良い先生だ。
「シンデレラ。あなたは舞踏会には興味がないの?」
 尋ねられて頷く。
 彼女にもきっと私の答えは分かっているはず。それでも質問を投げかけてきたのは確認の意味を兼ねているんだろう。
「全然。だって行ったところで、そこにいるのはお金に目がくらんだ人達だもの。あの場にいるのは貴族ばかり、街中で何も食べられずに死んでいく人達を見て見ぬふりする冷たい人ばかり。そこに向かったところで、他人に手を差し伸べる気のない薄情者が集まっているだけ」
 仮に誰かに見初められたとしても、その中で生活すれば同じように眩い明かりに慣れてしまう。そんな風に周りが見えない人達と同じようにはなりたくないから。
 いつも通りに答えると、彼女はにっこりと微笑んで頭を撫でてくれた。この優しい手に撫でられると胸がほんの少し温かくなるから好きだ。
「そう。やっぱり優しくて賢い子ね。けど、それなら尚更あの場所を見ておかないと」
「どうして? あそこにいるのは優しくない人達だって分かっているのに」
「その『優しくない人達』が国を回しているからよ。そうやって大雑把にまとめて語ってしまえば偏見が出てくる。偏見は目を曇らせ、認識を偏らせてしまう。なるべく澄んだ目で物事を見ていたいのなら、沢山の世界を見なければいけないわ」
 説明されて納得した。確かに貴族の人達と話したことはない。どういう世界で生きているのかは知らないし、どういう生活をしているのかも知らない。下町を歩いているところを見ないから浮浪者の人を助けない冷たい人達だと思っていたけれど、会いもしないで勝手に判断するのは良くないことだ。
 自分が無知だということはよく知っている。魔法使いのお婆さんが教えてくれたことは、どれも私にとっては知らなくて新鮮なことだったのだから。知らないことがあると分かったら、次はなるべく歪みのない形で学ばなければ。
 ちょうど学ぶ機会が目の前にあるのだから利用しない手はない。先生にお願いして、舞踏会に相応しい整った服装を魔法で仕立ててもらった。少し覗いてくるだけだから華美な衣装は必要ないと思うけれど、外に学びに行くのなら相応しい格好をしなさいと教わったから。窮屈なコルセットで吐き気がしたけれど、少し弛めてもらったら楽になった。色とりどりの宝石が散りばめられた純白のドレスは普段の服とは全然違って落ち着かない。
「いい? 魔法は十二時になったら解けてしまうから、その前に帰るのよ」
 そう念を押されてカボチャの馬車に乗り込む。揺られている間ずっと窓から外を眺めていた。お城だけが昼のように照らされて、その周りだけ空の星が光を失っているようにも見えた。
 お城の階段を踏みしめて会場に入る。派手なドレスに身を包んだ女性たちが音楽に合わせて踊っている。辺りに充満するワインの香りで目眩がしそうだった。私にはここは明るすぎる。華やかな空気から逃れるように目立ちにくそうな場所に移動した。
 壁際に立ってぐるっと辺りを見回した。目を向ける度に誰かと目が合って、近くの人と隠れて話を始める。顔や体にやたら視線が絡み付いて鬱陶しい。私は普段の彼らの様子を見たいのであって、見世物になりに来た訳じゃないのに。中には継母やお姉さんもいて、目を丸くしてこちらを見つめていた。グラスに写った姿は自分でも見違える程のものだから、見咎められることはないはずだ。
「そこの綺麗な方、踊りませんか」
 夢中になって人間観察をしていたら、横から声をかけられた。そちらに目を向けて、少しだけ息を呑む。私を見つめる目はこの国の王子様のものだったから。
 驚いたけれど、すぐに平静さを取り戻した。紙面でよく見た顔が目の前にあって少しだけ動揺しただけで、近くで見れば見るほど普通の人間にしか見えなかったから。顔は恐ろしく整っていても、まばたきや喋り方、息遣いは私とそう変わらない。先生に仕込まれた通り、ドレスの両裾を持って礼をした。
「ごめんなさい、結構です。生憎そういうことには興味がなくて」
 素直に断ると、今度は王子様が目を丸くした。「それでは何故ここにいらしたのです」と問われて少し呆れてしまう。舞踏会は確かに踊る場所だけど、だからと言って他に用事がない訳でもないだろうに。お姉さん達は王子様といい雰囲気にならないかと期待してきている人もいるだろうと分かっていても不思議じゃないのに。
「知らないことを学ぶためです。舞踏会とはどういうものか、貴族の暮らしぶりとはどういったものなのか。それらを直接見つめて知識を得ることは、生きていく上での糧になると思いますから」
 お金は使えばなくなってしまうけれど、知識はなくならない。他の人にもそのまま受け継げるもので、得るだけで見方がずいぶん変わる。そんな風に世界がガラリと変わってしまう感覚が好きなのだ。
「面白いことを仰る。その言い方では、まるであなたが貴族ではないかのようだ」
「その通りです。普段は灰にまみれて生活しています。ですが知識を得る度に世界が広がって見えるので退屈したことはありません。この煌びやかな舞踏会に来るのも、これが最初で最後になるでしょう」
 王子様の口ぶりからして、本当に私を貴族だと思っていたのかもしれない。灰にまみれていると告げたときの王子様の口はあんぐりと開き、唖然としていた。
 庶民だとバレてしまえば追い出されるかもしれない。面倒ごとが起こる前にさっさと帰ってしまおう。そう考えて王子様に丁寧に礼をする。出口に向かって歩き始めたところで呼び止められた。思わず振り向くと、王子様がさっきまでとは違う真剣みを帯びた表情をしてこちらを見据えていた。
「行かないでください。あなたの話は本当に興味深かった、また顔を合わせて話してみたい。今ここで帰ってしまうのなら、せめてお名前だけでも教えてください」
 縋るような目。その目には何となく覚えがあった。継母たちに虐められて泣いていたとき、初めて会った魔法使いのお婆さんが見せてくれた鏡の中の女の子がそんな顔をしていた。自分の世界にはいなかった存在、沢山のことを教えてくれる先生。そう見てくれるのなら嬉しいけれど、私はそんな風に誰かに教えられるほど経験は多くない。
 そんな未熟な私が、彼の学習意欲を掻き立てるのなら──きっとこう言えばいい。
「知りたいのであれば、ぜひ護衛の人と一緒に下町を見て回ってください。私は異なる立場から見た世界を学ぶためにここに来ました。私の話に興味を抱いたのなら、どうぞ同じように異なる世界に目を向けてください。そうして下々の暮らしを観察すれば、いつかこの国のどこかで灰まみれの私と再び巡り会うこともあるでしょう」
 柔らかく微笑み、そんな言葉を残して立ち去る。怪しまれないよう優雅に階段を下りて馬車に乗り込んだ。ガラガラと連れられた帰り道、空には沢山の星が煌めいていた。私にはどんな宝石よりもあの光の方が綺麗に見える。きっとそれはそんなにおかしなことじゃない。
「おかえりなさい。どうだったかしら」
 家では魔法使いのお婆さんが私の帰りを待ってくれていた。彼女が杖を振ると、あっという間にボロボロの服に戻る。根っからの庶民の私にはこの格好の方が気が楽だ。
 椅子に座って彼女に見たものを語って聞かせる。その間ただ頷いて、黙って話を聞いてくれる。この時間が好きだった。
「貴族としての体験はできたけれど、貧しい人々を相手にどう対処するかは分からないままだった。でも王子様とお話ができたから収穫はあったと思う。私の話から町への興味が湧いたなら、それはとても良いことだろうから」
「ええ、ええ。そんな風に分からないことを分からないと知ることも大切なことよ。またひとつ賢くなったわね、シンデレラ」
 それにしても、王子様を相手にそんなことを言う人はさぞ珍しかったでしょう。将来お城で政治の助言を求められるようになるかもしれないわね?
 先生の声に珍しくからかいの色が混じる。茶目っ気たっぷりの冗談に、思わず笑って首を振った。
「まさか。いつか誰かが言うことだろうし、誰も言わなかったらより大勢の人が苦しむ。だから言っただけ。そんな凄いことじゃない、当たり前のことを言っただけよ」
「そうね、そうでしょうとも。あなたらしい返事ね」
 やんわりと微笑む先生の顔は優しさに満ちていて、見ていると心が落ち着いてくる。
 私の心は魔法使いのお婆さんに助けられたのだと思う。彼女から沢山の話を聞いて、知識を得てから物事の見方が大きく変わった。あの王子様にもそんな風に教えてくれる人がいればいいな……と願うのは流石に失礼かもしれない。そんなことを考えながら記録をつけ、日記を閉じる。その日学んだことを記しておくように、というのも先生からの教えだった。
 今日はとてもよい体験をした日だった。
 けれどこの世は知れば知るほど分からないことが増えるから、新しい体験や発見が尽きることはないんじゃないかと思える。だから今日はいつも通りの一日で、これから先もいつも通りの生活が続くんだ。
 少し感傷に浸りながら日記をしまった。いつも通り、屋根裏部屋の藁の上で丸くなる。そうして私は十二時になる前に寝た。
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